アントニイ・バークリー “The Roger Sheringham Stories”

 まさか出ないだろうと思っていた『パニック・パーティ』まで翻訳が出て、ロジャー・シェリンガムのシリーズは全長編が紹介された。
 数年前に原書で読んだが、絶海の孤島に置き去りにされ、招待者が殺されるという期待をそそる設定にもかかわらず、限られた空間の中でメンバー達が試行錯誤を続けたり、異常行動に走るという単発的な出来事を繰り返しているだけで、必然的なストーリー展開に欠け、退屈で仕方なかった印象がある。
 とはいえ、クリスティの『そして誰もいなくなった』や、(下記“The Avenging Chance and Other Mysteries”の序文でトニー・メダワーらが指摘しているように)ウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』を先取りしたような設定は確かに効果的で、これらの傑作と比較しては気の毒だが、要は、推理小説としてのルールにこだわらず、シェリンガムを使って冒険小説的な試みをしてみたかった作者の遊び心を買ってもいいのでは、と今は思っている。とはいえ、これがシェリンガム最後の作品かと言われるとちょっとさみしい。
 全体としては、どんでん返しや面白いアイデアが豊富で、実験精神に溢れたシリーズだったし、シェリンガムというアンチ・ヒーロー的「迷」探偵の創造もユニークで印象に残る存在だったのではないかと思う。
 そのロジャー・シェリンガムが登場する短編や脚本を収録しているのが、95部限定で出版された“The Roger Sheringham Stories”(1994)。これには、編者エアサム・ジョンズの序文に続けて、以下の作品が収録されている。

 Temporary Insanity
 The Avenging Chance    邦訳「偶然の審判」(『世界短編傑作集3』創元社)
 Direct Evidence
 Double Bluff
 Perfect Alibi          邦訳「完璧なアリバイ」(ミステリマガジン93年4月号)
 White Butterfly         邦訳「白い蝶」(EQ83年5月号)
 The Wrong Jar         邦訳「瓶ちがい」(『名探偵登場3』早川書房)
 Razor-Edge           邦訳「のるかそるか」(EQ94年1月号)
 Red Anemones
 ‘Mr. Bearstow Says…’   邦訳「ブルームズベリで会った女」(ミステリマガジン82年1月号)

 なお、エアサム・ジョンズの序文には、‘The Body’s Upstairs’という短いパロディ作品と、‘Seaside Story’というシェリンガムの登場を想定していたと思われる長編の簡単なシノプシスとメモが含まれている。
 「偶然の審判」は、雑誌掲載時の編集による短縮版が(邦訳も含め)一般に流布しているバージョンだが、同短編集にはオリジナルの長いバージョンが収録されている。
 上記のうち、「偶然の審判」、‘Double Bluff’、「完璧なアリバイ」、「白い蝶」、「瓶ちがい」、「ブルームズベリで会った女」、‘The Body's Upstairs’は、クリッペン&ランドリュ社の“The Avenging Chance and Other Mysteries from Roger Sheringham’s Casebook”(2004)にも再録されている。
 同書には、さらに、2000年に新たに発見された‘The Mystery of Horne’s Copse’という中編と、モーズビー主任警部がシェリンガム抜きで活躍する短編‘Unsound Mind’(邦訳「不健全な死体」ミステリマガジン06年3月号)も収録されている。
 両短編集により、未完の断片を別にすれば、シェリンガム物の短編がほぼ網羅されているとみていい。
 クリッペン&ランドリュの短編集が、‘Temporary Insanity’、‘Direct Evidence’、「のるかそるか」、‘Red Anemones’を省いているのは、主に重複を避けるためのようだ。
 ‘Temporary Insanity’は、長編『レイトン・コートの謎』を基にした劇用脚本。これを省いた理由はよく分からない。
 ‘Double Bluff’は、‘Direct Evidence’とほぼ同じ設定で物語が展開するが、結末が大きく異なり、後者のプロットをさらにひとひねりした改稿版と考えられる。
 ‘Red Anemones’、「のるかそるか」、「ブルームズベリで会った女」の三篇は全体の大枠がほぼ共通し、相関関係にあるとみられる。クリッペン&ランドリュの巻末のチェックリストによれば、最初に書かれたのが短編「のるかそるか」で、これを元にラジオ用脚本‘Red Anemones’が作られ(1940年6月にBBCラジオで放送)、最後に短編「ブルームズベリで会った女」が書かれたらしい。
 このため、クリッペン&ランドリュはそれぞれの最終バージョンを採用したわけである。
 クリッペン&ランドリュの取捨選択の方針はそれなりに理解できるが、バークリーの構想の発展プロセスを知るというだけでなく、それぞれのプロットの違いを楽しむことができるという意味でも、異版を省いてしまったのは惜しい。
 特に、‘Double Bluff’と‘Direct Evidence’のプロットの違いは、前者がどんでん返しを好んだバークリーらしい改稿になっているとはいえ、よりすっきりした後者のプロットをよしとする向きもあるのではないかと思う。
 なお、私の所持している“The Roger Sheringham Stories”は、95部の正規版ではなく、その校正刷として5部だけ印刷されたものの1部。この校正刷には、‘The Man Who Could Hear’という、正規版に含まれていない非シェリンガム物の短編が最後に収録されている。編者によれば、この短編を収録する許可が得られなかったので、非売品の校正刷のほうに収録したとのこと。
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テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

アントニイ・バークリーによる犯罪実話

 ミステリ作家が現実の未解決事件に挑んだ例は意外と多い。テイの『時の娘』、カーの『エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件』のような歴史上の謎に挑んだ作品もそうだが、ロードの『電話の声』のように、近代に入ってからの事件を取り上げた例もある。実際の事件からインスピレーションを得た作品ということなら、ポーの「マリー・ロジェの謎」を嚆矢として、ヴァン・ダインの『ベンスン殺人事件』やバークリーの『ウィッチフォード毒殺事件』など、すぐに思いつくものだけでも幾つもある。
 特にバークリーの犯罪実話に対する関心は高く、この点については、邦訳『ジャンピング・ジェニイ』の巻末解説や訳者あとがきでも論じられているが、そこで挙げられている著作リストを確認しても、この記事で取り上げる犯罪実話は載っていないので、敢えて改めてご紹介しておきたいと思う(邦訳『第二の銃声』巻末のリストには出典抜きで載っている)。
 バークリーによる犯罪実話には、以前の記事で紹介した“The Anatomy of Murder”(1936)収録の‘The Rattenbury Case’がある。“The Anatomy of Murder”
 このほかに、“Great Unsolved Crimes”(1935)に収録された、‘Was Crippen a Murderer?’(フランシス・アイルズ名義)と‘Who Killed Madame “X”?’(アントニイ・バークリー名義)がある。この犯罪実話のアンソロジーに(名前を使い分けているとはいえ)一人で二編寄せているのはバークリー(アイルズ)だけで、そこからもバークリーの犯罪実話に対する関心の高さが窺い知れると言えるかもしれない。

 アイルズ名義の‘Was Crippen a Murderer?’では、英国史上最も著名な殺人事件の一つ、1910年に起きたホーレイ・ハーヴェイ・クリッペン医師の事件を取り上げている。クリッペンは、妻コーラを毒殺して死体を切断し、自宅地下室の床に埋めたとされる。愛人のエセル・ル・ネーヴと逃走し、カナダ行きの汽船「モントローズ号」に乗り込むが、船長が二人の正体に気づき、当時導入されて間もない無線を使って通報。クリッペンは、(ラヴゼイの『偽のデュー警部』でも知られる)ウォルター・デュー警部に逮捕され、有罪判決を受け、絞首刑に処せられた。
 アイルズは、クリッペンが温和で優しく、思いやりのある人物だったという圧倒的な証拠があるとし、48年にわたってそんな性格だった人物が、いきなり残忍な殺人犯に豹変するはずがないと論じている。
 アイルズは、nemo fuit repente turpissimus(突然にして悪人になった者はいない)というユウェナリスの言葉を引用し、その心理学上の事実は二千年にわたって認められてきたものであり、彼の性格こそは無実を示す反駁し得ない事実だとみなしている。
 そこから、アイルズは、毒殺に用いられたとされるヒヨスチンは、クリッペンが愛人と過ごしやすいように、そのあいだ妻を眠らせておく睡眠薬として用いたものであり、分量を誤って死に至らしめてしまっただけだという、エドワード・マーシャル・ホール卿の説を支持している。
 ただ、この説はよく知られていて支持する者も多く、アイルズの議論自体はさほど独創的なものではない。さらに、井上勇訳編『浴槽の花嫁 著名犯罪集』(創元社刊)でも言及されているように、当時のクリッペン夫妻が別々の部屋で寝ていたこと、事件では適当量をはるかに超えるヒヨスチンが使われていたことから、この説は合理性に欠けるという反論があることも触れておきたい。
 なお、近年になって、DNA鑑定の結果から、コーラのものとされた死体が全く別人の男性の死体と判明したという報道もなされたが、仮にそれが事実としても、死体の身元も不明なら、コーラも行方不明のままとなるため、事件の全容が解明されたことにはならないようだ。

 バークリー名義の‘Who Killed Madame “X”?’では、1929年に起きた、「マダムX」こと、ケイト・ジャクスン夫人の殺害事件を取り上げている。
 ジャクスン夫人は、隣人のディミック夫人と映画を観に行くが、帰宅直後に、ジャクスン家のほうから叫び声を聞いたディミック夫人が駆けつけると、自宅バンガローの裏口の外にジャクスン夫人が頭を殴られて倒れていて、夫のトーマス・ジャクスンが妻の体にかがみ込んでいる現場に出くわす。
 トーマスはディミック夫人に手伝ってもらいながら妻を屋内に運び込む。しばらくすると、ジャクスン夫人はある程度回復し、自分の足で居間に行くこともできたが、夜中になってトーマスは医師を呼ぶ。医師はすぐに夫人を入院させるが、夫人は意識朦朧としたまま六日後に死亡。
 警察は夫のトーマスを逮捕するが、有罪の論拠はいずれも薄弱であり、判事はトーマスの有罪を強く示唆するものの、陪審員団は無罪を答申し、事件は迷宮入りする。
 ジャクスン夫人は、浪費癖のある女性だったが、その収入源ははっきりせず、新聞雑誌などの文筆業で稼いでいると称していたものの、夫はその言葉を信じるままで、実は妻の出自や素性すらよく知らなかった。
 ジャクスン夫人は、実は「マダムX」の名で知られる恐喝犯であり、数年前に、組合基金横領の罪で告発された男の公判で、男から多額の金を巻き上げていたことが明らかになったが、警察は彼女からの補償を期待して実名を公表しなかった。
 バークリーは、この事件は多くの点で推理小説と似ているとして、小説の探偵ならどんなふうに捜査を進めるかという視点から、事件の再構成を試みていく。バークリーは、夫人による恐喝の被害者ないしその友人が現場で待ち伏せて襲った犯行と推理し、殺人は正当化できないが、「マダムX」事件が迷宮入りするのは必ずしも残念なことではないと示唆して議論を結んでいる。

 穿った見方かもしれないが、アイルズ名義のエッセイでは心理学を重視する論を展開し、バークリー名義のほうでは推理小説的な再構成を試みるところに、この二つの筆名の差異を意識したことが窺えるように思える。
 もちろん、バークリーは、『第二の銃声』で心理描写を重視した犯罪小説の意義を宣言したり、『試行錯誤』でそうした課題を実践しているように、必ずしも二つの筆名の作品のタイプを厳密に峻別しているわけではない。しかし、バークリー名義の作品にはシェリンガム物を中心とした本格作品が多く、アイルズ名義の作品では『殺意』や『レディに捧げる殺人物語』のような犯罪小説が際立っているのも事実だ。
 案外、バークリーは、一つのアンソロジーに二編寄稿するにあたり、二つの筆名を用いて、それぞれの持ち味を生かした議論を展開し、自分の多面的才を楽しんでいたようにも感じられる。諧謔とユーモアに満ちた作品を数多くものしたバークリーらしい茶目っ気の表れだったのかもしれない。
 なお、‘Was Crippen a Murderer?’にはクリッペン夫妻の写真、‘Who Killed Madame “X”?’には、ジャクスン家のバンガローの写真が挿入されている。

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シェリンガムものの新発見ショート・ショート

 クリッペン&ランドリュが、ホームページを復旧させたというお知らせとともに、新刊情報を伝えてきた。
 アントニイ・バークリーの“The Avenging Chance (enlarged edition)”、フィリス・ベントリーの“Chain of Witnesses: The Cases of Miss Phipps”、シャーロット・アームストロングの“Night Call and Other Stories of Suspense”の三冊だ。
 そのうち、バークリーの短編集は既刊だが、今回の増補新版にはトニー・メダウォーが発見したロジャー・シェリンガムもののショート・ショート “The Bargee’s Holiday”が新たに収録されているとのこと。 バークリー・ファンにとっては耳寄りな情報である。

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