レイモンド・チャンドラー 『リトル・シスター』

 翻訳小説は通常、同じ社から新訳が出れば旧訳は版を止めるものだが、不思議なことに、早川文庫のチャンドラーは今でも清水俊二氏の旧訳が村上春樹氏による新訳と並んで出ている。こんな例はほかにないのではなかろうか。それだけ、清水訳に対する人気が依然として高いということなのかもしれない。
 清水氏は文芸翻訳も手がけたが、字幕翻訳を中心に活躍した人だった。翻訳には大きく分けて文芸翻訳、産業翻訳の分野があるが、字幕(映像)翻訳も重要な分野だ。ただ、字幕翻訳は他の分野と比べて独特のコツを要する。場面がどんどん入れ替わる中、ぱっと見てセリフの意味が観客に伝わるようにするためには、律儀に正確な訳をするわけにはいかない。それこそ何行にもなってしまうからだ。画面に三行も書かれたセリフが数秒で入れ替わったら、観客は最後まで読み切れないし、字幕を読むのに追われて場面に目が行かなくなる。だから、字幕翻訳は、細部を正確に訳すより、瞬時に大意がつかめるよう、簡にして要を得た文にいかに表現するかが訳者の腕の見せ所となる。したがって、おのずと細部は端折られてしまう。
 清水氏は、文芸翻訳、つまり小説の翻訳をしても、この字幕翻訳の癖が抜けず、大筋から外れた細部を端折ってしまうことが往々にしてあり、チャンドラーの翻訳も例外ではなかった。同じ組版をしているはずなのに、村上訳と頁数に大きく差があるのもこのためだ。
 村上訳は、清水訳への反動もあってか、細部を律儀に訳そうと努めた形跡がはっきりと窺える。ただ、これは字幕翻訳家としての力量でもあるのだろうが、細部にとらわれずにストーリーや会話の骨太の根幹を捉えた清水訳には、いささか〝清水節〟を読み込んだきらいはあるものの、会話にも一定の歯切れの良さがあるし、フィリップ・マーロウの個性にも感傷的な人間味がにじみ出た独特の味わいがある。今なおこれを捨てがたいと思う読者層が清水訳の存続を支えているのではないだろうか。
 いきなり翻訳の話題から入ってしまったが、問題は、そうした翻訳の性質と作家の個性とが相性が合うかどうかだ。チャンドラーは、『むだのない殺しの美学』でクリスティやセイヤーズ、クロフツなど、謎解きの巨匠たちのプロットを次々と俎上に載せ、その非現実的な荒唐無稽さをこき下ろしたことで知られる。ところが、チャンドラー自身のプロットはどうだったかと言えば、とても人のことなど言えたものではなく、破綻寸前の代物が少なくない。これは一つには、複数の中編をパッチワークして長編のプロットを構成するチャンドラーの手法にも原因がある。
 たとえば、『大いなる眠り』は、「カーテン」、「キラー・イン・ザ・レイン」、「翡翠」、「フィンガー・マン」の四つの中編を切り貼りしていて、オリジナル部分は全体の3分の1ほど。もともと独立した中編のプロットを継ぎはぎするようなことをして、そううまく整合性のとれたプロットなど構成できるはずもなく、その結果、運転手のオーエン・テイラーを殺したのが誰なのか、最後まで判明しないままに終わっている。のちに同作を「三つ数えろ」として映画化したハワード・ホークス監督がこのことに気づき、チャンドラー本人に運転手の殺害犯が誰なのか問い合わせたところ、返ってきた答えは「分からない」。原作者も分からないのでは、読者に分かるはずもない。元になった「キラー・イン・ザ・レイン」ではきっちり謎解きがなされているのだが、切り貼りするうちに、その真相が宙に浮いてしまったのだ。
 『湖中の女』はそんなチャンドラーの作品の中でもプロットが比較的すっきりまとまっている長編で、チャンドラーらしさという点では地味な作品にもかかわらず、これを代表作に推す人がけっこういるのも分かる気がする。『リトル・シスター』は、いわばその対極で、プロットの破綻が最も顕著な長編と言える。これを手にした読者の多くは、まるで煙に巻かれたような読後感を抱くに違いない。訳者の村上氏も、解説で「結局誰が誰を殺したのかと訊かれると、急には答えられない」と書いているほどだ。
 にもかかわらず、『リトル・シスター』は読んでいて大変面白い。最後まで対応が後手に回り続けるマーロウの動きにもどかしさを感じる面はあるものの、警察や事件当事者との会話やセリフは生き生きとしているし、個々の場面の描写にもチャンドラーらしい比喩や誇張めいた表現が絶妙に活かされている。全体のプロットより個々の場面で読ませるのがチャンドラーの魅力であり、プロットが破綻していても決して失敗作とはならない独特の強みが彼の作品にはある。
 それだけに、ややごつごつとした引っかかりや生硬さを感じるところがあるとしても、細部の描写や表現を律儀に訳そうと努めた村上氏の新訳には、チャンドラー本来の魅力を初めて翻訳においてヴェールを取り払って見せたような新鮮さがあるのも事実だ。特に、この『リトル・シスター』は、作者自身もうしろ向きの評価をしていた作品だというのに、訳者の強い思い入れもあってか、一段とそうした斬新さが際立っているように思える。久しぶりに新訳で再読して、これほど印象の変わった作品も珍しい。個々の作品や部分については、いろいろと論じる余地もあるし、清水氏の訳業との比較についても同様ではあるが、この作品に関しては、チャンドラーの個性と訳者の思い入れが幸福なマッチングを果たした好例と言えるのではないだろうか。
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レイモンド・チャンドラー『過去ある女――プレイバック』

 チャンドラーの完成された最後の長編『プレイバック』(1958)は、あの力作『ロング・グッドバイ』(1953)の次に書かれた作品としては、あまりに肩透かしの貧弱な作品だった。せいぜい、ラストでリンダ・ローリングがマーロウに電話をかけてくるシーンくらいしか、すぐに思い浮かぶ名場面はない。
 ところが、その『プレイバック』の元となった『過去ある女』(完成1948年、刊行1985年)は、とても読み応えのある、起伏に富んだ素晴らしい映画シナリオだ。チャンドラーにとっても、このまま埋もれさせるには惜しい自信作だったのか、マーロウの登場する長編に仕立て直されたのだが、残念ながら、オリジナルの魅力を活かせるほどの長編には仕上がらなかったようだ。
 一つには、作者が既にアルコールに溺れて筆力が衰え、チャンドラーに特徴的な細部の描写や比喩にも冴えがないこと、マーロウの描写もいまひとつ魅力に乏しいこともあるだろうが、映画シナリオならではの場面や視点の切り替えの面白さが、一人称小説の制約によって切り詰められてしまったこともある。この点は、訳者の小鷹信光氏も解説で指摘していることで、「カメラ・アイ視点の物語の中に、一人称視点の私立探偵、フィリップ・マーロウを強引に介入させた」という説明に長編の弱点が的確に集約されている。
 チャンドラーの作品にこんな面白いものがまだ残っていたのに気づいたのは、ちょっとした拾い物をした気分なのだが、このシナリオをひときわ素晴らしく感じさせるのは、小鷹氏による闊達で生き生きとした翻訳によるところも大きいだろう。チャンドラーの表現や語法に通じ、ハードボイルドのスピリットを体現できる翻訳家だからこそ実現できた、原作と翻訳が一体となった傑作だと思った。できれば、ハメットだけでなく、チャンドラーの長編も小鷹氏の新訳で読んでみたかったものだ。

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チャンドラーによる本格作品評

※『そして誰もいなくなった』のプロットを明かしていますので、未読の方はご注意ください。


 ミステリの女王アガサ・クリスティは、『複数の時計』の中で、ポアロの口に仮託して「暴力のための暴力」と評しているように、ハードボイルド小説がいたくお嫌いだったようだ。その一方で、『オシリスの眼』のあとがきでも触れたが、ハードボイルド小説の雄レイモンド・チャンドラーは、エッセイ‘Simple Art of Murder’(「単純な殺人芸術」、「むだのない殺しの美学」など、邦題はいろいろ)で、クリスティを含む巨匠たちの作品のプロットをさんざんにけなしている。彼は本格謎解き小説がよほどお気に召さなかったらしく、テイの『フランチャイズ事件』への好意的な評や、オースティン・フリーマンに対する手放しの賞賛ぶりは例外中の例外と言っていい。
 私のような節操のない読書家は、本格もハードボイルドも無頓着に楽しめてしまうたちなのだが、どうせなら作家サイドももっと仲良くしてもらって、互いに建設的な対話でもしてくれたらよかったのにと、まことに残念に思う次第である(笑)。
 チャンドラーの本格作品評というと、上記‘Simple Art of Murder’が最もよく知られているが、書簡集を参照すれば、ほかにもいろんな作品評が出てくる。その一端をここでご紹介してみよう。
 なかでも、アガサ・クリスティの作品はおめがねに適わなかったようだ。まるで象と鯨のように、この二人は互いに接することも理解し合うこともない巨匠同士だったのかと思えてくるほど。‘Simple Art of Murder’では、『オリエント急行の殺人』のプロットを「アホにしか分かりっこない」と評したチャンドラーだが、ジョージ・ハーモン・コックス宛ての書簡(1940年6月27日付け)では、『そして誰もいなくなった』を俎上に載せている。チャンドラーは、『そして誰もいなくなった』をその刊行後間なしに読んでいたのだが、彼にこれを読むよう勧めたのはコックスだったようだ。
 曰く。前半、特に出だしは面白かったが、後半は冴えを失ってしまった。帯文句に「完璧な犯罪小説」と謳われていたものだから、誠実さのある犯罪小説かと期待したが、読者を公平に扱い、動機や殺害方法も理に適っているかといえば、この本は「たわごと」。
 基本的な着想がそもそも気に入らない。サド気がある上に正義感に駆られた判事が、ただの伝聞証拠に基づいて人を次々と殺していく。罪を認める者もいるが、みな殺人が計画され、有罪が宣告されてしまったあとのこと。「相も変わらぬ読者に対する恥知らずで完全なペテン」。殺害方法も全くの僥倖に依存しているし、ものによっては不可能。
 でも、この本を読めてよかった。ずっと心にかかっていた疑問がついに解けたから。古典的なタイプのミステリで本当に誠実なものを書けるかというと、無理。意外な殺人犯を設定しようとすれば、人間性を捏造しないといけないけど、自分にはとてもできない。だって、自分には人間性のセンスがあるんだもの。「頼むから、誠実さのあるミステリの話なんかやめてくれ。そんなものは存在しないよ」
 ・・・いやはや、取り付く島もないとはこのことで、けちょんけちょんである。ギネスブックに載っている作家の最大のベストセラー作品に対して!
 ドロシー・L・セイヤーズについては、ジェイムズ・サンドー宛ての書簡(1951年9月25日付け)で、『学寮祭の夜』を再読したことを伝えている。
 「いやはや、なんたるおべっかの垂れ流し」。オックスフォードのカレッジの女学寮長たちが、ピーター・ウィムジイ卿のことを知りたいとか、ハリエット・ヴェインの新作ミステリのプロットを知りたいと大騒ぎ。「馬鹿にもほどがあるんじゃないの。これでも、決して馬鹿じゃない女が書いたものなのよ」。
 ジェイムズ・M・フォックス宛ての書簡(1954年2月16日付け)では、『死体をどうぞ』に言及しているが、「警察医は、アホでもなきゃ、死人が血友病だと気づくだろうに」と一蹴している。
 ニコラス・ブレイクの『野獣死すべし』も読んでいるが(1950年12月7日付けジェイムズ・サンドー宛て書簡)、どうやら、ナイジェル・ストレンジウェイズの妻、ジョージアがひどくお気に召さなかったようだ。曰く。世界で最も偉大な三人の女探検家の一人なんて、実に馬鹿馬鹿しい。ロデリック・アレンの芸術家の妻(アガサ・トロイ)もそうだけど。・・・フリーマンの「ヴィクトリア朝風の恋愛シーン」には好感を抱いたチャンドラーも、ステイタスや気位の高そうな女性はお嫌いだったようだ。
 さらに曰く。警察を出し抜くアマチュア私立探偵という設定も、ただもう馬鹿馬鹿しいかぎり。プロットの点で言えば、日記の語り手に、轢き逃げ犯が誰か早々と気づかせてしまうなんて、ブレイクはとんだミスをやったもの。そんなのは、長くてつらい、さんざん骨を折る仕事のはずだし、本の三分の二か、半分くらい過ぎてからでなきゃ。・・・という具合で、これまた辛辣きわまりない評価を下している。
 ミステリ作家の中には、アントニイ・バークリーやジョン・ディクスン・カーのように、書評でも健筆を揮った人もいるが、もしもチャンドラーが書評を担当していたら・・・(笑)。
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S・フチガミ

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