ダシール・ハメット もうひとつの『影なき男』

 今年はハメット没後50周年ということで、今月号の「ミステリマガジン」で特集を組んでいるようだ(実はまだ手に入れていないので未見)。
 『影なき男』のニック&ノラ・チャールズ夫妻は、今日ではコンチネンタル・オプやサム・スペードほどの人気はないが、かつては、ウィリアム・パウエルとマーナ・ロイ主演の映画が大当たりし、シリーズ化されたことはよく知られている。
 映画1作目「影なき男」は、ハメットの小説を原作にしたものだが、2作目に当たる「続・影なき男」(After The Thin Man)もハメット自身のオリジナル脚本に基づくものであり、木村二郎氏の懇切丁寧な解説と翻訳で「ミステリマガジン」87年4、5月号に紹介されている。
 この『続・影なき男』は、ニューヨーク発の列車がサン・フランシスコ駅に入る場面、チャールズ夫妻が前作の『影なき男』事件を解決して戻ってきたところから始まり、まさに時系列的につながっていることを示している。夫妻が邸宅に戻って大晦日兼歓迎パーティーが開かれているところに、いきなり玄関のほうから銃声が聞こえ、二人が向かうと男の死体が・・・という冒頭からテンポの速いストーリー展開で、再びニックとノラの歯切れのいい会話や活躍を楽しむことができる。
 実は、ハメットは、現在の『影なき男』(1934)よりも前、1930年に同タイトルの長編執筆を試みたことがあった。ハメットは、65頁、第10章の途中までタイプしたが、出版社との合意により『ガラスの鍵』の出版を延期することになったため、執筆をそこで中断して1年間ハリウッドに行くことになった。結局、2年間の中断を経たために、ハメットは元の作業に戻るよりも、基本的なプロットのアイデアだけ残して新たに書き始めるほうがいいと判断して書いたのが、現在の『影なき男』である。
 このため、未完のまま残されたオリジナル版は、今の『影なき男』の単なる初稿ではなく、その展開は大きく異なっている。共通しているのは、行方不明の「影なき男」がワイナントという名で、捜査側にギルドという名の人物がいることぐらい。舞台はニューヨークではなくサン・フランシスコ。主人公は、(警部補ではなく)サン・フランシスコの探偵社に属するジョン・ギルドである。もちろん、ニックとノラは登場しない。
 ハメット自身も証言しているが、実はこの『影なき男』オリジナル版の素材の幾つかは、『続・影なき男』の中で用いられ、サン・フランシスコのチャイナタウンを舞台にした場面などに共通したところがある。
 このオリジナル版は、サン・フランシスコのシティ誌75年11月4日号に初掲載され、のちにクノップ社から出た短編集“Nightmare Town and Other Stories”(1999)に、‘The First Thin Man’というタイトルで収録された。
 初公表されたシティ誌では、「ハメットのサン・フランシスコ」という特集を組んでいて、ほかにも、‘Secret Agent X-9’という、ハメットの珍しいコミック・ストリップの一部、‘Sam Spade’s Frisco’という、ハメットとその主人公達ゆかりの場所の写真入り解説、ジョー・ゴアズのエッセイ‘A Foggy Night’などを盛り込んだ面白い構成となっている。

シティ誌表紙
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ダシール・ハメット“Return of the Thin Man”

 ニックとノラのチャールズ夫妻が登場する長編『影なき男』は、ハリウッドで映画化されて大当たりをとり、1935年にハメット自身の手で第二作目‘After the Thin Man’の脚本が書かれた(36年に公開。邦題は「夕陽特急」)。「ミステリマガジン」1987年4、5月号に連載された『続・影なき男』がそれである。
 翻訳者の木村二郎氏が執筆している解説によれば、1938年に書かれた第3作目‘Another Thin Man’の脚本もハメット自身の手になるものであり(39年公開。邦題は「第三の影」)、さらに、ボツになった四作目の短い原案もあったとされている。実際に映画化された四作目以降の作品には、ハメット自身はタッチしていないようだ。
 2012年に米ミステリアス・プレスから出たリチャード・レイマン、ジュリー・M・リヴェット編“Return of the Thin Man”は、上記二本の映画脚本と幻に終わった四作目の原案“Sequel to the Thin Man”を収録した単行本である(編者の一人リヴェットはハメットの孫娘)。
 レイマンによる序文では、ハメットが長編『影なき男』の成功と映画化を経て、シリーズ化に伴ってハリウッドで脚本活動に携わった経緯を解説しており、リヴェットが‘After the Thin Man’と‘Another Thin Man’にそれぞれ頭書きとあとがき、“Sequel to the Thin Man”には頭書きを寄せて、各作品を解題している。
 ‘After the Thin Man’のあとがきによれば、ハメットの脚本にはないが、実際の映画では、ラスト・シーンでノラが赤ちゃん用のソックスを編んでいて、おめでたを暗示して終わる。これは最終的に脚本に手を入れたハケットとグッドリッチのアイデアで、この脚本家夫妻は、ハメットとの関係にも作中のチャールズ夫妻にもうんざりしていて、こうしてシリーズそのものを終結させるつもりだったらしい。
 この二作目の成功によって彼らの思惑は外れることになるが、ノラ妊娠の着想は生かされ、‘Another Thin Man’にはニック・ジュニアが登場することになる。子煩悩ぶりを垣間見せるチャールズ夫妻は、あとがきにも書かれているとおり、いやおうなしに性格が丸くなってしまった感があるが、はじけるような会話は依然として健在だ。
 プロットは、コンチネンタル・オプ物の「フェアウェルの殺人」を下敷きにしているが、骨子部分を借用しているだけで、全編にわたって、いかにもチャールズ夫妻らしい軽快で活き活きした会話や、登場人物同士の丁々発止のやりとりが満ち溢れているし、雰囲気はもちろん、犯人の設定や大団円もオリジナルの短編とは大きく異なっている。一歳のニック・ジュニアも、さほど目立つわけではないが、それなりに出番があるし、なにより愛犬のアスタにちょっとした大事な役割が振られているのも一つの見どころだ。
 最後の“Sequel to the Thin Man”は、木村二郎氏の上記解説にも触れられているとおり、『影なき男』の続編というべき内容を持つもので、ドロシー、ギルバート、ミミ、クリス、マコーレイ、モレリ、ギルドといったおなじみの登場人物たちが再登場する。『影なき男』で捕まった犯人が脱獄し、有罪の決め手となる証言をしたミミが、犯人に殺されると、ニックに助けを求める電話をかけてくるという発端から、クリスが、泊まっていたホテルの近くで射殺され、クリスをつけていた脱獄犯が逮捕されるという展開になる。
 わずか八枚分の梗概にすぎず、ストーリーの輪郭を知る程度のものだが、これを最後にハメットはチャールズ夫妻のシリーズから手を引き、大ヒットして一人歩きを始めた映画のほうは、‘Shadow of the Thin Man’(1941)、‘The Thin Man Goes Home’(1944)、‘Song of the Thin Man’(1947)と、ハメットが関与しないまま続いていく。
 経緯からすると、これらの脚本は、金のために手を染めた妥協の産物のようでもあり、ハメット自身にとっては不本意なものだったのかもしれないが、『影なき男』を最後に著作から手を引いたかのように見えるハメットが、その後も脚本という形で創作活動を続けていたことを窺い知るだけでなく、『影なき男』以降のニックとノラの健在ぶりを楽しむこともできる貴重な資料ではないかと思う。

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ダシール・ハメット『チューリップ ダシール・ハメット中短編集』

 刊行されたばかりの『チューリップ』を読む。ハメットの未完の遺作である表題作のほか、コンチネンタル・オプものの中短編をはじめ、この本で初めて単行本収録された作品も含まれている。ご自身作家であると同時に、我が国において長年、ハードボイルド小説の紹介に尽力してこられた小鷹信光氏による編訳である。
 ハメット自身を投影したらしき人物が登場し、書けなくなった自分の姿を描写したとも思える表題作も興味深いが、他の中短編も粒ぞろいで実に面白い。「ミステリマガジン」などに掲載されて既読のものも幾つかあるが、「暗闇の黒帽子」のように初めて接する作品もあったし、既読の作品も、簡潔で歯切れのいい、ハードボイルドにふさわしい訳文で改めて読むことができたのはなかなかよかった。そしてなにより、ハメットへのオマージュとハードボイルドに対する情熱がひしひしと伝わってくるような小鷹氏によるあとがきは非常に読み応えがある。長編も含めたハメットの作品リストをきちんと整理してくれたのもありがたかった。
 正直言えば、個人的には、ハードボイルド小説はそんなに好みではない。与えられた手がかりに基づいて合理的な解決を推理してみたい、あるいは作者が仕掛けた独創的な解決の意外性を堪能したいという知的な欲求に訴えるのが推理小説であり、自分が一番読みたいと願っているのはそういう種類の作品だからだ。殺人などの犯罪は我々読者に解くべき謎を提示するための媒体にすぎないのであって、流血や暴力といった煽情的な要素自体に興味があるわけではないし、サスペンス小説や警察小説なども、決して無関心ではないものの、自分にとっては傍流のジャンル。近頃話題のルメートルやオールスンなども異次元ジャンルに属する作家だと思っている。
 だからというので、読まないわけではないし、面白いものは素直に面白いと認めたいとも思う。ハメットやチャンドラーはさすがに面白い。とりわけキャラクターの魅力は無比であり、『マルタの鷹』や『ロング・グッドバイ』には忘れられない場面が幾つもあるし、諳んじることができるほど心に焼きついているセリフもある。こうして久しぶりにハメットの作品を読んで、その魅力に改めて接することができたのは貴重な体験だった。
 ところが、アメリカとは対照的に、我が国ではハードボイルドに関心の高い読者層は必ずしも厚くはないようだ。本書巻末の作品リストを見ても、ハメットには単行本未収録や未訳の作品が幾つもある。例えばカーやクロフツの書誌と比べてみれば、そのコントラストを実感することだろう。自分と同様の認識を持つ読者のほうが多いのだろうと改めて認識してしまった次第である。小鷹氏によるこの訳書も、早川や創元のような版元ではなく、近年いろいろ経緯のあった草思社から刊行されたというのも、なにやら事情がありそうな気もしてしまう。こうした開拓的な紹介がハードボイルドの古典への関心をさらに喚起することにつながればよいが。
 今年の「ミステリマガジン」11月号は小鷹氏による特集号だったが、『チューリップ』のあとがきに記された意味深な言及や「ミステリマガジン」の編集後記に記された近況を読むと、ご本人にもいろいろ大変なご事情があるようだ。これが「最後の仕事」などとおっしゃらずに、残された作品の紹介も含め、まだまだご活躍いただきたいものである。

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ハメット サム・スペード物の未完短編“A Knife Will Cut for Anybody”

 “The Hunter and Other Stories”(2013)は、ハメットの未刊行短編・映画原案を中心に編纂されたもので、編者は“Return of the Thin Man”と同じく、リチャード・レイマン、ジュリー・M・リヴェット。コンチネンタル・オプの登場する作品こそないものの、12の未刊行短編のほか、雑誌に掲載されたままだったり、後年発掘された初収録作品5編、3本の未刊行映画原案を収録しているが、一番注目されるのは、付録として収録されているサム・スペードものの未完短編“A Knife Will Cut for Anybody”だろう。
 スペードの登場する作品は、長編『マルタの鷹』のほか、「スペイドという男」、「二度は死刑にできない」、「赤い灯」(いずれも邦訳は『スペイドという男』〔創元推理文庫〕収録)という三つの短編が知られているが、それ以外に、未完の短編がもう一つあったわけだ。
 解説を書いているリチャード・レイマンは、既刊のスペードもの三篇について、真面目に取り組んだ作品とは言い難く、2編は初期の「ブラック・マスク」に載せた作品のリライトだし、もう一つはひどく中身が乏しいとして、手厳しい評を下している。“A Knife Will Cut for Anybody”は、わずか6頁の未完作品で、アルゼンチンの領事に依頼されてテレサという女性を探していたスペードが、ナイフで惨殺された彼女の死体を部屋で発見するところから始まる。他の作品でもおなじみのダンディ警部補とポルハウス主任刑事も登場している。
 この作品の存在を知ったきっかけは、故小鷹信光氏の編訳書『チューリップ』の巻末作品リスト。できれば、これらの作品も小鷹氏の名訳で接したかったものだ。本当に惜しい方を亡くした。

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