アール・デア・ビガーズ “The House Without a Key”

 “The House Without a Key”(1925)は、ホノルル警察のチャーリー・チャンが登場する第一作。

 ミナーヴァ・ウィンタースリップはボストンに住む五十を過ぎたオールド・ミスだったが、若い頃にいたことのあるホノルルに滞在するうちに帰りかねて、滞在を引き延ばしていた。ホノルルには彼女のいとこ、資産家のダン・ウィンタースリップとその弟エイモスが住んでいたが、兄弟は長年にわたり仲たがいしていて、兄の生き方を嫌うエイモスは三十年以上も兄と言葉を交わしていなかった。
 同じくウィンタースリップ一族に連なるジョン・クィンシーは、ボストンで銀行員を務めていたが、母親に頼まれてホノルルまでミナーヴァ伯母を連れ戻しにやってくる。ある晩、ジョンは、パーティーの席で、宣教師のアプトン師から、ダンがかつて「シャイローの乙女」号のジョン・ブレイド船長のもとで、「ブラックバーディング」と呼ばれる、時には強制連行により黒人労働者を農園に供給する仕事に従事していたことがあり、自分の忠告を受け入れて足を洗ったという過去があることを告げられる。
 その日、ミナーヴァがダンの家に行くと、誰もいないはずの真っ暗なリビング・ルームで腕時計の夜光ダイヤルが光っていて、かすかに動くのに気づき、誰かが潜んでいると知る。相手が悟られたことに気づいていない様子から、彼女は騒ぎ立てずに通り抜け、急いで上階に上がり、使用人たちにリビングを調べさせるが、すでに不審者は姿を消していた。
 ミナーヴァが、いつもダンがいるベランダへ行くと、その隅の簡易ベッドでダンが心臓を刺されてこと切れているのを発見する。犯人はリビングに潜んでいた人物と思われたが、手がかりはミナーヴァが目撃した腕時計の夜光ダイヤルで、それは1時20分をさしていて、しかも数字の2がほとんど消えかかっていた・・・。

 かつて映画で一世を風靡したチャーリー・チャンの初登場作だが、ブルース・F・マーフィー(“The Encyclopedia of Murder and Mystery”)が指摘しているように、肝心のチャンはどちらかと言えば背景に退いていて、むしろ主役を務めるのはジョン・クィンシーのほうだ。もちろん、たどたどしい英語と中国の格言を引用するチャンのキャラクターは本作で確立されているのだが、後続作品や映画のヒットを知らない読者が本作だけ読めば、チャンがシリーズ・キャラクターとして活躍する主役だとは気づかないだろう。
 プロットについては、マーシャ・マラー(“1001 Midnights”)は「退屈(tedious)」、マーフィーは「ひねりが効いている(twisted enough)」と評価が分かれるが、登場人物の造形が弱いという点では評価が一致している。確かに、ウィンタースリップ一族の人間関係を描こうとした作者の意図とは裏腹に、彼らのキャラクターも互いのやりとりや葛藤も月並みな印象を免れず、このため、顔を出す場面は少ないにもかかわらず、チャンの特異な個性のほうが妙に際立つという結果になっている。もしかすると、そんな評判を得たことが、もともと主役に据えるつもりのなかったチャンをシリーズ・キャラクターに格上げすることにつながったのではないかと穿った見方をしたくなるほどだ。
 ストーリー展開も、いかにもハワイらしくのんびりしていて、さまざまな場面の描写からハワイの風俗や雰囲気を楽しめるという面はあるが、ミナーヴァが殺人犯のそばをすり抜ける場面を除くと、これと言って緊張感の高まる場面もなく、盛り上がりに欠けたまま結末に至ってしまう。『チャーリー・チャンの活躍』のような派手な展開を期待すると、肩透かしに終わるだろう。敢えて言えば、シリーズの原点を知るための一作。
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テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

アール・デア・ビガーズ『黒い駱駝』

 いずれ記事を書こうと思っているうちに邦訳が出てしまった(笑)。
 邦訳があるので、詳しいあらすじの紹介は省くが、「オセアニック号」でハワイに立ち寄った女優のシェラー・フェインが、ワイキキビーチに借りた邸でのパーティーの最中に、離れで刺殺されているのが発見される、というストーリー。シェラーはアラン・ジェインズという英国人に求婚されるが、迷いを感じたシェラーは、信頼していた占い師のターネヴェロを呼び寄せて相談していた。ターネヴェロの証言から、事件の背後には、数年前に起きた俳優のデニー・マヨの殺害事件が関わっていることが明らかになってくる。
 シェラーの元夫のロバート・ファイフが、鉄壁のアリバイがあるというのに、自ら殺人の告白をする謎、盗まれた手紙や引き裂かれた写真の謎など、副次的な謎もうまく散りばめられているし、一見自明に思えた解決を覆していく大団円を含め、謎解きとしてもまずまず楽しめる作品といえる。
 ところで、解説を参照するつもりで邦訳を借りたのだが、目を通すうちにいろんな疑問が浮かんできた。原書で読んだものを改めて邦訳で買うことは少ないし、「論創海外ミステリ」のシリーズも全て目を通して原書と照合したわけではないので、断定的なことは言えないのだが、同好の士から、同シリーズの翻訳には問題が多いという話は聞いていた。今回はたまたまそれほど間をおかずに邦訳に接したので、原書と比較しながら斜め読みしてみたのだが、ざっと見ただけでも、確かにこの翻訳に関しては疑問を感じる箇所が多かった。人間のやることに間違いがあるのは仕方ないし、不可避でもあるが、それも程度の問題で、私見では欠陥訳と言わぬまでもそれに近い。
 まず、会話の多くがまるで機械がしゃべっているみたいに単調で、ぎこちなく読みにくい。推敲不足なのか、主語がダブっていたり、文のつながりがおかしかったりと、妙な文章もけっこう出てくる。たどたどしい英語を話すのがチャーリー・チャンの特徴の一つでもあるが、まるで登場人物がみな「チャーリー・チャン」と化してしまったかのようだ。
 日本語で読んでいるだけでも、明らかに意味が通じず、おかしいと感じる箇所も次々と出てくる。一つ一つ取り上げるときりがないので、分かりやすい例を幾つか挙げるが、例えば、邦訳197頁、チャンの娘、ローズが「父親の背中に回った」あと、頬にキスをする。分からないように背中に回って、背後から抱きついてチューしたとでもいうのだろうか? いくら父親でもさぞびっくりしただろう。原文は、She got up and came round to him. どうやら、come round を「背後に回る」の意と思ったようだ。210頁で、チャン警部は挨拶をした相手に向かって「上着の前を広げて見せた」という。胸をはだけると、そこになにかあるのだろうか? 豊満な美人女優ならいざ知らず・・・。原文は、Chan pushed back his coat. 321頁では、ローズが父親に「ぜひとも話を聞きたい」とせがむと、チャンは「もう少し生きていなさい」と答える。なんだそれ? ローズは自殺願望でもあるのかい? 瞬時に想像はついたが、We are dying to hear the news. と言われたから、Remain alive a small time longer.と揶揄したのだ。訳者のあとがきによれば、‘lanai’という言葉の訳に留意したとのことだが、それ以前に留意すべき基本的な問題があるように思える。「厳しく詳細な読み込み・指摘」をしたという方々は何を読み込んで指摘したのだろうか。
 なお、本作は、ビル・プロンジーニ&マーシャ・マラー編“1001 Midnights”において取り上げられているビガーズの3作品(ほかは“The House Without a Key”、『チャーリー・チャン最後の事件』)の一つであり、「盛りだくさんの容疑者にサプライズ・エンディングを伴った楽しい長編」として、唯一アスタリスクを付されてシリーズの代表作と見なされている。邦訳の解説では、本作が各種の「採点簿から漏れている」としているが、これまた、人の解説を孫引きするだけでそう結論づけるのも如何なものかと思う。
 真偽のほどはよく知らないが、知人からの情報では、論創社では今後さらにペースを上げて古典ミステリを刊行していくという話も聞こえてくる。翻訳に頼らなければ読めない読者にとっては、たとえ訳に多少問題があっても、better than nothing ということなのかもしれないが、くれぐれも粗製濫造に陥らぬようお願いしたいところだ。

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