ジャック・フットレル《思考機械》シリーズ連載

 これから、ジャック・フットレルの《思考機械》シリーズの未訳作品を当ブログでご紹介していきたいと思います。第一弾は「正体不明の男」(原題:The Strange Case of the Man Who Was Lost)。一節ごとにアップしていく予定です。
 (新着記事からだと順序が逆になってしまいますが、右側のカテゴリ欄の「フットレル《思考機械》シリーズ」をクリックして入っていただければ、最初から読んでいくことができます。)
 取り上げる順番も掲載頻度もまちまちになるかもしれませんが、ほかの記事の合い間に、地道にご紹介していくことができればと思っています。乞うご期待。
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テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

ジャック・フットレル「正体不明の男」(一)

正体不明の男



 この事件は、科学者にして論理学者であるオーガスタス・S・F・X・ヴァン・ドゥーゼン教授に持ち込まれたところから物語が始まる。教授は、この事件の首謀者から直接説明を聞いたあと、これは今までに関わった事件のなかでも最も魅力のある事件の一つだと太鼓判を押した。そして・・・
 いやいや、ちゃんと初めからお話ししよう。

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 午後二時、《思考機械》はつつましやかな自宅にある小さな実験室にいた。マーサは、この科学者に仕えるただ一人の使用人だったが、しわだらけの顔に戸惑いを浮かべながらドア口に姿を見せた。
 「男の方がお見えです」と彼女は言った。
 「名前は?」《思考機械》は振り返りもせずに問い返した。
 「その・・・お名乗りになりませんでした」彼女は口ごもった。
 「来客があったら必ず名前を聞くようにと、いつも言っとるじゃないか、マーサ」
 「お聞きしたんですけど・・・知らないとおっしゃるんです」
 《思考機械》は驚きというものを知らぬ人だったが、このときばかりは、まごついてマーサのほうを振り向き、度の強いめがねの奥から彼女をにらみつけた。
 「自分の名前を知らないだと?」と彼は繰り返した。「なんと! 間が抜けすぎている! その方をすぐに応接室にご案内してくれ」
 というわけで、これ以上の予備知識もないままに、《思考機械》は別室に入って行った。謎の男が立ち上がって進み出た。背が高く、見たところ三十五歳くらい。ひげもきれいにあたってあり、実業家らしく、鋭く油断のなさそうな顔をしていた。目の下のくま、ひどく青ざめた顔色さえなければ、きっとハンサムだったろう。身なりは全身非の打ちどころがなく、概して人目を引きそうな男だった。
 彼はしばらく、科学者のほうを不思議そうに見つめた。その様子には、驚きを慎ましやかに表す育ちの良さが垣間見えたかもしれない。巨大な頭をまじまじと見つめながら、黄色い髪にまごつき、細いなで肩にも目を見張っていた。こうして二人はしばし相対していたが、背の高いその男と比べると、《思考機械》はまるで小びとのようだった。
 「それで?」と科学者は聞いた。
 謎の男は部屋の中をふらふら歩き回ると、答える代りに、科学者が勧めた椅子にドスンと腰を下ろした。
 「ご高名をお聞きしましてね、教授」男はよく自制した声で話しはじめた。「それで、思い切って、ご助言をいただきにお訪ねしようと思ったんです。とても妙な境遇にあるんですよ。頭がおかしいわけじゃありません。どうかそんなふうに思わないでください。でも、このひどい苦境から脱しないと、本当に頭が変になります。実際、もう神経がまいってしまいました。とてもまともじゃいられません」
 「君自身のことかね? どういうことだ? 私にどうしてほしいのかね?」
 「自分が分からない。どうにも分からないんです」謎の男は言った。「家も仕事も、自分の名前さえも分からない。自分自身のことも、今までの人生も、なにもかもです。四週間前より以前のことになると、さっぱり分からないんです。自分の身元の手がかりを探しています。料金が必要でしたら・・・」
 「そんなものは要らんよ」と科学者は言い、来客の目をじっと見つめた。「そもそも分かっているのはどんなことかね? 記憶している時点からすべて話してくれたまえ」
 教授は椅子に深々と座り、上のほうをじっと見つめた。謎の男は立ち上がり、部屋の中を何度も行ったり来たりすると、再び椅子にドシンと座った。
 「まったくわけが分からない」と彼は言った。「大の大人だというのに、まるで言葉以外なにも分からない世界に生まれ落ちたも同然なんです。椅子とかテーブルみたいなごく普通の物は分かるんですが、自分が誰で、どこの出身で、なぜこの土地に来たのかはまるで分からない。四週間前の朝、目を覚ましたときの体験からご説明しましょう。
 あれは八時か九時頃でした。私は部屋にいました。すぐにホテルだと気づきましたが、どうやってそこに来たかも分からないし、部屋も見たことがありません。着替えはじめたときも、自分の服にすら見覚えがありません。窓の外を見ても、まったく見慣れない風景なんです。
 身支度をしたり、これはどういうことかと考えたりしながら、部屋で三十分ほど過ごしました。そしたらいきなり、なんとも困ったことに、自分の名前も、家の住所も、自分のことはなに一つ分からないと気づいたんです。泊まっているホテルもどこのホテルか分からない。おそるおそる鏡をのぞきました。そこに映る顔も知らない顔です。得体の知れない顔というわけじゃありません。ただ、知っている顔ではなかったんです。
 信じられないことでした。そこで、身元の手がかりがないか、とっかかりに服を調べました。ピンとくるものはなにもありません。紙切れのたぐいもないし、私用公用を問わず名刺もありません」
 「懐中時計は?」と《思考機械》は聞いた。
 「ありません」
 「お金は?」
 「ええ、金はありました」と男は言った。「ポケットに、百ドル紙幣で一万ドルの札束があったんです。誰のお金か、出所がどこかは分かりません。それからというもの、そのお金で食ってますし、今後もそうせざるを得んでしょう。でも、それが自分の金かどうかも分からないんです。見れば金とは分かりますが、以前見たことは思い出せないんです」
 「装身具は?」
 「このカフスボタンです」男はポケットから一対のボタンを出して見せた。
 「続けたまえ」
 「身支度を終え、下に降りて事務室に行きました。ホテル名と自分の名前を確かめるためです。宿帳から情報を得られると思いましたので。それも、人目を引いたり、頭が変だと思われることなしにね。部屋番号は確かめておきました。二十七番です。
 さりげなく宿帳に目を走らすと、ボストンのホテル・ヤーマスと分かりました。注意深くページを繰って、自分の部屋番号のところを見ました。その番号の横には、ジョン・ドーンという名前がありました。でも、住所を書く欄には、横線が引っ張ってあっただけです」
 「ジョン・ドーンが自分の名前かもしれないと思うんだね?」と《思考機械》は聞いた。
 「もちろんです」と相手は答えた。「でも、そんな名は聞いた憶えがありません。その宿帳によれば、私がホテルに着いたのは・・・というか、ジョン・ドーンが着いたのは前日の夜で、二十七番の部屋に泊まっていたのも彼なので、おそらく私がそのジョン・ドーンだと思ったんです。それ以来、ホテルの職員は、私のことをジョン・ドーンだと思っているし、目覚めてから四週間のあいだに会った連中もみなそうです」
 「筆跡に見覚えはないのかね?」
 「ありません」
 「今の君が書いてみても、同様の筆跡になるかね?」
 「見たかぎりでは同じ筆跡です」
 「手荷物とか、荷物の預かり証はなかったのかね?」
 「ありません。持っていたのは、お金と現に着ている服だけです。もちろん、そのあと、必要品は買ったりしていますが」
 二人はしばらく黙り込んだが、ドーンという謎の男はついに立ち上がり、またそわそわと歩き回りはじめた。
 「それはオーダーメードのスーツかね?」と科学者は聞いた。
 「ええ」とドーンはすぐさま答えた。「なにがおっしゃりたいのか分かりますよ。オーダーメードの服なら、ポケットの内側に布タグが縫い付けてあって、製造者名や服の注文者の名前が日付と一緒に記されてるんですよね。私も探してみましたが、切り取られて、なくなっていました」
 「ほう!」《思考機械》はいきなり声を上げた。「クリーニング屋のマークもなかったんだね?」
 「ええ。みな新品でしたから」
 「メーカーの名前も?」
 「それも切り取られていました」
 ドーンは応接室を行ったり来たりし、科学者のほうは椅子の背にもたれた。
 「ホテルに着いた時の状況は知っているかね?」教授はようやく聞いた。
 「ええ。もちろん用心しながらですが、フロントの係員に尋ねてみましたよ。頭が変だと思われぬよう、その時酔っぱらってたみたいなので、とほのめかしながらね。係員の話だと、夜の十一時頃にホテルに来たそうで、手荷物はなかったし、私が百ドル札で部屋代を払ったので、お釣りを渡したそうです。私は宿帳を書き、上階に行ったそうです。部屋をとりたいということ以外はなにも言わなかったようですね」
 「ドーンという名前に聞き覚えはないんだね?」
 「ありません」
 「妻子のことも思い出せない?」
 「憶えてません」
 「外国語は話せるかね?」
 「できません」
 「今は思考もはっきりしてるんだね? 記憶力は大丈夫かね?」
 「ホテルで目を覚ましたあとの出来事は完全に憶えていますよ」とドーンは言った。「とてもはっきりと憶えていますし、なぜか、まったくどうでもいいことを強く意識するんです」
 《思考機械》は立ち上がり、ドーンに座るよう促した。男は疲れたように椅子に腰をおろした。すると、科学者は、彼のふさふさした黒髪を、長く細長い指で軽く器用にかき上げると、髪から引き締まったあごまで指を走らせた。それから腕に触れ、隆々とした筋肉を指で押した。さらに、形のいい色白の手をきめ細かく調べ、検査の補助に虫眼鏡も使った。最後に、《思考機械》は謎の男の神経質に動く目をのぞき込んだ。
 「体にあざとかはあるかね?」彼はようやく尋ねた。
 「ありません」とドーンは答えた。「それは私も考えたし、一時間ほどかけてあざなどがないか調べてみました。なにもありませんでしたよ――なにもです」目がかすかにうるみ、ついに痺れを切らして、激しく立ち上がった。「なんてことだ!」と叫んだ。「なにか手立てはないのですか? そもそも、これはどういうことなんです?」
 「典型的な記憶喪失症のようだな」と《思考機械》は答えた。「精神や神経の負担が過重になった人々には珍しい症状ではない。君はただ、自分のことを忘れた。つまり、自分の身元を忘れたのだ。記憶喪失症なら、いずれ回復するよ。いつになるかは分からんがね」
 「では、そのあいだどうすれば?」
 「君が身に着けていた金を見せてくれるかね」
 ドーンは震える手で札束を出して見せたが、それは主に百ドル紙幣で、多くは新札だった。《思考機械》は、紙幣をきめ細かく調べ、最後に、紙片にメモを書きつけた。金はドーンに返された。
 「さて、どうしたらいいんでしょう?」とドーンは聞いた。
 「心配しなくていい」と科学者は言った。「できるだけのことはするよ」
 「じゃあ・・・私が何者なのか教えてくれますか?」
 「ああ、きっと明らかにしてみせるよ」と《思考機械》は言った。「だが、私が君のことを明らかにしても、君自身は思い出せない可能性もあるね」

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ジャック・フットレル「正体不明の男」(二)



 「正体不明のジョン・ドーン」は、ほぼどんな点でも正体不明だったが、彼は《思考機械》の家を出るときにいろんな指示を受けた。まず、合衆国の大きな地図を手に入れて目をこらし、出てくる全市町村の名前をひと通り声に出して読み上げる。これを一時間やったら、市の住所氏名録を手に取り、名前に目を通しながら声に出して読み上げる。次に、もろもろの職種、主だった事業所のリストを作り、これを読み上げる。これらの作業は、明らかに眠れる脳を呼び覚ますことを意図していた。ドーンが出て行ったあと、《思考機械》は記者のハッチンスン・ハッチに電話をかけた。
 「すぐ来てくれないか」と彼は頼んだ。「君の興味を引きそうなことがあるんだ」
 「謎ですか?」ハッチは熱をこめて尋ねた。
 「私が注目した問題の中でも最も魅力的な問題の一つだよ」と科学者は答えた。
 ハッチの来訪が告げられるまでにかかった時間は、ものの数分だった。疑問符の権化といっていい記者で、矢継ぎ早に質問したいのを抑えきれない様子だった。《思考機械》はようやく経緯を話しはじめた。
 「まあ、見たところは」と《思考機械》は切り出しながら、「見たところ」という言葉を強調した。「見たところは記憶喪失症のようだ。むろん、どんな症状かは知っているだろうね。その男は、自分のことがまるで分からないんだ。綿密に検査したが、頭を調べても、打撲や異常の痕跡はなかった。筋肉も調べたが、隆々とした二頭筋で、明らかに現役のスポーツマンだ。手は白く、よく手入れされていたが、あざなどはない。肉体労働者の手ではないね。ポケットの金からしても、そんな職業ではないとみていい。
 では、何者なのか? 弁護士か? 銀行家? 投資家? それとも? なんであってもおかしくない。だが、専門職ではなく、ビジネス業の男のように思えた。立派な角張った顎で、格闘家の顎のようだったし、身のこなしからすると、なにをやっていたにせよ、一流の地位の男だという印象を受ける。一流の地位なら、当然だが、都市、それも大都市に拠点を置くはずだ。典型的な都会人なのだ。
 そこで、君に手伝ってほしいのは、大都市にいる仲間の記者たちに連絡して、ジョン・ドーンという名前が住所氏名録に出てこないか確認してもらってほしいのだ。その男は在宅か、家族持ちか等々、その男に関するすべてをね」
 「ジョン・ドーンが本名だと思ってるんですか?」と記者は聞いた。
 「違うという理由もない」と《思考機械》は言った。「だが、違う可能性もあるね」
 「この街では調査しないんですか?」
 「土地の人間ではまずないね」と彼は答えた。「四週間も街中をうろうろしていたのだし、土地の住人なら知人に出くわしそうなものだよ」
 「でも、持っていたお金は?」
 「金を手がかりに身元を突き止めることも可能だろうね」と《思考機械》は言った。「事情はまだはっきりしないが、ひとかどの人物のようだし、彼をしばらくのあいだ排除したいと思った者がいたのかもしれん」
 「でも、おっしゃるように、ただの記憶喪失症だとすると」と記者は口をはさんだ。「その男を排除したいときに都合よく発作が起きるなんてちょっと考えにくいんじゃ」
 「「見たところ」記憶喪失だと言ったのさ」と科学者はぶっきらぼうに言った。「うまく使えば、同じ効果をもたらす薬物もある」
 「へえ」とハッチは言った。状況が分かりはじめたのだ。
 「思い当たる薬が一つある。インド産で、大麻に似た薬だ。こんなケースでは、どんなことでも考えられる。明日、試しにドーン氏を金融街に連れまわしてやってほしいのだ。行ったら、『株式相場表示機』の音に触れさせてやってほしい。興味深い実験だよ」
 記者は出て行き、《思考機械》はモンタナ州ビュートのブランク国立銀行に電報を打った。
 「Bの連番で846380番から846395番までの百ドル紙幣を払い出した相手は? 返答求む」
 翌日十時に、ハッチは《思考機械》を訪ね、ジョン・ドーンを紹介された。正体不明の男だ。ハッチが入ってくると、《思考機械》はドーン氏に質問をしているところだった。
 「地図からはなにも思い出さなかったんだね?」
 「なにも」
 「モンタナ、モンタナ、モンタナ」と科学者は単調に繰り返した。「よく考えたまえ。モンタナ州のビュートだ」
 ドーンは途方に暮れて、悲しげに首を振った。
 「カウボーイ、カウボーイ。君はカウボーイを見たことは?」
 またもや首を振った。
 「コヨーテ。オオカミに似た動物。コヨーテだ。見たことはないかね?」
 「どうやら見込みなしですね」と男は言った。
 《思考機械》はハッチのほうを向いたが、その声には激しいいら立ちが感じられた。
 「ハッチ君、ドーン氏を金融街に連れて行ってくれるかね」と頼んだ。「前に言った場所に連れて行ってくれたまえ」
 こうして、記者とドーンは連れだって出かけ、人ごみにあふれ、せわしく騒がしい金融街を歩いていった。最初に訪ねた場所は、市場相場価格表が記された黒板のある個室だった。ドーン氏は興味を示したが、そんな光景にもピンとこないようだった。いかにもよそ者らしくじろじろと見回していた。しばらくして二人は退出した。すると、いきなり一人の男が彼らのいる方向に駆け寄ってきた。明らかにブローカーだった。
 「どうしたんですか?」とドーンは尋ねた。
 「モンタナ州の銅会社が破産したんだ」と答えが返ってきた。
 「銅! 銅だって!」ドーンは急にあえぎながら言った。
 ハッチはあわてて彼のほうを見た。ドーンの表情は見ものだった。なにかを思い出しかかっているように、戸惑いながらしわを深く刻み、興奮の色すら示していた。
 「銅!」と繰り返した。
 「その言葉に思い当たる節があるのかい?」ハッチはすぐさま尋ねた。「銅。ほら、金属の銅だよ」
 「銅、銅、銅」と相手は繰り返した。ハッチが見ていると、奇妙な表情は次第に消えていき、またもや途方に暮れた表情に戻ってしまった。
 金融街で取引を行っている有力者はたくさんいるし、その中には銅の取引に関わる者もいる。ハッチはドーンをそうした有力者のオフィスの一つに連れて行き、関係者の一人に引き合わせた。
 「銅のことでちょっとお話があるのですが」ハッチは連れから目を離さずに言った。
 「売りと買いのどちらですか?」とブローカーは聞いた。
 「売りだ」とドーンはいきなり言った。「売りだ。売りだよ。銅を売るんだ。そう、銅だよ」
 彼はハッチのほうを振り返り、一瞬ぼんやりと相手を見つめると、顔が真っ青に青ざめ、両手を上げながら気を失って倒れた。

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ジャック・フットレル「正体不明の男」(三)



 謎の男は意識を失ったまま《思考機械》の家に運び込まれ、ソファに寝かされた。《思考機械》は彼にかがみこみ、今度は医師の立場で検査した。ハッチはそばで興味深そうに見ていた。
 「こんなのは見たことないですよ」とハッチは言った。「いきなり両手を上げてくずおれたんです。それっきり意識を失ったままです」
 「意識を取り戻したら、記憶もよみがえっているかもしれないな。そうなれば、おのずと君と私のこともすっかり忘れているだろう」と《思考機械》は説明した。
 ドーンはようやく少し身動きし、刺激薬のおかげで青ざめた顔に血色が戻りはじめた。
 「ハッチ君、彼はくずおれる前になにを言ってたかね?」と科学者は聞いた。
 ハッチは説明し、憶えているとおりに会話を再現した。
 「そして、『売り』だと言ったわけか」と《思考機械》はつぶやいた。「つまり、銅は下落すると考えたか、そうと知っていたわけだ。彼が聞いた最初の言葉は、銅会社が破産した、というものだ。それは潰れたという意味だね?」
 「そうです」と記者は言った。
 三十分後、ジョン・ドーンはソファに起き上がり、部屋の中を見回した。
 「ああ、教授」と彼は言った。「気を失ったんですね?」
 《思考機械》はがっかりした。患者は意識とともに記憶を取り戻さなかったからだ。その言葉から、彼がまだ同じ精神状態にあることが分かった。いまだに正体不明の男なのだ。
 「銅を売れ、売りだ、売り、売り」と《思考機械》は命じるように繰り返した。
 「そう、売りだ」と答えが返ってきた。
 激しい精神的葛藤がドーンの表情に表れた。ずっと記憶から落ちていたなにかを思い出そうとしていた。
 「銅、銅」と科学者は繰り返し、一ペニー硬貨を取り出して見せた。
 「そう、銅だ」とドーンは言った。「分かりますよ。一ペニー銅貨ですね」
 「なぜ銅を売れと言ったのかね?」
 「分かりません」と疲れきった答えが返ってきた。「まったく無意識に言ったんだと思います。分からないんです」
彼はそわそわと手を握ったり開いたりし、ずっと床をぼんやり見つめて座っていた。
 「たぶん」とドーンはしばらくして言った。「銅という言葉は、記憶の中に反応する糸口があって、そこに触れたんでしょうけど、また分からなくなってしまったんです。私は過去に、銅となにか関係があったんでしょうね」
 「そうだ」と《思考機械》は言い、ほっそりした指をせかせかとこすった。「君は記憶を取り戻しつつある」
 彼の発言はマーサが電報を持ってドア口に現われたことで中断された。《思考機械》はすぐに電報を開いたが、中身を読むと、またもや当惑の色を浮かべた。
 「なんと! まったく奇妙だ!」と叫んだ。
 「どうしたんですか?」とハッチは興味に駆られて聞いた。
 科学者は再びドーンのほうを見た。
 「プレストン・ベルを憶えているかね?」と、その名を激しく強調して問いただした。
 「プレストン・ベルですって?」と相手は問い返し、またもや心中の葛藤が表情に表れた。「プレストン・ベル!」
 「モンタナ州ビュートのブランク国立銀行の支配人だが?」《思考機械》はやはり強い口調で問いただした。「支配人のベルは?」
 《思考機械》は熱心に身を乗り出し、患者の顔を見つめた。ハッチも思わず同じように見つめた。一瞬、なにか思い出しかけたらしく、《思考機械》はその様子を見て、記憶を完全に呼び戻そうとした。
 「ベル、支配人、銅」彼はこれを何度も繰り返した。
 ドーンの表情には、はっと気づいた様子が一瞬浮かんだが、げんなり疲れた様子がとって代った。病人が示す疲労感だった。
 「思い出せません」とようやく言った。「疲れてしまいました」
 「ソファに横になって、眠りたまえ」《思考機械》はそう勧め、枕を整えてやった。「今は睡眠が一番だ。だが、横になる前に、君が持っていた百ドル紙幣を見せてくれるかね」
 ドーンは札束を手渡すと、子どものように眠りについた。ハッチも興味津々で見守っていたが、ドーンの様子は気味が悪かった。
 《思考機械》は紙幣をざっと調べると、最後に十五枚選び出した。手の切れるような新札だ。モンタナ州ビュートのブランク国立銀行発行の紙幣だった。《思考機械》は紙幣をじっと見つめると、ハッチに手渡した。
 「偽札に見えるかね?」と聞いた。
 「偽札ですって?」ハッチはびっくりして言い、「偽札!」と繰り返した。紙幣を受け取って確かめると、「見たかぎりじゃ本物ですよ」と言った。「専門家みたいに百ドル紙幣を鑑定できるほどの経験はないですけどね」
 「専門家を知っているかね?」
 「ええ」
 「すぐに面談を申し入れてくれ。その十五枚の紙幣を持って、一枚一枚調べるよう頼んでほしい。偽札じゃないかと疑われる理由、それももっともな理由があると言ってね。結果を得たら戻ってきてくれたまえ」
 ハッチはポケットに金を入れて出て行った。そのあと、《思考機械》はもう一つ電文を書いたが、それはビュート銀行の支配人、プレストン・ベルに宛てた電報だった。そこにはこう書かれていた。

 「以前説明されし金のなくなった状況の詳細を知らせられたし。経緯を知り得る者全員の名を含む。貴行および正義のためにきわめて重要。回答あらば、詳細を知らせる」

 次に、来客が眠っているあいだに、《思考機械》は彼の靴をそっと脱がせて調べてみた。かなりすり減ってはいたが、メーカーの名前を見つけた。虫眼鏡を使って綿密に調べると、《思考機械》ははっきりと安堵の表情を浮かべて立ち上がった。
 「なぜもっと前に気づかなかったのか?」と自問した。
 それから、電報をほかにも西部地方に向けて打った。宛先の一つは、コロラド州デンヴァーのごく普通の靴製造業者だった。

 「ここ三か月以内に金融業者か銀行家に靴を売ったか? 靴は最高級品、牛革で踵が高く、ナンバー8、Dの靴型。ジョン・ドーンを知っているか?」

 二つ目の電報は、デンヴァー州警察本部長に宛てたもので、こう書かれていた。

 「貴市において、出張などで五週間以上不在の金融業者、銀行家、実業家がいれば回電ありたし。ジョン・ドーンを知っているか?」

 そのあと、《思考機械》は椅子に座って待った。ようやく玄関のベルが鳴り、ハッチが入ってきた。
 「どうだったね?」科学者は待ちかねた様子で問いただした。
 「専門家によれば、紙幣は偽札ではないそうです」とハッチは言った。
 《思考機械》はその回答に驚いた。すぐさま眉を吊り上げ、あごがいきなり引き締まり、黄色い髪の頭をぐいっと前に突き出したことからも明らかだった。
 「ほう、ほう、ほう!」彼はついに叫び、なおも「ほう、ほう!」と繰り返した。
 「どうしたんですか?」
 「見たまえ」《思考機械》は百ドル紙幣を手にとった。
 「これらの紙幣は手の切れるような新札で、ビュートのブランク国立銀行が発行したものだ。連番になっているということは、ある個人に同じ時に払い出されたもので、それもおそらくは最近のことだ。疑問の余地はない。番号は846380から846395で、すべてBの連番だ」
 「なるほど」とハッチは言った。
 「では、これを読んでみたまえ」と科学者は電報を渡した。ハッチが出て行く直前にマーサが持ってきた電報だった。 ハッチは読んでみた。

 「Bの連番で846380から846395の100ドル紙幣は、当行から払い出されたものだが、もはや存在せず。同じ連番の他の二十七枚の紙幣とともに火災により焼失。政府に同じ番号の紙幣の再発行許可を申請中。
支配人 プレストン・ベル」

 記者は問いただすように目を上げた。
 「つまり」と《思考機械》は言った。「この男は、強盗の一味か、なにか金融関係のいかさまの被害者ということだ」
 「だとすると、自分が誰か分からないふりをしているということですか?」と記者は聞いた。
 「それはまだ分からない」

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ジャック・フットレル「正体不明の男」(四)



 続く数時間のあいだに、事態は次から次へと目まぐるしく展開した。まず、デンヴァー州警察本部長から電報が届いた。確認したかぎりでは、資本家や金融業者の大物でデンヴァーを離れている者はいない。さらに調査すればなにか分かるかもしれない。ジョン・ドーンという人物は知らない。住所氏名録に載っているジョン・ドーンは、トラック運転手。
 次に、ブランク国立銀行から新たな電報が届いた。「支配人 プレストン・ベル」という署名があり、百ドル紙幣の焼失状況の詳しい説明があった。ブランク国立銀行は新築の建物に移転したが、その一週間後に火事で焼失した。紙幣のパッケージもいくつか焼失したが、その中には《思考機械》が確認した紙幣の入った百ドル紙幣のパッケージも含まれていた。同銀行のハリスン頭取は、これらの紙幣が自分の事務室にあったという宣誓供述書を政府に速やかに提出していた。
 《思考機械》はこの電報を念入りに読み、ハッチの報告に耳を傾けているあいだも、時おり電報に目をやった。ハッチは、ジョン・ドーンを探索していた記者たちの成果を報告した。彼らは同じ名前の人物を何人も見つけたし、各人の概要を報告してきた。《思考機械》は一つ一つ報告を聞き、それが終わると、首を横に振った。
 次に、もう一度電報に目を向けると、熟慮してから、もう一本電報を打った。今度はビュートの警察本部長宛てだった。そこには次のような質問が書いてあった。

 「ブランク国立銀行は財政難にあったのか? 横領か資金不足を起こしたことは? ハリスン頭取の評判は? ベル支配人の評判は? ジョン・ドーンを知っているか?」

 やがて回答が届いた。簡にして要を得た回答で、次のように書いてあった。

 「ハリスンは最近になって十七万五千ドルを横領し、行方をくらました。ベルの評判は大変よい。今は市内にいない。ジョン・ドーンについては知らない。ハリスンの足取りを得たら、すぐに回電ありたし」

 この回答が届くちょっと前に、ドーンが目を覚ました。見たところ十分回復していたが、彼自身は元のままだった。つまり、依然として自分の正体は分からなかったのだ。《思考機械》は一時間にわたって彼を質問攻めにした。真面目な質問から、宗教上のことや、時には一見ばかげたことも含めて、ありとあらゆる質問をした。それでもやはりなんの記憶も呼び覚まさなかった。ただ、プレストン・ベルの名前を持ち出したときだけは別だった。そのとき、ドーンの顔に妙に当惑した表情が浮かんだ。
 「ハリスンのことを知ってるかね?」と科学者は聞いた。「ビュートのプランク国立銀行の頭取だ」
 彼はどう答えていいか分からない様子で見つめ返しただけだった。そんなことをずいぶんやってから、《思考機械》はハッチとドーンに外を出歩くよう指示した。誰かがドーンに気づいて話しかけてくるかもしれないという、かすかな期待をまだ持っていたのだ。彼らがあてどなく歩いていると、話しかけてきた者が二人いた。一人は男で、会釈して通り過ぎた。
 「今のは誰だい?」とハッチはあわてて聞いた。「今の男と前に会ったのを憶えてるのかい?」
 「そうです」と答えが返ってきた。「私がいたホテルに泊まってた人ですよ。私のことをドーンだと知っているはずです」
 ゆっくり歩きながら、大きなオフィス・ビルを通り過ぎたのは六時を少し過ぎた頃だった。三十五歳くらいの身なりのいい、きびきびとした男が向こうからやってきた。近づいてくると、口から葉巻を離した。
 「やあ、ハリー!」と彼は声を上げ、ドーンのほうに握手の手を差し出した。
 「やあ」とドーンは言ったが、その声には、相手が誰か分かった気配はなかった。
 「ピッツバーグはどうだったね?」と見知らぬ相手は聞いた。
 「ああ、楽しかったよ」とドーンは言ったが、当惑したように眉に新たなしわを刻んだ。「ええっと、その・・・すまないが、お名前を度忘れしたようで・・・」
 「マニングだよ」と相手は笑った。
 「ハッチという者です、マニングさん」
 記者は、親しみをこめてマニングと握手した。新たな可能性の糸口が突然見えてきたのだ。ドーンをハリーとして知っている男が現れた。それに、ピッツバーグのこともだ。
 「前に会ったのはピッツバーグだったよね」とマニングはベラベラとしゃべりながら、近くのカフェに誘った。「いやはや、あの晩のゲームは大変だったよ! 私が持っていた揃いのジャックを憶えてるかい? あれで千九百ドルも取られたからね」と彼は悔しそうに言った。
 「ああ、憶えてるよ」とドーンは言ったが、ハッチはそれが嘘だと知っていた。そのあいだにも、無数の疑問が記者の頭に浮かんだ。
 「そんなに金をむしられたポーカーの手はなかなか忘れられんでしょう」とハッチはさりげなく言った。「そりゃいつのことですか?」
 「三年前だよな、ハリー?」とマニングは聞いた。
 「まあ、そうだね」とドーンは答えた。
 「テーブルに二十四時間張り付きっぱなしだったよ」とマニングは言い、また威勢よく笑った。「終わった時にゃ、ふらふらだったよ」
 カフェに入ると、すみのテーブルを選んだ。近くに誰もいなかったからだ。ウェイターが行ってしまうと、ハッチは身を乗り出し、ドーンの目をまっすぐ見据えた。
 「ちょっと質問してもいいかい?」と彼は聞いた。
 「ああ、もちろん」と相手は熱を込めて言った。
 「ん? なんだい?」とマニングは聞いた。
 「実に奇妙なめぐり合わせなんですよ」とハッチは説明しながら言った。「あなたがハリーと呼んでいる人は、私たちにはジョン・ドーンという男なんです。本名はなんと言うんでしょう? ハリー・なにですか?」
 マニングは一瞬、驚き顔で記者を見つめたが、次第に口辺に笑みを浮かべた。
 「なにをたくらんでいるんだい?」と彼は聞いた。「冗談のつもりかね?」
 「いや、とんでもない。お分かりいただけませんか?」とドーンは激しく言った。「私はなにかの病気なんです。記憶を失ってるんですよ。過去のすべての記憶をね。自分のことをまるで憶えていないんです。私の名前はなんと言うんですか?」
 「ほう、なんと!」とマニングは叫んだ。「なんてことだ! 君のフル・ネームまでは知らんな。ハリー・・・ハリー・・・なんだっけな?」
 彼はポケットから手紙や紙片をいくつか取り出し、ざっと目を走らせた。それから、よれた手帳に注意深く目を通した。
 「分からないな」と告白した。「古い手帳には君の名前と住所が書いてあったんだが、焼き捨ててしまったと思う。だが、確か、三年前にピッツバーグの「リンカーン・クラブ」で君に会ったんだ。君をハリーと呼んだのは、そこにいた者はみなファースト・ネームで呼び合っていたからさ。君の姓は全然印象に残らなかったんだよ。なんてことだ!」改めて感嘆語を発して口をつぐんだ。
 「正確に言うと、どんな状況だったんですか?」とハッチは聞いた。
 「私は旅行好きでね」とマニングは説明した。「どこにでも出向くんだ。友人がピッツバーグの「リンカーン・クラブ」の招待状をくれたんで、行ってみたのさ。五、六人でポーカーをしていたんだが、その中にここにいる・・・その・・・ドーン氏がいたわけさ。同じテーブルに二十時間ほど一緒に座ってたが、彼の姓を憶える必要もなかったんでね。ドーンではなかったな。間違いないよ。人の顔を憶えるのは得意だし、君のことも憶えてるよ。私を憶えていないのかい?」
 「過去にお会いしたことがあるなんて、まるっきり憶えがありません」とドーンはゆっくりと答えた。「ピッツバーグにいたことも記憶がありません・・・なにも憶えていないんです」
 「ドーン氏がピッツバーグの住人かどうかはご存知ですか?」とハッチは聞いた。「それとも、あなたと同じく旅行客だったんでしょうか?」
 「さっぱり分からんね」とマニングは答えた。「いやはや、驚くべきことだ。私を憶えてないんだね? 私のことはずっとビルと呼んでくれてたんだが」
 相手の男はかぶりを振った。
 「ふむ、ところで、私でなにかお役に立てるかね?」
 「いえ、けっこうです」とドーンは言った。「私がなんという名で何者なのかが分からないのでしたらね」
 「うーむ、分からんね」
 「リンカーンとはどんなクラブですか?」とハッチは聞いた。
 「金持ちが集まるクラブさ」とマニングは説明した。「鉄鋼業関係者が大勢いたね。彼らとけっこう取引があったものだから、私もピッツバーグに来ていたんだ」
 「この人とそこで会ったのは間違いないんですね?」
 「もちろんさ。私は人の顔は忘れんよ。顔を憶えるのが仕事なんでね」
 「彼は家族のことを口にしたりはしませんでしたか?」
 「憶えていないね。ポーカーのテーブルで家族の話なんか普通しないだろ」
 「月日は正確に憶えていますか?」
 「たぶん一月か二月じゃないかな」と答えが返ってきた。「ひどく寒くて、雪が積もっていたからね。そう、確か一月だったよ。三年前のね」
 しばらくして、彼らは別れた。マニングはホテル・テュートニックに泊まっていて、名前と家の住所を快くハッチに教えてくれたし、しばらくはこの街に滞在する予定で、なにかあれば喜んでお手伝いすると言ってくれた。《思考機械》の住所も彼に教えた。
 ハッチとドーンは、カフェから《思考機械》の家に戻った。彼は目の前のテーブルに電報を二通広げていた。ハッチはマニングと出会ったいきさつについて簡単に話し、そのあいだ、ドーンは頭を抱えて座っていた。《思考機械》は黙って耳を傾けた。
 「見たまえ」説明が終わるとそう言って、ハッチに電報の一通を差し出した。「ドーン氏の靴から靴屋の名前を割り出し、デンヴァーのその靴屋に、販売記録を残してないか、照会の電報を打ったんだ。これがその回答だよ。音読してくれたまえ」
 ハッチは言われたとおりにした。

 「照会のあった靴は、九週間前、ビュートのブランク国立銀行の支配人、プレストン・ベルからの注文で作られた。ジョン・ドーンのことは知らず」

 「その・・・つまり・・・」ドーンは戸惑いながら言った。
 「つまり、君はプレストン・ベルということだ」とハッチは語気強く言った。
 「いや」と《思考機械》はすぐさま言った。「その可能性が高いとしか言えない」

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 玄関のベルが鳴り、しばらくしてマーサが顔を出した。
 「ご婦人がお会いになりたいそうです」と彼女は言った。
 「お名前は?」
 「ジョン・ドーン夫人とのことです」
 「君たちは隣の部屋に行ってくれるかね」と《思考機械》は促した。
 ハッチとドーンはドアから出て行った。出て行くドーンの顔には、わけが分からないという表情が浮かんでいた。
 「ここにご案内してくれ、マーサ」と科学者は指示した。
 玄関ホールに衣ずれの音がし、ドアのカーテンがすばやく開かれ、ぜいたくなガウンを着た婦人が部屋の中に駆け込んできた。
 「夫は? ここにいるのですか?」彼女は息を切らせながら問いただした。「ホテルに行きましたら、治療でここにいると聞きましたので。お願いです。ここにいるんですね?」
 「お待ちなさい、奥さん」と《思考機械》は言うと、ハッチとドーンが出ていったドアに行き、なにか言づけた。ドアに一人、姿を現した。ハッチンスン・ハッチだ。
 「ジョン、ジョン、あなた」と婦人は腕を広げてハッチの首に抱きついた。「私が分からないの?」
 ハッチは顔を赤らめ、女の肩越しに《思考機械》の顔を見ると、彼はせかせかと手をこすり合わせていた。知り合ってずいぶんになるが、ハッチは、彼がこうもにやにやしているのを見るのは初めてだった。

テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

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