ジョン・ロード“The Vanishing Diary”

 “The Vanishing Diary”(1961)は、ロードの遺作。プリーストリー博士最後の事件でもある。

 飛行機会社のテスト・パイロット、フレディー・ハプトンは、1月の午後、テスト飛行中の飛行機がトラブルを起こし、パラシュートで脱出、飛行機はそのまま海に墜落する。雪の積もる丘に降り立ったフレディーは、羊飼い用の小屋を見つけ、中にストーブもあったおかけで、そこで一夜を過ごす。
 翌朝、丘を降りて、イリングセットという村にたどり着き、ブレイトンという警官から、その小屋がクラレンス・グレイストークという大地主の所有物だと教えてもらう。フレディーはグレイストーク氏の邸を訪れ、経緯を説明し、運転手に駅のある町まで送ってもらうことにする。
 グレイストーク氏は、前年のクリスマスのハウスパーティーの際に、食堂の窓が壊され、マントルピースに載っていた、ナポレオン三世の皇后、ウジェニーの銀製の胸像が盗まれる事件が起きたことを説明する。氏は別れ際に、三月初旬に再び邸を訪れるよう勧め、フレディーも快く招待を受ける。
 2月に招待状を受け取ったフレディーは、再びイリングセットの邸を訪れる。フレディーはそこで、クラレンスの息子のジョン、姉のメアリ・キンブル夫人、その娘のジョイス、氏の妹のスーザンに紹介される。邸には、氏の遠縁にあたるデヴィッド・グレイストーク、その妻のエリナー、娘のパトリシア、ドリス、息子のジョージも来ていた。
 クラレンスとデヴィッドの曾祖母、ルイーズは、二つの鍵で開けることのできる箱に自分の日記を入れ、二つの鍵をそれぞれ自分の二人の息子に渡し、子々孫々に伝えて、60年後に箱を開けるよう遺言していた。鍵は現在、クラレンスとデヴィッドかそれぞれ所有していた。フレディーが招待されたのも、箱を開ける記念すべき場に立ち会うためだった。22歳のパトリシアは歴史小説作家として成功を収め、新作に取りかかっていて、ジョンも一、二年前に詩集を出版していた。パトリシアは新作の題材としてその日記を使いたいと思っていたし、ジョンはその日記を自分が校訂して出版することを計画していて、二人とも祖先の記した日記に強い関心を持っていた。
 ところが、箱は、保管されていた戸棚から姿を消していた。緑色の金属の箱という特徴を聞いたフレディーは、自分が一夜を過ごした羊飼いの小屋の床に、そっくりの箱があったことを思い出し、そのことをクラレンスに告げる。彼らは小屋に急行するが、既に箱はそこからも姿を消していた。
 フレディーは、エリナーからウォーターブリッジの邸で休日を過ごすよう招待されるが、パトリシアが執筆に没頭して部屋に引きこもりがちであり、家族とも接することが少ないと知る。フレディーの滞在中に、パトリシアが部屋に鍵をかけたまま、母親のエリナーが呼びかけても返事が返ってこないと訴えてくる。フレディーが部屋のドアを破って入ると、パトリシアはテーブルの上のタイプライターに顔をうつぶせにして死んでいた・・・。

 72作の長編に登場するプリーストリー博士は、本作をもって読者に別れを告げる。その三年後の1964年、作者のジョン・ロードも世を去る。
 遺作にしては、プロットはそれなりにツイストを利かせているし、複雑さも兼ね備えていて、決して箸にも棒にもかからぬ駄作ではない。さりとて、全盛期に見られたほどのオリジナリティがあるわけでもなく、凡作気味と言わざるを得ないだろう。
 ただ、テスト・パイロットのフレディーの存在がユニークで、グレイストーク家のエピソードに彼が狂言回しのように関わることでストーリー展開に一定の起伏を持たせている。そのおかげで、後期の作品にしばしば見られる、どうにもならない退屈さを回避するのにある程度成功しているとも言えるだろう(もっとも、“A Catalogue of Crime”のバーザンとテイラーは「きわめて退屈」と酷評しているが)。
 「私の助言がお役に立ったのなら嬉しいよ」云々というのが、プリーストリー博士の最後の言葉となってしまったのだが、その言葉に象徴されるように、本作でも、プリーストリー博士の役割は、土曜の例会でジミー・ワグホーン警視に助言を与える立場にほぼ限定されていて、ある程度までは博士が謎解きを導くものの、最終的に謎解きをして犯人を突き止めるのはワグホーン警視だ。後期の作品の多くがそうであるように、快刀乱麻を断つような、名探偵の大見得切った謎解きの場面を期待する向きには肩透かしだろう。
 ちなみに、5月に刊行予定の『代診医の死』(論創社)は、ロード後期の作品の中でも、プリーストリー博士による鮮やかな謎解きが光る傑作の一つだ。多くの読者の皆さんにお楽しみいただければと願っている。



               Vanishing Diary

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「ミステリーズ!」に『オシリスの眼』の書評が載りました

 R・オースティン・フリーマン『オシリスの眼』(ちくま文庫)の大川正人氏による書評が「ミステリーズ!」(東京創元社)Vol.81の「ブックレビュー」に載りました。
 「ソーンダイク博士が謎を解くところの抜群の演出と、そこから繰り広げられる解決篇のすばらしさ。とことん演繹的な推理から犯人特定に至り、そこにあまり動機の問題が関与しないところなど、クイーンの国名シリーズのような作品の先駆として評価されるべきものでしょう。これは読むべき古典としておすすめの一冊です」と評価していただきました。
 またもや編集者の藤原さんから教えていただいてようやく知った次第です。お恥ずかしい・・・。

「週刊文春」に『オシリスの眼』の推薦文を載せていただきました

 今頃気がついてお恥ずかしい限りだが、「週刊文春」12月29日号の「文春図書館」に、R・オースティン・フリーマン『オシリスの眼』(ちくま文庫)の「新刊推薦文」を載せていただいた。遅ればせながら、感謝申し上げたい。

               週刊文春


 業界一の発行部数を誇る週刊誌に推薦文を載せていただいたというのに、知人に教えてもらうまで気づかなかったとは、誠に申し訳ない限りで、我ながらアンテナの低さを恥じるばかりである。

『オシリスの眼』における科学と法の対決

※オースティン・フリーマン『オシリスの眼』のプロットを明かしていますので、未読の方はご注意ください。


 「ミステリマガジン」2017年3月号に載った若林踏氏の書評には、興味深い指摘がある。(誤植が見苦しいという点は前の記事で指摘したが、これは若林氏というより編集サイドのミスではないだろうか。)「脇筋と思われるものの一つが、物語の主題として浮上する瞬間がある」という指摘だ。実は、同様のことを私自身も感じた部分があるからだ。それが若林氏の指摘することと同じものを指すかどうかまでは分からないが。
 それは、「科学と法の対決」という主題(テーマ)だ。作者のフリーマンは医師でもあり、エックス線写真撮影のような当時最先端の科学技術を採り入れていることからも分かるように、明らかに法より科学を優先する立場だったに違いない。ソーンダイクはまさにその立場を代弁する存在だったといえる。
 作中で、ソーンダイク博士は、「法的思考なるものが、人が思うほど公平ではない」と警告を発し、判事が裁判で示す偏見や医師に対する敵意について触れているが(邦訳177頁)、これはもしかすると、フリーマン自身の経験に根ざしているのかもしれない。フリーマン自身、法廷で証言したり、あるいは、傍聴するなどの経験の中で、同様の不快な目にあったことがあるのではないだろうか。
 その一方で、ソーンダイクと相対する立場にある人物は、バークリー医師との対話の中で、科学的な見方と法的な見方の違いについて弁じたて、医師がしばしば法廷で「おかしな証言」をすると難じ、「宣誓に基づく証言」という法的な証拠の優位性を論じ、科学を重視する者はその意義を理解しないと批判している。
 科学を代弁する立場のソーンダイクと法的な証拠を重視する人物とのコントラストが、両者の人物描写を通じて鮮やかに描き分けられているのだが、大団円に至るまでは、そんな挿話もただの脇筋にすぎないように見える。温かい人間味に満ちたソーンダイクと非人間的で感情を示さない人物という性格上の描き分けだけでなく、科学と法という異なる立場を両者に代弁させることで、そのコントラストをさらに際立たせるという、人物描写上の肉付けの一つにすぎないか、と上っ面だけ読んでいるとそう思える。
 ところが、大団円に至り、その両者の見解の相違は、思わぬ形で決着を見ることになる。ソーンダイクは当時最先端の技術を用いて真相を裏づける証拠を得、その経緯を知らされた人物は、驚愕して自らの敗北を認め、最後に「現代の科学の力は本当に素晴らしい」と詠嘆して自ら命を絶つ。
 この人物は、作中、スフィンクスにもなぞらえられているのだが、ご存じのとおり、伝説上のスフィンクスは、通りかかった旅人に謎をかけ、答えられない相手を殺していたが、オイディプスに謎を解かれ、敗北を認めて自殺したとされる。この人物もまた、ソーンダイクに謎を解かれ、自殺して果てるのだが、単に無表情で謎めいた人物という意味だけでなく、そこには伝説も踏まえた特別な意味が込められていたのかもしれない。
 フリーマンは、ソーンダイクとその人物との描き分けを通じて、科学と法の対決という構図を二人に体現させ、ソーンダイクに勝利を収めさせ、その敵に科学の力の素晴らしさを最後に認めさせることで、科学の優位性を高らかに宣言してみせたかった――そう思えて仕方ないのだが、さて、これはあまりに穿ちすぎた見方だろうか・・・。

脱線の余談――特集ならばもっと情報を

 今月の「ミステリマガジン」は、「そしてクリスティーはいなくならない」と銘打ったアガサ・クリスティの特集号。だが、看板と裏腹に、小山正氏による映像化情報を除けば、まるで過去の作家と化して「いなくなってしまった」かのように新たな情報に乏しかったのが残念だ。「私の偏愛クリスティー」というエッセイ群も決して悪くはなかったのだが、厳しめに言えば、個々人の感想の集積にすぎず、目新しいものは特になかった。
 自分のブログを宣伝するようで恐縮だが、ここ数年の間だけでも、クリスティによるエッセイ‘Detective Writers in England’、‘The Tragic Family of Croydon’の発掘や、‘Butter in a Lordly Dish’、‘Personal Call’などの未収録ラジオ・ドラマを収録したCD“Agatha Christie: The Lost Plays”の発売、ジュリアス・グリーンによる“Curtain Up: Agatha Christie – A Life in Theatre”の刊行などを取り上げてきたつもりだが、そうした近年の動きにはまるで触れられていない。版権のほとんどを独占している出版社にしては、邦語情報に偏りすぎて、素人臭さの抜けない特集に終わっている感がある。
 さらに、かつて1990年10月号に掲載された戯曲版「そして誰もいなくなった」が再録されているが、この訳は英サミュエル・フレンチ社の旧版を底本にしたものと思われる。以前の記事でも述べたように、クリスティはのちに同戯曲の改訂版を出しており、現在手に入る版のテキストは、英サミュエル・フレンチ社のものも含めて、すべて改訂版に拠っている。せっかく新たに掲載するのであれば、できれば改訂版を底本に用いて改訳してほしかったところだ。
 また、これも同じ記事で指摘したとおり、訳者は「一九四四年初版」を底本にしたと述べておられるが、改題の趣旨説明が載っている点からしても、実際はのちの版と思われる。のちのフレンチ版はテキストは初版と同じでも、初版に掲載されていた舞台写真が省かれている。その写真は以前の記事でもアップしたが、この写真が省かれているのも、底本に用いた版が真の初版ではないからではなかろうか。フレンチ社の台本版には載っている初演データや小道具・照明の手配が省かれているのも、早川の翻訳では一貫したこととはいえ、惜しい気がする。
 なお、同号には、若林踏氏と新保博久氏によるR・オースティン・フリーマン『オシリスの眼』(ちくま書房)の書評が載っており、概ねご好評をいただいたのはありがたいが、誤植(「ジョン・ウィンダム」って誰? 「余詰め」という詰将棋の用語は「理詰め」の誤りだろう)とネタバレ(新保氏の書評)が目立って見苦しいのが残念。とはいえ、以前ならば新訳はチェックリストに載るだけだったのを、初の完訳ということもあるだろうが、複数の書評で取り上げていただいたことには感謝したい。

エジプト史が触発する『オシリスの眼』の魅力

 医師だったフリーマンの作品には、医科学ミステリというイメージがあるが、実際、長短編ともに専門知識を前提にした作品が多い。その点、海外のレビューなどを見ても、『オシリスの眼』は、専門知識を前提としなくても読者に洞察のチャンスがある作品の一つとして好意的に受け止められているのだが、一般人の知識では簡単に推理できない、難解な玄人好みの作品が長編にも少なくない。
 これは理科系の知識という点に限らない。人文知識の面でも一定の知識を容赦なく読者に求める傾向がフリーマンにはある。最近刊行された『アンジェリーナ・フルードの謎』も、当ブログでも何度か解説したとおり、ディケンズの『エドウィン・ドルードの謎』を前提にして初めて作者の真意を理解できる仕掛けになっている。もちろん、予備知識なしに読んでも推理小説として理解できる作品ではあるが、読者にしてみると、(まずはディケンズを読んでからでなければ・・・)という心理的ブレーキがかかりそうなもの。同作とディケンズとの関連を最初に指摘したのがドロシー・L・セイヤーズというインテリ女史だったというのも頷けるというものだ。
 『キャッツ・アイ』も、ジャコバイトの反乱や聖書の翻訳史のような歴史的知識を前提にしないと背景がよく分からず、訳者としては、読者の便宜に資するよう、けっこうこまめに解説を書いたつもりだが、それでも知人の意見などを聞くと、難解すぎると思った人も少なくなかったようだ。(自分で言うのもなんだが)歴史大好き人間の私は予習なしでも知っていたが、ヒエロニムスだ、〝若僭王〟だと言われても、高校の世界史に出てくるかどうかも怪しいマニアックな知識をいきなりぶつけられては、歴史に興味のない人にはピンとこないし、いちいち解説を読んで予習してから読むのもウザいと思うかもしれない。
 『オシリスの眼』も、エジプト学の知識をふんだんに取り入れた作品という意味で、本当は同様のリスクを持っていたはずの作品なのだが、その点がハンディにならず、むしろ人気を集める一因となったのは、実はその後の歴史的展開が幸いした面もあるように思えてならない。
 以前の記事でも解説したが、1911年にエジプト学を取り入れたミステリとして、『オシリスの眼』は先駆的作品だった。とはいえ、エジプト学に大衆の関心が集まるようになるのは、むしろ、1922年のハワード・カーターによるツタンカーメン王墓の発掘が一番大きなきっかけだろう。黄金のマスクをはじめ、発見された眩いばかりの埋蔵物が世界中のマスコミを騒がせ、さらには、発掘スポンサーのカーナヴォン卿の謎めいた死をきっかけに「ミイラの呪い」の噂がセンセーションを引き起こし、それ以降、古代エジプト史とミイラといえば、いかにも歴史上の謎や「呪い」といった神秘的な雰囲気がまとわりつくようになってしまったのだ。ミステリの題材としては格好のネタというものだろう。復活したミイラが人間を襲うなどという映画も、これが契機にならなければブームになっただろうか。エリザベス・ピーターズの『砂州にひそむワニ』のような設定が、現代の読者には推理小説のプロットとして違和感がないとしても、フリーマンの時代はどうだっただろうか。ポオの「ミイラとの論争」(1845年)に登場する、何の怖さも特別な能力もない、滑稽ですらある目覚めたミイラを想起すれば、それ以前のミイラがどんなイメージだったか想像がつくというものだろう。
 フリーマンの時代には、古代史の魅力や聖書との関連などでエジプト学にそれなりの関心が寄せられていたとしても、ツタンカーメン王墓発掘以降のような大衆的関心を集めるような題材では決してなかったはずだ。それは、アルバート・J・メネンデスの“The Subject is Murder”の「考古学」の項目を見ても、ツタンカーメン王墓発見以前のミステリ作品は『オシリスの眼』だけだという事実にも表れている。まして「ミイラの呪い」などというテーマは同時代には想像もできまい。『オシリスの眼』を読んでいて、いくら触発する個所が随所にあるにしても(例えば、ポールとルースが暗い博物館の展示物の不気味さに怖気をふるう場面など)、そこについつい、エジプト史の神秘性や「ミイラの呪い」のようなミステリアスな雰囲気を感じ取りつつ読んでしまうとしたら、それはいわば、ツタンカーメンのエピソード以降の現代人の感覚で無意識に先入観を読み込んでいるにほかならないのだ。
 ただ、その意味でも『オシリスの眼』は幸運な作品だったといえる。もしかすると、読者にとっては煙たい専門知識になったかもしれないエジプト学が、むしろミステリ・ファンの関心をそそる親しみのあるテーマになってしまったのだから。『オシリスの眼』が古典としての価値だけでなく、いつまでも親しまれる作品として多くの読者の支持を集めてきたのは、一つにはそうした歴史的偶然が働いた面もあると思うのである。

ジョン・ロード“Twice Dead”

 ロードの『代診医の死』(1951)が5月に論創海外ミステリから刊行予定。お知らせに合わせて、久しぶりにロードの作品を取り上げよう。
 “Twice Dead”(1960)は、ロードの後期に属する作品の一つであり、ランスロット・プリーストリー博士の登場する長編。

 七代目の準男爵、フランシス・ヨーデイル卿は、遠縁にあたる家政婦のエセル・シャーランド夫人とともに〝アップランズ〟という邸に住んでいた。
 長男のフランシス卿は、六代目の準男爵だった父親の死により爵位と財産のほぼすべてを受け継いでいたが、独身だった。フランシス卿には四人の兄弟姉妹がいたが、卿は若い頃からひねくれたユーモアを発揮して自分の兄弟姉妹にたちの悪いいたずらを仕掛け、彼らから煙たがられていた。
 ある日、フランシス卿本人は息災だというのに、〝アップランズ〟に、卿の兄弟姉妹から花輪が続々と届き、エセルは仰天する。実はフランシス卿が〝タイムズ〟紙の訃報欄に自分の死亡記事を載せたためで、兄弟たちは訃報を信じて弔花を送ってきたのだった。
 フランシス卿は、弁護士から遺言書の作成を勧められ、初めは乗り気ではなかったが、遺言書のないまま死を迎えると、財産は兄弟姉妹に等分に分与されることになると言われ、それが気に入らないフランシス卿は、ついに遺言書の作成を決意する。
 フランシス卿は、大学時代の親友の子で、自分が名付け親となった、お気に入りのジョージ・ポーレットと、家政婦のエセルに、それぞれ10万ポンドを遺してやり、残りの5万ポンドを兄弟姉妹に分与することにした。ところが、フランシス卿は、またもやたちの悪いいたずらを考え、自分の死亡記事を見た兄弟たちの反応を見て遺産の配分額を決めることにしたのだった。
 卿が死んだ場合、八代目の準男爵となるエドガーは、安物の花輪しか送ってよこさなかったため、フランシス卿は一番高価な弔花を送ってきた弟のチャールズのほうに多額の遺産を遺すことにする。
 ところが、遺言書作成後の、ある金曜の朝、フランシス卿は、書斎で椅子に座ったまま、今度は本当に死んでいるのが発見される。死因は一酸化炭素中毒だったが、部屋には一酸化炭素を発生する要因となるものはなかった・・・。

 本作は、ロバート・エイディの“Locked Room Murders and Other Impossible Crimes”にも取り上げられている一種の不可能犯罪もの。一酸化炭素を発生させるメカニズムは、いかにもハウダニットを得意としたロードらしいが、その原理はシンプルで分かりやすいものの、とりわけ文科系の人にはなじみのなさそうな原理であり、大多数の読者から支持を得られそうにはないだろう。そのトリック自体も、比較的早い段階で明らかにされ、実はプロット上もさほど重きを置かれてはいないようだ。
 この時期の作品らしく、プリーストリー博士は土曜の例会で登場するだけで、登場するのも遅いし、場面も限られている。捜査の中心人物はむしろワグホーン警視であり、プリーストリー博士の助言を受けつつも、最終的に謎解きをするのもワグホーン警視だ。博士は、一酸化炭素発生の仕組みを洞察し、秘書のハロルド・メリフィールドに現場で実験をさせて実証してみせるが、名探偵らしい見せ場はさほどない。
 真犯人も動機も容易に想像がつき、謎解きとしての醍醐味に乏しいし、後期の作品らしく、中間部には退屈な尋問シーンと土曜の例会での議論が続き、ストーリーも起伏に富んでいるとは言いがたい。ただ、フランシス卿の性格描写はそれなりに面白いし、その他の登場人物たちの描写も後期の作品にしてはまあまあ描けているほうで、この時期の作品としてはまだ読めるレベルの作品と言えるかもしれない。



                  Twice Dead

フリーマン『オシリスの眼』が電子書籍化されます

 R・オースティン・フリーマン『オシリスの眼』(ちくま文庫)が、来年1月6日から、電子書籍として配信開始の予定となっておりますので、お知らせいたします。
 配信先は、KindleやKobo、iBook、紀伊国屋、honto等、主な電子書籍書店です。スマホ、タブレット、専用端末等、各社の端末やアプリにもすべて対応しています。
 引き続き多くの読者の皆様に楽しんでいただけることを願っております。

   Kindle   Kobo   honto   紀伊國屋書店

            オシリスの眼カバー

フリーマンの墓碑

 『オシリスの眼』の中で、失踪したジョン・ベリンガムは、自分の死体が埋葬される場所に強いこだわりを示し、それを遺言書の中で厳格に指定する。それが作品のプロットの重要なポイントをなしているのだが、似たようなこだわりは英国人に限ったものではなく、人類共通の自然な心情に根差すものでもあるように思える。
 作中で、語り手のバークリー医師は、「くたばった」あとに自分の死体をどうこうしろと指定するのは馬鹿げたことだと吐き捨てるように発言するし、ソーンダイクもこれを受けて、自分の死体がどうなろうと気にしないと応じる。加えて、普段、死体と接することの多い医師がそうした心情に理解を示すのは難しいことにも触れている。自身、医師でもあったフリーマンの考え方も、実はそこに何程か反映されているのかもしれない。
 その一方で、ソーンダイクは、そうしたこだわりを示す「心情」に一定の理解も示している。保守的な気質の強かったフリーマンは、意外とそうした心情を自らも共有していたのかと思えなくもない。
 なぜそんなことに触れたのかというと、実はグレイヴズエンドにあるフリーマン自身の墓が、1943年の没後、長年、墓石はおろか、何の目印もないままに放置されていたからだ。その理由はよく分からない。フリーマンは家庭内では厳格な父親だったらしく、デヴィッド・イアン・チャップマンは、家族の判断が働いた可能性を示唆しているのだが、いくら煙たい父親でも、死後にそんな冷たい仕打ちをするものだろうか。もしかすると、目印を設けないのは本人の遺志だったのかもしれない。バークリー医師やソーンダイク博士の発言に見られるように、死後に自分の死体がどう扱われようとかまわないという思いがあったとすれば、それも不思議ではない気がするからだ。
 だが、モーツァルトに墓がないことを残念に思うファンがいるのと同様、そんな状態をほうっておけない人々もいるものだ。1979年に、英米の有志が資金を集め、フリーマンの墓に花崗岩製の墓碑が建てられた。グレイヴズエンドのウィリアム・G・ダイク市長夫妻をはじめ、約35人の参列者のもと、ささやかなセレモニーが行われ、その中には、ミステリ作家・批評家のH・R・F・キーティングも加わっていて、短いスピーチを行ったという。その際の写真もある。

            Gravestone
              右から三人目がキーティング
              ノーマン・ドナルドスン“In Search of Dr. Thorndyke”改訂版(1998)より


 墓碑には、

               RICHARD AUSTIN
                  FREEMAN
                  1862-1943
             PHYSICIAN AND AUTHOR
           ERECTED BY THE FRIENDS OF
               “DR. THORNDYKE”
                    1979

と刻まれている。フリーマン自身の遺志に即したものかどうかはともかく、ファンの一人としては、キーティングらの配慮に拍手を送りたい気持ちにもなるというものだ。

脱線の余談――『オシリスの眼』の感想を聞くと・・・

※『オシリスの眼』のプロットを明かしていますので、未読の方はご注意ください。

 『オシリスの眼』は読者の皆様のご好評をいただいているようで、まずは読んでいただいた方々に感謝申し上げたい。読まれた方も増え、身近な人とも感想を共有できるようになったおかけで、いろんな意見を聞く中で認識を改めたこともいろいろ出てきている。息抜きにちょっとそんなことをざっくばらんに書いてみたい。
 以前の記事でも書いたが、読まれた方の感想などを聞くと、必ずしも「ゲームの慣習」で容易に真相を見抜く人ばかりではないようで、トリックや意外性の点でも評価しようとする向きが多いのに気づく。「死体隠蔽のアイデアが面白い」、「発見された骨のまとまり方のホワイダニットがユニーク」といった意見が特にそうだ。後期の代表作『猿の肖像』は、ナルスジャックが分析しているように、ロジックこそ緻密ではあるのだが、真相があまりに見え透いていて「ゲームの慣習」で早々と見抜いてしまう読者が多く、その点が不評の一因でもあったようだ。こうした観点からすると、『オシリスの眼』はロジックとトリックのバランスがうまく取れた作品と見ることもできるのだろう。
 その一方で、「犯人を当てた」という人の意見も、いろいろ聞くと興味深い。その「推理」のプロセスを集約すると、「ベリンガムの遺言書には、犯人に対して一定の金額のほか、エジプト関連のコレクションを遺贈するとされている。犯人はエジプト学に一方ならぬ関心を抱いている。コレクションの中に、犯人がどうしても欲しい貴重な遺物が含まれており、それが殺人の動機だと思った」、「遺言書に記載のある人間の中で、消去法で行くと、そいつが一番盲点の人物らしいから」という推論をした人が多いようだ。直接当事者は犯人として見え透いているから、意外性を狙って、犯人は目立たないもう一人の遺言執行者、動機は金銭よりも考古学的価値のある遺物、というわけだ。「ゲームの慣習」による推論なら、まあこんなものかもしれない。実際、こんなプロットでも十分成り立つし、傑作とまでは言わずとも、レッド・ヘリングをうまくちりばめて錯綜させれば、立派に水準以上の作品が出来上がるのではないだろうか。
 やや脱線するが、なぜか我が国では評判の高い『証拠は眠る』にしても、この作品をフーダニット、ハウダニットの側面から「代表作」と考えている人がいかに多いかを感じる。実際、これがフリーマンの代表作のように見なされているのは日本の特殊現象のようなものだが、その一方で、同書第17章以降でソーンダイクが展開する緻密な推論の積み重ねの非凡さに言及する人は少ない。多くの読者が「トリック」に目を奪われて、フリーマン本来の特長を意識しないまま作品を読んでいるのはこんなところにも表れている。とはいうものの、推理小説の読み方にルールがあるわけではないし、従来型の読み方の中からも、いろんな目の付け所があることが分かって興味深かった。
 ちょっと意外だったのは、現代の法医学の水準からすれば、古代人の骨を現代人の骨と取り違えることはあり得ないという指摘も一方であるのだが、こうした時代的制約をプロットの限界や瑕疵と捉える人はそれほどいないことだ。我が国の読者はこうした点については意外とおおらかなように思える。例えば、国産ミステリで言えば、1990年代に出たよく知られた作品があるが、その中で、一方では当時最先端のIT知識を盛り込みながら、いくら親子で似ていたとしても、十五歳も歳の違う娘の死体を医師が母親と間違えて気づかないという、信じがたい設定が平気でまかり通っている。確かにこんな例に比べたら、時代的制約があるとはいえ、フリーマンの科学捜査の描写のほうがリアリティがあると言えるかもしれない。
 もう一つ意外に思ったのは、バークリー医師とルース・ベリンガムの恋愛エピソード。私などは、いかにも旧時代的なお約束の恋愛描写のように思えて仕方なかったのだが、これを好ましいと思う読者の方が予想以上に多いのに驚かされた。悠然としたストーリー展開も、そんな恋愛エピソードのおかげで読み応えがあるという意見も聞く。チャンドラーがそんな描写を好んだというのも、実はそれなりに理由のあることだったのかもしれないと認識を改めつつあるところだ。確かに、最近の犯罪小説で描かれるような、ドロドロした男女関係やあからさまな性描写にうんざりしている読者にとっては、一服の清涼剤なのかもしれない。
 百年以上前の作品とは思えないほど文章がモダンで古さを感じさせないという意見も聞く。訳者の立場として誠にありがたい評価なのだが、これは要は、翻訳という作業が、単に横のものを縦に直すだけでなく、古いものを現代風に言い表す作業でもあるからだ。
 同書の英初版が刊行されたのは百年以上前の1911年。それは優雅に二輪馬車が走り、ガス灯がともるロンドンの描写からも伝わってくる。我が国で言えば、明治44年。文学では、島崎藤村や夏目漱石が作品を発表していた時代だ。この時代の小説を今日の我々が読めば、舞台背景の描写はもちろんのこと、表現や文体に違和感を覚えるものがあるのは当然で、現在出ている文庫本等が、今日の読者が読みやすいように漢字や仮名遣いなどに最低限の修正を加えているのも当然だ。
 実は英語とて例外ではない。クラシックなミステリを読んでいると、今日では廃れてしまった表現がいろいろ出てくるし、語彙だけでなく、もってまわった言い回しも多い。原文は、若い人が読めば眉をひそめるような表現に溢れている。おそらく、『オシリスの眼』のようなクラシックを原書で読む英語圏の読者は、古い英語表現にあちこち引っかかりながら読んでいるに違いない。しかし、翻訳で読む読者は、言語だけでなく、表現も現代風に訳されたものを読んでいるため、そのことに気づかない。ある意味、翻訳で読む読者は英語圏の本来の読者よりも得をしている面もあると言えるのかもしれない。
 最後に、疑問に思われた方もいるようなので、バジャー警部の最期について簡単に触れておこう。『赤い拇指紋』では、ミラー警視が刑事裁判所から犯人を尾行するものの、捕まえる場面はない。のちの短編「前科者」では、犯人を見失ったことが言及されている。倒叙に分類してもいい“When Rogues Fall Out”は、『赤い拇指紋』の続編でもある作品で、この逃げおおせた犯人が再び登場し、ソーンダイクと対決することになる。バジャー警部はこの犯人に殺されてしまうのだ。ソーンダイクにも平気で食ってかかるユニークな警部だが、さすがにお気の毒である。
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S・フチガミ

Author:S・フチガミ
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