アガサ・クリスティ 戯曲『ゼロ時間へ』

 『ゼロ時間へ』(Towards Zero)は、1944年の長編を戯曲化したもの。『アガサ・クリスティー生誕百年記念ブック』(早川書房)のリスト(同書82頁)では、ジェラルド・ヴァーナーの単独作のように記載されていて、これに引きずられてか、クリスティの著作としてカウントしていない邦語文献もあるが、クリスティとヴァーナーの共作によるものである。
 そう言う人に「それなら、ジェラルド・ヴァーナーって誰?」と聞くと、答えに詰まる人もいるのだが(笑)、ヴァーナーはイギリスのスリラー作家。1897年生まれで、クリスティより7歳年下。生涯に120作以上の作品を書いたが、現役本で読める作品はほとんどなく、エドガー・ウォーレスの影響の強い、通俗タッチのスリラーを大量に書き飛ばした作家のようだ。セクストン・ブレイク物も数多く手がけたようである。
 彼の作品には、BBCラジオのシリーズ、演劇や映画、テレビ・ドラマになったものもあり、自身もピーター・チェイニーの作品の戯曲化に携わったりして、そんな経歴もあって、クリスティの作品を戯曲化する手伝いをすることになったのかもしれない。
 戯曲版のプロットは、基本的に小説版と同じだが、登場人物を絞り込んだ結果、マクワーターは登場せず、姿を見せずに名前だけ言及されるバレット夫人を除けば、メイドや料理人も一人も登場しない。しかし、ポアロ物の長編の戯曲化では、すべてポアロの存在を抹殺してしまったクリスティ女史も、本作では、バトル警視をしっかり探偵役に据え、「大柄で、およそ五十歳、控えめな身なり。顔つきはいかついが知的」と特徴を指定している。意外とこの地味な警視には好感を抱いていたのだろうか。但し、長編に登場する娘のシルヴィアと、学校でのエピソードは出てこない。
 トリーヴズ弁護士(早川文庫の新訳はなぜかフランス風に「トレーヴ」と表記しているが、旧訳の表記のほうが原語の発音に近いだろう)は、オリジナルの長編では、心臓発作でストーリー半ばで死んでしまい、バトル警視の登場と入れ違いになって、両者は出会わずじまいだが、戯曲版では、バトル警視とも旧知の間柄で、最後まで重要な役割を演じて捜査に協力する。名前もマシュー・トリーヴズと、ファースト・ネームが明かされている。(これに伴ってか、故トレシリアン卿の名前は、マシューからモーティマーに変更されている。)
 プロットも単純化され、トリーヴズ弁護士の活躍に伴って、エレベーターの問題も消えているし、右利きか左利きかの問題など、副次的な謎も削除されている。その分、まさに「ゼロ時間」のプロットがクローズアップされる結果となっているが、これも面白いことに、長編では「ゼロ時間」の理論を語るのはトリーヴズ弁護士だが、戯曲版ではトマス・ロイドである。
 上記『アガサ・クリスティー生誕百年記念ブック』に、「戯曲では最後の幕が降りる寸前に小説にはまったく書かれていない緊迫した場面が書き加えられている」と言及されているように、クライマックスでは、まさにスリラーめいた場面が展開するのだが、どうもクリスティらしくなく、その通俗的なタッチからしても、ここはヴァーナーが手を入れた部分である可能性が高いのではなかろうか。ヴァーナーに協力を求めた背景はよく分からないが、こうしたスリラー的要素を加味したことが、劇としての質の向上につながったかどうかはなんとも言いにくい。但し、読み物としては、メリハリがあって面白いと思った。
 冒頭に、1956年9月4日、ロンドンのセント・ジェームズ・シアターと初演データが記されているが、それまで次々とヒットを放ったピーター・ソーンダーズのプロデュースにもかかわらず、公演の評判は芳しくなかったらしく、比較的短期で打ち切られたようである。リチャード・ダルビーの‘Spotlight on Agatha Christie’によれば、初版は、珍しく、英サミュエル・フレンチ社ではなく、1957年に、米ドラマティスツ・プレイ・サービスから刊行されたらしい。フレンチ社からは翌1958年に台本版が刊行された。
 フレンチ版の初版に挿入されている舞台写真を以下にアップしておく。本作も、フレンチ版とのちにペーパーバックに収録されたバージョンには、『そして誰もいなくなった』や『死との約束』ほど大きくはないが、わずかに異同がある。


ゼロ時間へ


 些細なことだが、小道具のリストには、書き物机に置いてある本として、「ペンギン・ブック」という指定がなされている。自身の著作も多数出ていたペンギン・ブックを敢えて指定したのは、どんな思いからだろう。いずれの邦訳でも省略されている巻末の小道具リスト等が面白いと思うのは、こんなことがあるからだ。
 なお、『ゼロ時間へ』は、2007年にフランスのパスカル・トマ監督によって映画化された(邦題は『ゼロ時間の謎』)。登場人物も「バタイユ警視」、「トレヴォーズ弁護士」という具合にフランス名に変更されている。マルチェロ・マストロヤンニとカトリーヌ・ドヌーヴの娘、キアラ・マストロヤンニがオード役(原作のオードリー)で出演している。
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