エリザベス・フェラーズ “Enough to Kill a Horse”

 “Enough to Kill a Horse”(1955)は、H・R・F・キーティング編“Whodunit?”の「代表作採点簿」に挙げられ、ジュリアン・シモンズがコリンズ社のクライム・クラブ50周年記念復刊の一冊に選んだフェラーズの代表作の一つ。

 アンティーク・ショップを営むファニー・ライナムには、二十歳も歳の違う腹違いの弟、キット・レイヴンがいた。キットが婚約者のローラ・グリーンスレイドを週末に家に連れてくるというので、ファニーは、近所の人たちも招いたカクテル・パーティを計画する。ローラは空襲で夫を失った未亡人だった。ファニーはローラに会ったことがなく、写真でしか知らなかったが、偶然にも、ローラは、大学で化学の講師をしている夫のベイジルのかつての教え子だった。
 ファニーは彼らのほかに、隣家のコリンとジーンのグレゴリー夫妻、地元の開業医のマクリーン医師夫妻、新聞社社長のピーター・プールター卿、トムとミニーのモーデュー夫妻と娘のスーザンをパーティに招いていた。ところが、トムは誰とでもすぐ口論をする気難しい性格の男であり、招待客とまた喧嘩を始めるのではないかとベイジルは危惧する。しかも、スーザンは以前、キットと恋人同士で、二人は結婚するものと期待されていたのに、別れた経緯があった。
 ファニーの旧友で、作家のクレア・フォーウッドも、なぜかピーター卿にしきりと会いたいと言うため、パーティに招くことにしたが、会いたい理由は言わず、どんな人か知りたいと言うだけだった。
 ところが、パーティの直前になって、ジーンから連絡があり、トムとコリンが大喧嘩をしたため、とてもパーティで一緒にはいられないと欠席を連絡してくる。さらには、ローラも、ひどい頭痛がすると言って欠席を知らせてきた。ファニーは、スーザンがパーティに来ることをローラが知ったためではないかと疑う。
 ファニーは、得意料理のロブスターのパティーを提供するが、客たちは、パティーがひどく苦い味がしてとても食べられないと訴える。ところが、ピーター卿だけは、なぜかおいしいと言って食べ続ける。ピーター卿は、帰宅するとひどく気分が悪なり、マクリーン医師を呼ぶが、深夜に息を引き取る。ファニーは、調理の不手際で食中毒死を引き起こしたと自分を責めるが、死因はヒ素によるものと判明する。
 しかし、ストリキニーネならともかく、ヒ素に苦味はないはずだった。ローラは、学生時代にフェニルチオ尿素を用いた味覚検査で、自分がその試薬に苦みを感じない稀な体質と分かったことを思い出し、その事実を夫のベイジルから知ったファニーが自分を殺そうと狙ったのだと主張する・・・。

 序文を寄せているシモンズは、フェラーズが、トビー・ダイクとジョージというコンビの登場する作品を続けて書いたあと、「この二人のキャラクターがひどく嫌いになったため、彼らを登場させる作品をそれ以上書けなくなった」と述べていることを紹介し、彼女がシリーズ・キャラクターの存在に制約されずに自由な手腕を発揮して作品を書くようになったことを称賛しているようである。
 もちろん、コナン・ドイルやクリスティなどもホームズやポアロにうんざりしていたという逸話もあるので、さほど珍しい話ではないのだが、我が国では、最近、このコンビの登場する初期作品が続々と翻訳・紹介されてきた経緯もあり、作者自身がこの人気キャラクターを嫌っていたというのはファンにとっては心外であろう。
 もっとも、シモンズ自身、シリーズ・キャラクターを途中で放棄して犯罪小説を書き続けた作家であり、“Bloody Murder”での議論にも見られるように、シリーズ・キャラクターを作家に制約を課す存在と見なしがちな論者なので、このあたりの評価にはやや主観的な偏見も混じっていることを留意すべきかもしれない。
 シモンズの本作に対する評価も、モーデュー夫妻などの登場人物の性格描写にあるようだが、謎解きとして見ても、フェアプレイとしてはともかく、よく練られたプロットで楽しい限りだ。“A Catalogue of Crime”のバーザンとテイラーも評価しているように、錯綜した人間関係や様々な動機の可能性の追究が持続的な緊迫感を生み出しており、ストーリーテリングの巧者ぶりが遺憾なく発揮されている。
 長編だけでも70作を越える多作家だが、本作をはじめ魅力的な佳作はまだたくさんあると思われ、シリーズ物に限らず掘り起こしがさらに進むことを期待したいものである。
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テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

エリザベス・フェラーズ『私が見たと蠅は言う』

 『私が見たと蠅は言う』(I, Said the Fly)は1945年の作品で、フェラーズにとっては、トビー・ダイクもののシリーズと決別して書いた最初の長編。戦時の雰囲気が色濃く感じられる作品だが、大戦の影響なのか、トビー・ダイクものの最終作『ひよこはなぜ道を渡る』(1942)から本作まで3年の空白期間がある。これはフェラーズに限ったことではないが、大戦中に筆を折る作家は少なくなく、フェラーズにとっても転機となったのか、しばらくシリーズ・キャラクターものは手がけなくなったようだ。
 邦訳もあるのでストーリーの詳細は省くが、ケイ・ブライアントという女性の住むロンドンの安アパートで、ガス工事の作業員がリボルバーを発見するという発端から始まり、そのリボルバーが二週間前にネイオミ・スミスという女性の殺害に使用された凶器と判明し、しかも彼女はケイが越してくる前のアパートの住人だったという展開。
 タイトルはよく知られたマザー・グースの歌からの引用で、ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』でもモチーフとして使われたし、かつて「パタリロ!」というアニメでも「誰が殺したクック・ロビン」というフレーズが使われていたのをご存知の方もいるだろう。
 フェラーズは、70作以上もの長編がありながら、我が国でもそれほど多くは紹介されていないし、本国でも既に入手困難な作品が多いが、プロットを見る限り、個々の作品は決して悪くないし、もっと評価されてもおかしくない作家だ。ただ、やはりシリーズ・キャラクターの存在が人気に与える影響は大きい。ジュリアン・シモンズのように、フェラーズがシリーズ・キャラクターを放棄して心理描写を重視した作風に転じたことを称賛する批評家もいるにはいるが、いくら高尚な鑑識眼を持つ批評家が絶賛しようと、大衆的人気を維持獲得するには魅力のあるシリーズ・キャラクターの存在が不可欠だという自明の理を改めて証明したのがフェラーズではないかという皮肉な見方もできる。
 ただ、フェラーズの場合は、作風を転換するにも、純粋なサスペンスやスリラーに思い切ってジャンルを切り替えるわけでもなく、伝統的な謎解きのスキームを維持しながら人物描写により力を入れていくという路線を取ったわけで、これを評価する本格ファンも無論いるのだろうが、厳しい見方をすれば、どっちつかずの中途半端な作風がいずれのファン層からも根強い支持を獲得するに至らなかった一因なのではなかろうか。
 本作も、ケイ、パメラ、チャーリー、テッド、メリッサといった登場人物たちとその人間関係がそれなりによく描かれているし、互いに疑心暗鬼を抱きながら真相を推理していくプロセスも読ませるものがある。しかし、ストーリーの舞台はほとんどせせこましいアパートの空間に限られているし、さほどサスペンスフルな見せ場があるわけでもないため、身内同士の内輪もめや痴話げんかみたいな会話がいつまでも続くのに次第にだれてうんざりしてくるのも事実だ。
 それにしても、近年、『嘘は刻む』のようなまずまず悪くない作品も紹介されたというのに、版元が倒産してすぐ入手困難になってしまったというのも残念なことだ。さらなる紹介を期待したいところである。

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エリザベス・フェラーズ『猿来たりなば』

 『カクテルパーティー』、『灯火が消える前に』と、今年はフェラーズの作品が矢継ぎ早に紹介されたが、かつては作品数の割に翻訳数が少ない作家の代表例だったようだ。
 トビー・ダイクものの第4長編、『猿来たりなば』(1942)は、我が国でフェラーズが続々と紹介されるきっかけとなった作品で、結局、このシリーズの5長編はすべて邦訳が出た。
 だが、海外における評価は大きく異なり、むしろ60年代以降の作品のほうが評価が高く、トビー・ダイクものが言及されることは少ない。例えば、“Twentieth Century Crime and Mystery Writers”(1980)でフェラーズの項目を執筆しているメアリ・ヘレン・ベッカーは、『私が見たと蠅は言う』(1945)を別にすれば、『さまよえる未亡人たち』(1962)、“The Decayed Gentlewoman”(1963)、“Ninth Life”(1965)、“Breath of Suspicion”(1972)、“The Small World of Murder”(1973)、“Alive and Dead”(1975)と、60~70年代の作品ばかり取り上げているし、“1001 Midnights”(1986)でマーシャ・マラーが取り上げたのも、“Alive and Dead”(1975)と“Frog in the Throat”(1980)の二作。“Detective Fiction: The Collector’s Guide”(1995)の編者、ジョン・クーパーが選んだパースナル・チョイスも、アンドリュー・バスネットものの“Something Wicked”(1983)だ。
 以前の記事でも紹介したように、フェラーズ自身も、初期のトビー・ダイクもののシリーズにうんざりしていたらしく、『ひよこはなぜ道を渡る』(1942)を最後に、再びこのコンビを登場させることはなかった。
 チンパンジーの殺害という奇想天外な設定が目を惹く『猿来たりなば』は、原題も“Don’t Monkey With Murder”(殺人を弄ぶな)と、タイトルからして凝っている。動機のユニークさもさることながら、オチで明かされる、ちょっとした仕掛けが面白く、思わず冒頭に戻って読み直した読者も少なくないはずだ。紹介された際に我が国で高い評価を得たのも、フェラーズらしい、こうした小才の利いたプロットにあったと見ていいし、トビーとジョージというコンビの魅力がこれに華を添えたこともあるだろう。
 フェラーズの長編は、謎解きとしてのフェアプレーを必ずしも重んじるわけではないものの、読者を思わずハッとさせる、ツイストの利いたアイデアが光るものが多い。この初期シリーズをどう評価するかは彼我の差があるにしても、このシリーズが、フェラーズの長編が再び注目されるようになるきっかけとなったのは事実だし、彼女の作品の特徴もこれらの初期作品において既によく表れている。いつの間にか品切れになっている作品が多いようだが、注目を浴びつつあるこの機会に、このシリーズにも再び光が当たってほしいものだ。

エリザベス・フェラーズ“Alive and Dead”

 “Alive and Dead”(1974)は、“A Stranger and Afraid”(1971)、 “Breath of Suspicion”(1972)、“Foot in the Grave”(1972)、“Blood Flies Upwards”(1976)と同じく、ディタリッジ警視(前作までは警部)の登場する作品。E・X・フェラーズ名義で発表された。

 マーサ・クレイルは、二度の離婚経験があり、それぞれの結婚で儲けた二人の息子がいる中年女性。以前は下宿屋を切り盛りしていたが、世話をしていた伯母から予想外の遺産を受け継ぎ、サイム氏という中年男性を除いて下宿人を引き払わせ、今は〝未婚の母の全国福祉組合〟で奉仕活動をしている。
 肌寒い秋の午後、秘書のオリーヴ・メイスンがインフルエンザで寝込み、組合長のレディー・ファーナスがカリブ海クルーズに出かけていたため、マーサは一人で編み物をしながら組合のオフィスにいた。そこへ、アマンダ・ハサルという若い娘が訪ねてくる。
 アマンダは、三年前に夫に逃げられたが、ドン・ターナーという博士課程の学生の子を身ごもったと言う。ドンは妊娠を喜んだが、アマンダは彼との結婚を望まず、両親は子どもを里子に出すよう求めたため、親元も飛び出してきたらしい。マーサは彼女に考える時間を与えるため、もともと下宿屋だった自分の家に連れて行く。だが、同居するサイム氏は、アマンダの説明に不審の念を抱く。
 翌日、マーサがオフィスに行くと、復帰したオリーヴから、サンドラ・アスピノールという、アマンダと同じ歳くらいの女性を紹介される。彼女はお腹の子の父親から中絶を条件に結婚を受け入れると言われ、中絶を許容できずに組合に支援を求めてきたという。マーサは、オリーヴから、サンドラが職を見つけるまで家に預かってほしいと頼まれる。
 マーサは、組合のオフィスの前に立ち尽くし、通りの向かいのコンプトン・ホテルをじっと見つめている不審な赤毛の青年に気づく。マーサがサンドラとともにオフィスを出ようとすると、向かいのコンプトン・ホテルからさっきの青年が女性とともに出てくるのを目撃する。その女性はアマンダだった。
 マーサが家に戻ると、アマンダが恋人のドンと口論しているのが聞こえる。そのあと、アマンダの両親も家を訪ねてきて、マーサは気を失う。サイム氏が両親に彼女の居所を知らせたのだった。両親の話では、アマンダの夫、ローリーは三年前にナイロビ行きの飛行機事故で死亡したのだが、彼女は夫の死を信じようとしないという。
 サイム氏がラジオを入れると、マーサが目撃したらしい青年がコンプトン・ホテルで射殺されたというニュースが流れ、アマンダと思われる特徴の女性を警察が探していると告げる・・・。

 本作は、“1001 Midnights”において、マーシャ・マラーがフェラーズの「ベストの一つ」と評している作品。
 家に受け入れた二人の妊婦が恋人や家族と悶着を起こすという、いかにもドメスティックな発端から、急転直下、殺人事件に発展し、幻想としか思えない、夫の生存を信じる娘の主張が実は真実であり、殺人の被害者だったという展開のうまさは、いかにもフェラーズらしいストーリー構築。それまで平穏だった下宿屋が、マーサを狙った銃撃事件、さらにはサンドラの絞殺と、修羅場と化していく展開も、やや荒唐無稽な印象はあるものの、起伏に富んでいてぐいぐいと引き込まれる。
 若干偶然に頼った面もあるが、これもフェラーズらしく、よく練り上げられた複雑なプロットで、登場人物をうまく描き分け、どんでん返しを繰り返しながら、最後は意外な犯人を明らかにする。全体として見れば、ややひねり過ぎの感もあるが、マラーが評価するように、フェラーズの作品の中でもツイストの利いた佳作と言えるだろう。
 なお、締めくくりの謎解きは、確かにディタリッジ警視がするのだが、登場場面は少なく、ほとんど目立たない。むしろ、サイム氏のほうが探偵役と言ったほうがいいかもしれない。この時期のフェラーズがシリーズ・キャラクターにさほど思い入れがなかったことが窺える。
プロフィール

S・フチガミ

Author:S・フチガミ
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