レイモンド・チャンドラーとオースティン・フリーマン

 『オシリスの眼』刊行の機会に、ちょっと息抜き風の話題に触れてみたいと思います。
 タイトルを見て、なんだこれは、この二人になんの関係があるのか、と思われたかもしれません。一方はハードボイルド小説の雄、もう一方は古典的な謎解き推理小説の巨匠で、活躍した国も世代も違うし、およそ接点がないように思えるからです。
 ところが、現在出ているフリーマンのペーパーバックの背表紙などを見ると、チャンドラーの言葉がしばしば引用されて刷り込まれているのです。それは、‘This man Austin Freeman is a wonderful performer.’(「このオースティン・フリーマンという人間はすばらしい作家です」清水俊二訳)という言葉。
 これはチャンドラーがロンドンの出版社主ハミッシュ・ハミルトンに宛てた手紙からの引用で、この手紙の邦訳は『レイモンド・チャンドラー語る』(早川書房)や『ソーンダイク博士の事件簿1』(創元社)のあとがきに掲載されています。
 ‘The Simple Art of Murder’ではクリスティやクロフツなどの謎解き推理小説のプロットをこき下ろしたチャンドラーですが、その一方で、フリーマンとソーンダイク博士については称賛を惜しみませんでした。‘Notes on the Detective Story’(1949)の中でも、「これまでに書かれた最良の推理小説」の例としてフリーマンの名を挙げているし、フレデリック・ダネイ宛ての書簡(1951年7月10日付け)でも、「私は謎解きが嫌いなわけではありません。例えば、オースティン・フリーマンの作品が好きだからです。私は彼の作品がとても好きです。退屈と思う読者も多いようですが、私はたぶん彼の作品で最低二度読まなかったものは一つもありません。彼のヴィクトリア朝風のラヴ・シーンすら好きです」と語っています。
 余談ですが、『オシリスの眼』を訳していてしばしば辟易したのは、まさにこの「ヴィクトリア朝風のラヴ・シーン」で、ポール・バークリー医師とルース・ベリンガムの恋愛エピソードは、今日の視点からするとあまりに陳腐で読むに耐えないと感じたものでした。二宮佳景(鮎川信夫)氏の旧訳(早川書房刊)はかなり大ナタを振るった抄訳ですが、とりわけこの恋愛エピソードはいたるところでバッサリ省かれていて、第八章では肝心のアルテミドルスのミイラのエピソードすら省き、章の原題までが意味不明になってしまっています。とはいえ、翻訳の姿勢としてはともかく、読者の視点からすると、その気持ちも分からんではなかったんですよ。
 ところが、チャンドラーはそんなラヴ・シーンにすら好感を抱いていたというのだから驚きです。フィリップ・マーロウが『大いなる眠り』のヴィヴィアン・リーガンや『ロング・グッドバイ』のリンダ・ローリングと演じたシーンを思い起こしたりすると、なんだか呆気にとられてしまうんですよね。
 それにしても、いくらフリーマンのファンだといっても、全作品を二度は読んでいるなんて、さすがに真似できません。そこまで筋金入りとくれば、自作にも影響が表れていそうな気もするのですが、恋愛シーンはもちろん、そんな痕跡はさすがに思い浮かばないし、まさか、マーロウがソーンダイクに似ているとも思えないしねえ・・・。
 チャンドラーはハードボイルドの巨匠として今日なお根強い人気を誇る作家であり、そのチャンドラーが称賛した作家とくれば、読者も思わず関心を惹かれるというもので、彼の賛辞がペーパーバックなどの惹句に使われるのもこのためではないでしょうか。フリーマンが古臭いと言われながらもしばしばリバイバル式にペーパーバックが出るのも、このチャンドラーの評価に負う面もあるように思えます。国も世代も違えば、同じミステリでもジャンルの違う作家から受けた称賛が自分の人気に寄与することになろうとは、きっとフリーマン自身も予想だにしなかったことでしょう。
 ‘The Simple Art of Murder’では、謎解き小説作家達のプロットを次々と俎上に上げて非現実的だとか荒唐無稽だとけなしたチャンドラーですが、ほかならぬチャンドラー自身のプロットこそ支離滅裂なものが少なくありませんでした。『大いなる眠り』で運転手の殺害犯を明らかにしないままにしてしまったエピソードは有名ですが、他の長編も、元となった複数の中編を継ぎはぎしたものが多いために、ガタガタのプロットが大半です(もちろん、それでチャンドラーの魅力が損なわれるわけではないですが)。
 そのチャンドラーが、(1950年9月29日付けジェームズ・ケディー宛て書簡で「結末における謎解きは明快な分析力の傑作です」と評しているように)理路整然としたフリーマンの作品を好んだというのもなんだか面白く、意外と、自分が理想としながらもできないことをフリーマンの作品に見出していたのかもしれませんね。
 なお、同ケディー宛て書簡の中で語っているところでは、チャンドラーのお気に入り作品は、『ポッターマック氏の失策』と『猿の肖像』で、“Pontifex, Son and Thorndyke”も素晴らしいとしています。
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