ヘレン・マクロイとベイジル・ウィリング博士

 ヘレン・マクロイの『暗い鏡の中に』が創元社から新訳で出るという案内がメールで来ていた。
 ミステリ作家達が、自分が影響を受けた作品について語っている“Mystery Muses”(2006)の中で、EQMMの書評欄「陪審席」の担当者でもあった、ジョン・L・ブリーンがマクロイの『死の舞踏』を取り上げて、こう語っている。
 「『死の舞踏』は、彼女をS・S・ヴァン・ダイン、エラリー・クイーン、ジョン・ディクスン・カー、アンソニー・アボット、アンソニー・バウチャー、クライド・B・クレイスン、スチュアート・パーマー、クレイトン・ロースン、C・デイリー・キングといったアメリカン・クラシックの名誉ある仲間に加えた」。
 確かに、邦訳のある『死の舞踏』、『家蠅とカナリア』、『ひとりで歩く女』、『暗い鏡の中に』、『幽霊の2/3』、『殺す者と殺される者』、『割れたひづめ』を読んでも、いずれも練りに練られた謎解きのプロットという点で際立っている。
 加えて、特に、精神科医のベイジル・ウィリング博士を探偵役にしたシリーズは、専門知識を縦横に駆使してプロットの要としているところが独創的。夢遊病(“The Man in the Moonlight”、“The Long Body”)、多重人格(“Who’s Calling?”、『殺す者と殺される者』[但し非ウィリング物])、ドゥードルに基づく心理分析(“Who’s Calling?”、“The Goblin Market”)、ファシズムにおける異常心理(“The One That Got Away”、“Alias Basil Willing”)など、精神分析学上の知識が、ただの蘊蓄として空回りせずに、巧みに謎解きのプロットに織り込まれているところが見事だ。
 デビュー作の『死の舞踏』が既にそうで、痩身剤の広告のモデルとなった娘が殺された理由がプロットの要だが、その着想は、クリスティのミス・マープル物のある傑作を連想させる。
 (余談だが、ある日本のリファレンス・ブックでは、この作品を不可能犯罪物の傑作として言及している。“Locked Room Murders”のロバート・エイディもそうだが、人間心理の不可思議さではなく、雪の中の死体が熱を帯びているという現象の方が重要だと考えているらしい。その謎自体はすぐに判明し、作者自身、さほど重きを置いているとは思えないのだが、そんな周辺的な小道具がとても重要なことと思う批評家もいるのかと、私などは首を傾げてしまう。)
 ただ、シリーズ・キャラクターのウィリング博士は、初登場時からして、ほとんど人間性がつかめない無色透明なところがあり、喜怒哀楽を感じさせない個性の乏しさが、このシリーズの弱さだ。原書でもマクロイの作品は現役で手に入らないものが多く、後期の作品の水準が著しく落ちることが原因とされるが、それでも、ウィリング博士が魅力的な個性や強力なカリスマ性を持っていたら、マクロイの人気はもっと持続的なものになっていたかもしれないと思う。
 ウィリング博士の妻となるギゼラ・フォン・ホーヘネムスは、“The Man in the Moonlight”(1940)で、犯行現場であるヨークヴィル大学のコンラディ博士の秘書として初登場し、次作“The Deadly Truth”(1941)をはじめ、その後の作品でもたびたび登場する。
 “Alias Basil Willing”(1951)では既に結婚していて、“The Long Body”(1955)では、二人の間にできた娘が初登場する(ここでは、名前はエリザベスとなっていて、リサと呼ばれている)。
 ウィリング博士の個人史は、短編集“The Pleasant Assassin and Other Cases of Dr. Basil Willing”(2003)に収録された後期の短編の中で駆け足で進展し、彼は急速に年をとっていく。
 標題作“Pleasant Assassin”(1970)では、娘は既に大学に通っていて、ウィリング博士はボストンに移り住んでいる。地方検事の顧問も既に辞め、ハーヴァードで教鞭をとる悠々自適の生活に入っているようだ。(奇妙なのは、博士の娘はここでは母親と同じギゼラと呼ばれていること。いつ名前が変わったのか、ワトスン医師やメグレ警視以来の珍事。)
 “A Case of Innocent Eavesdropping”(1978)では、ウィリング博士の娘は既に結婚して海外に移り、彼は引き続きボストンに住んでいる。この作品で初めて、妻ギゼラが死んだこと、その後にボストンに移住したことが触れられている。
 最後の短編“That Bug That’s Going Around”(1979)は、娘ギゼラのいるリンカーンをウィリング博士が訪問した時のことになっている。(前の短編では、娘は海外に移住したことになっていたはずだが、ネブラスカ州のリンカーンならabroadとは言えまい。イギリスのリンカンシャーの首都かもしれないと思ったが、ギゼラの夫で微生物学者のアラン・シップリーは、ワシントンの上院委員会で汚染について証言しているという言及もあり、どう考えても舞台はアメリカ。どうも細かい点に矛盾があるようだ。)
 ピーターというよちよち歩きの孫も登場し、ウィリング博士はとうとうおじいさんになっている。ほかならぬギゼラの家で事件は起こり、幼い孫までが巻き込まれる。事件そのものは生物兵器という時代を先取した大きなテーマを扱っているが、実際の展開は家庭内で起き、セイヤーズの「桃泥棒」に似て、最後の短編にふさわしい舞台設定になっているのが面白い。
 マクロイ自身が、“Twentieth Century Crime and Mystery Writers”(1980)に寄せたコメントで語っているように、彼女はウィリング博士に親しみを感じていたし、後期の短編の中で彼の人生をささやかに祝福してやりたいと思ったのだろう。この点では、ドロシー・セイヤーズが、ピーター・ウィムジイ卿とハリエット・ヴェインのカップルを、その出会いから、ハリエットの出産を経て、成長した子供達に愛情を注ぐ初老の夫婦となるまで描いたのと似ている。
 祝福された引退でなく、ウィリング博士を再び表舞台で活躍させてやろうという意気込みで書かれた『読後焼却のこと』が結局は遺作となったが、これだけ人生行路を描いてもらった探偵もそう多くはいないのではないか。
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ベイジル・ウィリングと第二次大戦

 “Twentieth Century Crime and Mystery Writers”(1980)に寄せたコメントの中で、マクロイは、初期作品における第二次大戦への言及が後年の版で削除されたのは間違いだったと語っている。戦争への言及は、今日、それ自体が歴史的な関心の的だという理由からだ。
 それだけでなく、大戦中に書かれたマクロイの作品は、しばしば戦争それ自体がプロットの重要な要をなしている。
 “The Goblin Market”(1943)は、南米のサンタ・テレサ共和国という架空の国の首都プエルタ・ヴィエハが舞台となっている。標題は、祖国を裏切ってナチスの潜水艦に燃料の石油を供給して儲けている取引を指すものだ。
 どの著作リストを見ても、この作品はウィリング博士物とされているが、肝心の博士はいくら読み続けても登場しない。フィリップ・スタークという文無しの記者が主人公だが、最後の最後で、この作品が正真正銘のウィリング博士物だと分かる仕掛けになっている。
 ミッチという(「キャパシティ」というあだ名で呼ばれる)女記者が、ウィリング博士の学説をスタークの前で引用する場面が出てくるが、彼女は、ニューヨークにいる博士に助言を請うため、小切手同封で事件の概要を手紙で送る。そして、最後に、なしのつぶてに業を煮やした彼女から、小切手を返してくれと求める手紙を博士が受け取るという結びなのだが、これがニヤリとさせられるオチなのだ。
 時代を反映して、一種の反枢軸国プロパガンダになっていて、謎解きとしては、それほど独創的なプロットや仕掛けを持っているわけではないが、今読んでも十分楽しめる作品に仕上がっている。
 この作品は、邦訳のある『ひとりで歩く女』の姉妹編的位置づけにあり、本作に脇役として登場するミゲル・ウリサール署長は、『ひとりで歩く女』では主役を務めることになる(“The Goblin Market”の事件が話題になる場面もあるが、邦訳は注も付けていないので、読んでいない者には分からない)。
 意外と人間味があって、マクロイが気に入って再登場させたのも分かるが、女記者のミッチと、スタークの部下ヴィセンテも、なかなか魅力的なキャラクターで、後続の作品で彼らを再登場させなかったのが惜しまれる。いつもは個性が希薄で存在感が乏しいウィリング博士だが、本作では一段と血の通った存在に感じられる。
 最後の場面で、ウィリング博士はスコットランドへの派遣を命じられ、“The One That Got Away”(1945)を予告する結びになっている。

 その“The One That Got Away”は、謎解きとしても見事な傑作だ。スコットランドの湿原地方を絵画的に描写しているのも素晴らしいが、プロットの独創性は、マクロイの作品中でも一、二を争うほどではないかと思う。
 護送車から逃げて、正体を隠して潜伏しているナチスの兵士は誰なのか。隠遁者の作家か、フランス人の家庭教師か、という謎を持続させながら、最後に意外な人物を指し示すことに成功している。
 伏線の張り巡らし方もいつもながらの手際の良さで、熟練した技量を感じさせる。戦後間もない時期の作品だけに、ナチスの存在が色濃く影を落としているが、その時代背景を、タイミングを逸することなく効果的にプロットに活用している点も特筆されていい。
 前半の語り手は、ダンバーという名の精神科医で、もしやウィリング博士の変名かと疑ったりしてしまうが、この点では肩透かしを食わされて、後半でちゃんとウィリング博士が登場し、冴えた推理を披露してくれる(軍役に服しているため、ウィリング大佐となっている)。これも作者が読者に仕掛けたサービスの一つだろう。

 なお、私の持っている“The Goblin Market”の米初版には、「フォトジャーナリズムの父」と呼ばれた写真家、アルフレッド・アイゼンスタットに宛てたマクロイの献辞が書き込まれている。

マクロイ署名


‘To Alfred Eisenstaedt – with many thanks for the indiscreet conversation that started this book on its say! Helen McCloy’

とあり、アイゼンスタットと何気なく会話した言葉がこの本の着想になったことが暗示されている。

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ベイジル・ウィリング博士とソーンダイク博士

 ヘレン・マクロイが創造したベイジル・ウィリング博士のシリーズを読んでいると、当然の連想ではあるが、フリーマンのソーンダイク博士を彷彿とさせることがある。いずれも医学の専門家で、名探偵にありがちな奇癖もなく、紳士的な人物だからだ。それでいて、同じ医学でも、ソーンダイク(フリーマン)は専門が異なるせいか、精神科の分野に立ち入ることがほとんどなかったため、ウィリング博士の探偵術は、ソーンダイクの二番煎じとならずにオリジナリティを発揮できたとも言えそうだ。
 そう考えてくると、マクロイはフリーマンの作品にもそれなりに親しんでいて、意識していた面があったのではないかと推測したくなるのだが、作品自体を読んでいても、その証拠を見つけることはなかなかできない。
 わずかではあるが、“The Thorndyke File”第11巻(1981)に寄せられた、編者ジョン・マカリーアの夫人、ルース・D・マカリーアの証言がある。それによると、マクロイは、マカリーア夫妻に対し、『死の舞踏』(1938)でウィリング博士をデビューさせる前から、ソーンダイク博士物については生半可以上の知識を持っていたと断言していたらしい。ルース・マカリーアは、そこから、『死の舞踏』に登場するヴィクトリーヌはポルトンを模倣したキャラクターではないかと推測しているようだ。
 それはともかくも、国も違えば、世代も異なる作家ではあったが、マクロイがフリーマンの作品を意識していたと言われると、それなりに納得できてしまうし、上記証言からしても、ウィリング博士の人物造形がソーンダイク博士からある程度の影響を受けていた可能性はかなり高いのではないかと思っている。

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脱線の余談――物は言いよう

 ヘレン・マクロイの『小鬼の市』を読み終えたという友人。なかなか面白かったという。ところが、同じ本を話題にしているのに、妙に話がかみ合わない・・・。その部分の会話を補正も加えて再現すると、概ね以下のとおり。
 「僕も『小鬼の市』はそれなりに面白いと思ったけど、戦時中に書かれただけあって、一種の反枢軸国プロパガンダになっているところがちょっと気にはなったね。もちろん、時代背景を抜きに理解も評価もできないんだけどね。
 実は僕は米初版で読んだんだけどさ。なにしろ、1943年という大戦のさなかに出版されたものだろ。扉に「ビクトリー・エディション」と記されていてね。「この本の活字のサイズと型は、戦時生産委員会の紙資源保護令に従っている」なんて説明があるのさ。紙資源保護令というからには、できるだけ活字を小さくして紙を無駄にしないように規制をかけたんだと思うけど、実際はさほど細かい活字でもないし、なるほどよくよく見れば余白が比較的少ない印象はあるんだけど、そう言われない限り気づかないよ。
 戦時の制約があったといっても、70年も前の本だというのに、いまだに保存状態もいいし、黄ばみや痛みもほとんどないのは、元の所有者(注-写真家のアルフレッド・アイゼンスタット)が大切に保存していたというだけじゃなくて、実際、紙質もいいからなんだ。食糧すら満足に確保できなかった当時の日本と比べて、アメリカはこれほど悠々とした生活水準を維持していたんだな、と思ってね。しかも、こっちは言論も出版も自由ではなかった時に、アメリカでは、人々はこんな娯楽作品を読んでたんだ、なんてことまで思っちゃったわけよ。なにしろ日本への言及がチクチクと出てきたからね」
 「へえ、原書で読んだのかい。確かに、当時、アメリカは日本と戦争してたわけだけど、さいわい、ストーリーはナチス・ドイツを敵に想定した話になっていて、日本のことはそれほど出てもこなかったし、あんまり気にならなかったけどね。確か、『暗い鏡の中に』では、ウィリングは日本に行ってたって話も出てきたよな。案外、マクロイは日本が気に入ってたのかもしれんぞ。「燕京綺譚」なんて東洋趣味の短編まであるくらいだし」
 「ずいぶんと寛大な見方するじゃない。けっこう日本人のことを悪しざまに書いてたのに。登場人物の一人が、香港にはジャップどもがゴキブリのようにうようよ群がってると吐き捨てる場面だってあったじゃないか」
 このあたりまで来て、友人はなんとなく違和感を抱き始めたようで、
 「・・・悪いけど、そりゃなんかの勘違いだろ。そりゃ、俺たちは親も戦争を知らない世代に属するわけだから、大戦は既に「歴史」の域に入っちゃってるわけだけどさ。「ジャップ」なんて言葉が出てきたら、さすがに俺だって目に留まるし、気づくぜ」ときたものだ。
 そう言われると気になってしまい、訳本を借りて確かめてみることにした。すると・・・
 まず日本が言及されるのは、邦訳81頁以下。スタークを暴漢が襲うシーンだ。この暴漢たちが使う技は、「またしても日本式だ――きわめて素朴で強靭な人々が暮らす、極東の島国で生まれた技だ」(82頁)という。
 原文は、

More Jap stuff—a trick from the lonely outlying islands of Nippon where the people were unusually simple and savage…

 「孤立した辺鄙な(lonely outlying)」島国に住む「単純で野蛮(simple and savage)」な民族が生み出した技だからこそ恐ろしいのではないのか。「素朴で強靭」とは、まるで褒められてるみたいだ。
 その少しあとに出てくる「冷徹で、しかも腕が立つ」も、原文は、‘skillful and ruthless’。「冷酷(ruthless)」と「冷徹」は一字違いだが、意味合いは随分違う。
 同頁の「暴漢二人組は日本人ほど痛みに強くなかった」は、原文では

They were not as impervious to pain as Japanese would have been.

 日本人は「痛みに無感覚(impervious to pain)」だとは、まるで神経が他国民より麻痺しているみたいだが、「痛みに強い」というと、実に忍耐強い民族だと褒められているような気がする。
 会話に出てきた香港云々の部分は、邦訳では164頁。「日本人がうようよしているのが玉に瑕ですがね」とエメットが語る箇所だ。原文は、

Tiresome to think of those wretched little Japs swarming all over it like cockroaches…

 ‘wretched little Japs’が「ゴキブリのように」うようよしていると言っているのだが、随分と丸く省いて表現してくれたものだ。
 もちろん、著者のマクロイを批判する意図があって原文を示しているわけではない。それを言うなら、エラリー・クイーンだって、1945年の『フォックス家の殺人』では、「日本兵を何人ぐらいやっつけましたかね?」などと登場人物に臆面もなく発言させたりしているわけだが、これだって時代的制約を無視して理解することはできまい。今は英語教育に力を入れている日本だって、「鬼畜米英」などと呼んで英語の使用を制約していた時代があったのだ。そんなことに目くじらを立てて、来日もし、日本ミステリのアンソロジーも編んだほどの親日家だったクイーンが反日感情の持ち主だったと思う者はいないだろうし、来日の際に『フォックス家の殺人』の記述を持ちだして誰かがダネイ氏に詰問したなどという話もついぞ聞いたことはない。けだし当然だろう。
 ただ、以前の記事でも書いたように、マクロイは後年、戦争への言及は今日ではそれ自体が歴史的な関心の的だという理由から、初期作品における第二次大戦への言及が後の版で削除されたのは間違いだったと語っていた。戦後間もない頃は、敵国から同盟国・友好国になったばかりの日本やドイツに対する配慮もあって、過去の刺激的な記述を削除・訂正することが適切と思われた時期もあったかもしれない。しかし、大戦が歴史に属するものにもなった現在、そんな配慮よりも、同時代を理解するよすがとして、当時の記述をそのまま活かすことがむしろ適切な対応ともいえるからだろう。
 その意味で、個人的には、原意を活かして訳せばいいのに、とも思うし、貶し言葉が褒め言葉に代わってしまうようでは如何なものかと思わぬでもない。とはいうものの、いくら世代が違うとはいえ、日本人を貶す表現が出てくれば気分がいいものではないし、だからこそ印象にも残ったわけだ。もしかすると同書の訳者は、読者にミステリとして素直に楽しんでほしいとの願いから、要らざる不快感を与えまいとの配慮を訳に反映させたのかもしれない。そのことを多とする読者もきっといることだろう。なので、良し悪しを云々するつもりはないし、そこは一人一人の読者の判断かもしれない。
 さらなる余談になるかもしれないが、邦訳では省かれているものの、原書には、

To the Air Raid Wardens
Of Sector Ⅰ, Zone A, Precinct 15,
In the City of New York

という献辞がある。これも戦時を偲ぶよすがというものだろう。
 なお、近々、同書の続編、“The One That Got Away”の邦訳も刊行されるそうだ。お気に入りの作品だけに、これも友人に勧めたいところだ。


小鬼の市

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脱線の余談――底本にはご注意

 我が国における海外ミステリの紹介は翻訳に大きく依存しているわけだが、翻訳書を手にする際、翻訳そのものはもちろんのこと、実は、どの版を底本にしているか、ということも、翻訳を手がけたことのある者としては非常に気になる問題だ。
 以前の記事でも書いたが、クリスティの『三幕の悲劇(三幕の殺人)』、『動く指』は、英版と米版ではテキストに重大な異同がある。『動く指』は、明らかに英版のほうが充実した版であり、邦訳もこれを底本としているため、何の問題もない。ところが、『三幕の悲劇(殺人)』のほうは、大団円の付け方に重大な差異があり、どちらが最終形にしても、優劣を付け難い面がある。さいわい、いずれの版も邦訳が出ており、かえって読み比べる楽しみまであるのが我が国の読者にとっては嬉しいところかもしれない。ヴァン・ダインの『グリーン家殺人事件』もやはり米版と英版に異同があり、これも両方とも邦訳があるため、読み比べて違いを確かめることができるようだ。
 むしろ悩ましい問題と思えるのは、誤植などのミスや、のちの版における改訂のほうだ。例えば、単純に考えると、初版にあった誤植はのちの版では訂正されていくだろうから、初版よりのちの版のテキストのほうが正確なのでは、と思いそうになるのだが、私自身の経験では必ずしもそうではない。
 フリーマンの長編は、新しいところでは、バタード・シリコンのオムニバスやハウス・オブ・ストラータス社のペーパーバックが出ているが、英初版のテキストと比較すると、これらには植字上のミスが散見されるし、『キャッツ・アイ』の推敲をしていた時も、バタード・シリコンのテキストにわけの分からない変更があちこちに施されているのに気づいて当惑させられたものだ。ハウス・オブ・ストラータス社版が、“Felo de Se?”の標題の終わりのクエスチョン・マークを省いて“Felo de Se”と勝手に変えていることも海外のサイトで指摘されているが、これも意味不明の改変と言わざるを得ないし、つぶさに確認したわけではないが、おのずとテキストも疑わしく思えてくる。
 やはり作家の出身国の初版のほうが正確である場合が多いようで、『オシリスの眼』では、アメンエムハト四世というエジプトのファラオが、米初版ではなぜかアメンホテプ四世になっていたりと、とんでもないミスが生じているし、ほかにも妙な誤植や誤りがあちこちにあるのに気づいた。ロードの『代診医の死』でも、米初版で首を傾げる箇所にぶつかって英初版を確認すると、誤植だと分かった個所もある。
 初版に入っていた図面や写真等がのちの版で省かれることも珍しいことではない。フリーマンについては、このブログの記事でも解説してきたが、クリスティをはじめ、ほかの作家でもしばしば見られる現象だ。アリンガムの長編もそうで、これは翻訳者の小林晋氏も解説で述べていて、底本選びに苦心されたことが窺える。翻訳者とは本来、こんな問題でも悩んだり、調べたり、探したりしなくてはいけないものなのだ。
 だからというので、初版に依拠すれば安心かというと、そうでもなく、のちの版で著者が新たに序文を加筆したりしている場合もあるから要注意だ。例えば、これも以前の記事で解説したが、クリスティがのちのペンギン・ブック版で加筆した序文は、必ずしも邦訳に採り入れられているわけではない。クロフツの『樽』にものちの版に著者序文が加筆されているが、これを採り入れた邦訳は新訳も含めて一つもない。
 さらにややこしいのは、著者自身が改訂版を出している場合だろう。以前の記事でもご紹介したとおり、クリスティの戯曲にも、のちにテキストが改訂されているものがある。長編の場合と同様、たいていは改訂後のテキストのほうが充実・改善しているものだが、差別用語の削除などは判断に迷うところ。時代背景の理解とともに、著者自身の本意と言えるかどうかという問題もあるからだ。
 フィリップ・マクドナルドも改訂版をしばしば出した人で、『迷路』は明らかに改訂後の版のほうが充実していて、邦訳もこれに基づいている。他方、『ライノックス殺人事件』は、初版等で随所に挿入されていた、読者への注意喚起の‘Comment’がのちの改訂版では省かれてしまい、奇抜な趣向がやや後退してしまっているのだが、創元社の邦訳では、あとがきで改訂のプロセスを解説して読者に便宜を図っているようだ。
 ヘレン・マクロイも、1970年代に英ゴランツ社から出た版を参照すると、初版にはなかった章題を加筆したり、章の区切りを変更したりと、あちこち改訂を加えていることが分かる。さらに、これはマクロイ自身も語っていることだが、大戦前後に書かれた作品は、のちの版で戦争に関連した時局的な言及を省略・変更するなどの改訂を加えている。例えば、“Who’s Calling?”では、1973年のゴランツ社版を見ると、ヒトラーやナチス、敵国側のプロパガンダ活動、戦時の品不足など、第二次大戦関連の言及が全体にわたって削除・変更されているのが分かる。一例を挙げると、モロウ社の米初版の最終頁には、‘Fort Hancock in the Army Medical Corps’という、明らかに戦時を連想させる場所の言及が出てくるのだが、ゴランツ社版では、‘Johns Hopkins’と、今もある医学で有名な大学の名前に変更されている。
 この点については、マクロイ自身が、こうした改訂を行ったことは間違いだったとのちに語っていることを踏まえると、むしろ改訂前のテキストを選択するのが、著者の最終的な意図に即した対応ということになるだろう。リファレンス・ブック等によっては、“Panic”に1972年の改訂版があることしか言及していないが、これは、同書の改訂版でマクロイ自身が序文を寄せてわざわざ説明しているからで、実際はほかに幾つも改訂版があるから要注意なのだ。ちなみに、近年になって邦訳の出た『小鬼の市』と『逃げる幻』は、いずれも初版にはない章題が入っているので、ゴランツ社版等ののちの改訂版を底本にしているのだろう。
 ついでに言うと、若干気になるのは、改訂版を底本に選択したこと自体は判断の問題なのでとやかくは言えないのだが、改訂版の刊行が1971年以降だとすると、この版をベルヌ条約の「10年留保」に該当するものと考えていいのか、という疑問が浮かぶこと。もし改訂版が初版とは別物という整理になるなら、翻訳権を取得せずに刊行しているのは問題ではないかということになるのだが、この点は著作権に詳しい人に聞いてみないと分からない。
 (ちなみに、さらに脱線になるかもしれないが、『逃げる幻』の原題は、“The One That Got Away”。これは、釣り関連でもよく使われる言葉で、「逃がした魚(大物)」の意。‘The one that got away is always bigger.’と言えば、日本のことわざと同じで、「逃がした魚は大きい」という意味になる。購買意欲をそそるタイトルにするために、訳書に原題とまるで違うタイトルを付けることは珍しくないので、「逃げる幻」という、分かったような分からないようなタイトルも、ある意味、仕方ないと思わぬでもない。しかし、本文となると、事情は違う。ネタばれになりそうだが、作中でもシングル・クォート(かっこ)で囲われて何度も出てくるこの表現は、「逃げた大物」とは誰なのかという謎の提示によって、犯人の意外性をそれだけ際立たせる効果を持っているのだ。これを「逃亡捕虜」のようにべたっと訳すと、せっかくのニュアンスが生きてこないのだが、気づいた限りでは、残念ながら訳に生かされているとは言えないし、かっこも省かれて目立たない言葉になっている。せめて訳注か解説でもあればと思ったが、あとがきにも原題の意味についての説明はないようだ。)
 底本にどれを選ぶか、複数のテキストを前にしてどう取捨選択するか――これは翻訳者を悩ませる(あるいは、本来悩まなければならない)重大な問題なのである。

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