ジョン・ロードの埋もれた佳作

 ジョン・ロードの作品はかなりの数を読んだけれど、評判のよさそうな初期作品を中心に読んできたせいか、そんなに印象は悪くない。
 ただ、全体の傾向として、ロードにはメカニカルな仕掛けのトリックがあまりに目立つ。しかも、短編ネタにふさわしいシンプルなトリックが多いのに、これをベースに長編の長さにまで引き延ばしてしまうため、結果として、どうしても退屈で迂遠な議論で紙数が埋められ、読者はうんざりさせられてしまうのだ。ジュリアン・シモンズがロードを退屈の代名詞のように見なしたのも仕方ない面がある。ロードが、長編で用いたプロットを短編に集約していたなら、エドワード・ホックのように短編の名手として評価を確立していたのではないかと思えるほどだ。
 人物造形の薄っぺらさもロードの弱いところで、シリーズ・キャラクターも初登場時には詳しく描かれるのに、後続の作品ではおざなりになる傾向がある。プリーストリー博士の助手、ハロルド・メリフィールドも、“The Paddington Mystery”では、殺人の容疑者となり、父の友人だった博士や、博士の娘エイプリルとの関係などが詳しく書き込まれ、魅力のある青年として描かれるが、後続作では紋切り型の登場人物になってしまう。“The Claverton Mystery”で初登場するオールドランド医師も同様だ。
 もちろん、メカニカルな仕掛けでも、なかには感心させられるものもあるが、多くは使い古されたトリックの焼き直しだったり、今日では時代遅れになったものも少なくないため、どうしても点が辛くなる。邦訳のある『見えない凶器』はその典型。マイルズ・バートン名義の傑作とされる“Death in the Tunnel”や“Death Leaves No Card”もそんな類のものだし、最近読んだ“The House on Tollard Ridge”や“Murder at Lilac Cottage”も同様の理由でがっかりさせられた。
 むしろ、『ハーレー街の死』や“The Claverton Mystery”のように、中心となる科学知識はやや専門的としても、決して複雑になりすぎず、仕掛けそのものより全体のプロット構成を工夫した作品はまだ読み応えがある。
 サマセット・モームは、“The Decline and Fall of the Detective Story”(探偵小説の衰亡)の中で、書名を挙げずに幾つかの推理小説のプロットに言及しているが、その中にロードの“Peril at Cranbury Hall”、“Hendon’s First Case”が含まれている。
 “Peril at Cranbury Hall”は、炭疽菌を用いた殺人を扱っていて、ある意味、時代を先取りした作品といえるし、“Hendon’s First Case”も、教本の類によく出てくる有名なトリックを用いた作品だが、モームはいずれも非現実的すぎて納得できないトリックと見なしている。
 好みの問題かもしれないが、数は少ないものの、変に凝ったメカニカルさを感じさせず、クリスティのようにシンプルなミスディレクションや心理的なトリックを用いた作品に出来のいいものが多いように思う。
 “The Hanging Woman”やバートン名義の“Murder M.D.”、小粒ではあったが“The Robthorn Mystery”などがよい例だろうか。“Dr. Goodwood’s Locum”は特に見事で、個人的にはイチオシの作品だ(バリー・パイクも“The Detective Fiction: The Collector’s Guide”でパースナル・チョイスに挙げている)。
 “The Paddington Mystery”、“The Davidson Case”、“Mystery at Greycombe Farm”、“The Motor Rally Mystery”などは、さほど独創的なトリックを用いているわけではないが、よく練られた構成が好印象の作品だった。
 後期に入ると、肝心のプロット自体も拍子抜けのものが多くなり、冴えを失って衰えを感じさせ、ますます読むに耐えないものが多くなる。とはいえ、初期の作品でも、“Mystery at Olympia”(あのキノコ型のパーツ!)や、何の取り柄もない“Dead Men at the Folly”、“Nothing But the Truth”のようなチョンボ作もある。
 個人的にベスト3を選ぶとすれば、“The Claverton Mystery”、『ハーレー街の死』、“Dr. Goodwood’s Locum”だろうか。続々と翻訳・紹介するに値するかどうかはともかくとして、現役本だけで紹介が終わるには惜しい作家ではある。

パディントンの謎
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ジャンル : 小説・文学

マイルズ・バートン “The Cat Jumps”

 マイルズ・バートン(ジョン・ロード)の“The Cat Jumps”(1946)は、シリーズ・キャラクターのデズモンド・メリオンが登場する作品。

 「ヴィンテージ荘」に住むグウェンドリン・コティントン夫人という65歳の老婦人が、ナイフで刺殺されているのが家の中で発見される。夫人と同居していたのは、長年仕えてきた料理人のマーサと、ほかには飼い猫のベリサリアスだけだった。
 現場のダイニング・ルームは密室状態になっていて、唯一、ベリサリアスが外から出入りするための小窓だけが開いていたが、とうてい大人が出入りできる大きさではなかった。殺人事件の前に、近くの「ゲーブルズ農園」の馬がナイフで刺されるという事件が起きていたが、使われたナイフは、夫人の刺殺に使われたのと同じタイプで、柄の部分にフランス語で死を意味する「MORT」という文字が刻まれた特殊加工のナイフだった。
 夫人には子どもがなく、亡夫から相続した莫大な財産があったため、遺言で相続の対象となる親族が容疑者として浮かび上がる。なかでも疑われたのは甥のスティーヴン・スティバードで、彼は科学者のラングリッシュとともに「ソルヴァイン」というリューマチに効く薬を開発して販売していたが、事件の直前に夫人を訪れ、資本金を得るために事業への参画を申し入れて断られていた・・・。

 デズモンド・メリオンは近隣の地域に住んでいて、コティントン夫人とも知り合いという設定であり、おなじみのアーノルド警部とともに捜査に携わることになる。
 本書はロバート・エイディの“Locked Room Murders and Other Impossible Crimes”にも取り上げられている密室物。しかし、密室のトリックそのものは単純であり、さほど斬新でも、驚くようなものでもない。エイディの解説を読んでも、それだけではなんのことはないトリックのように見える。
 むしろ、事件の真の謎は、いったん戸締りをして消灯し、床に就いたはずのコティントン夫人が、なぜ再び起き上って現場のダイニング・ルームに降りてきたのか、という点にある。タイトルにも示されているように、猫のベリサリアスの存在が重要な役割を果たしているのだが、動物を巧みに利用した手法には面白いと感じる面もあるものの、ロードらしく、やや専門的な科学知識を活用している点が一般読者には容易に得心し難いところかもしれない。
 バリー・パイクは、“CADS”21号で、バートンの作品として“Murder M.D.”、“Not A Leg To Stand On”と並んでこの作品を推薦しており、やはりベリサリアスの役割を強調している。そう言われると、どんな猫かと興味を惹かれるが、メリオンになついてしばしば膝の上に乗ってくる愛嬌のよさはあっても、さほど個性的に描かれているわけでもないため、例によって人物描写の弱さや退屈な中盤部分と相まって、せっかくユニークなトリックの着想を得ながら、いま一つ謎の盛り上げ方や雰囲気作りが弱くなっているところが残念だ。
 参考までに触れておくなら、バリー・パイクはほかに、ロードの作品として“Dr. Goodwood’s Locum”と“Death Invades the Meeting”を推していて、ジョン・クーパーとの共著“Detective Fiction: The Collector’s Guide”では、前者をパースナル・チョイスに挙げている。(後者はいかにも使い古されたトリックの作品で、個人的にはちっとも感心しなかったのだけれど・・・)
 なお、タイトルの“The Cat Jumps”は、‘see which way the cat jumps’(日和見をする)という慣用句に由来する。猫がどう飛び跳ねるかにポイントがあることを暗示しているようで、なかなか絶妙なタイトルの付け方と言えるかもしれない。

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ジョン・ロード “In Face of the Verdict”

 “In Face of the Verdict”(1936)は、プリーストリー博士の登場する長編。

 オールドランド医師は、ブラックサンド在住のジョン・ハラトロウ卿から私立探偵を連れて検死審問を傍聴しに来てほしいとの手紙を受け取る。オールドランドは、プリーストリー博士とともに現地に赴き、ウォルター・ベッドワーシー中佐の検死審問を傍聴する。
 ベッドワーシー中佐は、数年前に事故で妻と息子を失い、自身も顔にひどい傷跡を残し、それ以後、中佐は人に顔を見られるのを嫌って日中は外出しなくなっていた。
 ある日、中佐は、港の入口で溺死体となって発見されるが、ベッドワーシー中佐は、その前日の夜、ジョン卿の邸を訪れ、11時過ぎに帰って行ったという。中佐はジョン卿の邸であるウェストマーシュ・マナーをよく訪れていたが、その邸とベッドワーシー中佐のレッドランズ邸の間には川があるため、中佐は自分用に川を渡る歩道橋を設置してあった。
 ジョン卿は検死審問で、歩道橋が霜の降りる季節には滑りやすいことを証言し、ベッドワーシー中佐が凍った橋で滑って、橋の手すりの下から川に転落した可能性を示唆する。死体には争った痕跡もなかったことから、川に転落して溺死した結果、死体の発見場所まで流されていったと考えられ、陪審員団は事故死という評決を下す。
 ところが、検死審問のあと、ジョン卿は、自殺の評決を出させないために、意図的に事故死の評決に導くよう証言したとオールドランドとプリーストリー博士に告白する。実際は、歩道橋が凍って滑りやすくなっていたという事実はなかったという。その晩は月明かりもない真っ暗闇だったが、ウェストマーシュ・マナーの塔に設置された時計の緑に光る蛍光表示を目印にして、迷うことなく歩道橋に行けるようになっていた。
 ベッドワーシー中佐の財産の大半は、政府の役人をしている弟のアーネスト・ベッドワーシーが相続することになっていた。アーネストには妻と娘のモリーがいたが、妻は不治の病に侵され、余命は幾ばくもなかった。モリーは、レナード・マッケイというエンジニアの夫がいて、ウィンブルドンに在住していたが、二人を結び合わせたのは、モリーが敬愛する叔父のアーネストだった。
 中佐の葬儀が終わったあと、ジョン卿はレッドランズに立ち寄り、アーネストから邸の売却を持ちかけられるが、アーネストはその後行方不明となってしまう。アーネストは、ジョン卿からの邸の処分の件で話がしたいという偽の手紙におびき出されたらしかった。その後、警察宛てにアーネストがジョン卿の邸近くの池に沈んでいると示唆する地図が送られてくる。池の水門を開いて水位を下げると、果たして、アーネストの死体が発見される。アーネストは頭を殴打されて殺害されていた。
 その数日後に、アーネストの妻も病死する。ベッドワーシー中佐の財産は弟のアーネストが相続し、さらに、その財産は妻が相続したため、最終的に娘のモリーが相続することになっていた。
 あまりに都合よく続いた死の連鎖に、モリーとその夫のレナード・マッケイが容疑者に浮上する。ところが、モリーは夫と結婚して最初の一、二年はうまく行っていたものの、その後、モリーが「テレパシー研究所」のメンバーになった頃から二人は不仲になり、顔を合わせることも少なくなっていた。マッケイによれば、モリーは離婚を検討していたし、マッケイ自身も敢えて逆らわない心づもりでいたという。マッケイの意見では、モリーが父親のアーネストを殺すことはあり得ても、敬愛する叔父のウォルターを殺すとは考えられないという・・・。

 ハンスリット警視とともにワグホーン警部も登場するが、ロードとしては比較的初期の作品であり、プリーストリー博士も積極的に外出して自ら捜査に携わるし、ストーリー展開にもそれなりに起伏があって、中期以降の作品にしばしば感じる退屈さはない。中期以降の作品では、博士の邸であるウェストボーン・テラスで、定例夕食会に出席するメンバーが延々と議論を続けるという定型パターンが多くなり、時として我慢ならぬほど退屈に感じることもあるが、そうした欠点が目立たないところは好印象だ。
 プロットも、ベッドワーシー中佐と弟のアーネスト殺害のトリックは比較的早い段階で明らかにされ、ロードにしては珍しく、ハウダニットに重きを置くのではなく、むしろ、二人を殺害した動機の謎を際立たせながら、フーダニットに興味の焦点を向けさせるようにしているところが面白い。
 もっとも、それほどの意外性があるわけでもなく、好意的に評価しても、まずまずまとまりのよいプロットと言える程度の作品ではないだろうか。これで個々の登場人物をもっと詳細に描くなり、人物造形を丁寧に行っていれば、そんなプロットでも効果を上げたのかもしれないが、残念ながら消化不良に終わっているのが惜しいところだ。

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ロード問答――乱歩の「カー問答」風に

 「フチガミさんは、ジョン・ロードの作品に親しんできたそうですね」
 「うん、ここ十年ほどのことだけど、ロード名義の作品なら、過半は読んだよ。ただ、後期の作品は、読むに堪えないものに何冊も接して印象が悪いので、ぬけが多いんだけどね。バーザン&テイラーが“A Catalogue of Crime”で好意的に評価している“The Two Graphs”(1950)も、あまりのくだらなさにがっかり。邦訳のある『吸殻とパナマ帽』(1956)もひどかった。復刻された『エラリイクイーンズ・ミステリマガジン』創刊号の「海外ニュース」に、“Delayed Payment”(1955 英題:“Death of a Godmother”)について「ダラダラ長いばかりで退屈だと、馬鹿に評判が悪い」という当時の悪評が載っていて、そんな評を見たら、読む気失せちゃった(笑)」
 「以前、自分なりのベストスリーは、“The Claverton Mystery”(1933)、『ハーレー街の死』(1946)、“Dr. Goodwood’s Locum”(1951)だと言ってましたよね。ほかにはどんな作品がお勧めですか。せめてベストテンくらいにしてくださいよ」
 「そうだなあ。じゃあ、あと七つ。とりあえず挙げるとすれば、“The Davidson Case”(1929)、 “Peril at Cranbury Hall”(1930)、“Pinehurst”(1930)、“The Hanging Woman”(1931)、“The Motor Rally Mystery”(1933)、“The Robthorn Mystery”(1934)、それにバートン名義の “Murder M. D.”(1943)かな。機会を改めて振り返ると、また評価が変わるかもしれないけど」
 「なんだかユニークな選択ですね。“Peril at Cranbury Hall”、“Pinehurst”、“The Hanging Woman”、“The Robthorn Mystery”ってのは、加瀬義雄さんが『見えない凶器』の解説で集計した、リファレンス・ブック等で挙がる推薦作の上位には出てこない作品ばかりじゃないですか。反対に、そこで挙がっていた『見えない凶器』(1938)、“Mystery at Olympia”(1935)、バートン名義の『トンネルの秘密』(1936)、“Death Leaves No Card”(1939)は推さないんですね。これらの作品だって読んでるんでしょ?」
 「うん。それらを推さないのは、僕なりのわけがあるんだ。要は、技術的な仕掛けをメインに用いた作品というのは、点が辛くなっちゃうんだよ。でも、これは僕だけの偏見とも言えないんじゃないかな。現に、『見えない凶器』が紹介された時の評判は必ずしも芳しくなかったよね。使い古された時代遅れのトリック、という見方が多かった。(代表作がこの程度のものか)と思いこんで失望した読者も少なくなかったと思うよ。『トンネルの秘密』や“Death Leaves No Card”も、今紹介しても、やはり同様の評価を受けるんじゃないかな。
 ロードは、こういうメカニカルなハウダニットのトリックが多いね。それだけに、今読むと、使い古されたトリックだったり、今日の技術的水準からすると、時代遅れだと思われるものが少なくない。つまり、こうしたトリックをメインに据えたプロットの作品は、時の試練に耐え得ないものが多いんだよ。ロードが一番得意としたタイプのプロットが、今日的視点では一番弱さを感じさせるというのは、彼にとっては悲劇的だったね。ロードが忘れられた作家になった一因は、『退屈』というだけでなく、その点にもあるんじゃないかと思う。
 それだけに、そんなトリックがまだ新鮮だった同時代の評価に引きずられて作品を選ぶと、現代の読者の感覚とずれてくる場合が多いと思われるんだ。『見えない凶器』はその典型例じゃないかな。メルヴィン・バーンズが推す“The House on Tollard Ridge”(1929)は、初期作品らしいストーリー展開の面白さはあるけれど、仕掛け自体は、今読むと、まさに時代遅れもいいところだし、バーザン&テイラーもそう評価している。バリー・パイクが推す“Death Invades the Meeting”(1944)にしても同様で、いまどきこんなトリックに感心する読者はまずいないと思うよ」
 「そういえば、“Mystery at Olympia”は、“1001 Midnights”のチャールズ・シバク&ビル・プロンジーニや“Twentieth Century Crime and Mystery Writers”でロードの項目を担当しているメルヴィン・バーンズも代表作の一つに挙げていますけど、フチガミさんはこれを『チョンボ作』だと言ってますね」
 「そう。この作品を評価する向きは、死因の謎をめぐる前半部分を高く評価するんだろうけれど、僕に言わせると、肝心の解決がひどすぎる。確かに、ロードは特殊な毒物だとか、込み入った仕掛けを取り入れることが多いんだけど、実行可能性も乏しければ、現実事例としてもあまりに特殊すぎる手法を用いると、説得力が感じられないし、ばかばかしくなってしまうんだ。『ハーレー街の死』ですら、そう感じた読者がいるくらいだから、彼のプロットはそうしたリスクが伴いやすいんじゃないか。
 “Murder at Lilac Cottage”(1940)や“Men Die at Cyprus Lodge”(1943)も、込み入った仕掛けを用いている割には、(そううまくいくかい)という疑問がつきまとってしまう。被害者がちょっとでも姿勢をずらしたら、『はい、やり直し』となるようなたぐいの仕掛けさ。もっとも、カーター・ディクスンの『ユダの窓』にも似たような批判はあるから、これはロードだけの問題ではないんだけどね」
 「ふーん、じゃあ、フチガミさんの推す作品はどうなんですか。現代の読者が読んでも読むに堪える作品だとでも?」
 「そう断言はできないけれど、努めてそういう作品を選んだんだよ。“Peril at Cranbury Hall”は、暗号物という見方もあるけれど、実は暗号は添え物で、メインは炭疽菌を用いたハウダニットなんだ。(米版は、扉のイラストでネタばれしてしまっているので要注意だけどね。)炭疽菌を最初に生物兵器として実験したのは連合軍で、第二次大戦後の1946年のことだったという。2001年にアメリカで炭疽菌事件が起きた時、炭疽菌によるテロを描いたロビン・クックの『ベクター-媒介』(1999)が先見の明があったと評判になったけれど、実は連合軍が実験する以前に、ロードが既に小説の中で用いていたんだよ。サマセット・モームは、“The Decline and Fall of the Detective Story”の中で、これを現実離れしていると批判しているけれど、今にして思うと、むしろ驚くほど早い段階で現実の事件を先取りしていたことになるね。この作品などは、今日的視点で再評価すると、当時とはまるで評価が変わってくるといういい例だよ。クリスティの『蒼ざめた馬』にも似た評価があるよね。
 加瀬さんが集計した推薦作は、それなりに参考になるけれど、ロードの作品はいずれも今日的視点での見直しが必要だと思うんだ。そうした視点で再評価すれば、否定的な評価に変わる作品も多々出てくるだろうが、反対に、かつては目立たなかった作品が佳作として見直されるものもあるはすだよ。
 “Pinehurst”は、トリックという点ではそれほど見るべきものがあるわけじゃないけれど、プリーストリー博士も活動的だし、中期以降の作品に見られるルーティン化したパターンに陥らず、ストーリー展開に起伏があって読み応えがある。初期作品には、まだストーリーとしての面白さに工夫を凝らした作品が少なくないし、『退屈だ』という批判が当てはまらない作品も多いよ。『プレード街の殺人』(1928)もその一つだろう。“Pinehurst”はそうしたストーリー・テリングの活きた初期作品の代表として選んだんだ」
 「“The Hanging Woman”と“The Robthorn Mystery”にしたって、トリックという点ではずいぶん地味な作品じゃないですか」
 「これは僕の個人的嗜好かもしれないけれど、ロードの作品で時の試練に耐えて生き残りそうなものは、凝った仕掛けとか、特殊な毒物や殺人手法を用いたものではなく、心理的なミスディレクションや動機の意外性をうまく応用した作品のほうじゃないかと思うんだ。数の上では少数だし、ロードらしさが希薄ともいえるんだけどね。
 “The Hanging Woman”は、殺害に用いた道具が、死体発見場所にあった物の一部だったことから、そこが犯行現場だと無意識に思い込む心理的盲点を突いている。“The Robthorn Mystery”は、動機の意外性もさることながら、事件後の展開が読者の錯覚をうまく導き出すように工夫されている。(見抜きやすいんだけどね。)“Murder M. D.”も動機の謎をメインに据えた作品の一つだし、凝った仕掛けがないだけ、シンプルにすっきりまとまっている。『見えない凶器』だって、殺害方法はともかく、殺人の動機は小粒ながらも面白い面があったよ。
 登場人物たちが延々と推理の議論を展開するのも、中期以降のロード作品の特徴だけれど、その意味では、論理的な解決の側面から評価できる作品も少なくない。“The Motor Rally Mystery”は、プロット自体に特別な仕掛けはないのだけれど、着実な推理の展開が楽しめるという意味で選んだんだ」
 「それなりに考え方があるのは分かったんですけど、どこまで大方の賛同を得られますかね」
 「どんな作家や作品に対してだって、人の評価は千差万別だよ。僕の評価は僕だけのものでしかない。ただ、こういう見方もあるんだという意味で参考にしてもらえたらと思う」
 「人の評価といえば、ジュリアン・シモンズの『退屈派』批判をどう思いますか」
 「ロードやウェイドに対するシモンズの批判には、それ自体に反論も多々あるし、同じ議論をここで繰り返そうとは思わないけど、シモンズはその点では決してブレなかったね。1985年の“Bloody Murder”改訂版で加筆された『水晶球再訪』という章でも、ロードやウェイドの作品を積極的に取り上げたバーザン&テイラーの“A Catalogue of Crime”について、『ロードに熱狂したり、ウェイドに心酔しているなら、バーザンをガイドにしたまえ。私の見方は明らかに彼とは正反対(バーザンには魅力的なものが私には退屈)なので、我々には議論の接点がない』と突き放している。
 確かに、初期の作品では、プリーストリー博士自身も行動的で、自ら捜査に携わったり、時には事件に巻き込まれて危機的状況に陥ったりもするし、ストーリーも、発端の事件発生にとどまらず、その後の展開にも起伏があって、それなりに読み応えのある作品が少なくない。
 ところが、中期以降の作品になると、次第に、事件発生→警察による捜査→捜査官や例会出席者による議論→博士による謎解き、という定型パターンを踏襲する例が多くなり、特に中間部の大半が延々と続く尋問や議論で占められるものだから、その分、ストーリー展開が緩慢になり、見せ場も乏しくなって、退屈さを感じさせるんだよね。これでプロットまで冴えを失ったら、さすがに読むに堪えないよ。後期の作品はまさにそうだ。
 登場人物の造形の薄っぺらさがこれに拍車をかけることになる。レギュラー・メンバーすらそうで、秘書のハロルドやオールドランド医師も、初登場時には詳しく描かれるし、それなりの人間味もあったのに、後続作では紋切り型の登場人物に平板化してしまう。『ロードは人物造形(プリーストリー博士を除く)や雰囲気醸成に長けていない』という、スタインブラナー&ペンズラー編“Encyclopedia of Mystery & Detection”の評のとおりだよ」
 「主だった批評家のロード評は、そんなに否定的なものが多いんですか。なんだかマニアックなファンばかりがロードに希少価値を見出しているような印象を受けますね」
 「そんなことはないさ。シモンズと並ぶ英国の批評家の雄だったH・R・F・キーティングは、“The Claverton Mystery”の復刊に寄せた序文で、ロードの作品に退屈なものが多いことを認めながらも、『軽率にも、十把一絡げに退屈と決めてかかるような批判こそが、ランスロット・プリーストリー博士という、卓越した科学者にして趣味の犯罪研究家を、ほとんど見かけない探偵にしてしまった理由だろう』と述べて、暗にシモンズを批判しているよ。僕も、シモンズの批判がまったく的外れとまで言うつもりはないけど、キーティングの言うとおり、一事が万事と決めてかかるのはよくないと思うね。
 作品数が多いだけに、歩留まりは決してよくないけれど、過大な期待を抱かなければ、ロードには面白い作品がたくさんあると思うんだ。なにより、プリーストリー博士というキャラクターの造形は成功だね。ソーンダイクや思考機械と比較されることも多いけど、黄金時代のカリスマ的な名探偵たちの殿堂に連なる探偵と言っていいんじゃないかな」

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ジョン・ロード “The Lake House”

 “The Lake House”(1946)は、プリーストリー博士の登場する長編。ジミー・ワグホーンが、前作“The Bricklayer’s Arms”(1945)での功績も認められ、警視に昇進して最初に手掛けた事件である。ハンスリット警視は、“Vegetable Duck”(1944)で既に警察を退職していて、本作でもハムステッドで隠居生活を送る身として登場している。

 ある五月の夜、ライド巡査部長は、「メルコート・プラリオリー」という邸の主人、ジョージ・ポッターン氏に呼び出され、チノック巡査とともに、邸の離れである「レイク・ハウス」を訪れた。邸に仕える、採用されて間がない執事のゲドニーが、邸のウィスキーをこっそりくすねて人に売っているという噂があり、その件で訴える目的で呼び出されたものと思われた。邸の敷地内には人工池が設けられ、「レイク・ハウス」はその池に臨む小さな離れ屋だった。
 ポッターン氏は、切手を集めたり、昔ながらの錬金術に耽るのが趣味であり、「レイク・ハウス」に収集した切手や化学薬品などを置き、人に邪魔されずに一人でそこで過ごすことが多かった。
 ライドとチノックが「レイク・ハウス」に到着してドアをノックするが、反応がなく、ドアを開けて中を覗き込むと、ポッターン氏は窓を背にして、テーブルの前にうつぶせになって座ったままこと切れていた。
 ライドは、スコットランド・ヤードに支援を求め、派遣されたワグホーン警視を「レイク・ハウス」に案内する。ポッターン氏が坐っていた椅子の背の革装の上端に裂け目があることから、ワグホーン警視は、ポッターン氏が真後ろから撃たれたものと判断し、凶器も現場に残っていなかったことから、自殺の可能性はないと思われた。
 テーブルの上に置いてあった箱には、決闘用の銃が入っていたが、二丁対であるはずの銃が一つしかなく、ワグホーン警視は、池の中にもう一つの銃が沈んでいるのを見つけ、凶器と判断する。銃の入っていた箱の外側は脂ぎっていて、指紋がくっきりと残っていた。暖炉に残っていた灰の中に、遺言書の断片らしきものが見つかり、これにも同じ指紋が検出される。
 さらに、床には黒い足跡が点々と残り、犯人の残した足跡と考えられた。どうやら、ポッターン氏は、煙突から出た煤をポーチの外に捨てたらしく、犯人はその煤のかたまりを踏んでから「レイク・ハウス」に入ったため、気づかずに足跡を残してしまったようだった。
 ポッターン氏は二年ほど前に結婚したばかりだったが、シルヴィア・ポッターン夫人は健康上の理由で数週間前から海外に行っていて不在だった。ところが、邸の使用人も含め、誰もその所在を知らず、夫の死を知らせることもできなかった。
 ポッターン氏の代理人をしているネイスビー氏によると、ポッターン氏は結婚する数週間前に遺言書を作成していたが、つい先週、新たな遺言書を作成したばかりだったという。以前の遺言書では、財産の大半は夫人のシルヴィアに、夫人が亡くなって子どもがいた場合には、その子どもに遺されることとなっていたが、新たな遺言書では、夫人の名は消され、いとこのティチマーシュ夫人に財産の大半を遺すという内容に変わっていた。
 どうやら、ポッターン氏は、愛してもいないのに、子どもがほしいという目的だけのためにシルヴィアと結婚したらしく、シルヴィアは夫に我慢ができず、邸を飛び出して、愛人のエリック・バリスターのもとに奔ってしまったらしいと分かる。そして、「レイク・ハウス」に残されていた足跡と指紋は、バリスターのものであることが判明する・・・。

 代表作との評判が高い『ハーレー街の死』と同年に発表された作品だが、質は著しく劣ると言わざるを得ない。プロットもほとんど見え見えで、意外性もなければ、独創性もない。ロードらしい技術的な仕掛けが、やはり使い古されたトリックとしか思えず、いまどきこんなトリックに感心する読者はほとんどいないだろう。
 海外の書評などを見ると、法廷場面に見どころがあるような意見もあるが、これも、ペリー・メイスン物や『殺意』、『ユダの窓』などの評判の高い法廷場面とは比べ物にならず、起伏のない退屈な描写としか思えなかった。
 これはあくまで私見だが、ロードの傑作は30年代に集中していて、40年代に入ると、注目すべき作品も幾つかあるものの、急激に質が低下するように思える。ウェストボーン・テラスでの例会が定番となり、中間部分で退屈な尋問と議論の場面が延々と続くパターンが固定化してくるのもこの頃からだ。
 本作でも、プリーストリー博士は、ほとんどウェストボーン・テラスで意見を述べるだけで、最後のほうで事件現場に自ら赴いて検証を行いはするが、それも確認のために赴くだけ。しかも、半分近くなるまで登場せず、その登場場面すら限られている。下り坂に入った時期の弱さが露呈しているようで、読んでいて辛いものがあった。

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