ジョン・ロード『クラヴァートン事件』訳載

 ジョン・ロードの『クラヴァートン事件』(原題:The Claverton Mystery:1933)をこれから当ブログで連載していきます。

(追記:なお、このほかに、ロードの『代診医の死』(Dr.Goodwood's Locum)をROM叢書第12巻として出させていただく予定です。訳のできた順序はこちらが先ですが、都合により『クラヴァートン』のほうが先に世に出る形になりました。『クラヴァートン』はあくまでブログのオリジナルとする予定で、叢書からの刊行予定はありません。)

 『クラヴァートン事件』は、“A Catalogue of Crime”のジャック・バーザンとウェンデル・ハーティグ・テイラーが、“The Motor Rally Mystery”、“Hendon’s First Case”、『ハーレー街の死』と並んでロードの代表作の一つに挙げている長編であり、ビル・プロンジーニ&マーシャ・マラー編“1001 Midnights”でも『ハーレー街の死』とともに挙げられ、H・R・F・キーティングが選定したコリンズ社の“The Disappearing Detectives”叢書における復刊書の一つにも選ばれています。
 (キーティングが同叢書に寄せた序文も訳載したいところですが、同叢書が刊行されたのは1985年であり、いわゆるベルヌ条約の「10年留保」条項、つまり、1970年以前の出版物に関しては、原著の刊行された時点から10年 以内に日本国内で翻訳出版されなければ、その出版物の翻訳権は自由使用という原則に該当しないため、翻訳権取得なしに全訳するわけにはいきません。このため、解説の中で適宜引用するにとどめさせていただきます。)
 本作は、ハウダニットを得意としたロードの面目躍如たる作品というだけでなく、大団円における降霊術会の演出を含め、初期作品らしくストーリー展開や見せ場、人物描写にも起伏があり、中期以降の作品にありがちな、退屈な尋問や議論の場面が延々と続く欠点が目立たず、読み応えという点でも秀でた作品です。キーティングも、前記叢書の序文において、ロードの作品は退屈だという批判に対し、「顕著な例外の一つが『クラヴァートン事件』だ」として、バーザンとテイラーの「必読作」という評価に賛同しています。
 “1001 Midnights”でも特筆されていますが、通常の作品では内面の思考過程を見せたりしないプリーストリー博士が、本作では珍しく心理の動きが事細かに描写され、鬼神のごとき叡知を秘めた名探偵としてではなく、感情の起伏や迷いなどをあらわにするヒューマンな存在として描かれています。また、中期以降の作品に見られるように、土曜の例会で語るだけの不活性化した存在ではなく、人の家やよその町を積極的に訪れ、関係者にも直接聞き込みをするなど、自ら活発に行動する姿が描かれており、それがストーリー展開にもプラスの効果をもたらしています。
 さらに、本作は、レギュラー・メンバーの一人、オールドランド医師の初登場作でもあります。のちの作品の多くでは、土曜の例会の出席メンバーの一人に役割がほぼ限定され、人物描写も平板化してしまいますが、本作では、被害者の主治医として重要な役割を演じているだけでなく、医師の過去や子息の存在も事件に深く関わるなど、個人史的な経緯や人間的な魅力も描きこまれています。面白いのは医師の名前で、バーザンとテイラーが前掲書で触れているように、のちの“Death at Breakfast”では、「モーティマー・オールドランド医師」と言及されていますが、本作では、遺言書の証人として、「シドニー・オールドランド」と署名しています。さて、どちらが正しいのか?(なお、ジミー・ワグホーン警部は、“Hendon’s First Case”(1935)からの登場であり、本作ではまだ登場していない。)
 「痕跡を残さない毒殺」というテーマは、ヴァン・ダインの『カシノ殺人事件』のような例がありますが、由良三郎氏の『ミステリーを科学したら』でも、同作を含め、いろんな難点が指摘されているように、実際にはそう都合よく使える毒物はめったにあるものではないし、また、あまりに専門的で特殊な毒物を用いると、ヴァン・ダイン自身が「推理小説の二十則」で述べた、「作者の想像の中にしか存在しない、珍奇で未知の薬物を使用してはならない」というルールや、ノックスの十戒における「これまで発見されたことのない毒物や、最後に長々とした科学的説明を要する装置を用いてはならない」という戒めにも抵触することになります。
 毒殺のハウダニットを用いたロードの作品には、ほかに、既に古典的なトリックとなった“Hendon’s First Case”や“Vegetable Duck”、炭疽菌を利用した“Peril at Cranbury Hall”などがありますが、『クラヴァートン事件』は、この困難な制約を伴うテーマに挑戦して成功した稀有な事例であり、前提となる知識も中学の理科レベルでありながら、大団円における意外性を劇的に演出することにも成功していると言えるでしょう。
 いつまでも能書きを弁じては、かえって退屈ですね。これくらいにしておきます。
 それでは、ランスロット・プリーストリー博士をご紹介しましょう!



主な登場人物

ジョン・クラヴァートン         引退した保険数理士
クララ・リトルコート          クラヴァートンの妹、霊媒
ヘレン・リトルコート          その娘、ナース
アイヴァー・ダーンフォード       クラヴァートンの甥
フォークナー              クラヴァートン家の執事
シドニー・オールドランド        クラヴァートンの主治医
ビル・オールドランド          その息子
ミルヴァーリー             オールドランドの代診医
ヒュー・リズリントン          クラヴァートンの顧問弁護士
アラード・フェイヴァーシャム      病理学者
ミュリエル・アーチャー         クラヴァートンのかつての秘書
メアリ・アーチャー           その娘
ハンスリット              スコットランド・ヤード犯罪捜査課警視
ランスロット・プリーストリー      数学者
ハロルド・メリフィールド        その秘書
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テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

ジョン・ロード『クラヴァートン事件』第一章-1

第一章

 プリーストリー博士が旧友のジョン・クラヴァートン卿を訪ねるのは、ほぼ一年ぶりのことだった。アールズ・コート駅で下車し、ボーマリス・プレイスに向かって歩き出すと、ご無沙汰していたことで気がとがめた。
 だが、その間顔をあわせなかったのは、なにも博士だけの罪ではなかったろう。プリーストリー博士は多忙な人物だ。科学の探究に追われて、社交的な息抜きをする暇はほとんどなかった。それに、博士にはほかにも時間を割くことがあった。博士には趣味があり、そのことはごく限られた者しか知るまいと勝手に思い込んでいたが、いつの間にか手を広げてしまっていた。つまり、いつなんどきでも事件の捜査に関与して、時には幾週にもわたって精魂を傾けてしまうのだ。
 ジョン卿はといえば、いくらでも余暇のある人物だった。世捨て人のように暮らしていたし、唯一の趣味は書物に囲まれて過ごすことだ。だとすれば、ウェストボーン・テラスに邸宅を構えるプリーストリー博士を訪ねる機会もいくらでもあったろう。だが、そこまでする必要もないと思っていたのかもしれない。
 実際、ここ数年、二人はすっかり疎遠になっていた。かつて、プリーストリー博士はイングランド中部地方の大学で教授職にあったが、その頃、二人は親しい友人同士だった。クラヴァートンは同じ町で保険数理士をしていて、この二人の優れた知識人は、互いに共通点が多いのに気づいたのだ。
 しかし、大戦の一、二年前に、プリーストリー博士は教職を辞し、多くのまじめな学生たちを嘆かせた。大学当局が同じく嘆いたかどうかはよく分からない。博士と接した人であれば、その能力を疑う者はいなかった。しかし、博士は、教師としてより批評家としての気概を持っていた。科学的事実を極限まで追究しようとする、博士の限りなき忍耐強さは無比のものだったが、これに匹敵するぐらい、人間本性に対する博士の忍耐のなさも類がなかった。博士の講義は、不完全なデータに基づく理論を発表した著名人への痛罵へとそれていくことが幾度もあった。
 自分が指導者の任にふさわしくないと、博士自身も分かっていたのかもしれない。もちろん、ふさわしくないと博士にほのめかしたりする者などいたはずもない。それはともかく、博士は職を投げうち、父親から相続したウェストボーン・テラスの邸宅に隠遁してしまった。博士の収入は、悠々自適の生活を送ってもあり余るほどだった。長年にわたり、博士は科学分野の批評にその才能を費やしてきた。比較的限られた科学畑の人々の間ではあったが、博士は指導的な権威とみられていた。
 大戦が勃発して間もなく、クラヴァートンは思いもかけずまとまった財産を相続した。ほとんど幼い頃にしか会ったことのない従姉が、一九一四年九月の初めに一粒種の息子を亡くしたのだ。彼女は新たに遺言書を作成し、全財産をクラヴァートンに遺すことにした。ほどなくして、彼女はボーマリス・プレイスの自宅で亡くなった。
 その頃、クラヴァートンはイングランド北部で政府の仕事に就いていて、組織力を存分に発揮していた。相続した家には住まず、戦争中は寄宿寮として使用させていた。休戦協定が結ばれると、戦勲を認められて、いまや大英帝国二等勲爵士となったジョン・クラヴァートン卿は、ロンドンに根を生やすことに決めた。ボーマリス・プレイス十三番地の家は彼の好みに合わせて改装され、しばらくすると、そこに引っ越してきた。
 彼はずっと独身だった。家族持ちに会うたびに自分は家族を持たなくてよかったと実感するんだ、とよく口にしていた。人付き合いもさほどせず、ロンドンに住んでからというもの、殊更にごく少数の旧友としか会おうとしなかった。プリーストリー博士もそんな友人の一人だった。彼らは不規則に会うだけだったし、ついつい疎遠になりがちだった。実際、博士は、その日の朝、友人から手紙を受け取らなかったら、秋の午後の研究を中断したりはしなかったろう。
 実にそっけない手紙で、短信程度のものだった。少々体調がすぐれず、家に引きこもっているので、プリーストリー博士にお越しいただければ、という趣旨の実に簡潔な連絡だった。ただそれだけで、日時すらも触れていなかった。博士は、ご無沙汰していたことを埋め合わせたい気持ちもあり、その日のうちにクラヴァートンを訪ねることにした。
 ボーマリス・プレイスは、ヴィクトリア朝時代から幾度も変化を経てきた場所だった。かつては流行の最前線にあった場所だ。つまり、家屋周旋業者がよく言う、快適な居住空間だったのだ。大きくて、いかめしい感じの家々には、裕福な都会人が住み、活きのいい二頭立て馬車で日々職場に通勤していたものだ。しかし、近代的な交通手段が発達したおかげで距離感覚が縮まると、ボーマリス・プレイスの住人たちは、「田園」と自慢げに呼ぶ郊外へと移転していったし、家並みの窓には次々と「貸家」という末期症状的表示が出はじめた。
 十三番地の家だけが旧態を維持していた。クラヴァートンのいとこが嫁いだ先の家族が頑固一徹だったせいで、彼らは自分たちが住み慣れた家を捨てることができなかったのだ。界隈がさびれていくのをものともせず、このいとこは、夫の死後も古い家で一人暮らしを続けた。彼女は、その家で死にたいとよく漏らしていた――その願いは予想よりずっと早く実現してしまったのではあるが。息子が相続後に家を売却するのなら、好きにすればいいと言ってはいたが、内心では売却してほしくないと思っていた。
 息子が亡くなって将来展望が音を立てて崩れたとき、心にかけるのは家のことだけになった。その家は彼女の人生の一部になっていた。嫁いできてからというもの、その家が彼女の喜びと悲しみを温かい目で静かに見守ってきてくれたように思えた。生きがいを失ってしまうと、死に神が容赦なく、それも優しげに手招きしているような気がしてきた。お迎えを受け入れる覚悟はできていたが、無神経な下宿人が入れ替わり立ち替わり入ってきて、愛着のある部屋を占領するのは想像するのも耐えがたかった。
 クラヴァートン家の一員である彼女が、ジョン・クラヴァートンのことを思い出したのはまさにその時だ。全然知らない相手ではあった。たまに会う家族の友人たちを通じて、時おり伝え聞くことがあるだけだった。しかし、クラヴァートン家の一族が、夫の家族と同じ保守的な気質があることは知っていた。クラヴァートン家の者にゆだねれば、十三番地の家は安泰だ、と彼女は考えたのかもしれない。ともあれ、彼女は新たな遺言書を作成し、家を他の財産とともに、いとこのジョンに遺したのだ。
 彼女はジョンになんの希望も伝えなかった。それどころか、相続人に定めたことを知らせることすら必要と思わなかった。彼女の葬儀の日まで、ジョン・クラヴァートンは十三番地の家を見たこともなかった。しかし、彼女の直感は間違っていなかった。彼はその日以来、すべてが片付いたら、その家に住もうと決意したのだ。
 おかしな判断をしたものだと思う者も多かっただろう。すでに変化は急速に進んでいたからだ。偶数番号の番地が振られた通りの東側は、陰気で威圧的な建物の並びもほとんど姿を消していた。一軒、また一軒と、快適な居宅が家屋解体業者にゆだねられた結果、なじみのない建造物がその跡地に建っていた。ある場所には、さほど快適でもないアパートが建ち、別の場所には映画館があったが、その入口はもう一つ隣の通り側にあったため、こちら側は工場然とした外壁がむき出しになっていた。
 ジョン・クラヴァートンはそんなありさまを見ても、肩をすくめただけだった。通りの外観が損なわれようと、彼にはどうでもよかった。仮に外観のことを考えたとしても、彼なら、どのみち人は家の中に住むのであって、外に住むわけではないと考えたことだろう。
 十三番地の家に住んでからも、急速に変化が進もうと気にも留めなかった。残っていた偶数番地の家も、戦後一、二年のうちにすべて姿を消した。さらに、奇数番地の家も、投機的な建築業者の猛攻の前に次々と陥落していった。一番地から七番地の家は、ほとんど一夜にして消えてしまったし、跡地には大きなガレージができた。九番地から十一番地の家は倉庫に改築され、外には大きなバンが毎日何台も停まるようになった。あとは、十三番地から二十七番地の家――ボーマリス・プレイスの末端に位置する角地の家――が残っているだけだった。
 以上が、プリーストリー博士が以前に友人を訪ねたときのありさまだった。しかし、この日、博士がガレージのある角を曲がり、通りに入っていくと、以前にもまして開発の進んだ様子が目に入ってきた。十三番地の先には、建築中を示す板囲いが見えるだけで、その中からは慌ただしい建築活動の音が聞こえてきた。十五番地から二十七番地の家はすでに跡形もなかった。
 博士は、その光景に軽いショックを覚えた。そこにあった家に住んでいた人たちも、なんの消息も残さずに消えてしまったというのか? 砂漠のなかのオアシスと化した十三番地の家も、いつまで残り続けるだろう? その家もついに壊されてしまったら、ジョン・クラヴァートンの個性はなにが残るというのか? もちろん、自分も迂闊だった。ほかのことにまぎれて、友人と疎遠になっていたのだ。これからは、こまめに訪ねることにしよう。帰ったら、カレンダーにしるしをつけるさ。せめて月に一度だ。たとえば、毎月第四水曜とかな。博士は、十三番地の家が目の前から消えてしまうのではないかと恐れるように歩を早めた。
 執事がドアを開けてくれた。いかめしい顔つきの初老の男で、来客が誰か分かると、おじぎをした。黙ってプリーストリー博士の帽子とコートを受け取り、まるで祭壇に犠牲を献げるみたいに、玄関ホールのテーブルにうやうやしく置いた。四時になったばかりだったが、玄関ホールはすでに黄昏が訪れたように薄暗く、周囲もぼんやりと見分けられるだけだった。それでも、博士は、テーブルにあるのが自分の帽子だけではないと気づいた。
 客は自分だけではなさそうだと思うと、そわそわしはじめた。クラヴァートンに会って三十分ほど話をするだけのことだから、急ぎの仕事も中断してきたのだ。自分以外に客がいるとは予想だにしなかったことだ。この家でほかの客に出くわしたことなどなかったのに。予定していた水入らずの会話が、とりとめもない散漫なおしゃべりに矮小化してしまうのでは我慢ならないぞ。「ジョン卿にはお客が来ているのかね、フォークナー?」と博士は強い口調で尋ねた。
 「ジョン卿は図書室に一人でおられます」と執事は答えた。それから、厚い絨毯が敷かれた階段を上がっていった。
 博士もあとに続いた。屋内の配置はよく知っていた。一階にはダイニングと居間があり、二階には客間と図書室がある。クラヴァートンが博士を迎えるのは、いつも図書室だった。ところが、驚いたことに、フォークナーは、踊り場まで来ると、客間のドアに向かった。ノブに手を触れる前に、ちょっとためらう様子を見せた。ドアを開けると、客人を中に入れるためにわきに寄った。「プリーストリー博士でございます」と彼は告げた。
 部屋の窓には厚いカーテンが引かれ、玄関ホールの薄暗さと大差なかった。博士が中に入っても、しんと静まっていて、しばらくは、そこにいるのが自分だけだと思っていた。フォークナーは主人に来客を告げに行くあいだ、とりあえず自分をここに案内しただけなんだな。しかし、なぜまたあんなふうにかしこまって来訪を告げたのか?
 部屋の片隅のソファのほうから、かすかな衣擦れの音がして、博士ははっとした。素早く振り返ると、目が暗さに慣れてきたこともあり、年配の婦人らしき姿に気づいた。彼女は頭を垂れ、なにか手の込んだ編み物にいそしんでいた。精巧な機械のように規則正しいリズムで指を動かしていたが、博士がいることにまるで気づいていない様子だった。

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ジョン・ロード『クラヴァートン事件』第一章-2

 博士は、その静かな部屋にほかにも人がいるのに気づいた。火のない暖炉のそばに、娘がひざに本を載せて椅子に座り、周囲のカーペットにたばこの灰をまき散らしていた。博士は、彼女がこっちを見て、かすかにおじぎしたのに気づいた。むっつりと敵意に満ちたその表情はまったく変わらなかった。博士がおじぎをすると、身なりのいい青年があいさつを返した。彼はその時まで、娘が座っている椅子のうしろから無頓着に身を乗り出していたのだ。
 プリーストリー博士には、その連中が誰なのか見当もつかなかった。過去を偲ぶ最後の砦ともいうべき十三番地の家が、いつの間にか見知らぬ敵に侵入されてしまったかのようだった。彼らはまるで、見つからないように言葉を発してはならぬという誓約を立てているみたいだった。博士は、彼らの秘密の場所に闖入してしまったような気がしたし、娘と視線がぶつかった瞬間から、自分が招かれざる存在であることに気づいた。沈黙は一、二秒ほど続いただけだったが、そのあいだに、博士は、得体の知れない未知の人々の印象をすばやくまとめ上げた。グレーの服を着た女は、ソファに座ったまま規則正しく編み物をし、決して頭を上げなかった。青年のほうは、今は体をまっすぐ起し、石から切り出された像のように固く身じろぎもしなかった。そして、娘は、謎めいた目で問いかけるように博士を見つめていたが、博士がいることに対する激しい憤りが目にはっきりと表れていた。
 沈黙を破ったのは娘だった。唐突で、驚くほど敏捷な動きだった。今まで座っていたはずが、次の刹那には立っていたと思うほどの素早さで立ち上がった。一瞬、立った彼女の姿は、窓から差し込む明かりを背に、長身で優美なアウトラインとなって浮き彫りになった。黒髪が頭の形を隠すヴェールのように垂れていた。すうっと音もなくドアのほうに行くと、「ジョン伯父さんに、いらっしゃったことを知らせてまいりますわ、プリーストリー博士」と顔も向けずに言った。その声は単調で生気がなく、しなやかで活力に満ちた体とは妙に対照的だった。
 部屋を出ると、まるで挑むように大きな音を立てながらドアを後ろ手に閉めた。博士は、静かな家の中をぼんやりとこだましていくその音にたじろいだ。まるで誰かが薄暗い聖堂のなかでぶしつけな叫び声を上げたかのようだった。しかし、ソファに座るグレー服の女の指はまったく動揺しなかった。彼女の目も、糸が紡ぎ出す模様から一瞬たりとも離れなかった。
 しかし、ドアが激しい音を立てたせいか、あるいは娘が出ていったせいかもしれないが、青年は急に生命を吹き込まれたように見えた。博士のほうに数歩歩み寄り、心もとなさそうに立ち止まると、「この季節にしてはよい天気ですね、先生」と見るからに取り繕ったような丁重さで言った。
 「うむ、まあね」プリーストリー博士はもどかしげに言った。まったく無駄なその言葉に、博士はひどくいらだった。そんなことしか言えないのなら、黙っていてくれたほうがましだったな。それなら、なんで自己紹介をしないんだ? 少なくとも、さっきの娘は何者なのかヒントはくれたぞ。ジョン伯父さんと言っていたな。博士は、クラヴァートンが甥や姪のことを話していたのをぼんやりと思い出した。たぶん、あの娘は姪の一人なのだろう。こっちの若者は甥かな? 博士は、そうでなければいいがと思った。
 この青年に即座に嫌悪を感じた理由はよく分からなかった。親しみの欠けたあいさつに反感を抱いただけのことではない。もっと深い理由がある。青年が「先生」と言ったときの口調のせいかも。博士は、若者が尊敬語を口にするのには慣れていた。だが、この青年の口から出る尊敬語には、敬意よりも挑戦の響きが感じられたのだ。
 プリーストリー博士ほど世間ずれしていない者なら、こんな冷淡な迎え方をされれば、居心地悪く感じたかもしれない。しかし、博士は、これまでも奇妙な状況にはいろいろ出くわしてきたので、この程度の居心地悪さも今さら気に留めはしなかった。戸惑いはしなかったものの、腹は立った。クラヴァートンも、自分をこんな目にあわせてほしくなかったな。家にこんな連中がいるなら、手紙に書いておいてくれればよかったものを。フォークナーにしても、もっとましな部屋に案内できたろうに。たとえば、居間でお待ちくださいとも言えたはずだ。もっとも、得体の知れない連中が居間にもいるというのなら話は別だが。博士は、あと五分以内にクラヴァートンのところに案内されなかったら、下におりてコートと帽子を取り上げ、家を立ち去ろうと決めた。
 そうこうするあいだにも、博士は、観察の習慣に従って、同室の人々の情報をかき集めていた。グレー服の女は、編み物に編み針を通すことしか意識せず、博士のことも無視していた。女の姿で目に入るものは、ほっそりと痩せた体と、その身にまとったグレーのドレス、かすかにつやを帯びた鉄灰色の髪、せわしく動くか細い指だけだった。作業中の黒い編み物は、棺覆いのようにひざの上に広げられ、厚いひだになって床に垂れていた。それが結局何に使われるものなのか、博士にはさっぱり分からなかった。まるで催眠術で自意識を失っているかのように、単調に動く指以外に微動だにしない女の姿は、編み針を操る仕掛けを内蔵した蝋人形のようだった。
 青年のほうは、自分のあいさつに博士が示した反応にがっかりしたらしく、窓のほうに歩み寄り、ぼんやりと向かいのアパートを見つめていた。光の加減のせいで顔が窓に映っていたため、博士はその顔をじっと観察した。見た限りでは、二十代前半のようだった。顔つきは端正で、際立ったあごが意志の強さを表していた。顔はハンサムだったが、博士の見るところ、ユーモアのかけらも感じられないのが玉に瑕だった。ユーモアのセンスもない男はこの世で成功しないというのが、博士の持論だったからだ。
 青年は眉根に深くしわを寄せ、表情を曇らせていた。なにか悩みがあるな、と博士は思った。彼は確か、来客を告げられたとき、娘の椅子のうしろから身を乗り出していた。愛想の悪い対応をしたのも、そのせいなのか? 二人は内密の話をしていたのかもしれん。どうみても二人だけで話をしていた。グレー服の女の存在は、内緒話をするのになんの妨げにもなりそうになかったからだ。この女なら、目の前で二人が窓から飛び降りたとしてもまったく気に留めまい、と博士は思った。
 しかし、これほど深刻そうな悩みに比べれば、自分が束の間闖入したことなどたいした話でもあるまい! 娘はクラヴァートンに来客を告げに行っただけだし、数分もすれば、自分もここからやっかい払いというわけだ。この連中の態度についても、きっともっとましな説明をしてもらえるはずじゃないかな? この家にはなにか謎めいた秘密があるぞ、と博士が判断したとき、ドアが開いて娘が姿を見せた。
 「ジョン伯父さまがお会いになるそうです」と娘は唐突に言った。「図書室におりますわ。場所はご存じですわね?」
 こうして、どうやらプリーストリー博士のことも意識から追い払ったらしく、博士に背を向けて窓際の青年のところに行った。

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ジョン・ロード『クラヴァ-トン事件』第二章-1

第二章

 プリーストリー博士は、娘のぶしつけさを気に留めていないように見えた。博士は客間を出て、音をたてないようにそっとドアを後ろ手に閉めた。しかし、踊り場まで来て、一瞬立ち止まると、あんなおかしな応対をされたことで、この家を立ち去りたい気持ちになっていた。
 しかし、クラヴァートンが図書室で待っていることを考えて思いとどまった。とまれ、あんな扱いを受けたからといって、クラヴァートンのせいではない。それに、クラヴァートンと話せば、あの変な連中とその態度についても何か分かるかもしれないと思ったことも、博士の判断を後押しした。
 博士は図書室のドアを開け、中に入っていった。そこは、十三番地の薄暗い屋内にどうにか入りこんでいた日差しのなごりも完全に遮断されていた。天井から床まで重苦しく垂れた、厚手の黒いカーテンが引かれていたからだ。しかし、人工照明の光では、窓から入る日差しの代わりにはならなかった。読書用ランプがひとつだけ、部屋の隅のテーブルに置かれ、そばの椅子に座っている男を照らしていた。部屋のほかの部分は真っ暗だった。
 博士が入ってくると、ジョン・クラヴァートン卿は物憂げに目を上げた。背が高く、ほっそりしていたが、意志の強そうな顔はひげをきれいにあたってあり、濃い眉の下には深くくぼんだ目があった。だが、博士は、相手に歩み寄りながら、いやな疑問が頭に浮かんだ。自分もこんなに老けてみえるのだろうか?
 というのも、二人とも同い年の五十七歳だったからだ。プリーストリー博士はずっと健康だったし、多くの年下の連中より肉体的にも精神的にも活発だった。持久力でも同じ世代の人々をしばしば驚かせるほどだった。クラヴァートンはといえば、読書用ランプの情け容赦ない光に映し出されたその顔は、まさに老人の顔だった。頬には深いしわが走り、旧友と握手しようと差し出した手の動きには、だるそうな疲労感がにじんでいた。博士がその手を握ると、震えが感じられた。
 しかし、口を開くと、その声には昔の力がまだ失われてはいなかった。「よく来てくれたね、プリーストリー」と彼は言った。「こんなに早く時間を割いてもらえるとは思ってなかったよ。座ってくれたまえ。二人で話せる時間も数分ぐらいしかないからね」
 博士は、最後の言葉でなにを言わんとしたのか訝りながら、請われるままに椅子に座った。「具合がよくないと聞いて心配していたよ」と博士は言った。「様子が知りたくて、なるだけ早い機会に伺ったわけさ。ここのところご無沙汰していて申し訳なかったね、クラヴァートン」
 「ああ、久しぶりだな。ずいぶん様変わりしたと思うだろ?」
 様変わり! 確かに。だが、クラヴァートンは、どういう様変わりのことを言っているのだろうか? 自分の容貌の様変わりのことか? 以前会ったときより十年は老けたように見えるからな。得体の知れない連中が家の中に侵入している様変わりのことか? それとも、ボーマリス・プレイスに生じた外観の様変わりのことを言っているだけなのか? 最後の推測が正しいのだろう、と博士は判断した。
 「この先の住宅区画もみな取り壊されてしまったね」と博士は静かに言った。
 「そう、新たにアパートを建てるつもりのようだね。ここは昔の住宅の最後の生き残りだよ。まあ、かまわんさ。私の目の黒いうちは持ちこたえるし、この家がどうなろうと誰も気にかけまい。我々は移ろいゆく世界に生きているんだよ、プリーストリー。分かっちゃいることだがね。気に入らんかもしれんが、そんな世界に我慢するしかないんだ」
 本当にクラヴァートンはそんなに我慢しているのかな、と博士は思った。しかし、その家の主人は、まるで早く話題を変えたいみたいに、自分のことを話しはじめた。
 「ここ数週間ほど、調子がよくないんだ。腹に痛みを感じたりしてね。ちょっと辛いよ。今までが病気知らずだったからな。この歳になると気をつけなきゃならん。それで、オールドランドに往診を頼んだんだ。もちろん憶えてるだろう?」
 「オールドランドだって! 昔付き合いのあった、あのオールドランド医師のことかね? ああ、もちろん憶えているとも。だが、もう何年も消息を聞いていない。おそらく・・・」
 クラヴァートンは慌てて博士の言葉をさえぎった。「ああ、元気にやってるみたいだよ。数年前に、ケンジントンに診療所を開いてね。私の居どころを突き止めたらしく、訪ねてきてくれたんだ。それ以来、音信を通じるようになってね。私も、診てもらう医師が必要だから、おのずと往診を彼に頼むようになったわけさ。もうじきここに来るよ。四時半頃に立ち寄ると言ってたからね。君も会ったってかまわんだろ?」
 「もちろん、かまわないさ。ずっと親しい友人だったからね。むしろ、あの話を聞いて、とても気の毒に思ったほどだ」
 「おっと、その話は言いっこなしだよ。みんな遠い昔のことさ。オールドランドによると、私には特に悪いところはないそうだ。自信がなきゃ、そんなことは言わん男だよ。その点は誰も疑わなかったことだ。健康に留意するよう言われて、食事制限の指示をもらい、薬もくれた。いい治療をしてくれてるよ。それは間違いない。一、二週間前に比べれば、ずいぶんよくなったよ」
 「それを聞いて安心したよ」と博士は心をこめて言い、ひと息つくと、こう言い添えた。「世話をしてくれる者もなしに、ここで一人暮らしというのはお勧めしないがね」
 クラヴァートンは思わせぶりに笑みを浮かべた。「なに、世話ならしてもらってるさ。ご心配は無用だよ。その手のことはオールドランドにまかせれば大丈夫さ。ちゃんと指示に従っていれば、そのうち回復するそうだし、そしたら、君を夕食にお招きするよ。当分は煮魚ぐらいしか食べられないし、そんなのを一緒に食べてくれとは言えんからな」
 プリーストリー博士は無言だった。この家に入ってからというもの、ずっと当惑した気持ちでいっぱいだったが、ますますその気持ちが強まった。しっかり地に足のついた建物の中にいるはずなのに、そこでの経験は現実離れしているように感じられた。クラヴァートンの態度も不可解だった。明らかに姪のことを話すのを避けている。さっき会ったぶしつけな娘が本当に彼の姪ならばの話だが。客間にいたほかの謎めいた連中のこともそうだ。自分から来てくれと頼んだはずなのだが、友人が来たことを喜んでいるのかどうかもよく分からなかった。
 そう、プリーストリー博士の鋭い観察力によれば、彼にはなにか心にかかることがあるのは確かだ。自分の健康のことを話したり、あれこれ些細なことに言及したりしたが、どうも心底から語っているように感じられない。自分の病気の話をするだけのために、博士に来訪を求めたわけではあるまい。しかし、クラヴァートンは掛け時計に目を向け、自分の腕時計と見比べると、まるで客が好ましくない質問でもしてくるのを恐れるかのように、急いで話の穂を接いだ。
 「具合がよくなったのは、食事制限よりも、オールドランドがくれる薬のおかげなんだ。どういう薬かは知らんが、それを飲むようになってから、ずいぶん調子が良くなってね。薬瓶から出してくる普通の調合薬じゃない。特注しなきゃいかん薬でね。実を言うとな、プリーストリー、ひどく高価な薬なんだよ」
 博士は苦笑を禁じ得なかった。なるほど、この奇妙な家にも一点だけ変わらないところがある。クラヴァートンのへそ曲がりな性格は少しも直っていない。通常の意味でけちというのではない。必要な出費ということなら、気前よくお金を使う。だが、時おり急に、はした金を惜しむことがある。この薬の対価にしても、明らかに彼には不満の種なのだ。
 彼はそばのテーブルに向き直り、高名な薬剤師のラベルが貼ってある箱を取り上げた。「これだよ」そう言いながら、箱を博士に手渡した。「一日四回、食後に一服ずつ飲むことになっている。ひと箱七ポンド六ペンスで、二十四包入っている。それだけで週当たり八ポンド九ペンスさ。この薬が確実に効くと思わなかったら、買ったりはせんよ」
 「そうやってすぐ金勘定してしまうのは、保険数理士という君の職業病だよ」と博士は言った。「治療代ということなら、さほど高い値段とは思わんがね。オールドランドが温泉にでも行けと勧めたら、どうするんだね? たとえば、カールスバート(訳注:温泉で有名なチェコ・ボヘミアの西部の都市)とかね」
 「オールドランドなら、もっとましな療法を知ってるよ」クラヴァートンは顔をしかめながら言った。「だが、なにしろそれだけじゃないんだ。その薬は、瓶入りの水薬と一緒に飲み下さなくちゃならん。これまた金がかかるんだ。そこにオールドランドの診療代が加わるんだぞ」
 博士はうなずいたが、内心、その愚痴が収まるのを待っていた。博士は、さりげなくその箱を開け、中身を見た。ゼラチンのカプセルがたくさん入っていて、カプセルには白っぽい中身が詰まっていた。箱を閉じると、クラヴァートンに返した。
 「ゼラチンのカプセルとは名案だね」と博士は言った。「そのまま嚥下すれば、中身を味わわなくてすむ。我々が若いころ飲まされたような粉の胃薬よりはずっとましだ。ううっ! あの味を思い出してしまったよ。ずいぶん昔のことなのに」
 「そうだな。確かにましだ」クラヴァートンはしぶしぶ認めた。「これほど高価でなけりゃ文句は言わんのだが。ともあれ、粉薬にしたら、もっと安い薬にならんのか、オールドランドに聞いてみなくちゃなるまい。たぶん、味には我慢できるさ。昔のよりひどい薬だって我慢してきたんだぞ。それに、えらく不注意な連中もいるからな」
 彼は箱を開け、中のカプセルを注意深く数えると、「うん、じゃあ見つかったんだな!」と満足げに声を上げた。「よく探せば見つかると言ったんだ。信じられるかい、プリーストリー。カプセルが一つ、二日前になくなってしまったんだよ。どっかの馬鹿が箱をひっくり返して、カプセルを床に散らかしてしまったようでね。自分で金を払ってるんなら、もっと気をつけただろうに」
 「なぜそうなったのかね?」と博士はおざなりに尋ねた。友人とはまともな話はできそうにないと諦めていた。もはやオールドランド医師が来てくれるのを待つばかりだ。そうなれば、この場から逃れて、懸案の仕事に戻れる。
 「なぜそうなったかだって!」とクラヴァートンは声を上げた。「私にもわけが分からんのだ。分かっているのは、月曜のお茶の時間に、この新しい箱を開封したということだけさ。その時に一粒飲んで、その日の夕食時にもう一粒飲んだ。火曜はいつもどおり四粒飲んだよ。水曜の朝食後に一粒飲んで、そのときになにげなく残りの粒を数えたんだ。当然、十七粒あるはずだったんだが、実は十六粒しかなかったというわけさ。
 朝この部屋を掃除するのはフォークナーだから、あいつを呼んで、箱をひっくり返さなかったか聞いてみた。もちろん、きっぱり否定したよ。あいつがやったとは証明できんし、その場はそれですませた。だが、カプセルが一粒なくなっているし、床のどこかに落ちてるはずだと言ってやったんだ。翌朝までに、踏みつけんよう気をつけて、家具の下を探せと指示したのさ。一粒あたり四ペンスもするんだぞ。落としたぐらいで無駄遣いするわけにはいかんさ」
 クラヴァートンはひと息つき、箱の中のカプセルを数え直すと、「見つけたわけだな」と話を続けた。「あいつに聞くのを忘れていたよ。ともかく、今は数がそろっている。今日は金曜だ。月曜にこの箱から二粒飲んで、火、水、木曜に四粒ずつ、今日は二粒飲んだわけだから、全部で十六粒飲んだことになるな。残りは八粒だ。数えてもらえば、あるのが分かるよ」
 「君の言葉を信じるよ」プリーストリー博士は、その話にうんざりしながら答えた。少し間をおくと、なんとか話題を変えようとして、「最近、書物のコレクションになにか面白いものでも加わったかね?」と尋ねた。
 クラヴァートンは残念そうに首を振ると、「実を言うと、新しい分野を開拓する気になれんのだよ」と答えた。「昔からの愛読書を再読するばかりさ。出歩けるようになったら、前からほしかった本を何冊か買おうと思う。リズリントンが火曜にここに来てね。カタログを何冊か持ってきてくれたよ。リズリントンは知ってるだろ?」

テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

ジョン・ロード『クラヴァートン事件』第二章-2

 「名前は君から聞いたことがあるが、会ったことはないと思う。弁護士だったよね?」
 プリーストリー博士は、相手が一瞬顔をひきつらせたのに気づいた。おそらく、患っている痛みを突然催したのだろう。「ああ、私の顧問弁護士でもある」と彼は答えた。「だが、書物の趣味は共通していてね。嗜好もけっこう合ってるんだ。たとえば、降霊術の本のコレクションは、彼もうらやましがっている。だが、君のような現実主義的な科学者には、そんなテーマはまったくのナンセンスにしか思えんだろうがね」
 「人間の思考の道筋は、いかなるものであれ、真の科学者はナンセンスと考えたりはしないよ」と博士は答えた。ようやくまともな話になってきた。クラヴァートンも、やっと瑣末なこだわりをわきに押しやり、分別のある教養人らしい話をする気になったようだ。「降霊術師がただの山師だと言うつもりはないよ。彼らのやった実験は、結果は間違っていたかもしれんが、あの頃の人類に把握できた知識をさらに拡大しようとした一つの試みではあったと思うね」
 「誤っていようとなかろうと、高貴な試みだったよ」クラヴァートンは、今までにないほど熱を込めて言った。「君たち現代の科学者は、調査を行うのに、どんな便宜も支援も得られる。降霊術師たちは、隠れて業を行わなくてはならなかったし、いつ捕縛されて、身の毛のよだつ拷問にかけられるはめになるか分からなかったんだ。だが、彼らは、課された制約にもめげず、近代世界が説明できない成果を成し遂げたのさ」
 「近代世界は、スピリチュアリズムという手法で説明しようと努めているね」と博士は言った。
 またもやクラヴァートンの顔が一瞬ひきつり、少し間をおいてから話を続けた。「スピリチュアリズムだって! 懐疑論者が論じていることよりはましかもしれんがね。私自身は・・・」
 しかし、そのとき、ドアがぱっと開いた。フォークナーの慇懃な声が、「オールドランド医師でございます」と告げた。
 プリーストリー博士は急いで椅子から立ち上がると、「おいとまする頃合いだね」と握手の手を差し出しながら言った。
 「いや、まだ帰らんでくれ」とクラヴァートンは慌てて言った。「オールドランドも、君に再会できれば喜ぶはずだよ」
 「私が来たとたんに、逃げることはないだろうに」ドア口のほうから声がした。「おやおや、これはまた久しぶりじゃないか? 君が来てるとフォークナーから聞いたときは、さすがに驚いたよ!」
 オールドランド医師は、部屋にのしのしと入ってきた。非の打ちどころのない身なりをし、背は低く、頭はほとんど禿げ上がった、太り気味の男だった。博士の見たところ、イングランド中部地方にその名の轟いた万能アマチュア・スポーツ選手の面影はほとんどなかった。久しく会わぬうちに、オールドランド医師は短いあご髭をたくわえ、度の強いめがねをかけるようになっていて、そのせいで小さな射抜くような目が拡大して見えた。
 「ああ、久しぶりだね」博士は握手しながら静かにそう言った。「たった今、クラヴァートンから聞くまで、ロンドンにいるとは知らなかったよ。どうして訪ねてくれなかったんだね?」
 オールドランド医師はかぶりを振り、ややわざとらしく笑うと、「君は大変な重鎮だし、貧しい開業医には、お招きもなしに立ち寄ることはできないよ」と答えた。「科学関係の論文を読むと、決まって君の名が出てくる。昔の友人につきまとわれて、時間を無駄にしたくはなかろうと思ったんだ」
 博士は眉をひそめると、「それはばかげてるよ、オールドランド」とぴしゃりと言った。「こうして再会できたんだし、ぜひ来てくれたまえ。私はウェストボーン・テラスに住んでるんだ。電話帳を見れば住所も載っているよ」
 博士はドアに向かいかけたが、オールドランドは身振りで引きとめると、「私が来たからといって、帰ることはないさ」と強い口調で言った。医師はさりげなく部屋を横切ると、クラヴァートンの座る椅子のうしろに回り、激しく首を横に振ってみせた。博士は、驚きながら医師のほうを見た。なんでまた、オールドランドはこれほど引きとめたがっているのか? 明らかに心配げな様子は、この家に存在する錯綜した謎となにか関係があるのか? 博士がかすかにうなずくと、オールドランドの顔に安堵の表情が浮かんだ。
 「私のせいで君を追い払ってしまうのは忍びないよ、プリーストリー」オールドランドはそう言いながら前に進み出て、患者と向き合った。「診察のために来たんじゃないよ。クラヴァートンが元気そうか見に立ち寄っただけなんだ。明日から出かける予定でね。一週間は顔を出せないんだ。こりゃどうだ、クラヴァートン、今日はとても元気そうじゃないか」
 医師は、プリーストリー博士がさっきまで座っていた椅子に腰を下ろした。博士のほうは、医師と患者同士で話をしてもらおうと気を使い、部屋を横切って、暗がりのほうに移動した。
 ボーマリス・プレイスの外では、倉庫の外に駐車しているトラックが、耳をつんざくようなエンジン音をガタガタと立てはじめた。変速ギアをガタンと入れる音がして、トラックはうなるような音を立てて動き出した。十三番地の家は、その振動で揺れた。トラックが角を曲がっていくと、ノイズはいきなり聞こえなくなった。
 はっとするほどの静寂があとに続き、まるでトラックがボーマリス・プレイスに住む生命体をすべて連れ去ってしまったかのようだった。オールドランド医師がクラヴァートンに小声で話しかけていた。医師の淡々とした声が聞こえるばかりで、それを除けば、家は静寂に包まれていた。
 客間にいた人々の姿がプリーストリー博士の心に思い浮かんだ。その姿は、最初に客間で見たとおりの姿だった。グレー服の女はせわしなく指を動かし、娘は微動だにせず椅子に座り、青年は彼女のほうに身を乗り出している。まるで未知の観衆に見てもらうように配列された、活人画の中の人々のようだ。十三番地の家が隣家と同じ末路をたどるまで、そうやって不動のまま並んでいなくてはいけないみたいだな。
 図書室の本棚に並ぶ書物のほうが、もっと現実味のある存在のように思える。彼らが本だとすると、まるで十三番地特有の暗闇のヴェールに覆われているかのように、博士にはその題名すらも読めなかった。そんな描写がいかにも似つかわしく思える。彼らは昼間の陽光とは無縁だ。彼らが本として語る奇妙な物語は、誰知らぬ夜の産物であり、黒ミサの祭壇で燃える黒いロウソクの明かりでしか読めないのでは・・・。
 プリーストリー博士は、いらいらしながら首を振った。ばかげている。自分までが、この家の不気味な雰囲気に感化されてしまっていた。ただ事実のみを認める自分が、空想のいざないに屈してしまいそうになっている。博士は暗闇に包まれた空想から目をそむけ、光に満ちた現実にゆっくりと戻っていった。
 オールドランドがクラヴァートンにいとまごいし、「来週の日曜にロンドンに戻ってくるよ」と言っていた。「必ずその日の晩に立ち寄るよ。それまでは、カプセルと水薬をきちんと飲んでくれるね」
 「ああ、大丈夫だよ」とクラヴァートンは答えた。「だが、あの憂鬱な食事制限はどうするね? あんな豚のえさにはもううんざりしてきたんだ」
 「悪いが、それもちゃんと守ってもらわなくちゃならんよ。だが、気分転換にチキンを少しくらいなら悪くないだろう。むろん、毎日はだめだよ。まあ、週に二回といったところかな。あとは、代診医の指示に従ってもらわなきゃならん。きっと彼のことも気に入るよ。ミルヴァーリーという若くて礼儀正しいやつだ。私が戻ってくる頃には、君も天気さえよければ少し外出できるくらいよくなっているよ。じゃあ、またな」
 医師は博士のほうを向くと、「君にまた会えて本当にうれしかったよ、プリーストリー」と言った。「ところで、君も帰るのなら、車を外に停めてあるんだ。送っていくがね」
 医師はまたもや、そう話しながらクラヴァートンの座る椅子の背後に回り、話す言葉と同時に激しくうなずいてみせた。今度はなんだというんだ? プリーストリー博士は首をひねった。部屋に入ってきたときは残るように求め、今度はまた、帰るようしきりと促してくる。博士は調子を合わせることにした。クラヴァートンと話そうと思っていた三十分はとうに過ぎていた。十三番地の家を立ち去るのに未練はなかったし、もっとまともな雰囲気の世界に戻りたかった。
 「それはありがたいね、オールドランド」と博士は答えた。「どこでも通りかかりの地下鉄の駅でおろしてくれたらいいよ」
 「お安い御用さ!」オールドランドは熱を込めて言った。「私の家は、サウス・ケンジントン駅のすぐ近くなんだ。その駅で降ろすよ」
 「もう行くのかね、プリーストリー?」とクラヴァートンは名残惜しそうに言った。「もっと話ができると思ったんだがね。話したかったことがたくさんあるんだ。だが、また来てくれるね? それも近いうちにだ。来週はどうだい」
 博士は、せかすような気配のある求めにとまどった。明らかにクラヴァートンには、口には出せないものの、心にかかることがあるようだ。気を楽にさせてやれるよう、もう一度チャンスを与えてやるのがフェアというものだ。
 「来週だって!」博士は合点のいかぬ様子で言った。「残念だが、それは難しい。ほとんど毎日のように予定が入っているんだ。そうだな、差し支えなければ、月曜の朝にでもちょっと寄せてもらうがね」
 「差し支えだって? むろん大丈夫さ! 煩わせて申し訳ないくらいだよ。ご足労願わずに、こちらから伺いたいくらいなんだが、オールドランドが許してくれないんでね。じゃあ、月曜にまた」
 博士はオールドランド医師と連れだって部屋を出た。客間のドアは閉まっていたが、どちらもそっちには向かわなかった。二人は、ほとんど真っ暗な階段を静かに降りていった。しかし、玄関ホールまで来ると、明かりがついていて、フォークナーの平然と構えた姿が目に入った。
 博士は、ホールのテーブルをちらりと見た。帽子が二つだけ、博士のとオールドランドのが置いてあった。フォークナーは二人がコートを着るのを手伝い、正面のドアを開けた。外はまだ明るい日差しが広がっているのに気づき、博士は驚きを覚えた。
 しゃれたリムジンが、そばに立っている制服の運転手とともに道に停まっていた。二人は乗り込み、オールドランドは安堵のため息とともにクッションに身を沈めた。「あの家にいると背筋がぞっとするよ!」と彼は言った。「もちろん、君はあんなおかしな雰囲気に感化されたりはしないだろうがね、プリーストリー」
 「正直、今日体験したことには、まったく当惑させられたよ」と博士は答えた。
 「当惑だって? 当惑しているのは君だけじゃないぞ。今日あの家で君に会えて、本当によかったよ。それに、月曜にもう一度クラヴァートンに会ってくれるとはね。けっこうなことだ!」
 「旧友と話をするのが、彼には気休めになると思ってるんだね?」と博士は尋ねた。
 「いやいや、そういうことじゃないんだ。まったく違うことなんだよ。なあ、プリーストリー、君が私のことをどう思ってるかは知らん。確かに、私の人生には、君がけしからんと思うようなこともあったさ。だが、なにをしでかそうと、医者は自分の職業に誠実なのだということを信じてもらいたいね」
 「なあ、オールドランド、君の個人的な問題に口を差し挟むつもりはないよ。それはあくまで君自身の問題だからね」プリーストリー博士はそっけなく言った。「我々の友情だって、没交渉になったときに遡ってやり直したっていいとは思うがね」
 「そう言ってくれると嬉しい。その言葉は文字通り受け取らせてもらうよ。さっき君と顔をあわせて、すぐ知恵を借りようと思ったんだ。実はね、プリーストリー、君に話があるんだよ。それも大至急でね」
 「クラヴァートンのことかね?」と博士は尋ねた。
 「クラヴァートンのことさ。困ったことに、私は明日早朝にロンドンを発つ予定でね。できれば出発を延ばしたいんだが、どうしても無理なんだ」
 博士はすぐに心を決めた。クラヴァートンについての情報がほしかった。オールドランドは、しばらく前から彼の主治医をしているし、十三番地の家にまつわる謎を解く手がかりをくれるかもしれない。首を突っ込むつもりはなかったが、自分でも言ったように、博士は当惑していた。当惑を覚えることはなんであれ、解明してやりたいという、ほとんど情熱とも言うべき欲求を感じるのだった。
 「今日は夕食でも一緒にどうかね?」博士は試しに提案してみた。
 「ぜひそうしたいところだがね!」とオールドランドは声を上げた。「実にありがたい話だよ。ところが、代診医が七時に来るんだ。仕事の引き継ぎに一、二時間はかかる。だが、私のほうから提案させてもらうよ。君の都合がよければだがね。夕食後なら、君のお宅に寄れると思う。そう、九時半から十時のあいだではどうだね」
 「大丈夫だよ。ちなみに、今日は私しか家にいないんだ」
 「けっこうだ! これ以上の機会はないよ」
 車はサウス・ケンジントン駅の前に停まり、プリーストリー博士は降りる準備をした。博士が車から降りようとすると、オールドランドが博士のひざにちょっと手を置いて引き留めた。「実を言うとね、クラヴァートンのことをとても心配してるんだよ」と彼は憂鬱そうに言った。

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