クリスティの長編戯曲化作品

 アガサ・クリスティの戯曲には、『蜘蛛の巣』、『評決』、『招かれざる客』などのオリジナル作品のほかに、もともとは長編小説として発表した作品を戯曲に書き直した作品が幾つかある。
 列挙すれば、『ナイルに死す』(1937)、『死との約束』(1938)、『そして誰もいなくなった』(1939)、『五匹の子豚』(1942)、『ゼロ時間へ』(1944)、『ホロー荘の殺人』(1946)で、それぞれの戯曲版の原題を年代順に記すと以下の通り。

“Ten Little Indians”(1943)     「そして誰もいなくなった」戯曲版
“Appointment with Death”(1945) 「死との約束」戯曲版
“Murder on the Nile”(1946)     「ナイルに死す」戯曲版
“The Hollow”(1951)         「ホロー荘の殺人」戯曲版
“Towards Zero”(1956)       「ゼロ時間へ」戯曲版(ジェラルド・ヴァーナーとの共作)
“Go Back for Murder”(1960)    「五匹の子豚」戯曲版


 このうち、『そして誰もいなくなった』と『五匹の子豚』の戯曲版についてはそれぞれ邦訳が刊行されているが、自伝や普通小説、旅行記すら翻訳されているほどの人気があるクリスティとしては、意外と未訳が残っている分野だ。
 これらの戯曲版の特徴は、オリジナルがポアロ物の場合はポアロを登場させないという点のほか、作品によってはオリジナル長編から結末を大きく変更していることにある。
 なかでも知られているのは、「そして誰もいなくなった」で、タイトルのもとになったマザー・グースの歌に二つのバージョンがあるのを利用して、長編と戯曲にそれぞれ異なる結末を与えている。
 それは、小説と舞台という、それぞれの設定を考慮してのものともいえるが、ルネ・クレール監督作品をはじめ、映画化されたものは戯曲版をベースにしている。戯曲版を知らずに映画を観て、「勝手に結末を変えた」と腹を立てる人がいたりするが、実はいずれの結末もクリスティ自身が考案したものなのだ。
 「ナイルに死す」戯曲版は、謎解きとしてのプロット構成に大きな変更はないが、大団円の設定の仕方が異なる。
 極めつけは「死との約束」戯曲版。設定や展開は小説版をほぼ踏襲しているが、謎解きのプロットという点では、小説版とはまったくの別物といっていいほど結末が大きく異なる。個人的には、元女看守とその家族関係という、ストーリーの核となる登場人物の設定を見事に活かしている点で、戯曲版のほうに軍配を上げたいと思う。
 「ホロー荘」以後はさほど斬新な変更は見られなくなるが、上記3作品がいずれも40年代という、クリスティにとって最も脂の乗った時代に書かれた戯曲であることを考えると、同じ設定や背景を用いながら新たなバリエーションに挑む彼女の実験精神と創作意欲が感じられる。
 上記戯曲作品のうち、「ナイルに死す」を除く作品は、米ハーパー社から出ている“The Mousetrap and Other Plays”に収録されている。同じく小説と戯曲の両分野で傑作を残したアイラ・レヴィンが序文を寄せており、15歳の少年の時に両親に連れられて「そして誰もいなくなった」の舞台を観に行ったエピソードなど、これもなかなか興味深い読み物となっている。
スポンサーサイト

テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

アガサ・クリスティによるペンギン・ブックスへの序文

 緑色の表紙のペンギン・ブックスは、私自身、イギリスにいた時によく買って読んだ懐かしい叢書なのだけれど、アガサ・クリスティは、1953年に、新たな序文を付した10作のペーパーバックをこの叢書から一度に出している。
 その内訳は、

 『アクロイド殺害事件』
 『書斎の死体』
 『死が最後にやってくる』
 『ナイルに死す』
 『ヘラクレスの冒険』
 『ミス・マープルと13の謎』
 『動く指』
 『謎のクイン氏』
 『パーカー・パイン登場』
 『ねじれた家』

 であり、53年当時の自選ベスト10といえる。(お気に入りの一つとされる『終わりなき夜に生まれつく』は当時まだ出版されていないので、入っていない。)
 これらのペーパーバックには「出版社のノート」が冒頭に掲げられ、この10作がクリスティ自身によるチョイスであり、それぞれの序文に、作品の背景や執筆の動機、お気に入りの10作に選んだ理由などを解説していると記されている。
 裏見返しにも同趣旨の記載があり、元々の版元であるコリンズ社の了解を得て出版されたと記されているが、今日流布しているハーパー・コリンズのペーパーバック版にはこれらの序文は掲載されていない。ペンギン叢書に寄せた特別な序文だからかもしれないが、埋もれさせるには惜しい気がする。
 気づいた限りでは、これらの序文の邦訳が載っているのは、創元文庫の『アクロイド殺害事件』、『ミス・マープルと13の謎』、『クィン氏の事件簿』、早川文庫の『書斎の死体』、『ナイルに死す』。(早川はポケミス版や「クリスティー文庫」版の新訳などもあり、他社も含めて網羅的に調べたわけではないので、ほかに翻訳が掲載されている版があるかもしれない。不明を御容赦願いたい。)
 『死が最後にやってくる』は、著名なエジプト学者である友人に触発されて執筆を思い立ったものであり、8冊の分厚いエジプト学の書物を持ち帰り、戦時中の爆撃すら忘れて読みふけったとのこと。その学者に電話をかけ続け、時代背景などを細かく質問して悩ませたらしいが、本が完成すると、熱烈な支持を得たとしている。
 『ヘラクレスの冒険』では、「ネメアのライオン」、「レルネーのヒドラ」、「クレタ島の雄牛」の執筆は楽だったが、「エリュマントスのイノシシ」、「ヒッポリュテの帯」には相当苦労したようだ。なかでも、「ケルベロスの捕獲」は、題に見合った内容を思いつけず、半年もお蔵入りさせたことを明らかにしている。それが、ある日、地下鉄のエスカレーターを上がっている時に突然アイデアが湧き、興奮して8回もエスカレーターを上り下りし、帰り道にあやうくバスに轢かれそうになったというエピソードを披露している。
 『動く指』は、「中傷の手紙」という古典的なテーマに挑んだ作品だとした上で、造形した登場人物の中でもミーガン・ハンターが特に気に入っていたことを明らかにしている。この作品の居心地よい村の雰囲気や登場人物が好きだとし、興味を引く犯罪は身近に出合うような人々の中で起きるものでなくてはいけないとしている。
 『パーカー・パイン登場』のパイン氏は、「コーナー・ハウス」で昼食をとっていた時に、うしろのテーブルで統計についてしゃべっていた、禿頭でメガネの、輝くような笑みを湛えた男性がモデルだったことを明らかにしている。お気に入りの作品は「不満な夫の事件」、「大金持ちの婦人の事件」で、後者は、執筆の10年前、ある店のウィンドウを覗いていて、見知らぬ女性に話しかけられた出来事がヒントになっているとのこと。
 『ねじれた家』では、「この本は私自身の特にお気に入りの作品」とし、あとの方でも、「私のベストの一つ」と呼んで、特別な思い入れがあることをうかがわせる。そのアイデアを何年も温め続け、練り上げた作品であり、「純粋な楽しみ」から書いたことを強調している。

 『自伝』によると、『死が最後にやってくる』は、助言者だったグランヴィル博士と結末の付け方で激論になり、助言を受けた負い目もあったために、珍しく自分の考えを撤回して博士の判断に従ったとされる。
 『自伝』では、その結末を今でも変えたいと悔やんでいるのだが、この序文を読む限りでは、そんなことはおくびにも出していない。(ロバート・バーナードも『欺しの天才』の中で、その結末を「骸骨同然」と酷評している。)死後に出版する予定だった『自伝』で初めて本音を漏らしたということか。お世話になった人への感謝の気持ちもあって、10冊の一つに選んだと考えるのは、穿ち過ぎだろうか。
 クリスティが本来考えていたこの作品のプロットがどんなものだったかは、最近翻訳が出た『アガサ・クリスティーの秘密ノート』に手掛かりが残されている。そこに示唆されている、異なる結末の構想は、確かに意外性に富んでいて、クリスティらしいツイストの効いた魅力的な結末になったはずなのに、と少し残念に思う。
 同様に、「ケルベロスの捕獲」についても、同じく『アガサ・クリスティーの秘密ノート』に、別のバージョンがあったことが明らかにされていて、序文に書かれている以上に、完成に至るまでには複雑な経緯があったことをうかがわせる。
 現在のバージョンに出てくる、ポアロとロサコフ夫人がエスカレーターですれ違う場面は、まさにクリスティ自身がこの作品のアイデアを思いついた時の体験を反映したものだと分かる。
 作者自身による執筆の背景や思い入れが明らかになることで、それぞれの作品に対する見方や理解も新たな発見に触発されて深まっていくのが面白い。その意味でも、これらの序文は、いずれも短いものではあるが、貴重な記録ではないかと思う。

ヘラクレスの冒険

テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

アガサ・クリスティとマージェリー・アリンガム

 “The Return of Mr. Campion”(1990)は、アリンガムのアルバート・キャンピオン物の未収録短編を集めた短編集である。米セント・マーティンズ・プレス社の版には、編者J・E・モーパーゴの序論に続いて、アガサ・クリスティによる‘Margery Allingham―A Tribute’が収録されている。
 はっきりそうとは書かれていないが、内容から判断して、これはアリンガムの逝去(1966年)に際しての追悼文と思われる。
 クリスティは、「探偵小説作家は同業者の作品を読むのか」という質問をよく寄せられるとし、少なくとも自分は、既に使われたアイデアを繰り返さないためにも、頻繁に読むと答えている。
 ただ、その質問に込められた意味は、「読んだ探偵小説の中で本当に記憶に残るものはどれだけあるか」ということであり、その意味でなら、そんなに多くはないと答える。そして、「マージェリー・アリンガムは輝く光のように際立っている。彼女の作品はそれぞれが独特の姿を持っている」と称えている。(この言葉は、アリンガムのペーパーバックをはじめ、ロバート・バーナードの『欺しの天才』など、いろんなところで引用されている。)
 クリスティは、幻想的なものと現実的なものを織り合わせるのがアリンガムの作品の特徴だとした上で、もう一つの特質として「気品(elegance)」を挙げ、そうした特質を備えた作家は今日では稀だとしている。
 ちなみに、アリンガムの夫、フィリップ・ヤングマン・カーターは、“The Allingham Case-book”に寄せた序文の中で、アリンガムが、同時代作家の中で称賛していたのは、ジョセフィン・テイととりわけアガサ・クリスティだったとし、クリスティには生き生きとした「知性(intelligence)」があると考えていたことを明らかにしている。両作家が互いに尊敬し合っていただけでなく、相手の特質を的確に捉えていたことがうかがえる。
 クリスティは、誉めるばかりでなく批判も述べていて、『霧の中の虎』や『殺人者の街角』に登場するルーク警部については、成功していないし、思考力に欠けていると手厳しい。クリスティにとっては、スリラー系の作品も独特の雰囲気を持つものとして評価に値したが、やはり探偵小説の本領は思考力を要する謎解きにあると考えていたのだろう。「気品」と「知性」というそれぞれの特質を考え併せても、彼女とアリンガムの違いを表しているようで興味深い。
 なお、クリスティがアリンガムの作品のベストとして挙げているのは『幽霊の死』である。
 最後にクリスティはこう結んでいる。「ブラボー! マージェリー・アリンガム。私たち作家仲間はあなたのことを忘れはしない。」

テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

アガサ・クリスティの英米両版の異同

 アガサ・クリスティの作品には、今日にいたるまで英米両版に異同のある作品が幾つかある。
 ジョン・クーパーとB・A・パイクの“The Detective Fiction: The Collector’s Guide”によれば、「『動く指』と『死が最後にやってくる』は、英版用に変更が加えられた」とされ、実際、今日流布している『動く指』の英ハーパー・コリンズ社と米バークリー社のペーパーバックを見比べると、冒頭から全く違う書き出しであることに驚かされる。(早川文庫の邦訳は英版に基づいている。)
 ロバート・バーナードも、『欺しの天才』の「解説付き著作リスト」における『動く指』の項目で、「アメリカの読者は、この小説の米版ほぼ全てが、おそらくは雑誌掲載用に準備された短縮改訂版であることに注意すべし。これは英版より著しく劣る。」と言及している。(『欺しの天才』の邦訳ではこの部分は省かれている。)
 確かに、『動く指』の両版の差異を拾っていくと、明らかに英版の方が分量も多くて充実している。ただ、クーパーたちの言うように、短い米版のほうが本来の版で、英版出版の際に加筆が行われたのか、それとも、バーナードの言うように、英版が本来の版で、雑誌掲載用に短縮改訂したものが米版なのかは、にわかに判断し難い。クーパーたちの前掲書によれば、『動く指』は英版より米版のほうが先に初版が出ているので、それだけ見れば、クーパーたちの意見のほうが正しいようにも思える。
 『動く指』の場合は、明らかに英版のほうが充実しているので、どちらを選ぶかは迷う余地がない。問題は、“Three-Act Tragedy”だ。これも、米初版が1934年、英初版が1935年に出た、米版先行作品の一つなのだが、英米両版に重要な異同がある。
 それは、犯人が明らかになる大団円の場面。米版ではポアロは犯人をスコットランド・ヤードに引き渡すが、英版では犯人が捨て台詞を残して部屋を出ていくに任せている。これはおそらく、場面設定の変更というより、犯人の造形に関わることと思われ、犯行の動機を不可解な狂気に近いものとみなすか、全く合理的で首尾一貫したものとみなすかの違いによるものだろう。
 勧善懲悪を好んだクリスティの傾向からすると、米版のほうが裁きがはっきりしていて分かりやすい。しかし、単なる狂気で片づけてしまうことに抵抗があったがゆえに英版で変更を加えたとも考えられる。いずれにしても、どちらがベターかは、これまたにわかに判断し難い。
 なお、邦訳では、創元文庫の『三幕の悲劇』が米版に基づいており、早川文庫や新潮文庫は英版に基づいているので、その異同は邦訳を見比べるだけでも分かる。
 余談だが、冒頭の登場人物紹介に、‘Illumination by Hercule Poirot’と出てくる。illuminateには「照らす」という意味だけでなく、「(謎などを)解明する」という意味もあり、これを単に「照明係」のように訳してしまうと、原意がうまく伝わらない。「照明(証明)係」とするとか、工夫してくれると面白いと思う。

続きを読む

テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

『アクロイド殺害事件』の叙述と翻訳(注意:ネタバレあり)

 『アクロイド』既読の方はドラッグして表示を反転させてお読みください。未読の方は読まずにスルーしてください。
 
 プロットの秀逸さで推理小説のベストを選べと言われたら、私なら躊躇なく『アクロイド殺害事件』を挙げる。しかし、これほどよく知られた作品だというのに、この作品に対するまともな評価をほとんど見たことがない。
 この作品に対する評価は、大抵、その結末のサプライズ効果に集中している。即ち、「意外な犯人」というトリックの是非である。確かに、予測し得ずしてその結末に至った読者の多くは、まずはそのトリックに感心し(あるいは怒り)、意外性に驚くことだろう。そして、その効果が、もっぱらこの作品を評価する基準であるかのようだ。
 しかし、それは極めて皮相的な評価のように思える。この作品はそんな単純なものではないからだ。こうした単純な捉え方が、ルブランの「アルセーヌ・ルパンの逮捕」のような作品を引き合いに出し、「前例がある」などという議論にもつながっている。
 この作品を一旦読み終えた後、もう一度最初に戻って確認してみようという読者がどれだけいるだろうか。その意外な結末を受けて、「待てよ。ならば、この物語は初めからそうした視点で書かれていたのか」と、確かめてみようとする読者は案外少ないだろう。所詮は推理小説。一旦読み終えたらそれまでで、御丁寧にもう一度遡って検証するなどという几帳面な読者はごく僅かだろうからだ。
 この作品をもう一度最初に戻って見直してみると、叙述の仕掛けがいかに徹底しているかがよく分かる。
 まず、冒頭のパラグラフ。原文では次のようになっている。

 ‘Mrs. Ferrars died on the night of the 16th-17th September-a Thursday. I was sent for at eight o’clock on the morning of Friday the 17th. There was nothing to be done. She had been dead some hours.’

 実はこの冒頭部分において既に仕掛けが隠されている。
 ‘There was nothing to be done.’という文は、一見すると、医師の立場で、フェラーズ夫人の救命に間に合わなかったことを残念に思っているように読める。ところが、読後もう一度読み返してみれば、その意味はまるで違っていることに気づく。実は、その言葉の真意は、恐喝の度がすぎて「金の卵を産む鵞鳥」を自殺に追い込んでしまったことを「取り返しがつかない」と悔やんでいるのだ。
 「まともな評価を見たことがない」と先に書いたが、それはこの作品の翻訳からも裏付けられる。というのは、最近出た翻訳を見ても、この文に「手のほどこしようがなかった」といった訳を当てている例があるからだ。「手を施す」という表現では、通常の使用例に照らせば、医師の立場で治療を施したり、蘇生を試みたりするという意味にしか受け取れない。もし、この作品のプロットの特徴が正当に評価されていれば、こんな訳が今日なおまかり通ることはなかったはずだ。いかな新訳といえど、この肝心な部分の両義性を活かしていない訳は、ほかの部分をどれだけ改善していようと、個人的にはチョイスできない。

 第4章では、アクロイド氏が、フェラーズ夫人を恐喝していた人物がいたことを語る場面が出てくる。そして、それを聞いた語り手は、次のように独白する。

 ‘Suddenly before my eyes there arose the picture of Ralph Paton and Mrs. Ferrars side by side. Their heads so close together. I felt a momentary throb of anxiety. Supposing-oh! But surely that was impossible. I remembered the frankness of Ralph’s greeting that very afternoon. Absurd!’

 一見すると、語り手は、ラルフ・ペイトンこそがフェラーズ夫人の恐喝者ではないかと疑い、ラルフがそんな人物であるはずがないと疑念を振り払おうと努めているかのように読める。ところが、あとから読み直せば意味はまるで違ってくる。実は、フェラーズ夫人が恐喝者の正体をラルフに話したのではないかという不安がよぎったことを語っているのであり、ラルフの態度から、よもや気づいていまいと不安を振り払おうとしているのだ。

 第5章には、原文で次のような描写が出てくる。

 ‘I did what little had to be done. I was careful not to disturb the position of the body, and not to handle the dagger at all. No object was to be attained by moving it. Ackroyd had clearly been dead some little time.’

 最初のセンテンスは、最終章の告白の部分でも引用・解説されているため、記憶に残る読者も多いだろう。だが、ここで気を付けなければならないのは、むしろ‘No object was to be attained by moving it.’というセンテンスだ。一見すると、今さら短剣を抜き取っても助けることはできない、という意味に読める。ところが、その真意は、既にこと切れているのは明らかだから、とどめを刺す必要はない、と語っているのだ。ここでも、‘move’を「抜く」「抜きとる」と訳してしまっては、叙述に込められた仕掛けが活きてこない。
 (そもそも、語り手がフェラーズ夫人やアクロイド氏の救命を願うはずがないと、なぜ訳者たちは気づかないのだろうか。これでは語り手は心にもない嘘をしゃあしゃあと書いていることになってしまう。「アンフェア」という批判は、場合によっては、作者にではなく、実は翻訳に責任がある可能性も否定できない。)

 第6章では、語り手がデイヴィス警部にその夜の出来事を説明する際に、こう解説する。

 ‘And then and there I narrated the whole events of the evening as I have set them down here.’

 一見すると、洗いざらい説明したかのように読めるが、実は、あくまで、出来事の全体を(都合の悪い部分には触れていない)自分の手記のとおりに説明したと語っているのだ。この部分も、「すっかり話した(語って聞かせた)」のように訳すと、嘘を書いているように読めてしまう。

 仕掛けは語り手の叙述だけではない。第17章では、ポアロが犯人の人物像をかなり具体的に描写する場面がある。しかし、犯人自身が目の前にいるところで語っているため、その描写が正確なものだったと最後には分かるが、よもやその人物のことを描写しているとは、大抵の読者は気づかない。(ここでも、ポアロの説明を聞いたキャロラインがラルフ・ペイトンのことだと決めつけてしまうため、語り手が受けた「印象」も同じものだと思い込みそうになるが、実はまるで違う「恐怖」を感じていたと分かる。)

 幾つか例を挙げただけだが、全体を読み終えた後で読み返すと、あたかも「老婆と美女」のだまし絵のように、全てが違った絵のように見える仕掛けになっている。これは決して、結末の大団円で読者を引っ掛けるだけのトリック小説ではない。作品全体が大きな仕掛けなのであり、一つの対象を一つの視点から見ているはずなのに、異なる二つの解釈が可能になるように、しかも、どちらの読み方をしても一貫性を持つように緻密に計算された構造を持つ小説なのだ。それは、作品の叙述全体が真相を見極めるための手がかりになっていることをも意味している。これのどこが「アルセーヌ・ルパンの逮捕」と同様のプロットなのだろうか。
 クリスティ自身もそのことを意識していたことは、以前紹介したペンギン・ブックスに寄せた序文にも表れている。
 クリスティはそこで、批判者に対しては、「様々な表現の工夫や細心の言葉の選び方」に注意を向けさせることで反論してきたと語っている。これに先行する部分でも語っているように、この作品は単に中心となる「アイデア」だけで勝負したものではなく、そのアイデアを活かすための「技術的な挑戦(a certain technical challenge)」に取り組んだ成果なのだ。
 なお、この序文の訳を収録しているのは、今のところ、創元社の大久保康雄訳だけなのだが、実はこの訳には(上記で該当する例だけでなく)大きな問題がある。
 それは、最終頁の最後から4行目。「・・・感じない。」の次に来るべき文章、原文では、‘I have no pity for myself either.’という文章に当たる訳文が欠落しているのだ。この文がないと、次の‘So let it be Veronal.’というセンテンスにうまくつながらない。うっかり見落とした結果かもしれないが、こんなに長い間放置されているのもどうかと思う。速やかに訂正されるべきだろう。


アクロイド(ペンギン・ブックス)

テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

プロフィール

S・フチガミ

Author:S・フチガミ
お問い合わせ等は
fuhchin6491
(アットマーク)
hotmail.co.jp
へどうぞ

カテゴリ
フリーエリア
天気予報
リンク
検索フォーム
アクセスカウンター
RSSリンクの表示