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脱線の余談――「トリック」から「プロット」へ

 マージェリー・アリンガム『ファラデー家の殺人』がご好評をいただき、ネットだけでなく店頭でも品薄状態になっているらしく、嬉しい悲鳴を上げております。読者の皆様に心より感謝申し上げます。
 そんな中でふと感じたことを・・・。

 『ファラデー家の殺人』は、ある意味、探偵小説の「トリック」の雛型の一つと言っていい作品かもしれない。実際、そうした視点から評価する向きもあるので、分かりやすい切り口を提示する意図で、同作の「トリック」を浮き彫りにする方向にやや引き寄せてあとがきを書いたのだが、あくまで作品紹介の便宜として選択した手法だったと言えるかもしれない。
 「トリック」は、我が国で探偵小説を語る際にほぼ必ずと言っていいほど使われる言葉だが、英語の探偵小説批評を読んでいても、trickという言葉はあまり出てこない。出てきても、策略やごまかしといった本来の意味で使われる場合が多く、日本人が使う奇術的なタネの意味で使うことは少ない。敢えて言えば、探偵小説における「トリック」はほぼ「和製英語」と言っていい言葉だろう。
 この「トリック」という言葉が我が国において探偵小説の文脈で使われるようになった起源がどこにあるかは寡聞にして知らないが、江戸川乱歩の「類別トリック集成」が我が国でこの用法を普及させた大きな要因であったのはほぼ間違いあるまい。我が国における探偵小説普及に際しての乱歩の絶大な影響力が、この「トリック」という言葉をポピュラーにしただけでなく、これを物差しに用いて探偵小説を評価する傾向を促したと言っていい。
 多くの読者が「トリック」という言葉で連想するものは、読者を欺く奇術的なタネのことであり、この「トリック」は、「〇〇が犯人」、「〇〇が凶器」等々といった具合に、簡潔なひと言かシンプルな一文で表現できるようなものが多い。それだけに分かりやすく、整理もしやすい。その要素だけを取り出せば、作品を分類する上でも便利だし、人に説明するのも容易だ。
 乱歩は、作品からの「トリック」の抽出を行うことで、代表的な探偵小説をテーマ毎にカテゴライズし、それぞれの作品の特徴を浮き彫りにしてみせた。その手法は確かに明快で分かりやすく、それだけに、大きな影響を後世に与えたし、探偵小説の普及に寄与した面も絶大だったと思われる。その意味では、乱歩の功績はいくら強調しても足りないほどだろう。
 その一方で、ネガティヴな面を捉えれば、「トリック」という皮相的な要素だけを抽出して、これを物差しに探偵小説を評価するという風潮を生み出した、功罪の「罪」の側面も無視はできないと思われる。いわゆる「推理クイズ本」や「〇〇ミステリ案内」のような「トリック」だけを抽出して紹介する本が普及し、原作を読む前にネタばらしを食らったという読者が我が国には多いという現象も、乱歩の影響なしには考えられない状況だろう。
 「乱歩の影響など昔のこと」と笑う若年世代の読者も多いかもしれないが、実際には、いざ個別作品を論じ出すと、トリックがどうだという話になり、無意識のうちに従来型の思考パラダイムに囚われ、実はその影響から脱していない場合も多いように思える。それほど乱歩の影響は今日にまで及んでいるということだろう。
 (もちろん、一概に我が国と海外の傾向がまったく異なるかのような状況にあるわけではないし、その傾向をきれいにセパレートするつもりも毛頭ない。あくまで傾向に差があるという次元の話だ。「類別トリック集成」にしても、カー『三つの棺』の「密室講義」の影響もあるだろう。カーは、乱歩的な発想とかなり親和性の強い作家だったと言える。カーの影響で言えば、ロバート・エイディのLocked Room Murders のようなリファレンスブックもそうだが、これもどちらかといえばマニア向けの研究書に近く、我が国の「推理クイズ本」のように一世を風靡するようなタイプの本ではない。実際、エイディの本を取り上げるマニアは日本人に多い印象もある。)

 では、英語に「トリック」に相当する言葉はないのかというと、そうではない。海外の批評などでよく使われる「トリック」に一番近い言葉は、plot(プロット)だろう。「プロット」という言葉は次第に我が国でも使われるようになってきたが、この言葉の意味は、和製英語の「トリック」が意味するところとは似て非なるものだ。「プロット」は本来、読者を欺く計略の要素やアイデアだけではなく、全体の構想を意味する言葉だからだ。敢えて「トリック」に相当する言葉を探すとすれば、idea か concept で、それはプロットを練り上げる発端となる「着想」にすぎない。
 分かりやすい例として、『ファラデー家の殺人』を取り上げれば、「トリック」としては、「〇〇が犯人」といった類のひと言で要約できるかもしれない。だが、あとがきでも触れたように、実際に探偵小説の「プロット」として有効な形で仕上げるためには、その解決が説得力や真実味を持つものになるように、一人ひとりの登場人物の個性をこれに応じて肉付けしていくことが必要だし、伏線の設定や物語の展開の仕方にも一定の筆力や工夫を要する。さもなければ、「トリック」の技巧だけが目立つ空々しく薄っぺらな駄作になるだけだろう。
 そして、核となる「トリック」だけではなく、これを一層効果的なものにするために、前の記事でも述べた、読者を別の結論にミスリードしていくような仕掛けも「プロット」には含まれる。こうした作品総体としての構想が「プロット」であって、通常はこうした文脈で用いられる言葉と言っていい。
 『アクロイド殺し』も、「トリック」の物差しで語られることの多い作品だが、別の記事でも書いたように、実際は、作品全体が大きな仕掛けとなっていて、これを「〇〇が犯人」といった「トリック」の物差しだけで評価すれば、その意義を捉えることは不可能だろう。「トリック」だけで評価すれば、一度読んで結末を知ってしまえばそれで終わりだが、再び読み直してその特徴を賞味するためには、「プロット」の視点を持つことが不可欠だ。
 「いくら人物描写が優れていてもダメで、探偵小説はトリックがキモだ」といった、よく耳にする議論も、実は「トリック」と「人物描写」を無意識のうちに切り離し、「トリック」だけを抽出して物差しとする乱歩以来の評価手法の影響がそこには表われているようにも思える。本来、「プロット」とは、そうした切り離しを安易に許容するものではないはずなのだが。同様のことは、「トリック」と「ロジック」という区別にも当てはまるだろうし、視点や強調点の差異を浮き彫りにするために議論の便宜上「区別」することはあり得ても、あれかこれかの「選択」のように捉える議論は、これも無意識のうちに乱歩以来の「トリック」偏重に囚われている可能性が高いと言えるだろう。
 そうした視点の嗜好を持つ読者層が厚ければ、それは作家の作品にも影響を及ぼす。(筆者は必ずしも網羅的に読んだわけではないが、)我が国のいわゆる「新本格」と呼ばれる作品は、筆者も優れたプロットの作品が多いことを認めるのに吝かではないが、世評の高さと裏腹に、机上で構想した「トリック」のアイデアをベースに登場人物を配置したことが見え見えの人工臭の強い作品に出くわすことも往々にしてある(「持てる限りのトリックを満載した」、「まだ数作分のトリックのアイデアが手元にある」といった作家の発言を目にすると、着想でしかない「トリック」を思いつけば作品を九分九厘完成したかのような認識が作家の間でもいかに根強いかを痛感する)。因襲打破の意味合いも持つはずの「新本格」が、実は乱歩の呪縛から未だ逃れていないとすれば、些か皮肉な事態ではないだろうか。
 乱歩が没して既に半世紀を過ぎた。先に述べたように、「プロット」という言葉も次第に普及しつつあり、状況に変化の兆しがあるようにも見えるが、それでも我が国における「トリック」偏重の傾向は相変わらず根強いように思える。我々はそろそろ最優先の視点を「トリック」から「プロット」にシフトさせてもよいのではないだろうか。
 「トリック」による分類は、探偵小説を普及させる上で間違いなく大きな役割を果たした。乱歩のその功績を認めることは、その思考パラダイムにいつまでも囚われることを意味しないはずだ。その成果を踏まえて、さらに発展させていくことが、大乱歩の功績を受け継ぐ新世代の作者や読者の担う役割ではないだろうか。
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マージェリー・アリンガム 『ファラデー家の殺人』が刊行

マージェリー・アリンガム『ファラデー家の殺人』(論創海外ミステリ)が刊行されました。

「『――この屋敷の誰かが狂ってると思う。誰なのかはわからない。誰であってもおかしくないわ。』
屋敷に満ちる憎悪と悪意。ファラデー一族を次々と血祭りにあげる姿なき殺人鬼の正体とは……。
〈アルバート・キャンピオン〉シリーズの長編第四作、原書刊行から92年の時を経て遂に完訳! 」

「ロバート・バーナードは『欺しの天才』の中で(中略)『真相がそれまでの経緯の
論理的かつ唯一可能なクライマックスとなる、この上なく納得のいく探偵小説の解決』の例として、
セイヤーズの『毒を食らわば』、クリスティの『五匹の子豚』と並んで、本作を挙げている」(訳者あとがきより)

多くの読者の皆様に楽しんでいただけることを願っております。

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     ファラデー家の殺人

アリンガム『ファラデー家の殺人』におけるミスディレクション

※表題作の種明かしを含んでいますので、未読の方はご注意ください。

『ファラデー家の殺人』のあとがきから省いたセクション案をここに載せたい。
敢えて省いたのは、推測への依存度が大きすぎると思ったからだ。
種明かしを含むこともあるので、念には念を入れて、掲載日時をいじってブログの冒頭に記事が来ないように設定。
繰り返しになりますが、『ファラデー家の殺人』を未読の方は、ネタばらしになりますので、以下は読まないでください。


『ファラデー家の殺人』は謎解きとしての性格が強いため、作者は探偵小説を読み慣れた手練れの読者を想定して、真相を隠すためのあるミスディレクションを仕掛けているように思われる。その点を以下に補足したい。
「ゲームの慣習」に親しんだ読者であれば、ストレートに疑いをかけられる人物はまず容疑者リストから外すのが普通だろう。アンドルー殺害の容疑者であるウィリアム、ジュリア殺害の容疑者であるキティは、その観点からすれば、真っ先に容疑者リストから外されるに違いない。
キャンピオンの推理の中で疑いをかけられた人物もそうだ。キャンピオンは、ファラデー夫人が女中のアリスを手先に使ってアンドルーを殺害したのではないかと疑う(168頁、176頁)。この時点で、たいていの読者は、ファラデー夫人とアリスを容疑者リストから外すだろう。
ジョージは疑わしすぎて言うまでもない。
こうして消去法を適用すると、浮上してくる最も疑わしい人物は・・・ジョイスだ。
オーツ警部は、ジョイスへの疑いを口にするが、キャンピオンはこれを激しく打ち消す(98頁)。つまり、その時点でのキャンピオン自身の推理の中では、ジョイスは容疑の埒外に置かれているのだ。個人的な好感も働いてのことだけに、そのことがかえって疑惑をかき立てる。
しかも、その発言の中で、キャンピオンは重大なポイントを口にしている。つまり、ジョイスは「財産の大半を受け継ぐ立場」なのだ。
殺人の動機として最も有力なものは、金だろう。一族が次々と消えていく連続殺人によって最も大きな利益を得る人物は、最終的にファラデー家の財産を相続するジョイスということになる。
アンドルーが殺害されたと推定される時間に、ジョイスはファラデー夫人と同じ馬車に乗って教会から帰る途中だったため、もし本当にアンドルーがその時に殺害されたのであれば、彼女には完璧なアリバイがあることになる。
だが、その時に殺人が行われたかどうかは、実は定かではない(53-4頁)。むしろ、完璧なアリバイの存在が、その時点で殺人が行われたように見せかけるアリバイ工作の疑いを喚起すると言えるだろう。
もちろん、殺人に使われたリボルバーや紐は、屋敷内にあったものなので、ジョイスにも簡単に手に入れることができた。キャンピオンに問い詰められて、ジョイスはアリスからの話として紐のことを告白するが(136頁)、アリスのせいにして紐のことを言いたがらなかった理由も疑わしく思える。
アリスとの関係から考えても、ジュリアが朝にお茶を飲む習慣があったことをジョイスが勘づいていたとしても不自然ではないし、薬の隠し場所だったベッドの玉飾りにしても、自分自身も子どもの頃に隠し場所として使っていたことを認めていて(132頁)、場所に気づいて薬を毒と入れ替えたとしても不思議ではなかった。
ウィリアムが襲われたと思われた時、ジョイスがウィリアムやキャンピオンに、なぜこんなことになったのか、ウィリアムは自分を襲った者を見たのかと問いただすのも(162頁)、襲った自分の正体を気取られなかったか確かめようと試みていたとも受け取れる。
そう考えると、冒頭章からずっとペンディングのまま残り続ける、なぜジョイスがジョージのことを秘密にし、庇おうとするのかという謎も一層疑わしいものに見えてくる。自分の犯行について、ジョージになにか秘密を握られているのではないか、と。
ジョージが毒殺される直前、彼はジョイスにセクハラを働き、婚約者のマーカスを激怒させている。ここにジョイスがジョージを殺す別の動機も看取することができるだろう。同時に、ジョイスであれば、誘いかければ容易にジョージに接近して殺害の機会を得られたのでは、という推測も可能になる。
面白いのは目次で、論創海外ミステリ叢書の仕様として、目次表を冒頭に載せていないため、分かりにくい面はあるが、クライマックスに近い第23章の章題が「遺産」となっていることが、読者をミスリードする役割を果たしていると見ることもできるかもしれない。最終的に動機は遺産だと明らかになるのでは、と(実際はまったく違う「遺産」だったのだが)。
「ゲームの慣習」も踏まえながら、動機、機会、手段の手がかりを、ある程度常識的な次元で検討していくと、そこから指し示される人物は一人だろう。
犯人はジョイス・ブラント・・・アリンガムはその結論へと手練れの読者をミスリードしていくように、レッド・へリングを巧みにばらまいたと見ることができる。実際にジョイスに目星をつけた読者も多いのではないだろうか。
仮にジョイスが犯人だったとしても、それなりの意外性を伴う真相だっただろうし、まずまずの佳作として評価されそうなところだ。
手練れの読者をも惑わそうとする入念な仕掛けがほとんど不自然さを感じさせることなく施された本作は、そこからも完成度の高さを実感させるものと言えるだろう。

マージェリー・アリンガム『ファラデー家の殺人』が予約開始

マージェリー・アリンガム『ファラデー家の殺人』(論創社)の予約受付が始まっています。

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 「屋敷に満ちる憎悪と悪意。ファラデー一族を次々と血祭りにあげる姿なき殺人鬼の正体とは……。〈アルバート・キャンピオン〉シリーズの長編第四作、原書刊行から92年の時を経て遂に完訳!」

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    ファラデー家の殺人

ブリジット・オベール『マーチ博士の四人の息子』(シミルボン記事転載)

軽めのフランス・ミステリー

 マーチ博士の館に住むメイドのジニーは、博士の四人の息子のうちの一人が執筆しているらしい隠された日記を見つける。その執筆者は殺人狂で、子どもの頃から殺人を繰り返してきたと日記の中で告白していた。やがて、その殺人狂は日記をジニーに盗み読みされていることに気づき、二人の間で駆け引きが始まる・・・というストーリー。
 フランスのミステリーは、本格を志してプロットに凝ったものほど、アイデア倒れに終わる中途半端な作品が多い印象がある。ボアロー=ナルスジャックも、それぞれ単独で執筆していた時代の本格ものは肩透かしだ。彼らの共作やシムノンのように、むしろ心理描写や人物造形に意を用いた作品、あるいはルメートルのようなサスペンスに見るべきものが多いのも、フランスのミステリーの傾向かもしれない。プロットに工夫したものも、ジャプリゾやカサックのように、心理描写に秀でたものに成功作が多いようだ。
 『マーチ博士の四人の息子』も、プロットの側面から評価する限り、中途半端でアイデア倒れに終わっている感が否めない。最終章のちょっとしたどんでん返しも、取ってつけた感が強いし、最終的な結末の付け方も、読者の多くは得心するより拍子抜けするのではないだろうか。
 ストーリー・テリングの視点からも、日記の引用で通した構成はあまり上手な手法とは言えない。おかけで、マーチ博士夫妻やその四人の息子も含めて、登場人物の描写がすべて間接的で皮相的になり、日記の執筆者以外は人物がほとんど浮き彫りにならず、事件が発生しても臨場感に欠け、二人の人間のやり取りだけに終始する展開が次第に退屈さをつのらせる。いくら丁々発止のやり取りでサスペンスを高めようとしても、叙述の形式に制約されて描写が広がりを持たないし、同じパターンの繰り返しで長編の長さではもたないのだ。
 だいたい、殺人者が日記をつけて同じ隠し場所に隠しているのに、盗み読みしているメイドと一度も鉢合わせすることなく、延々と交換日記よろしく続いていくというのも不自然で、そんなシチュエーションがいつまでも続くと、さすがに人工的な印象を与えずにはいない。
 最後の真相も、ミステリーを読み慣れた読者なら、特定はできないまでも、想定される選択肢の一つとして思いつきそうなもので、さほど驚くほどのものではないかもしれない。良くも悪くも、いかにも軽めで薄いつくりのフランス・ミステリー。過大な期待を抱かず、移動の合間などの軽い読み物としてなら悪くないといったところか。

竹本健治『涙香迷宮』(シミルボン記事転載)

暗号小説の面白さと限界

 『涙香迷宮』は近年話題になった暗号をテーマにしたミステリ。旅館で起きた殺人事件。碁石の散乱する中、被害者は背中をアイスピックで刺され、碁盤に突っ伏して死んでいた。被害者の身元は不明。事件後に現場に居合わせた天才棋士・牧場智久は、涙香の隠れ家の発掘調査に仲間たちとともに加わることになるが、涙香の遺した暗号と取り組む中、新たな殺人が・・・というストーリー。
 中心となる殺人事件と涙香の暗号との関係が必然的ではないという批判もあるようだが、嵐の中で通信もままならなくなった涙香の隠れ家を舞台にした中盤は、クローズド・サークルもの的な面白さもあり、ストーリー展開は決して退屈ではない。だが、その設定も手垢にまみれたものにすぎないし、殺人の謎そのものもさほど目新しいプロットは用意されていない。
 本書が話題になったのは、むしろサブプロットに属する暗号のほうだ。いろは歌を活用した暗号の謎が独創的とのもっぱらの評判であり、「これぞ暗号ミステリの最高峰!」という惹句すらある。
 推理小説における暗号の解説としては、我が国では江戸川乱歩が「類別トリック集成」の中に組み込んだ「暗号記法の分類」がつとに有名だ。しかし、乱歩は、実際に政治・外交、軍事等の歴史の中で発展してきた実用的な暗号法については不明だったように思われる。乱歩は、メッセージを隠す〝ステガノグラフィー〟とメッセージ自体を読めなくする〝クリプトグラフィー〟、単語やフレーズを置き換える〝コード〟と個々の文字を置き換える〝サイファー〟も明確に区別せずに論じている感がある。
 さらに言えば、暗号の本流はクリプトグラフィーであり、古代スパルタのスキュタレーに代表される転置式、カエサル暗号のような単一字換字法から、ヴィジュネル暗号のような多表換字法を経て、〈エニグマ〉のような機械式暗号から今日の電子式暗号へと発展した歴史があるが、RSA暗号に代表される数学的な暗号アルゴリズムを用いた今日の電子式暗号は、もはや素人の一般読者が楽しめる小説の題材にはなり得ないほど難解なテクノロジーの次元にまで進化してしまった。
 本書で用いられたような、詩歌の中にメッセージを隠すタイプの暗号は、ステガノグラフィーに属するものであり、実は狭義の暗号ではないし、大量の情報を処理するのに適した実用的な暗号とは全く次元の異なるものだ。
 だが、今述べたように、小説におけるテーマとしての暗号は既に袋小路に入っている。ポーやドイルの用いた暗号すら、実は発表当時既に時代遅れだった。その時代遅れの暗号を手放しで称賛した乱歩も、現実の歴史における暗号の進化に無知だった。
 小説が読者に提供できる娯楽としての暗号は、今日ではもはやステガノグラフィーしかないし、それは実用性を追及したものよりも、特殊なメッセージや解法を売りにしたものにならざるを得ない。だが、いろは歌という媒体を駆使して、その技法の精緻さ、日本語の面白さを前面に打ち出した本書は、いわば、袋小路に入った暗号というテーマを、小説の素材として今日可能なギリギリの限界で、それでも最大限効果的に活用した小説と言えるのかもしれない。その意味では、著者のチャレンジ精神をおおいに評価したいところである。

ジョン・ロード『代診医の死』(シミルボン記事転載)

ゴールデン・エイジの巨匠の代表作

 ジョン・ロードは、英国推理小説の黄金期の作家の中でも、我が国において最も不幸な紹介の再出発をしてしまった作家の一人と言っていい。90年代に入ってから、鳴り物入りで紹介された『見えない凶器』は、残念ながら、今日の視点からすれば、時代遅れも甚だしい凡作でしかなかったからだ。こんな作品が代表作では、あとは推して知るべし、と思った読者も少なくないはずだ。
 これと関連したことでもあるが、もう一つ不幸だったのは、ロードを熱狂的に推す批評家の中には、多数の作品を読んでいながら、惜しむらくは作品鑑識眼に長けているとは言い難く、上記『見えない凶器』だけでなく、首を傾げざるを得ない凡作・駄作まで傑作として推すような向きもあったように思われることだ。
 こうした不幸が重なった結果、ロードは、再出発の初っ端で躓いてしまい、その後、幾つかの作品が紹介されはしたものの、未だに『見えない凶器』への否定的な評価を引きずり、アントニイ・バークリーやヘンリー・ウェイドのように、未紹介の傑作が次々と紹介されていく流れにはならなかった。
 ロードは、アガサ・クリスティが、エッセイ‘Detective Writers in England’(1945)の中で、「私自身が最も称賛し、同業者の中でも最高と思う作家たち」として挙げた12人の作家の一人であり(ほかは、コナン・ドイル、マージェリー・アリンガム、ドロシー・L・セイヤーズ、H・C・ベイリー、ジョン・ディクスン・カー、ナイオ・マーシュ、F・W・クロフツ、アントニイ・バークリー、マイケル・イネス、グラディス・ミッチェル、R・オースティン・フリーマン)、ミステリの女王も一目置く謎解きの巨匠であったことも言及しておかなくてはなるまい。
 『代診医の死』は、その評価が決して過大なものではないことを裏付けるロードの傑作の一つと言える。ロードとしては後期の作品に属し、ルーティン的構成がやや目立つきらいはあるが、古典的ながらもシンプルなプロットの組み合わせと巧みなミスディレクションで鮮やかなどんでん返しを演出してみせる。ロードに典型的なハウダニット仕立てではなく、心理的なトリックを駆使した大技だけに、そのサプライズの効果も大きい。
 多作家なだけに、作品の選択には慎重を要するが、玉石を見きわめさえすれば、まだまだ紹介に値する作品が残っている作家と言っていい。今後のさらなる紹介が待たれるところだ。
 なお、解説は、筋金入りのロード・ファンである林克郎氏に執筆していただき、あとがきで十分触れることのできなかった点をよく補っていただいた。

殊能将之『ハサミ男』(シミルボン記事転載)

大技ながらも緻密に練り上げた佳品

 殊能将之のデビュー作にしてメフィスト賞受賞作。
 女子高生を絞殺して喉にハサミを突き立てる犯行で、マスコミから「ハサミ男」と呼ばれた連続殺人犯は、樽宮由紀子という女子高生を新たな犠牲者に選び、殺害の機会を窺う。ところが、由紀子を待ち伏せした「ハサミ男」は、何者かに先を越され、自分と同様の手口を使って殺害された由紀子を発見する。事件の発見者となってしまった「ハサミ男」は、その模倣犯を自ら追跡し始める。
 本作を読んで、そのプロットの独創性に感心する読者は少なくないだろうが、推理小説の読書歴が長い人であれば、フランスの某有名作品や著名な日本人作家による某作品のプロットを想起する人もいるだろう。フランス語も得意とし、SFファンでもあった著者のことだから、これらの作品から影響を受けたことは想像に難くない。
 言語の特性もあって、英語やフランス語ならば容易に成立しても、日本語では不自然になりやすい難点を持つプロットだが(実際、フランスの某作品は過去の翻訳で失敗している)、比較的新しい時代背景もあってあまり不自然にならないのが、発表当時30代の新進気鋭だった作者の利点でもあるだろう。
 フーダニットの設定の点でも叙述構成の点でも、オリジナリティというより、過去のプロットの組み合わせや応用に秀でた作品と見るほうがふさわしいが、単なるアイデアの面白さにとどまらず、無理なく全体のプロットをまとめ上げた作者の力量に感心させられる。「ハサミ男」の一人称の叙述と捜査陣の視点に立つ三人称の叙述を交錯させることで、追う者と追われる者が並行して真相を追及していく展開がサスペンスをほどよく高め、中だるみを感じさせないし、並行する二つの動きが大団円で一つに収束し、隠された仕掛けが明らかになる構成も、デビュー作とは思えないほどの巧者ぶりであり、よく練り上げた跡が窺える。
 ただ、手品と同じで、謎解きのプロットはシンプルであればあるほどサプライズの効果は大きい。手の込んだものになるほど、その技巧に感心することはあっても、驚きは乏しくなる。不可能犯罪ものにもしばしば伴うこのジレンマが本作にもあるが、技術的な細工ではなく、登場人物たちの心理的な設定と叙述の構成でまとめ上げたプロットだけに、謎解きの爽快感も決して稀薄ではない。
個人的にも決して縁のない人ではなかっただけに、殊能氏の早世を心から惜しむものである。

ピエール・ルメートル『その女アレックス』(シミルボン記事転載)

現代の犯罪小説の典型

 ピエール・ルメートルのベストセラーとなった犯罪小説。ストーリーの発端は、アレックスという若い女性が誘拐される場面から始まる。
 まさに現代の犯罪小説の特徴が、いい意味でも悪い意味でも凝縮されて詰め込まれた典型的な作品と言えるだろう。それだけに、人気の高さもよく理解できる。
 現代の作品らしく、捜査にはDNA鑑定が当然のように用いられているし、実際、最後の場面の決め手にもなる。性や暴力の描写も容赦がないほど生々しく、ヴィクトリア朝時代の英国であれば発禁処分にされても不思議ではないほどだ。現代の読者にとって背景描写に違和感がない反面、その刺激の強さに惹かれる読者もいれば、嫌悪を抱く読者も少なくあるまい。
 だが、そのプロットはよく練り上げられている。当初は単純な誘拐のように見えた事件が、ストーリー展開とともに加害者と被害者の単純な構図ではないことが次第に明らかになっていく。純然たる被害者と思われたアレックスも、その誘拐犯も、そしてアレックスと関わった人々や彼女の家族も、捜査の進展に伴って、単純に白と黒で描き分けられる存在ではないことがはっきりしていく。さながら万華鏡のようにすべての構図が変転していくのだ。
 そして、最後に、全体を通した事件の展開が、皮相的には猟奇的な連続殺人のように見えながら、実は一人の意志によって最終的な目的に向けて練り上げられた戦略に即したものだったことが、どんでん返しを演じるかのように明らかになる。入り組んだ人間関係と個人史が絡むだけに、古き良き時代のミステリーのように、ここには勧善懲悪もなければ、善と悪の単純な描き分けもない。大団円を通してのカタルシスも到底味わえそうにないし、むしろその真相に嫌悪をすら覚える読者もいるだろう。しかし、作者が練り上げた多重構造的なプロットの構築とピタリとツボを押さえた大団円の設定に、感嘆する読者が多いのは間違いあるまい。
 さらに、実は前作『悲しみのイレーヌ』の設定が本作のプロットの重要な前提になっている。前作の事件があればこそ、本作のプロットはますますその意外性を際立たせる仕掛けになっており、もちろん前作を読まなくとも理解はできるのだが、できればシリーズを順に読むほうがベターだろう。本作が主人公たるカミーユ・ヴェルーヴェン警部の立ち直りの物語となっていることも、そこからさらに明瞭に浮き彫りになるはずだ。
 余談だが、三人もの下訳者に手伝ってもらい、さらに「翻訳コーディネート」(どんな役割かいまひとつよく分からないが、監訳者ということか)なる方の支援まで受けるとは、羨ましいほど贅沢な翻訳作業だ。私には想像もできない。

R・オースティン・フリーマン『オシリスの眼』(シミルボン記事転載)

ロジックの精髄をきわめる謎解きの古典

 エジプト学者のジョン・ベリンガムは弟の家を訪ねたあと謎めいた失踪を遂げ、生死不明となる。ベリンガムは自分の死体の埋葬場所を指定し、その条件を満たすかどうかで相続人が決まるという奇妙な遺言書を遺していた。その後、ベリンガムの所有していた土地や各地の池からバラバラ死体の骨が発見される。
 R・オースティン・フリーマンの長編第二作であり、数々の名作表に選ばれた謎解きの古典。ヴァン・ダイン『カブト虫殺人事件』、クイーン『エジプト十字架の謎』、クリスティ『ナイルに死す』、カー『青銅ランプの呪』、デイリー・キング『厚かましいアリバイ』、ロビン・クック『スフィンクス』、エリザベス・ピーターズ『砂州にひそむワニ』など、エジプトを題材にしたミステリは古典期から現代にいたるまで数々あるが、本作はその嚆矢でもある。
 レイモンド・チャンドラー、トーマ・ナルスジャックなど、謎解き小説に対して厳しい批評を下した現代の作家・批評家たちですら称賛を惜しまなかった緻密な論理性こそはフリーマンの最大の特長であり、今なお他の作家・作品の追随を許さない。本作はその特長が最もよく発揮された傑作であり、帰納的推理の模範とも言うべき、ソーンダイク博士の推理は、「これ以外の解決はあり得ない」と思わせるほどの強力な説得力を持っている。フリーマン自身、本作の高みに達することは再びなかったと言っても過言ではない。
 ストーリー展開も弛緩することなく、百年以上前に書かれた作品でありながら、少しも古さを感じさせない熟度の高さが素晴らしい。メロドラマめいた恋愛描写はやや時代がかった印象を与えるが、服装は山高帽にフロックコート、交通手段は馬車、照明器具はガス灯にランタンというヴィクトリア朝~エドワード朝のノスタルジアをそそる雰囲気の中に、大英博物館など現代にも通じる舞台設定と色褪せないロジックの冴えが時代のギャップを埋めてくれる。
 探偵と犯人の個性的な造形、そのコントラストも巧みで、両者がその知性を絞り尽くして対峙するクライマックスはまさに圧巻。J・J・コニントン『九つの解決』、ダーモット・モーラー“The Mummy Case”など、直接的影響を受けた有名作だけでなく、エラリー・クイーンの国名シリーズをはじめ、論理性を重視したその後の本格作品のあり方を方向づけるマイルストーンを打ち立てた記念碑的傑作である。
プロフィール

S・フチガミ

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fuhchin6491
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