ダフネ・デュ・モーリア『レベッカ』

 ボワロー=ナルスジャックの『めまい』を取り上げたとなると、どうしても触れたくなるのが、デュ・モーリアの『レベッカ』だ。
 やはりヒッチコック監督が映画化した作品で、ヒッチコック唯一のアカデミー作品賞受賞作でもある。幸いにも(と言うべきだが)同作については、小説のほうを先に読むことができた。映画ももちろん素晴らしいのだが、この小説は超ド級の傑作だと思うからだ。
 この作品の主役は、タイトルのとおり、レベッカだ。ところが、レベッカ本人はただの一度も登場しない。既に死んでいるからだ。一度も姿を見せないというのに、読後、もっとも強烈な印象となって残るのは、レベッカという魔性の女であり、そのすさまじいまでの存在感である。
 物語は、ヒロインと言うべき女性の一人称の視点で語られる。だから、この女性こそが主役ではないかと反論されそうだが、作者はこの女性を「わたし」と呼ばせているだけで、名前は最後まで分からない。彼女自身はもちろん、彼女をコンパニオンとして雇っていたヴァン・ホッパー夫人も、夫となるマキシム・デ・ウィンターも含め、登場人物の誰も、ただの一度も彼女の名前を口にしないからだ。
 作者は、このヒロインを匿名の存在に押し込め、彼女を通じて、前妻のレベッカへの畏怖と、そのコントラストとしてのおのれの無力さを独白させることで、タイトルであるレベッカの存在を際立たせ、死してなお生者の運命を支配するレベッカの意思の強さと恐ろしさをまざまざと実感させることに成功している。匿名とはいえ、決して造形の弱い存在ではなく、女性としての繊細さや心理的不安をきめ細かに描き、一定の存在感を具えているがゆえに、なおのこと、そのコントラストとしてのレベッカの存在が彼女に優越する存在として際立つのである。ヒロインとしての個性を放ちつつも、匿名の語り手という無色透明さがつきまとう女性の視点から物語を描く手法は、まさに作者の意図にかなったものだったといえるだろう。
 映画ももちろん、原作の特徴をうまく捉え、やはりヒロインを最後まで匿名のままで通させてはいる。しかし、映画という視覚に訴える芸術の性格上、ヒロインの存在はいやおうなしに具体的なイメージとなって眼前に現れてくる。ましてそれがジョーン・フォンテインという当時人気を誇った美貌の名女優ときては、観客の意識はおのずと彼女に集中せざるを得なくなる。
 同様に、レベッカの存在をまったく視聴覚に訴えることなく印象付けるのも至難の業というものだろう。ヒッチコックは、このため、レベッカに忠実だったデンヴァース夫人を、レベッカの意思を受け継ぎ、体現する存在として際立たせることで解決を図ろうとしたように思える。デンヴァース夫人をまるで亡霊のように突如として現れる存在として繰り返し登場させる演出などにもそうした意図を感じとれる。
 そうしたヒッチコックの演出はさすが巨匠の技であり、映像芸術としてこれ以上の再創造は望むべくもないのかもしれない。しかし、映画では、その演出が見事であればあるほど、おのずとヒロインとデンヴァース夫人の対峙という構図が浮き彫りとなり、レベッカの存在はその分希薄にならざるを得ない。実際、観終わって、強い印象となって残るのは、デンヴァース夫人を演じた、ジュディス・アンダースンという女優の怪演ぶりのほうであろう。
 映画はもちろん掛け値なしの傑作であり、それ単独でも十分素晴らしいのは言うまでもないが、ヒッチコックの苦心の演出を看取しながら映画を楽しむという意味でも、この作品については、原作を先に読んでいただくことをお勧めしたいと思う。
 ‘Last night I dreamt I went to Manderley again.’ 初めて読んだ学生時代以来、この言葉は今なお忘れ得ぬ小説の書き出しの一つである。
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