フリーマン『キャッツ・アイ』解説1

一 『キャッツ・アイ』――錯綜したプロットをもつフリーマンの代表作

 『キャッツ・アイ』(一九二三)は、『オシリスの眼』(一九一一)、『ポッターマック氏の失策』(一九三〇)と並んでフリーマンの代表作として挙げられることの多い作品である。
 フリーマンの研究家であり、“In Search of Dr. Thorndyke”(一九七一)の著者であるノーマン・ドナルドスンは、同書において本作を「迷路のように複雑なプロット」と呼び、“Twentieth Century Crime and Mystery Writers“(一九八〇)でも、「全長編の中で最も複雑なプロットであり、全面的に成功している」と述べている。バタード・シリコン・ディスパッチ・ボックスから刊行されたオムニバス・シリーズの序文では、「全ソーンダイク物の中でも、最も内容豊かでベストの作品に位置づけられる」とし、本作がドナルドスンの推すベストであったことが窺える。
 トーマ・ナルスジャックも、『読ませる機械=推理小説』(一九七三)の中で、『猿の肖像』(一九三八)と並んで、本作を構成のしっかりした作品として挙げており、H・R・F・キーティング編の“Whodunit?”(一九八二)における「代表作採点簿」でも、バークリーの『毒入りチョコレート事件』、クリスピンの『消えた玩具屋』、クリスティの『アクロイド殺害事件』、『そして誰もいなくなった』、クロフツの『樽』などと並んで、プロットに満点を与えられている。要するに、プロットの完成度という点では、おしなべて高い評価を得ている作品なのである。
 上記評者たちの評価に見られるとおり、本作のプロットは、フリーマンの作品の中でも最も錯綜した構造を持っている。冒頭で起きる強盗殺人事件、ブレイク家の不動産相続権の問題という、一見無関係とも思える二つの謎が微妙に絡み合う展開の中に、正体不明の指紋、怪しげな金髪女性、不可解なホテルの宿泊客、手記の断片、青い髪、聖書を用いた暗号などの副次的な謎が幾重にも組み込まれ、バラバラとしか思えない各要素が最後にパズル・ピースのように一つの絵にまとまる大団円は、ドナルドスンの言うように、確かに「称賛に値する」ものだろう。
 ただ、事件の背景を理解するためには、ジャコバイトの反乱という英国史の知識も求められるし、暗号解読には、聖書の翻訳史の理解も必要になるという具合で、特に日本人の一般読者には容易に理解しがたい要素が多々含まれているのも事実だ。否、日本人のみならず、英国人にとってすら、本書で前提となっている知識は、一般人の水準を超えたものと言っていいだろう。ついでに言えば、「コバルトブルー」を知ってはいても、その起源まで知る人はやはりごく稀だろう。
 そうした複雑な構成と広範な知識を前提とした作品である一方で、本作には、本格ファンを刺激する、シンプルで鮮やかなパズル・エレメント(謎解きの要素)が、全体の謎を統一するかなめとして仕掛けられている。あからさまにネタばらしをするつもりは毛頭ないが、ここからは、謎解きの性格にかなり踏み込んだ解説をするので、予断を持つことを忌避する読者は、このあとの部分は作品読了後に読んでいただきたい。
 多くの読者もご存じのとおり、謎解きの要素は、大別すれば、フーダニット(犯人の謎)、ハウダニット(犯行方法の謎)、ホワイダニット(動機の謎)にあるといえるが、本作に関しては、フーダニットの要素はきわめて希薄であり、アンドリュー・ドレイトンの殺害犯は、表舞台に登場した時からほぼ自明であろう。むしろ、本作の中心をなすパズル・エレメントは、フリーマンにしては珍しく、ホワイダニット、つまり、「なぜ犯人はさしたる値打ちもない宝石を盗んだのか」という動機の謎である。
 さきほど言及した、一見無関係と思える二つの謎も、このホワイダニットを一つのかなめとして必然的な結びつきを持つようになり、さらには、語り手であるアンスティ弁護士が、事件の全体を集約するタイトルとして、盗まれた宝石の名である「キャッツ・アイ」を選んだ理由も、そこから改めて鮮明に浮き彫りになってくるのである。
 写真や図版などのビジュアルな手がかりを好んだフリーマンらしく、本作においても、冒頭にロケットとマスコットの図版が掲げられている。ところが、ストーリーを追っていても、はじめのうちは、いずれの小物も事件の本筋とはほとんど無関係の些細な小道具としか思えない。ロケットは暗号解読の謎を秘めていることが次第に分かってくるが、重要なのはむしろ、ハリバートン氏のマスコットだ。多くの読者は、図版として掲げられている以上、物品の形状、性質、来歴などの詳細に目を凝らし、その手がかりが秘める意味を見出そうとするに違いない。ソーンダイクが明らかにしていくように、確かにそうした詳細情報は、事件の謎を解く重要な手がかりをなしているのだが、ややもすると、「木を見て森を見ず」のことわざのとおり、その手がかりが持つ真に重要な意味を見逃すことになるのである。
 さらに、『キャッツ・アイ』は、もともと「ウェストミンスター・ガゼット」紙に掲載された作品だったこともあり、連載小説らしくストーリー展開がめまぐるしい。本作に先だって紹介したもう一つの代表作『オシリスの眼』は、失踪したエジプト学者の謎を中心に据えてストーリーがじっくりと展開していく作品だったが、その反面、事件と直接関係のない恋愛的要素とも相まって、ストーリーは劇的な起伏に乏しく、ややもすると中だるみ的な退屈さを感じさせる面もあった。これに比べると、『キャッツ・アイ』は、冒頭の強盗殺人から、毒入りチョコレート事件、空き家での殺人未遂、さらには、閉じ込められた部屋からの脱出劇と、サスペンスフルな出来事が次々と起き、ソーンダイク博士物の中でも、これほど盛りだくさんの出来事と冒険的要素を持った作品は珍しい。
 暗号解読と「宝探し」の要素も、その謎自体は難解であるものの、解明と発見の場面は劇的な臨場感があり、わくわくするような面白さを伴っている。一族の財産相続をめぐる行方不明の婚姻と出生の記録という設定は、マージェリー・アリンガムの『甘美なる危険』(一九三三)を連想させ、案外、彼女の作品に影響を与えたのかもしれない。
 なお、フリーマンは本作において、指紋鑑定(『赤い拇指紋』)、エックス線写真撮影(『オシリスの眼』)という、過去の作品でも用いた手法を再利用しているが、特に「指紋の偽造」というテーマは、短編「前科者」を含めて作品の中で繰り返し取り上げてきたものだ。
 『赤い拇指紋』が有名なこともあり、フリーマンは指紋鑑定に基づく捜査に懐疑的だったと思われがちだが、他の作品を読めば、決してそうではなかったことが分かる。というのも、指紋偽造の可能性を指摘する一方で、短編「深海からのメッセージ」や“When Rogues Fall Out”(一九三二)では、ソーンダイク博士自身が現場で指紋を採取し、これを手がかりに犯人を突き止めているし、ハンフリー・チャロナー教授物の“Uttermost Farthing”(一九一四: 英題“A Savant’s Vendetta”)でも、チャロナー教授は、妻の殺害犯の指紋を採取して身元確認に利用しているからだ。
 つまり、フリーマンは、指紋による人物同定の有用性を認めつつも、偽造の可能性を留意するように警告を発したにすぎないのであって、指紋を捜査に活用することそれ自体に否定的だったわけではないといえる。『赤い拇指紋』の続編とも言うべき“When Rogues Fall Out”において、敢えて指紋測定を実地に演じてみせたところにも、そうしたメッセージを伝えようとの意図が感じられる。
 現代における目覚ましい科学捜査の進展によって、いまやDNA鑑定が容疑者特定の重要な手法となり、今日では、指紋の偽造というテーマ自体がもはや時代を感じさせるものになってしまった。DNA鑑定のおかげで、過去に迷宮入りした事件までが次々と解決しているとされるが、その一方で、DNA鑑定への過信を原因とする冤罪事件も発生していることも忘れてはなるまい。最先端の技術というものが、時として過信を生み出し、それが冤罪につながるという教訓こそ、まさにフリーマンが「指紋の偽造」というテーマで投げかけた問題ではなかったろうか。その意味で、フリーマンの問題提起は、時代遅れであるどころか、驚くほど現代的な意義を持っているのではないかとすら思えるのである。
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フリーマン『キャッツ・アイ』解説2

ニ 英国史との関連

 海外ミステリ・ファンの間では、英国史と言えば、ジョセフィン・テイの『時の娘』の背景となった薔薇戦争が比較的なじみのある出来事と考えられることもあり、敢えてその時期から、スチュアート朝の歴史とジャコバイトの反乱について、王統の流れを軸に据えながら概略してみたい。
 リチャード三世をボスワースの戦い(一四八五年)で敗死させ、チューダー朝の初代国王としてイングランド国王の地位に就いたヘンリー七世は、エドワード四世(リチャード三世の兄)の王女、エリザベス・オブ・ヨークと結婚して、ランカスター家とヨーク家の統一を図り、王室の基盤強化に努める。しかし、戦いによって王位を勝ち取ったものの、王位継承の正統性は脆弱だったヘンリーにとって、当時は独立国家だった隣国スコットランドとの関係改善が大きな外交課題だった。
 ヘンリーとエリザベスの間には、次の国王となるヘンリー八世のほか、王女マーガレットが生まれているが、ヘンリー七世は、スコットランドの王室スチュアート家のジェームズ四世にマーガレットを嫁がせる。一種の政略結婚と考えられるだろう。ヘンリーの重臣たちは、スコットランド王室にイングランド王室の血が入れば、いずれイングランドはスコットランド人に乗っ取られるおそれがあると忠告したが、ヘンリーは「そうなれば、スコットランドはイングランドに併合されるまでのことだ」と答えたとされる。
 ジェームズ四世とマーガレット・チューダーの孫に当たるのが、スコットランド女王メアリ・スチュアートであり、彼女は、ヘンリー七世の曾孫であることを根拠に、エリザベス一世(ヘンリー八世の娘)とイングランドの王位継承権をめぐって争い、夫ダーンリー卿の謎の死やボズウェル伯とのスキャンダラスな結婚を経て、退位を余儀なくされてイングランドに逃亡し、最後はエリザベスの命によりフォザリンゲイ城で処刑されている(一五八七年)。
 エリザベス一世は終生独身を通し、世継ぎがいなかったため、チューダー朝はエリザベスの逝去に伴って絶え、メアリ・スチュアートの子である、スコットランドのジェームズ六世が、イングランドのジェームズ一世として即位(一六〇三年)。イングラント、スコットランドの両国は、それぞれ独立を維持しつつも、共通のスチュアート家の国王を戴く同君連合となる。(一七〇七年、アン女王の時代に、スコットランドの議会が廃止され、両国は完全に統合されてグレート・ブリテン王国となる。しかし、これに不満を持つスコットランド人も少なくなく、のちのジャコバイトの反乱にスコットランド人が結集した一因となった。)
 ジェームズ一世の子、チャールズ一世は、ピューリタン革命により処刑され(一六四九年)、イングランドは一時期、護国卿オリヴァー・クロムウェルの指導の下、共和制に移行するが、クロムウェルの死後、王政復古により、チャールズ一世の子、チャールズ二世が即位する(一六六〇年)。ジョン・ディクスン・カーの『エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件』は、このチャールズ二世の治世下で起きた事件である。
 チャールズ二世の逝去(一六八五年)により即位した、その弟のジェームズ二世は、熱烈なカトリック信者だったため、親カトリック的な宗教政策を進めて議会との対立を深めていく。イングランドは、ヘンリー八世の時代に首長令を発してローマ・カトリック教会と決別し、国教会を設立したが(一五三四年)、その後も、カトリック信者だったメアリ一世(ヘンリー八世の娘、エリザベス一世の姉)による新教徒弾圧など、君主の宗教政策により国政が翻弄されてきた経緯があった。
 議会は、ジェームズに嫡子が誕生したのをきっかけに、オランダのオラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム。チャールズ一世の娘を母とし、ジェームズ二世の甥にあたる)とひそかに連絡をとり、その妻で、ジェームズ二世の娘であるメアリの即位を画策する。
 一六八八年、ウィレムの率いるオランダ軍がイングランドに上陸、ジェームズ二世は家族とともにフランスに亡命し、ウィレムとメアリは、ウィリアム三世、メアリ二世として共同統治の国王に即位する。いわゆる名誉革命であり、このあたりの経緯は、高校の世界史でも学ぶ内容であり、ご存じの方も多いだろう。
 名誉革命は、イングランド国内で一定の支持を得たが、世襲君主制を支持する勢力も依然根強く存在し、亡命したジェームズ二世とその子孫の王位の正統性を支持する人々は、ジャコバイト(Jacobite)と呼ばれた。その名は、ジェームズのラテン語名Jacobusに由来する。本作でも描かれているように、ジャコバイトは、大陸に亡命したジェームズ二世とその子孫の帰国を待望して、「海のかなたの国王」に乾杯を捧げたという。特にスチュアート家発祥の地であるスコットランドはジャコバイトが有力な地域だったとされる。
 ダンディー伯率いるジャコバイト軍と政府軍が衝突したキリークランキーの戦い(一六八九年)を皮きりに、ウィリアム三世とメアリ二世の共同統治開始直後からも、ジャコバイトの反乱や陰謀は散発していたが、その運動が一気に拡大するきっかけとなったのは、ジョージ一世の即位(一七一四年)であった。
 メアリ二世は一六九四年、ウィリアム三世は一七〇二年に逝去するが、二人には子がなかったため、そのあとは、ジェームズ二世の娘でメアリの妹にあたるアンが即位することになっていた。しかし、アンも流産や病気などで子供をことごとく失い、新たに子を儲ける見込みも乏しかったことから、彼女が逝去すれば、スチュアート家の世継ぎが絶える事態が予測された。
 このため、英国議会は、カトリック信者だったジェームズ二世の嫡子、ジェームズ・フランシス・エドワード・スチュアート(ジャコバイトはジェームズ三世と呼んだ)の王位継承を未然に防ぐため、一七〇一年に王位継承法を制定する。この法により、王位継承者は、スチュアート家の血を引く者というだけでなく、国教会の首長となり得る新教徒であることが要件とされ、ジェームズをはじめとするカトリック信者のスチュアート家の血族は、ことごとく王位継承から排除されることとなったのである。(ジェームズは、新教に改宗しさえすれば王位継承が可能だったが、早晩、伯父チャールズ二世のように復位できると当て込み、改宗を拒否したとされる。) その結果、要件を満たす最も近い王位継承権者は、ジェームズ一世の孫娘ゾフィーの長男であるハノーヴァー公ゲオルク・ルートヴィヒとなり、彼がドイツから迎えられてジョージ一世として即位する。(ジェームズ一世は、娘エリザベスをプファルツ選帝侯フリードリヒ五世に嫁がせ、その娘ゾフィーはハノーヴァー選帝侯エルンスト・アウグストに嫁いだ。)
 ジェームズ一世の曾孫とはいえ、英国との縁も遠く、ジョージ自身、英語が満足に話せず、英国の国内政治にも関心が乏しかったため、ドイツに滞在することが多かった。ジョージが国政を顧みず、ホイッグ党のロバート・ウォルポールが率いる内閣に政務の一切を委ねるようになったことが、英国における議院内閣制の始まりとされている。
 しかし、ほとんどドイツ人といっていい国王の即位は、国内でも大きな反響を引き起こし、現体制へのジャコバイトの反抗心をさらに燃え上がらせることになる。本作の中で、ジャコバイトのパーシヴァル・ブレイクが、ジョージ一世の子である、当時の国王ジョージ二世を「ドイツ人の国王」と呼んでいるのも、ジョージ二世もまた、生まれ育ちはドイツであり、本来の名をゲオルク・アウグストといい、父の即位に伴って英国に移住した時には既に三十歳に達していたことを想起すれば、容易に理解できるのである。
 ジョージ一世の即位に伴って国内で起こった民衆暴動に乗じ、ジェームズ・フランシス・エドワードは、一七一五年、スコットランドに上陸して反乱をもくろむが、ほとんどなすすべもなくフランスに逃げ帰る。自分の王位の正統性を主張したジェームズ・フランシス・エドワードは、その子、チャールズ・エドワード・スチュアートと区別して「老僭王」(Old Pretender)と呼ばれる。
 しかし、ジャコバイトの最大の反乱は、一七四五年、そのチャールズ・エドワード(愛称はボニー・プリンス・チャーリー)により引き起こされたものである。彼は、わずか七人の側近を引き連れてスコットランドに上陸するが、キャメロン一族をはじめとするハイランドの氏族を味方につけて勢力を拡大すると、エディンバラを占領し、プレストンパンズの戦いで政府軍を破り、イングランドに侵攻してダービーにまで迫る。
 しかし、一七四六年のカロデンの戦いで、カンバーランド公ウィリアム・オーガスタス率いる政府軍に惨敗を喫し、チャールズ・エドワードは女装して正体をくらますなどしてフランスに逃げ帰る。(本作では、カロデンの戦いの年を、反乱の起きた一七四五年と混同しているようだが、敢えて本文はそのままにしておいた。) 政府軍はその後、スコットランドにおけるジャコバイト勢力の徹底的な掃討を行い、以後、表立ったジャコバイトの反乱は起きなくなる。チャールズ・エドワード・スチュアートは、父と区別して「若僭王」(Young Pretender)と呼ばれ、その後は酒に溺れる日々を送り、一七八八年に失意のうちにローマで没している。
 チャールズ・エドワードに嫡出子はなく、その弟のヘンリー・ベネディクト・スチュアートは、カトリック教会の枢機卿となって終生独身だったため、ジェームズ二世の嫡出の家系は絶え、その後、ジャコバイトの運動は鎮静化していく。なお、ジョージ三世(ジョージ二世の孫)は、財政的に困窮したヘンリーに年金を支給して援助したが、ヘンリーは遺言で、ジェームズ二世から代々受け継いできたスチュアート家の家宝の宝石類を、ジョージ三世の王子、のちのジョージ四世に遺贈している。

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フリーマン『キャッツ・アイ』解説3

三 聖書の翻訳史との関連

 聖書が旧約と新約からなっていることは常識と言えるが、旧約聖書は、本来、ヘブライ語(一部アラム語)、新約聖書は、コイネーと呼ばれる当時の口語ギリシア語で書かれたものである。いずれも原典は存在していないが、多数の写本が存在し、本文批評に基づく校訂版が数種刊行されている。
 もとよりヘブライ語やギリシア語は、その後の西洋社会における共通語ではなく、キリスト教の普及に伴い、古代世界においても、その翻訳は不可避の課題となり、以来、聖書はさまざまな言語に翻訳されてきた。
 旧約聖書は、キリスト教成立以前にギリシア語訳が存在していた。ヘレニズム時代における地中海世界の共通語はギリシア語であり、パレスチナの地から他の地域に移住していったユダヤ人(いわゆるディアスボラ)にとっても、旧約の言語であるヘブライ語は既に理解しがたいものとなっていたことから、ギリシア語訳が求められるようになっていたのである。
 紀元前三世紀頃にエジプトのアレクサンドリアで成立したとされるギリシア語の「七十人訳聖書」(その名称は、七十二人の翻訳者が七十二日間でモーセ五書の翻訳を完成させたとの伝説に由来する)は、新約聖書における旧約からの引用でも用いられ、キリスト教の拡大とともに帝政ローマ領内にも普及していった。
 ローマ帝政時代のキリスト教会では、公用語のラテン語が用いられていたため、聖書のラテン語訳の試みもなされていたが、教皇ダマスス一世の命を受けて、既存のラテン語訳を改訂して新たなラテン語訳の翻訳に取り組んだのは、ラテン教父の一人、ヒエロニムス(三四〇頃―四二〇)であった。彼が四〇五年頃に完成させたラテン語訳が「ウルガタ訳聖書」である。ウルガタ訳は、長きにわたってカトリック教会において権威を持ち続け、一五四六年のトリエント公会議においてカトリック教会の標準ラテン語訳として定められた。
 ただ、ウルガタ訳の旧約聖書における詩編の数え方は、ヘブライ語原典からの写本であるマソラ本文と異なり、七十人訳聖書に一致しているなどの異同があるし、昔からよく知られている誤訳もある。ミケランジェロの制作した「モーセ像」には角が生えていて、今日の旧約の翻訳を参照してもモーセに角が生えていたという記述はないが、これは、ヒエロニムスが、肌が「光る」と訳すべきところを「角」と誤訳したことに由来する(出エジプト記第三十四章参照。今日出ている「新ウルガタ訳」では訂正されている)。
 そのラテン語も、中世を過ぎると、一部の学者や専門家などにしか読めない特殊言語となり、ウルガタ訳聖書も、聖職者の独占物のようになって、一般人には容易に手の届かないものとなった。
 十六世紀に入ると、宗教改革者マルチン・ルターは、聖書を一般庶民が身近に親しめるものとして開放するため、旧新約聖書のドイツ語訳を行い、普及した「ルター訳聖書」は近代ドイツ語の形成にも影響を与えたとされる。
 英国においても、ほぼ同時期にウィリアム・ティンダルが聖書の英訳に取り組んでいる。彼は、当時まだカトリック信者だったヘンリー八世の命により処刑され、その訳業は未完に終わるが、彼の遺した翻訳は、のちにジェームズ一世の命により一六一一年に完成された「欽定訳」(Authorized Version)のベースとなった。その後も、聖書の英訳は様々な改訂版が刊行されているが、欽定訳の格調高い表現と文体は、今日においても多くの人々から親しまれている。なお、ルターのドイツ語訳、ティンダルの英訳、欽定訳は、いずれもヘブライ語、ギリシア語の底本から直接訳されたものである。
 本作では、ウルガタ訳と欽定訳が重要な役割を演じているが、英国史の関連で触れたように、英国のキリスト教は国教会が主流だが、ジャコバイトにはカトリック信者が多く、フランスもカトリックの勢力が強かったことも留意すべきだろう。
 なお、本書の翻訳では、聖書からの引用は、日本聖書協会刊行の新共同訳の訳文を使わせていただいた。ここで念のためおことわりさせていただく。

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フリーマン『キャッツ・アイ』解説4

四 登場人物等についての補足

 本作の語り手であるロバート・アンスティ弁護士のほか、ブロドリブ弁護士、犯罪捜査課のミラー警視、バジャー警部は、他の作品にも繰り返し登場している準レギュラー・メンバーである。『赤い拇指紋』では、アンスティはルーベン・ホーンビイの弁護士を務め、ミラー警視は、ホーンビイ事件の真犯人を刑事裁判所から尾行しながら、行方を見失っている(「前科者」より)。バジャー警部は、“When Rogues Fall Out”で、その逃げおおせた真犯人の手にかかって悲劇的な最期を迎えることになる。
 ウィニフレッド・ブレイクは、本作の前に書かれた“Helen Vardon’s Confession”(一九二二)にチョイ役ながら登場しており、本作の中でも言及されているように、ポルトンの姉マーガレットがウェルクローズ・スクエアに構える下宿に、同作のヒロイン、ヘレン・ヴァードンや手芸品を生業とするほかの女性たちと同居していて、やはり神秘主義に関心の強い女性として描かれている。本名はウィニフレッドだが、リリスという愛称で呼ばれていて、学校に通っている弟がいるという言及もある。彼女はのちに、短編「砂丘の秘密」でも、夫となったアンスティ弁護士とともに顔を出していて、やはり絵を描いていることが言及されているし、“The Mystery of Angelina Frood”(一九二四)では、ソーンダイク博士が、謎解きにあたってアンスティ夫人の絵の才能に支援を求めたことを語っている。
 ジャーヴィスはアメリカに行っていて不在だが、ポルトンは、得意の発明の才を活かして反射鏡眼鏡を考案しているし、レギュラー・メンバーを含めて、登場人物たちの個性が光る点でも楽しめる好編といえるだろう。
 エイルズベリーの土地柄についても、フリーマンが実際に現地を訪れた経験を踏まえていて、第十四章に出てくる時計台はマーケット・スクエアに今日も存在しているし、「キングス・ヘッド・イン」という十五世紀に遡るパブもあり、本作に登場する「キングス・ヘッド」のモデルになったものである。
 なお、ドナルドスンの“In Search of Dr. Thorndyke”によれば、フリーマンが序文で言及している実際の事件とは、一九二二年十一月に、ロンドン警視庁警視総監だった陸軍准将ウィリアム・ホーウッド卿にヒ素入りの胡桃菓子が詰まった箱が届けられた事件である。ウィリアム卿は、親戚から届いた誕生日プレゼントと思って食べてしまい、病院に運び込まれ、一時は絶望視されながらも一命をとりとめた。犯人は精神疾患の前歴がある園芸家で、裁判の結果、責任能力がないと判断され、精神病院に収容された。作者の困惑ぶりが伝わってくる序文も、「愚者の毒」たるヒ素を用いた殺人事件が近年の我が国でも起きていることを想起すると、古い話と片付けられない気もしてくる。

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フリーマン『キャッツ・アイ』刊行予定について

オースティン・フリーマンの『キャッツ・アイ』は、本年2月下旬にROM叢書から刊行される予定です。私の怠慢により当初の予定より遅れ、切にご寛恕を乞う次第です。
なお、当ブログには、解説部分をアップさせていただきました。
http://fuhchin.blog27.fc2.com/blog-category-30.html

ご希望の方は、以下のサイトをご覧ください。
http://page.freett.com/LeoBruce/ROM-j.htm


青いスパンコール
H・M・ブロックが描くソーンダイク博士(「青いスパンコール」より)


砂丘の秘密
フランク・ワイルズが描くソーンダイク博士(左)とアンスティ弁護士(右)(「砂丘の秘密」より)

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S・フチガミ

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