脱線の余談――「トリック」から「プロット」へ
マージェリー・アリンガム『ファラデー家の殺人』がご好評をいただき、ネットだけでなく店頭でも品薄状態になっているらしく、嬉しい悲鳴を上げております。読者の皆様に心より感謝申し上げます。
そんな中でふと感じたことを・・・。
『ファラデー家の殺人』は、ある意味、探偵小説の「トリック」の雛型の一つと言っていい作品かもしれない。実際、そうした視点から評価する向きもあるので、分かりやすい切り口を提示する意図で、同作の「トリック」を浮き彫りにする方向にやや引き寄せてあとがきを書いたのだが、あくまで作品紹介の便宜として選択した手法だったと言えるかもしれない。
「トリック」は、我が国で探偵小説を語る際にほぼ必ずと言っていいほど使われる言葉だが、英語の探偵小説批評を読んでいても、trickという言葉はあまり出てこない。出てきても、策略やごまかしといった本来の意味で使われる場合が多く、日本人が使う奇術的なタネの意味で使うことは少ない。敢えて言えば、探偵小説における「トリック」はほぼ「和製英語」と言っていい言葉だろう。
この「トリック」という言葉が我が国において探偵小説の文脈で使われるようになった起源がどこにあるかは寡聞にして知らないが、江戸川乱歩の「類別トリック集成」が我が国でこの用法を普及させた大きな要因であったのはほぼ間違いあるまい。我が国における探偵小説普及に際しての乱歩の絶大な影響力が、この「トリック」という言葉をポピュラーにしただけでなく、これを物差しに用いて探偵小説を評価する傾向を促したと言っていい。
多くの読者が「トリック」という言葉で連想するものは、読者を欺く奇術的なタネのことであり、この「トリック」は、「〇〇が犯人」、「〇〇が凶器」等々といった具合に、簡潔なひと言かシンプルな一文で表現できるようなものが多い。それだけに分かりやすく、整理もしやすい。その要素だけを取り出せば、作品を分類する上でも便利だし、人に説明するのも容易だ。
乱歩は、作品からの「トリック」の抽出を行うことで、代表的な探偵小説をテーマ毎にカテゴライズし、それぞれの作品の特徴を浮き彫りにしてみせた。その手法は確かに明快で分かりやすく、それだけに、大きな影響を後世に与えたし、探偵小説の普及に寄与した面も絶大だったと思われる。その意味では、乱歩の功績はいくら強調しても足りないほどだろう。
その一方で、ネガティヴな面を捉えれば、「トリック」という皮相的な要素だけを抽出して、これを物差しに探偵小説を評価するという風潮を生み出した、功罪の「罪」の側面も無視はできないと思われる。いわゆる「推理クイズ本」や「〇〇ミステリ案内」のような「トリック」だけを抽出して紹介する本が普及し、原作を読む前にネタばらしを食らったという読者が我が国には多いという現象も、乱歩の影響なしには考えられない状況だろう。
「乱歩の影響など昔のこと」と笑う若年世代の読者も多いかもしれないが、実際には、いざ個別作品を論じ出すと、トリックがどうだという話になり、無意識のうちに従来型の思考パラダイムに囚われ、実はその影響から脱していない場合も多いように思える。それほど乱歩の影響は今日にまで及んでいるということだろう。
(もちろん、一概に我が国と海外の傾向がまったく異なるかのような状況にあるわけではないし、その傾向をきれいにセパレートするつもりも毛頭ない。あくまで傾向に差があるという次元の話だ。「類別トリック集成」にしても、カー『三つの棺』の「密室講義」の影響もあるだろう。カーは、乱歩的な発想とかなり親和性の強い作家だったと言える。カーの影響で言えば、ロバート・エイディのLocked Room Murders のようなリファレンスブックもそうだが、これもどちらかといえばマニア向けの研究書に近く、我が国の「推理クイズ本」のように一世を風靡するようなタイプの本ではない。実際、エイディの本を取り上げるマニアは日本人に多い印象もある。)
では、英語に「トリック」に相当する言葉はないのかというと、そうではない。海外の批評などでよく使われる「トリック」に一番近い言葉は、plot(プロット)だろう。「プロット」という言葉は次第に我が国でも使われるようになってきたが、この言葉の意味は、和製英語の「トリック」が意味するところとは似て非なるものだ。「プロット」は本来、読者を欺く計略の要素やアイデアだけではなく、全体の構想を意味する言葉だからだ。敢えて「トリック」に相当する言葉を探すとすれば、idea か concept で、それはプロットを練り上げる発端となる「着想」にすぎない。
分かりやすい例として、『ファラデー家の殺人』を取り上げれば、「トリック」としては、「〇〇が犯人」といった類のひと言で要約できるかもしれない。だが、あとがきでも触れたように、実際に探偵小説の「プロット」として有効な形で仕上げるためには、その解決が説得力や真実味を持つものになるように、一人ひとりの登場人物の個性をこれに応じて肉付けしていくことが必要だし、伏線の設定や物語の展開の仕方にも一定の筆力や工夫を要する。さもなければ、「トリック」の技巧だけが目立つ空々しく薄っぺらな駄作になるだけだろう。
そして、核となる「トリック」だけではなく、これを一層効果的なものにするために、前の記事でも述べた、読者を別の結論にミスリードしていくような仕掛けも「プロット」には含まれる。こうした作品総体としての構想が「プロット」であって、通常はこうした文脈で用いられる言葉と言っていい。
『アクロイド殺し』も、「トリック」の物差しで語られることの多い作品だが、別の記事でも書いたように、実際は、作品全体が大きな仕掛けとなっていて、これを「〇〇が犯人」といった「トリック」の物差しだけで評価すれば、その意義を捉えることは不可能だろう。「トリック」だけで評価すれば、一度読んで結末を知ってしまえばそれで終わりだが、再び読み直してその特徴を賞味するためには、「プロット」の視点を持つことが不可欠だ。
「いくら人物描写が優れていてもダメで、探偵小説はトリックがキモだ」といった、よく耳にする議論も、実は「トリック」と「人物描写」を無意識のうちに切り離し、「トリック」だけを抽出して物差しとする乱歩以来の評価手法の影響がそこには表われているようにも思える。本来、「プロット」とは、そうした切り離しを安易に許容するものではないはずなのだが。同様のことは、「トリック」と「ロジック」という区別にも当てはまるだろうし、視点や強調点の差異を浮き彫りにするために議論の便宜上「区別」することはあり得ても、あれかこれかの「選択」のように捉える議論は、これも無意識のうちに乱歩以来の「トリック」偏重に囚われている可能性が高いと言えるだろう。
そうした視点の嗜好を持つ読者層が厚ければ、それは作家の作品にも影響を及ぼす。(筆者は必ずしも網羅的に読んだわけではないが、)我が国のいわゆる「新本格」と呼ばれる作品は、筆者も優れたプロットの作品が多いことを認めるのに吝かではないが、世評の高さと裏腹に、机上で構想した「トリック」のアイデアをベースに登場人物を配置したことが見え見えの人工臭の強い作品に出くわすことも往々にしてある(「持てる限りのトリックを満載した」、「まだ数作分のトリックのアイデアが手元にある」といった作家の発言を目にすると、着想でしかない「トリック」を思いつけば作品を九分九厘完成したかのような認識が作家の間でもいかに根強いかを痛感する)。因襲打破の意味合いも持つはずの「新本格」が、実は乱歩の呪縛から未だ逃れていないとすれば、些か皮肉な事態ではないだろうか。
乱歩が没して既に半世紀を過ぎた。先に述べたように、「プロット」という言葉も次第に普及しつつあり、状況に変化の兆しがあるようにも見えるが、それでも我が国における「トリック」偏重の傾向は相変わらず根強いように思える。我々はそろそろ最優先の視点を「トリック」から「プロット」にシフトさせてもよいのではないだろうか。
「トリック」による分類は、探偵小説を普及させる上で間違いなく大きな役割を果たした。乱歩のその功績を認めることは、その思考パラダイムにいつまでも囚われることを意味しないはずだ。その成果を踏まえて、さらに発展させていくことが、大乱歩の功績を受け継ぐ新世代の作者や読者の担う役割ではないだろうか。
そんな中でふと感じたことを・・・。
『ファラデー家の殺人』は、ある意味、探偵小説の「トリック」の雛型の一つと言っていい作品かもしれない。実際、そうした視点から評価する向きもあるので、分かりやすい切り口を提示する意図で、同作の「トリック」を浮き彫りにする方向にやや引き寄せてあとがきを書いたのだが、あくまで作品紹介の便宜として選択した手法だったと言えるかもしれない。
「トリック」は、我が国で探偵小説を語る際にほぼ必ずと言っていいほど使われる言葉だが、英語の探偵小説批評を読んでいても、trickという言葉はあまり出てこない。出てきても、策略やごまかしといった本来の意味で使われる場合が多く、日本人が使う奇術的なタネの意味で使うことは少ない。敢えて言えば、探偵小説における「トリック」はほぼ「和製英語」と言っていい言葉だろう。
この「トリック」という言葉が我が国において探偵小説の文脈で使われるようになった起源がどこにあるかは寡聞にして知らないが、江戸川乱歩の「類別トリック集成」が我が国でこの用法を普及させた大きな要因であったのはほぼ間違いあるまい。我が国における探偵小説普及に際しての乱歩の絶大な影響力が、この「トリック」という言葉をポピュラーにしただけでなく、これを物差しに用いて探偵小説を評価する傾向を促したと言っていい。
多くの読者が「トリック」という言葉で連想するものは、読者を欺く奇術的なタネのことであり、この「トリック」は、「〇〇が犯人」、「〇〇が凶器」等々といった具合に、簡潔なひと言かシンプルな一文で表現できるようなものが多い。それだけに分かりやすく、整理もしやすい。その要素だけを取り出せば、作品を分類する上でも便利だし、人に説明するのも容易だ。
乱歩は、作品からの「トリック」の抽出を行うことで、代表的な探偵小説をテーマ毎にカテゴライズし、それぞれの作品の特徴を浮き彫りにしてみせた。その手法は確かに明快で分かりやすく、それだけに、大きな影響を後世に与えたし、探偵小説の普及に寄与した面も絶大だったと思われる。その意味では、乱歩の功績はいくら強調しても足りないほどだろう。
その一方で、ネガティヴな面を捉えれば、「トリック」という皮相的な要素だけを抽出して、これを物差しに探偵小説を評価するという風潮を生み出した、功罪の「罪」の側面も無視はできないと思われる。いわゆる「推理クイズ本」や「〇〇ミステリ案内」のような「トリック」だけを抽出して紹介する本が普及し、原作を読む前にネタばらしを食らったという読者が我が国には多いという現象も、乱歩の影響なしには考えられない状況だろう。
「乱歩の影響など昔のこと」と笑う若年世代の読者も多いかもしれないが、実際には、いざ個別作品を論じ出すと、トリックがどうだという話になり、無意識のうちに従来型の思考パラダイムに囚われ、実はその影響から脱していない場合も多いように思える。それほど乱歩の影響は今日にまで及んでいるということだろう。
(もちろん、一概に我が国と海外の傾向がまったく異なるかのような状況にあるわけではないし、その傾向をきれいにセパレートするつもりも毛頭ない。あくまで傾向に差があるという次元の話だ。「類別トリック集成」にしても、カー『三つの棺』の「密室講義」の影響もあるだろう。カーは、乱歩的な発想とかなり親和性の強い作家だったと言える。カーの影響で言えば、ロバート・エイディのLocked Room Murders のようなリファレンスブックもそうだが、これもどちらかといえばマニア向けの研究書に近く、我が国の「推理クイズ本」のように一世を風靡するようなタイプの本ではない。実際、エイディの本を取り上げるマニアは日本人に多い印象もある。)
では、英語に「トリック」に相当する言葉はないのかというと、そうではない。海外の批評などでよく使われる「トリック」に一番近い言葉は、plot(プロット)だろう。「プロット」という言葉は次第に我が国でも使われるようになってきたが、この言葉の意味は、和製英語の「トリック」が意味するところとは似て非なるものだ。「プロット」は本来、読者を欺く計略の要素やアイデアだけではなく、全体の構想を意味する言葉だからだ。敢えて「トリック」に相当する言葉を探すとすれば、idea か concept で、それはプロットを練り上げる発端となる「着想」にすぎない。
分かりやすい例として、『ファラデー家の殺人』を取り上げれば、「トリック」としては、「〇〇が犯人」といった類のひと言で要約できるかもしれない。だが、あとがきでも触れたように、実際に探偵小説の「プロット」として有効な形で仕上げるためには、その解決が説得力や真実味を持つものになるように、一人ひとりの登場人物の個性をこれに応じて肉付けしていくことが必要だし、伏線の設定や物語の展開の仕方にも一定の筆力や工夫を要する。さもなければ、「トリック」の技巧だけが目立つ空々しく薄っぺらな駄作になるだけだろう。
そして、核となる「トリック」だけではなく、これを一層効果的なものにするために、前の記事でも述べた、読者を別の結論にミスリードしていくような仕掛けも「プロット」には含まれる。こうした作品総体としての構想が「プロット」であって、通常はこうした文脈で用いられる言葉と言っていい。
『アクロイド殺し』も、「トリック」の物差しで語られることの多い作品だが、別の記事でも書いたように、実際は、作品全体が大きな仕掛けとなっていて、これを「〇〇が犯人」といった「トリック」の物差しだけで評価すれば、その意義を捉えることは不可能だろう。「トリック」だけで評価すれば、一度読んで結末を知ってしまえばそれで終わりだが、再び読み直してその特徴を賞味するためには、「プロット」の視点を持つことが不可欠だ。
「いくら人物描写が優れていてもダメで、探偵小説はトリックがキモだ」といった、よく耳にする議論も、実は「トリック」と「人物描写」を無意識のうちに切り離し、「トリック」だけを抽出して物差しとする乱歩以来の評価手法の影響がそこには表われているようにも思える。本来、「プロット」とは、そうした切り離しを安易に許容するものではないはずなのだが。同様のことは、「トリック」と「ロジック」という区別にも当てはまるだろうし、視点や強調点の差異を浮き彫りにするために議論の便宜上「区別」することはあり得ても、あれかこれかの「選択」のように捉える議論は、これも無意識のうちに乱歩以来の「トリック」偏重に囚われている可能性が高いと言えるだろう。
そうした視点の嗜好を持つ読者層が厚ければ、それは作家の作品にも影響を及ぼす。(筆者は必ずしも網羅的に読んだわけではないが、)我が国のいわゆる「新本格」と呼ばれる作品は、筆者も優れたプロットの作品が多いことを認めるのに吝かではないが、世評の高さと裏腹に、机上で構想した「トリック」のアイデアをベースに登場人物を配置したことが見え見えの人工臭の強い作品に出くわすことも往々にしてある(「持てる限りのトリックを満載した」、「まだ数作分のトリックのアイデアが手元にある」といった作家の発言を目にすると、着想でしかない「トリック」を思いつけば作品を九分九厘完成したかのような認識が作家の間でもいかに根強いかを痛感する)。因襲打破の意味合いも持つはずの「新本格」が、実は乱歩の呪縛から未だ逃れていないとすれば、些か皮肉な事態ではないだろうか。
乱歩が没して既に半世紀を過ぎた。先に述べたように、「プロット」という言葉も次第に普及しつつあり、状況に変化の兆しがあるようにも見えるが、それでも我が国における「トリック」偏重の傾向は相変わらず根強いように思える。我々はそろそろ最優先の視点を「トリック」から「プロット」にシフトさせてもよいのではないだろうか。
「トリック」による分類は、探偵小説を普及させる上で間違いなく大きな役割を果たした。乱歩のその功績を認めることは、その思考パラダイムにいつまでも囚われることを意味しないはずだ。その成果を踏まえて、さらに発展させていくことが、大乱歩の功績を受け継ぐ新世代の作者や読者の担う役割ではないだろうか。
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