『時の娘』再考 はじめに

 ここに掲載するのは、もう10年以上前にニフティに書き込んだ「『時の娘』再考」という議論に加筆訂正を行ったものである。ロンドン塔の二王子の謎についての文献を渉猟した副産物なのだが、あれから随分時が経ったにもかかわらず、今なお、一推理小説作家が歴史の謎に挑んで、学者も想定していなかったような新説を提起した、学問的意義のある作品であるかのように『時の娘』を評価する人がいる。
 以下に論じるように、これは無知に基づくとんでもない誤解である。にもかからず、『時の娘』は依然として優れた歴史ミステリなのだということを再認識してほしいという思いも込めて書いたつもりである。
 ニフティに書き込みをして以来、ジョフリー・リチャードスンの“The Deceivers”(1997年)のような研究書も出ていることに気づいたが、現状では敢えて論評を加筆しなかった。今後の課題として残しておきたいと思う。
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ジャンル : 小説・文学

『時の娘』再考 事件の概要

 英国史とミステリといえば、真っ先に思い出すのはジョセフィン・テイの『時の娘』。そこで、最近の読書の副産物ですが、ロンドン塔の二王子を巡る昨今の議論など御紹介してみたいと思います。

 御存知ない方のために、この歴史上の謎の概略を御紹介しておきます。
 ランカスター派との戦いに勝利を収め、王位を確立したヨーク家のエドワード四世は、1483年4月に41歳で世を去ります。彼は遺言で、12歳の長男エドワードを後継者に指名し、王子が成年に達するまでの間、弟のグロースター伯リチャードをエドワードの後見人とし、摂政として政治を委ねます。
 リチャードはバッキンガム公ヘンリー・スタッフォードの協力も得て、先王の王妃エリザベス・ウッドヴィルとその一族による権力掌握の企てを未然に防ぎ、エドワード王子を保護下に収めます。王子は、バッキンガム公の提案により、ロンドン塔に移されます。その後、ウェストミンスター寺院の至聖所に他の子供達と共に難を避けていたエリザベス・ウッドヴィルは、リチャードの要請に応じて、もう一人の王子ヨーク公リチャードを引き渡し、リチャード王子もロンドン塔に移されることになります。
 エドワード王子の戴冠式の準備が進められていた1483年6月、バースとウェルズの主教スティリントンは、エドワード四世が、王妃エリザベスと結婚する三年前にエリナー・バトラーという別の女性と婚姻の予約(precontract)をしていたという衝撃的な事実を明らかにします。事実であれば、当時の教会法の下では、婚姻の予約は婚姻と同様の拘束力を持つとされていたため、先王と王妃の婚姻は無効とされ、その間に出来た子供達は庶子となり、王位継承権を失うことになります。
 6月25日、招集された議会は、スティリントンの証言に基づき、エドワード四世の子供達を庶子とし、リチャードを正当な王位継承権者とする議決「王位継承法」(Titulus Regius)を採択し、リチャードは、議会の決定を受け入れて、7月6日にウェストミンスター寺院で戴冠式を行い、リチャード三世となります。その二週間後、リチャードは王妃アンと共に即位後の巡幸に出発しますが、その最中にバッキンガム公の反乱が起こり、また、ロンドン塔に居住していたエドワードとリチャードの二王子が殺されたという噂が生じます。バッキンガムの反乱は鎮圧されますが、その後、二王子は歴史の表舞台から消えてしまいます。
 1485年8月、ランカスター家の祖ジョン・オブ・ゴーントの庶流の子孫、ヘンリー・チューダーは、大陸からイングランドに侵攻し、ボスワースの戦いで勝利を収め、リチャード三世は戦死します。ヘンリー七世として権力を掌握した彼は、「王位継承法」を破棄させ、エドワード四世の長女エリザベス・オブ・ヨークをヨーク家の嫡出子として王妃に迎えます。(現在の英王室は、ヘンリーとエリザベスの娘であり、ジェームズ一世の曾祖母であるマーガレット・チューダーを通じて、ヘンリー七世の子孫ということになります。)
 ロンドン塔の二王子がどうなったのかについては、同時代の記録も不確かな噂や伝聞を記しているのみです。『クロイランド年代記』は、「先王エドワードの息子達が殺害されたという噂が生じたが、どのようにして殺されたのかは不確かだった」とし、マンシーニの報告書も「エドワード王子が本当に殺されたのか、またどんな死に方をしたのかは、これまでのところ、私も全く知らない」としています。また、二王子殺害の詳細な経緯を報告している、後のトマス・モアでさえ、「彼らの死と非業の最期は、これまでも疑問視されてきており、彼らがリチャードの時代に殺されたのか否か、なお疑う者がいる」と言及しています。
 それでは、まずこの歴史上の謎を論じた研究書から御紹介してみたいと思います。

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『時の娘』再考 研究書紹介

書簡や会計記録などの同時代の資料や文献は、研究の基本となるものであり、出版されているものも一部ありますが、こうした原資料については随時言及することとし、それらに基づいてリチャード三世の評価やロンドン塔の二王子の運命などを論じた、古今の代表的な歴史書、研究書などをまずは御紹介してみたいと思います。

トマス・モア“The History of Richard the Third”
 英語とラテン語の二つの未完成稿があり、いずれもモアの死後に出版。手書き原稿に基づく英語版(1557年)を出版した甥のラステルによれば、執筆年はモアが35歳の時の1513年(ラテン語版は1566年に出版)。
 二王子殺害の詳細な経緯を記した最初の記録であり、モアによる暴君リチャードの描写は、大法官、人文主義者、殉教した聖人というモアの権威もあり、シェークスピア作品をはじめ後世の歴史書や文学などに大きな影響を与えました。
 なお、ジョージ・バック、クレメンツ・マーカムのように、本書の真の著者はモアではなく、モアが少年時代に一時期同居していたカンタベリー大司教ジョン・モートンであるとの説もありますが、今日では、モートンが主要な情報提供者だったとしても、著者はモア自身とする説が一般的です。
 テキストは、ポール・マーレイ・ケンダル編“Richard the Third : The Great Debate”に下記ウォルポールの著作とともに収録されています。

ジョージ・バック“The History of King Richard the Third”(1619年)
 5部構成からなる最初の本格的なリチャード擁護論。バックは、ボスワースの戦いでリチャードとともに戦った祖先をもち、自身はジェームズ一世に仕えた廷臣でした。
 バックは生前に本書を完成できず、1646年に同名の甥の息子が手を加えて出版したテキストは、オリジナル原稿を不正確に縮約したものと批判されてきましたが、1979年に、現存するオリジナル原稿に基づいた校訂版が出版されました。
 リチャードとの結婚の希望を示唆したエリザベス・オブ・ヨーク(二王子の姉で、後にヘンリー七世の王妃)の書簡やリチャードの庶子ジョン・オブ・グロースターの末路など、現存していない資料の引用や情報も豊富に含んでおり、当時は未出版だった『クロイランド年代記』(リンカーンシャー所在のベネディクト派のクロイランド修道院で書かれた同時代の記録)の原稿を最初に参照した研究書としても知られています。

ホーラス・ウォルポール“Historic Doubts on the Life and Reign of King Richard the Third”(1768年)
 英国の初代首相ロバート・ウォルポールの子息で、ゴシック・ホラー小説『オトラント城』の作者。
当初は、伝統的なリチャード像を支持していたウォルポールは、バックの著作に触れて見解を改め、本書において、モアの記述の不正確さや矛盾を突き、啓蒙主義思想の観点から、リチャードに帰せられてきた悪行の数々が人間の行為として不自然でありすぎることなどを指摘して、リチャードを擁護しています。
 本書は当時のベストセラーとなり、有識者の間で議論を引き起こし、哲学者デイヴィッド・ヒュームから反論を受けたり、また、捕囚の身にあったルイ十六世により仏訳されたりもしました。ウォルポールは専門の学者ではなかったため、資料検証が十分ではなく、伝統的な見解の内在的な矛盾を指摘する議論に傾きがちとの批判もあります。

キャロライン・ハルステッド“Richard the Third”(1844年)
 2巻からなる、千頁を越える浩瀚なリチャードの伝記。リチャード時代の王室記録、議事録、年代記の他、同時代の書簡や地方の記録など、下記ガードナーやケンダルの著作と比しても、より広範な資料を参照しており、これまでに出版された最も詳細なリチャードの伝記とされています。下記マーカムも「これまでで最も完全で、最も価値ある」伝記と評価しています。
 リチャードを高潔な君主として描いた彼女の伝記に対しては、ケンダルのように、ヴィクトリア朝風のロマンチックな傾向を指摘する批判もあります。

ジェームズ・ガードナー“History of the Life and Reign of Richard the Third”(1878年)
 著者は15世紀の研究に関する当時の権威。同時代の資料に基づいて伝統的見解を修正しつつも、同時代資料が語らない部分は、モアやヴァージルなどのチューダー朝時代の歴史家を信頼する傾向が強く、下記のマーカムから厳しい批判を浴びました。
 マーカムは、1891年に“English Historical Review”誌上で、ヘンリー七世犯人説を提唱し、これにガ―ドナーが反論して論争へと発展します。ガードナーは、この論争を踏まえて1898年に本書の改訂版を出し、マーカムは、下記著作の最後に本書を批評した章を設けています。

クレメンツ・R・マーカム“Richard the Third: His Life and Character”(1906年)
 マーカムは、本書の前半でリチャードの生涯を叙述し、後半で、会計記録や書簡等の同時代資料を検証しながらリチャードに帰せられてきた悪行の数々を論駁しています。また、バックやウォルポールが二王子の海外脱出説を支持しているのに対し、ヘンリー七世犯人説を新たに提唱している点でも注目されます。
 マーカムの描いたリチャード像は、あまりに聖人君子的であり、反対に、リチャードの敵を全て悪党に描く傾向があるため、チューダー朝時代の歴史観の白黒を反転させた極論だという批判があります。しかし、マーカムの議論は、単なる心情的な偏見の産物ではなく、綿密な資料検証に基づいており、その後も彼の議論に追随する者が少なくありません。バックの上記著作をオリジナル原稿に当たって参照した最初の研究書でもあります。

 以上は、どちらかといえば古典の部類に入る著作と言えます。二十世紀に入ってからも新たな発見・進展がありました。一つは、1933年、二王子のものと推定される遺骨が医学的に調査されたこと、もう一つは、1934年、イタリア人僧侶ドミニク・マンシーニが書いた報告書(1483年12月完成)がフランスのリールで発見されたことです(“The Usurpation of Richard the Third”として英訳あり)。
 マンシーニは、エドワード四世の死の直前からリチャードの即位直後までイングランドに滞在し、その後フランスに戻り、ヴィエンヌの大司教アンジェロ・カトーに報告書を提出しました。同報告書には、ロンドン塔の二王子が、塔の別棟に移されて、日を追う毎に目撃されることが少なくなり、ついに全く姿が見えなくなったこと、二王子に仕えていた医師アルジェンティネの証言として、エドワード王子が死の迫っていることを感じ、日々、懺悔をしていたことなどが報告されています。
 1484年1月、フランスの高官ギヨーム・ド・ロシュフォールがリチャードを二王子殺害で公に非難した事件について、マーカムは、当時フランスに逃げていたジョン・モートンが、その情報提供者であったと推測していますが、今日では、このマンシーニの報告がロシュフォールの情報源であったという説が有力です(ロシュフォールはカトーの知人であり、また、マンシーニがブルゴーニュで報告書を完成させた時、同じ地域に住んでいた)。
 マンシーニは英語が話せなかったこと、また、二王子殺害の噂はマンシーニがイングランドを離れた後に流れたと考えられることなどから、二王子に関するマンシーニの情報は自身の見聞ではなく、後に医師アルジェンティネ(マンシーニが大陸に戻ってから出会った)から得たものではないかとの説もあります。アルジェンティネは、ヘンリー・チューダーの強力な支持者であり、後にヘンリーの王子アーサーの医師として仕えています。

 『時の娘』出版以後の研究書としては、以下のものが独自性のある興味深い研究と言えるでしょう。

ポール・マーレイ・ケンダル“Richard the Third”(1955年)
 著者は、ばら戦争時代の研究者で、他に“Warwick the Kingmaker”、“Louis the Eleventh”等の著作があります。
 ケンダルは、基本的にチューダー朝時代の資料を退け、マンシーニの報告書を含む同時代資料に基づいたリチャード像の再構成を試みており、今日入手可能なものとしては最もスタンダードなリチャードの伝記として定評があります。基本的に修正論に近い立場を採っていますが、マーカムのように極端な聖人君子的描写に傾かないことも好評の一因と言えるでしょう。
 二王子殺害の謎を巡る議論においても、バッキンガム公ヘンリー・スタッフォード犯人説を示唆している点で注目されます。

オードリー・ウィリアムスン“The Mystery of the Princes”(1978年)
 基本的に修正論の立場に立っており、二王子殺害の実行犯とされてきたジェームズ・ティレルの一族に伝わる伝承を掘り起こし、二王子が、リチャードの許可を得て、母親エリザベス・ウッドヴィルとともにティレル家の領地で生活していた可能性を示唆するなど、斬新な説を提示しています。
本書は、1978年、英国推理作家協会よりノン・フィクション部門ゴールド・ダガー賞を授与されています。

アリスン・ウィア“The Princes in the Tower”(1992年)
 著者は、“Lancaster and York”、“The Six Wives of Henry the Eighth”、“Children of England”など、ばら戦争からチューダー朝時代にかけての人物像に焦点を当てた著作で最近注目されている作家。
 チャールズ・ロス“Richard the Third”、A・J・ポラード“Richard the Third and the Princes in the Tower”など、伝統的な見解を支持する人は今日も少なくありませんが、本書ほど徹底したリチャード糾弾に貫かれた著作は希有でしょう。リチャードが二王子殺害を命じたと断定しているだけでなく、今日ではほとんど否定されているリチャードの体の奇形でさえ事実であったと示唆するなど、チューダー朝時代の宣伝が復活したかと見紛うほどです。
 議論の多い二王子の遺骨の調査結果を過度に重視し、同時代の資料より、モアやヴァージルのようなチューダー朝時代の著作を過信しがちな彼女の議論は、下記フィールズからも批判されていますが、ある意味で、モアの権威が今日なお衰えていない一つの証左とも言えるでしょう。

バートラム・フィールズ“Royal Blood”(1998年)
 著者はアメリカの弁護士。フィールズは、リチャード派、反リチャード派双方の申し立てを取り上げ、立証の決め手となる動機や機会などの要素を吟味しつつ、リチャードの有罪を今日の法廷の基準に照らして立件可能かどうか検討しています。試み自体も非常にユニークですが、資料の解釈についても独自の洞察を随所で示しています。
 フィールズは、どちらの立場にも与しない審判者の姿勢を維持していますが、ウィアに対する批判が随所に見られるなど、全体のトーンとしては修正論に近いと言えるでしょう。

 次は、二王子の謎に関する主要な説と、それを巡る議論を御紹介してみたいと思います。



マンシーニ
マンシーニの報告書の英訳版

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『時の娘』再考 リチャード三世犯人説

 最も一般的で伝統的な見解。トマス・モア、ポリドア・ヴァージルなどチューダー朝以降の代表的な歴史書は勿論のこと、アリスン・ウィアをはじめ、今日でも支持する者は少なくありません。
 同時代の資料としては、クロイランド年代記、マンシーニの報告書などが二王子殺害の噂や伝聞を記録していますが、いずれも噂や伝聞の域を越えないものであり、詳細な出来事の推移を記録したのは、トマス・モアの“History of Richard the Third”が最初ということになるでしょう。モアによれば、1502年、ジェームズ・ティレルとジョン・ダイトンの二人が反逆罪で逮捕され、二人はその際、二王子殺害の真相を告白し、その内容は以下のようなものだったとされています。

 リチャードは、即位後の巡幸(1483年7月に出発)でグロースターに滞在中、二王子殺害を決断し、信任の厚いジョン・グリーンに二王子を殺すよう指示した手紙と信任状を持たせてロンドン塔の長官サー・ロバート・ブラッケンベリーのもとに派遣しますが、ブラッケンベリーが指示を拒否したため、失敗に終わります。
 リチャードは、今度は、ある従者から紹介されたジェームズ・ティレルという人物に、塔の全ての鍵をティレルに渡すよう指示した手紙を持たせてブラッケンベリーのもとに派遣し、二王子殺害を委ねます。ティレルは首尾よく鍵を手に入れ、ブラック・ウィル、又の名をウィリアム・スローター(スレイター)という人物一人を除いて、他の付添人全てを二王子から遠ざけます。ティレルの指示により、看守の一人マイルズ・フォレストと、ティレルの下僕ジョン・ダイトンが深夜に二王子の部屋に入り、寝ている二人を布団で窒息させて殺害します。
 殺害後、ティレルらは、遺体を階段の下の地下深くに埋め、ティレルは、ウォリック滞在中のリチャードに経緯を報告します。しかし、リチャードは、彼らが国王の子であることを理由に、もっとましな場所に埋葬するよう指示し、ある僧侶が別の場所に秘密裏に改葬しますが、その後、僧侶が死んでしまったため、埋葬場所は不明となってしまいます。

 現代の伝統支持派の中でも、アリスン・ウィアは、モアのこの記述を基本的に受入れ、同時代の衣装管理記録に、ティレルが、1483年9月8日に行われる皇太子叙任式用の衣装と壁掛けを取りに行くため、ヨークからロンドンまで馬で移動している記録があることを指摘しています。ウィアは、二王子殺害はその際に行われたとし、この日付から起算して、ティレルが二王子を殺害したのは、リチャードがウォリックに滞在していた8月半ばではなく9月3日であり、ティレルがリチャードに報告した場所も、ウォリックではなくヨークだとして、若干の修正を行っています。
 これに対しては、ティレルは、あくまで衣装等を取りに行っただけであり、こうした記録の方がティレルを二王子殺害の犯人とする噂の源泉になった可能性があるという反論もあります。

 ジョージ・バックは、リチャードには庶子の宣告を受けた二王子を恐れる理由がなかったこと、リチャードが、甥のウォリック伯エドワードを、自分より優先する王位継承権を有するにもかかわらず厚遇したこと、二王子の母親エリザベス・ウッドヴィルが、フランスに逃げていた息子ドーセット公爵(二王子の異父兄)に、リチャードに臣従すれば厚遇されるからイングランドに戻れと勧める手紙を送っていること、彼女も二王子の姉エリザベス・オブ・ヨークも、最後までリチャードと親しい関係を維持し続けており、子供や弟を殺された者がそんな態度をとるはずがないことなどを挙げ、リチャードの無罪を主張しています。同様の議論は後のマーカムなども引き継いでいます。
 同時期以降にも二王子が生存していた証拠として、マーカムは、1485年3月9日付のロンドン塔の会計記録に、‘the Lord Bastard’(爵位を持つ庶子)に対し、豪奢な衣類を供与するよう指示した記録があることを指摘します。リチャードの庶子ジョンは、爵位を有していないため‘Lord’と称される資格はなく、他の会計記録でも単に国王の庶子と記されていることから、ここで言及されているのはジョンではないとし、他方、エドワード王子は、エドワード四世の庶子であるだけでなく、庶子の宣告を受けた後も、なおマーチ及びペンブロークの伯爵位を有していることから、庶子にして爵位を有するのはエドワード王子のみであるとし、上記会計記録は、エドワード王子に言及したものであり、ボスワースの戦い(1485年8月)でリチャードが戦死する4ヶ月前になお、エドワード王子が生存し、厚遇されていた証拠だ、とマーカムは論じています。
 これに対しては、リチャードの庶子ジョンは、厳密には‘Lord’と称される資格はないが、国王の庶子として儀礼的にそう呼ばれたのではないかという反論もあります。ケンダルも、その可能性を指摘していますが、それでも、この記録を「実にミステリアス」だと評しています。
 モアによれば、ティレルは二王子殺害の功績によりナイトに叙されたことになっていますが、マーカムは、ティレルがその12年も前にナイトに叙されており、1482年に対スコットランド戦役でバーウィックを奪取した功績によりKnight Banneretに叙されているが、二王子を殺害したとされる時期以後に叙勲等を受けている記録はないことも指摘しています。

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『時の娘』再考 ヘンリー七世犯人説

 クレメンツ・マーカムによる説。
 ウォルポールも、「リチャードではなく、おそらくヘンリーが、ウォリック伯同様、本物のヨーク公を亡き者にしたのである。エドワード五世が殺されたのかどうかは不確かだし、たとえそうだとしても、誰の命令で殺されたのか不確かだ」とヘンリーが犯人である可能性を示唆していました。
 マーカムは、二王子はリチャードの時代には厚遇され、北方のシェリフ・ハットン城でウォリック伯エドワード(リチャードの兄クラレンス公ジョージの息子)とともに生活し、ヘンリー・チューダーによる侵略の危機が迫った時にロンドン塔に戻されただけであり、実際は、ヘンリーの権力掌握後、彼の命令により殺害されたという説を提示しています。
 ヘンリーは、権力掌握後、エドワード四世とエリザベス・ウッドヴィルとの婚姻が無効であり、その間に出来た子供達が庶子であることを宣言した議会の議決を覆し、エリザベス・オブ・ヨークをエドワード四世の嫡出子として王妃に迎えますが、この措置により、二王子の王位継承権を回復してしまうことにもなり、それがヘンリーの二王子殺害の動機だったとマーカムは考えます。
 マーカムは、モアが伝えているティレルとダイトンの「告白」に注目します。まず、ティレルは処刑されていますが(但し、二王子殺害とは全く関係のない罪で)、もう一人のジョン・ダイトンは、他の記録によれば、ティレル処刑後もカレーで自由な生活を送っており、また、ティレルにはジョン・ダイトンという名の下僕はいなかったことも明らかにします。
 さらに、マイルズ・フォレストという人物は、ロンドン塔から244マイルも離れたバーナード城の衣装管理係であり、そこで妻と息子とともに暮らし、1484年9月に死去しており、これに伴い、家族が年金を受けていることを突き止めます。こうして、マーカムは、フォレストがロンドンから遠く離れた城の官吏にすぎず、ロンドン塔の看守ではなかったことを明らかにします。
 こうした情報の不正確さから、マーカムは、「告白」の内容は実際に起きた悲劇の輪郭を伝えているとしても、リチャードに二王子殺害の罪を被せるために、ヘンリー七世自身が出来事の根幹を歪曲して公表したものであり、実際は、ティレル、グリーン、ダイトン、スレイターという人物達は、ヘンリー自身の共犯者であったと推測しています(フォレストの名前がなぜ紛れ込んだのかは不明としている)。

 ヘンリー七世時代の記録によれば、ジョン・グリーンという人物は、1486年3月11日にヘンリーからハートフォードシャーにある荘園の三分の一を与えられています。
 ティレルは、ヘンリーの権力掌握後、暫くは冷や飯を食いますが、1486年に国王側近のナイトの一人となり、6月16日に大赦を受け、わずか一ヶ月後の7月16日に再び大赦を受けており、その直後にカレーにある城の城主に任命されています。その後も大使などの要職を務めますが、1502年、リチャードの甥サフォーク伯の逃亡を助けた嫌疑でカレーの城からロンドンに連行され、ロンドン塔で処刑されています。
 ジョン・ダイトンは、1487年5月にリンカーンシャーでの名目だけの牧師職による収入を得、カレーに居所を与えられており、告発されることも処罰されることもなく、カレーで世を去っています。
 また、ウィリアム・スレイターという人物が、1488年のイースターに「報償」という名目でヘンリーから多額の金を受け取っている記録も残っています。
 つまり、「告白」で二王子殺害の共犯として言及されている人物のほとんどは、ヘンリーの治世下で手厚い報償を受けており、ティレルを除けば、誰も処罰されていないことになります。

 マーカムは、こうして実際に起きた悲劇を再構成していきます。
 ヘンリー七世は、1486年3月に即位後の巡幸に出発します。マーカムは、同月11日にグリーンが得た荘園の一部は、いわば、任務遂行後に満額を受け取る手付金であったと考えます。ヘンリーは、6月にロンドンに戻り、グリーンが任務に失敗したことを知り、こうしてティレルが選ばれることになります。マーカムは、ティレルがわずか一月の間に二度の大赦を受けている事実から、二王子殺害は1486年6月16日と7月16日の間に行われたと判断します。
 また、ジョン・ダイトンという名の僧侶が実在していたことから、「告白」のダイトンは、ティレルの下僕ではなく、おそらくロンドン塔の司祭で、事後従犯的に遺体の埋葬に関与した人物であり、実際に手を下したと思われるウィリアム・スレイターは、ロンドン塔の看守であろうとマーカムは推測しています(スレイターは、記録の通り、暫くは口止料を受け取っていたが、その後の記録には現れないことから、彼も消されたのでは、というのがマーカムの推測)。
 さらに、1674年にホワイト・タワーの階段の下から実際に遺骨が発見された事実から、匿名の僧侶による改葬のエピソードは、遺体の発見を妨げるためにヘンリー自身が追加した創作だとしています。マーカムは、ティレルやダイトンが報償を受けつつも、いずれも海峡の向こう側に住むことを強いられたのは、ヘンリー自身の深慮によるものだったとも推測しています。
 二王子の母親エリザベス・ウッドヴィルは、1487年2月、リチャードの命に従ったことを理由に、全財産を没収され、バーモンドシーの修道院に押し込められます。しかし、エリザベスがリチャードと親しい関係を維持していた事実は当初から分かっていたことであり、ヘンリー七世の御用歴史家だったポリドア・ヴァージルでさえ、この決定は「大いに不審を抱かれた」と述べており、後のガードナーも「非常に不可解な決定」と評しています。
 マーカムは、この歴史の謎について、エリザベス・ウッドヴィルが、1486年9月、娘エリザベス・オブ・ヨークの王子出産の際、娘とともにウィンチェスターに滞在しており、その後ロンドンに戻っている事実に注目します。ヘンリーは、ロンドンに戻った母親がいずれ二王子の消息を不審に思い始めるのを恐れ、彼女を修道院に押し込めて沈黙させた、というのがマーカムの解釈です。

 ティレルが受けた二度の大赦から、二王子殺害の時期を推定するマーカムの議論に対しては、ポラードのように「あまりに思弁的」という批判があり、二度の大赦を受けるのも決して例外的なことではなかったという反論もあります。
 また、エリザベス・ウッドヴィルの処遇については、彼女が当時起きたランバート・シムネルの反乱(ウォリック伯を詐称したシムネルをヨーク家のリンカーン伯らが担ぎ上げて起こした反乱)を密かに支援したことへの懲罰だという解釈もあります。

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