フィリップ・マクドナルド “X v. Rex”

 フィリップ・マクドナルドの“X v. Rex”(1933)は、かつて「新青年」という雑誌に『殺人鬼対皇帝』というタイトルで半分程度の抄訳で掲載されたことがあるらしい。「らしい」と書いたのは、日本のリファレンス・ブックにそう書いてあるものの、実物を目にしたことはないからだ。
 そんな私でも、中学の頃からそのタイトルだけは知っていた。なぜかというと、早川書房の「ミステリマガジン」の「響きと怒り」欄に、買取りや売却の希望を掲載する人がよくいたからだ。取引の対象になるほどすごい本なのかと当時思っていた。
 とはいえ、(手に取ったこともないのにあれこれ言うのもなんだが)この訳題はさすがにひどいと思う。
 イギリスは国王が形式上の統治者なので、刑事事件は国家を代表して国王が訴追者となる。だから、刑事事件の件名は、Rex v. ○○○(現在は女王なので、Regina v. ○○○)と表現する。(アメリカは共和制で主権者はあくまで人民なので、People v. ○○○となる。)
 フリーマンの短編‘Rex v. Barnaby’の邦題が「バーナビイ事件」となっているのは、だから、適切な訳だ。
 民事の場合であれば、原告(A)、被告(B)の順でA v Bとなる。映画「クレイマー、クレイマー」の原題は(邦題は肝心の vs.(ヴァーサス)を落として意味不明だが)、クレイマー夫人がクレイマー氏に対して起こした子供の養育権をめぐる訴訟だから、Kramer vs. Kramerとなる。
 マクドナルドのこの作品は、警察官が無差別に殺されていく事件を扱ったもの。原題は、未知の人物が警察という国家組織を相手に連続殺人を仕掛けていることに由来するわけで、敢えて意を取るなら、「国家に挑む謎のX」といったところか。いずれにしても、イギリスに国王はいても「皇帝」はいない。
 のっけからタイトルにこだわってしまったが、マクドナルドはXという言葉がよほどお気に入りだったようだ。『Xに対する逮捕状』もそうだが、“The White Crow”でも、実行犯の男をX、主犯の女をAと想定して推理を展開するくだりがある。
 内容としては、けして悪い作品とは思わなかった。挿話的に犯人の手記を章として加えたり、「脚注」と称して解説を加えるあたりは、この作家の作品にしばしばみられる独特の趣向。探偵役を務める謎のレヴェル氏の正体も、捜査に協力していた真の動機も、オチとしてはけっこう面白く、意外性もある。
 (ジュリアン・シモンズが“Bloody Murder”でネタばらしをしているが)衆人環視の中で警察官が至近距離から撃たれた謎は秀逸。車から撃つのは不可能であり、歩行者が犯人であれば、たとえサイレンサー付きで撃っても周囲が気づかぬはずはないという不可能興味が面白い。チェスタトンの「見えない男」を引き合いに出して本格ファンの興味をそそるのも心憎い。最後の犯行も、監視下にある警官に接近するために、犯人が突飛な手段を用いるのもちょっとした面白さだ。
 ただ、犯人像や動機の背景は説明不十分だし、最後に取って付けたように駆け込みで言い繕ってしまうものだから、どうしてもやっつけ仕事に見えてしまう。必然性のない表現や文章、会話を饒舌に書き加えて水増ししている感があるのも、この作家にしばしば見られる悪い癖だ。
 そうした欠点はあるものの、純粋なスリラーに近い“Murder Gone Mad”に比べても、謎解きファンを喜ばせる趣向やツイストが随所に取り入れられていて、過度の期待さえ持たなければ意外に楽しめる作品といえる。ジュリアン・シモンズが、辛口の評を与えながらも、『ライノクス殺人事件』と並べてマクドナルドの代表作に挙げているのも必ずしも不当ではないと思う。
 余談だが、「万華鏡」という章に、「ヴィクター・ゴランツ氏は、フランシス・アイルズがマーティン・ポーロック氏のペンネームであることを否定」というくだりが出てくる。マーティン・ポーロックはマクドナルドのペンネームで、この作品はまさにその名義で出されたもの。アイルズは言うまでもなくアントニー・バークリーのペンネームだが、当時、その正体が誰なのか話題になっていたのだろう。ゴランツ社の社長を引き合いに出してこんなエピソードを加えてしまうところに、マクドナルドの茶目っ気が表れていてニヤリとさせられる。
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フィリップ・マクドナルド “The White Crow”

 フィリップ・マクドナルドのアントニイ・ゲスリン大佐のシリーズは、ユニークなアイデアを取り入れた作品が多く、凡作、駄作も含めて、必ずといっていいほど、この作家ならではの独特の趣向が作品ごとに取り入れられているのが見どころだ。
 ただ、欠点が目立たず、プロットがうまく収まりがつけば、それなりの佳作になるのだが、どちらかといえば、アイデア倒れに終わる中途半端な出来の作品のほうが多いように思われる。ジュリアン・シモンズが“Bloody Murder”の中で、マクドナルドのことを「アイデアは簡単に思いつくが、首尾一貫したプロットにまで仕上げることは滅多にない作家」、「倦むことも知らぬが、注意も足りない実験家」と評しているのは、いかにも正鵠を射た表現だと思う。

 デビュー作の『鑢(やすり)』(1924)は、名作リストの類にもしばしば取り上げられているし、邦訳も出ているので、詳しい解説は省くが、さすがに一作目だけに、念入りに仕上げたのか、全体がよくまとまった出来栄えになっている。
 第二作目に当たるのが、“The White Crow”(1928)。自分でもさほど推す気になれない作品を取り上げるのは気が進まないのだけれど、サザランド・スコットが『現代推理小説の歩み』の中で、『鑢』、『Xに対する逮捕状』と並んで本作を推薦していることも言及しておくべきだろう。

 財界の大立者、サー・アルバート・ラインズ・バワーが、シャツにズボン下、靴下だけという姿でオフィスの椅子に座ったまま、首を刺されて死んでいるのを掃除婦が発見する。スコットランド・ヤードのルーカス副総監の要請で現場に赴いたゲスリンは、まず内部のスタッフに目を付け、ボイド警視やパイク警視(のちに“Murder Gone Mad”で主役。本作が初登場)とともに、私設秘書のダフレスネ、速記係のミス・ホルロイドとミス・ファンソープ、雑用係のレネットを調べ始める。扁桃腺で休んでいるはずのレネットの下宿を訪れたゲスリンは、まだ18歳のその青年が実はひそかに低俗な冒険小説を執筆して、かなり稼いでいるらしいことを突き止めるが、行方が分からなくなっていることを知る・・・。

 最初からブルネットやブロンドの若い女秘書を登場させて読者の気を引いたり、ナイトクラブ「白い烏」でゲスリンが激しい立ち回りを演じたりと、なにやら扇情的な描写が目立ち、低俗な安っぽさを感じさせる面もあるが、ゲスリンが推理を展開する覚え書きが出てきたり、実行犯の男をX、主犯の女をAと想定して論じる場面があったりと、謎解きとしての体裁を意識しているのもうかがえる。
 しかし、二作目にして既に、締まりのない埋め草的文章が多くてストーリー展開がしばしば滞りがちになるし、『鑢』に比べるとプロットが杜撰で、解決も強引としか言いようがないのが、つらいところだ。
 行方不明の青年は誘拐されていたと分かるが、殺人と誘拐との関連はさほど必然性が感じられないし、誘拐した理由にも説得力がなく、青年が冒険小説作家だったという設定も何のためだったのか、結局よく分からない。まして、その青年を地下倉に閉じ込めて全裸にして鎖でつなぎ、虐待を加えていたというのは、必然性のなさもさることながら、なにやら倒錯趣味的なものすら感じる。余談だが、そういえば、この作家、「おそろしい愛」という、同性愛をモチーフにした殺人を描いた短編があるのだった(MWA最優秀短編賞を受賞している)。
 ただ、(サザランド・スコットが前掲書でネタを明かしてしまっているが)ゲスリンが関係者を一堂に集め、犯人を明らかにする最後の見せ場が、この作家らしい趣向で、犯人そのものの意外性よりも、その暴き方で読者を驚かせる仕掛けが面白い。スコットが代表作の一つとして推しているのも、そのあたりに理由があるのかもしれない。

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フィリップ・マクドナルド “The Noose”

 “The Noose”(1930)は、アントニイ・ゲスリン大佐の登場する第3作目に当たる。前作“The White Crow”に比べればずっとましな出来栄えと思えるが、推理小説としての構成は『鑢』や“The Link”に比べるとまとまりが悪く、謎解きの醍醐味を期待すると当てが外れることになる。
 本作での趣向は、謎解きとしての構成より、いわゆるデッドライン物の先駆をなしているところにある。つまり、期限が迫る中で真犯人を見つけなければならないという設定のサスペンスが本作の見どころである。

 ゲスリン大佐のもとをセルマ・ブロンスンという女性が訪れる。セルマの夫、ダン・ブロンスンは、元ボクサーで、ブラッカッターという男を殺害した罪で死刑判決を受けていた。ブラッカッターは後頭部を至近距離から撃たれ、ブロンスンはそのそばで気を失っている状態で、夜、森の中で発見されたのだった。状況は明らかにブロンスンによる犯行であることを示していた。
 何千人もの署名を集めての執行猶予の歎願もむなしく、ブロンスンは五日後に死刑執行の日を迎える。夫の無実を信じるセルマは、ゲスリンに真犯人を突き止めて夫の無実を証明してくれるよう支援を請う。セルマの誠実さに打たれたゲスリンは、ブロンスンの無実を信じ、限られた時間の中で調査に乗り出す・・・。

 ゲスリンは、自らが所有する新聞「フクロウ」の二人の記者、フラッドとダイスンの協力を得て調査を進めていくのだが、その調査ぶりはいかにも淡々として緊張感に欠けているし、ブロンスンやセルマという当事者たちの置かれた苦境もさほど生々しく描かれるわけでなく、差し迫ったリミットの中で時間と闘いながら真相を突き止めなければならないという焦りも緊迫感も伝わってこない。
 各章の見出しは、「木曜」「金曜の朝」「金曜の午後」「金曜の夜」「土曜」「日曜」「月曜」「当日」という具合に、日一日と死刑執行の日が迫ってくるのを示す構成になっていて、本作での作者の狙いを端的に表しているのだが、その狙い自体が上滑りして、中身が伴わないままに終わっている感がある。設定だけを捉えれば、ウィリアム・アイリッシュの『幻の女』(1942)や『暁の死線』(1944)の先駆けともいえるのだが、アイリッシュの醸し出す、手に汗握るようなサスペンスには到底及ばない。
 ‘X’という文字を好むマクドナルドは、この作品でも、未知の第三者の存在を‘X’と想定して推理を展開する場面が、クライマックスも含めて出てくるが、真犯人の設定も動機もかなり強引で、見てくれほどの論理性は伴っておらず、謎解きとしても中途半端にとどまっている。
 結局、この作家は、クイーンもどきの論理性よりも、サスペンスやスリリングな展開を紡ぎ出すほうが性に合っていたと思われ、実際、その後は、“Murder Gone Mad”や“R.I.P.”など、そうした傾向の強い作品が増えていく。その意味で、“The Noose”は、マクドナルドにとって、こうした作風へとシフトする過度期の作品だったといえるのかもしれない。

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フィリップ・マクドナルド “The Link”

 “The Link”(1930)は、ゲスリン大佐の登場する第4作。プロットの巧妙さ、犯人の意外性という点では、『鑢』を上回る出来栄えで、個人的には、これまで読んだマクドナルドの作品の中でイチオシの作品である。ジャック・バーザンも、“A Catalogue of Crime”の中で「疑いもなくゲスリン物のベスト」と称賛している(共著者のテイラーは異論ありとしているが)。

 物語は、サムスフォードという小さな町の獣医、マイケル・ローレスの一人称で進行していく。
 サムスフォードには、チャールズ・グレンヴィル卿という名士が住んでいた。グレンヴィル卿は、五年前に爵位と財産を継承して移住してきた、元はアメリカ人だった。ローレスは、グレンヴィル卿の妻シェイラが飼っている馬の世話を通じて夫妻と付き合いがあったが、実はひそかにシェイラに恋心を抱いていた。
 8月のある夜、ローレスはグレンヴィル夫妻の館を訪れた後、気晴らしにライフル射撃場に出かけるが、誰かがそこで既に射撃をしているらしいのに気づく。ローレスは、人と一緒になるのを嫌って、射撃場に寄らずに散策することにし、途中でパブに立ち寄る。
 パブには店の主人のディンウォーターのほか、グレンヴィルの代理人のバーフォードと、アメリカ人のアヴィスの二人の客しかいなかった。アヴィスは、同じく夏になるとサムスフォードに短期滞在でやって来るカナダ人のベルトンと不仲なことが評判で、彼らはしばらくそんなこんなを話題に会話がはずむが、ふとアヴィスが、ドアが半開きになったパブの入り口に人が倒れているのに気づく。
 ローレスが確認すると、それはグレンヴィル卿の死体で、銃で頭を撃たれて即死状態、死後硬直は始まっておらず、殺されてからそれほど時間が経過していないことを示していた・・・。

 この作品でもマクドナルドらしい趣向は健在で、巻末に付録を付し、事件の推移を示す報告書や見取り図、ゲスリン大佐がローレスに宛てた書簡を通じて謎解きの詳細を明らかにするという、手の込んだ手法を用いている。
 しかし、この作品の魅力は、そんな小道具の用い方より、プロット・アイデアの独創性にあると思われ、人間関係の構図をプロットに巧みに織り込んだ犯人の隠し方が面白い。タイトルの“The Link”も、罪のない者を犯罪との結びつきから断ち切るという意味を込めているように思わせて、実はまるで違う意味があったことに気づく。似たようなプロットをクリスティも用いていて、彼女のほうがより緻密で巧妙ともいえるが、時期としてはマクドナルドのほうが早い。
 ただ、犯行の背景となる過去の経緯や事実は、ほとんど一方的な説明で片づけられてしまい、思いつくアイデアは面白いが、プロットとして練り上げるのは中途半端といういつもながらの強引さを感じさせるのが玉に瑕といえる。
 そうした欠点はあるが、バーザンも指摘しているように、無駄な会話などの水増し的要素も少なく、ストーリーが比較的よどみなく進むのも好感が持てるし、容疑者が二転三転する展開や検死審問でのクライマックスなど見せ場も多いのが作品の魅力に寄与している。総合的に見れば、ゲスリン物のベストというだけでなく、黄金時代の傑作の一つに挙げてもおかしくない作品ではないかと思う。

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フィリップ・マクドナルド “Murder Gone Mad”

 “Murder Gone Mad”(1931)では、ゲスリン大佐は登場しないが、シリーズのレギュラー・メンバーであるアーノルド・パイク警視が主役を務めている。ルーカス副総監も登場し、二人の会話にゲスリン大佐の名前も出てくるなど、ゲスリン大佐シリーズの番外編的な位置づけにある作品といえる。

 ホルムデイルという町の鉄道で、ライオネル・コルビーという11歳の少年がナイフで腹を切り裂かれて殺されているのが見つかり、それまで平穏だった小さな町を恐怖に陥れる。
 翌日、ホルムデイル株式会社の社長、モンタギュー・フラッシング卿のもとに、光沢性の黒インクを使って斜体字体で表書きされた、黄色いリンネル紙の見慣れない封筒が届く。開封すると、中には、「ザ・ブッチャー」と名乗る人物からの犯行声明を暗示する紙片が入っていた。同じ手紙が警察と「ホルムデイル・クラリオン」紙の編集者にも届く。
 さらに二人の女性が次々と同じ手法で犠牲となり、同様の犯行声明が届けられるに及んで、事件は連続殺人の様相を帯び始め、ロンドン警視庁のルーカス副総監はパイク警視の派遣を決める・・・。

 第8章では、パイク警視がスコットランド・ヤードに送った報告書が紹介され、各犯行を比較する図を用いて事件の特徴を分析したり、第16章でも、同じく比較表を用いた、ルーカス副総監宛ての覚え書きが出てくるなど、マクドナルドらしいいつもの趣向も顔を出す。
 しかし、思わせぶりな趣向とは裏腹に、蓋を開けてみれば、謎解きの要素はほとんど無に等しく、本格ファンを喜ばせるようなプロット上の仕掛けも特にない。要するに、無差別連続殺人を中心に据えたスリラーなのである。(ゲスリンを登場させずにパイクを主役に据えたのも、そうした作品の性格を考えてのことではないだろうか。)にもかかわらず、本作は我が国の本格ファンから長らく紹介を待望されてきた経緯がある。その主な理由は、ジョン・ディクスン・カーが『地上最高のゲーム』の中で本作をベスト・テンの一つに選んでいるからだ。
 カーのようなガチガチの謎解き本格派の雄が、『ナイルに死す』や『黄色い部屋の謎』などと並んで推すからには、さぞや優れた謎解き物ではないかと思うのは自然な推測で、まして、その作家が、『鑢(やすり)』のような謎解き物の古典や『ライノクス殺人事件』のような凝った仕掛けの作品を書くフィリップ・マクドナルドときては、ますますそうした期待を抱いてしまうのは無理からぬものがある。
 しかし、カーが本作を推しているのは、『地上最高のゲーム』の本文を読んでも、連続殺人鬼と警察との対決というスリリングな展開にあるのであって、謎解きの独創性にあるのでないのは明らかだ。トマス・ハリスなどのサイコ・スリラーに慣れてしまった今日の読者の感覚からすれば、この手の連続殺人物はもはや珍しくもなんともないのだが、本作や『地上最高のゲーム』が書かれた頃は、ベロック・ローンズの『下宿人』のような先駆的作品は幾つかあったものの、これだけの無差別連続殺人を描いたスリラー作品はまだ目新しかったといえる。
 いわば、作品を見る視点に時代の隔たりがあることを考慮に入れなければならないのだが、言い方を変えれば、こうした作品は既に陳腐化してしまったともいえる。カーが17年後に考えを変えて、『鑢(やすり)』のほうをベストテンに入れようとしたのも、時の推移に伴う同様の見方の変化が生じたからではないだろうか。以前書いたことの繰り返しになるが、同様に連続殺人を扱っていても、謎解きという点では“X v. Rex”のほうがずっと面白い。
 個人的な余談ではあるが、十数年ぶりに読み返してみて、埋め草的なサブプロットが少なく、歯切れのいい展開のおかげで、他の作品と比べてもずっと読みやすいと感じた。やはりこの作家は、自分の性に合わない謎解き物を無理して書く時よりも、こうしたスリラー作品を書く時のほうがはるかにスムーズに書けたのではないかと思う。

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