『オシリスの眼』における科学と法の対決

※オースティン・フリーマン『オシリスの眼』のプロットを明かしていますので、未読の方はご注意ください。


 「ミステリマガジン」2017年3月号に載った若林踏氏の書評には、興味深い指摘がある。(誤植が見苦しいという点は前の記事で指摘したが、これは若林氏というより編集サイドのミスではないだろうか。)「脇筋と思われるものの一つが、物語の主題として浮上する瞬間がある」という指摘だ。実は、同様のことを私自身も感じた部分があるからだ。それが若林氏の指摘することと同じものを指すかどうかまでは分からないが。
 それは、「科学と法の対決」という主題(テーマ)だ。作者のフリーマンは医師でもあり、エックス線写真撮影のような当時最先端の科学技術を採り入れていることからも分かるように、明らかに法より科学を優先する立場だったに違いない。ソーンダイクはまさにその立場を代弁する存在だったといえる。
 作中で、ソーンダイク博士は、「法的思考なるものが、人が思うほど公平ではない」と警告を発し、判事が裁判で示す偏見や医師に対する敵意について触れているが(邦訳177頁)、これはもしかすると、フリーマン自身の経験に根ざしているのかもしれない。フリーマン自身、法廷で証言したり、あるいは、傍聴するなどの経験の中で、同様の不快な目にあったことがあるのではないだろうか。
 その一方で、ソーンダイクと相対する立場にある人物は、バークリー医師との対話の中で、科学的な見方と法的な見方の違いについて弁じたて、医師がしばしば法廷で「おかしな証言」をすると難じ、「宣誓に基づく証言」という法的な証拠の優位性を論じ、科学を重視する者はその意義を理解しないと批判している。
 科学を代弁する立場のソーンダイクと法的な証拠を重視する人物とのコントラストが、両者の人物描写を通じて鮮やかに描き分けられているのだが、大団円に至るまでは、そんな挿話もただの脇筋にすぎないように見える。温かい人間味に満ちたソーンダイクと非人間的で感情を示さない人物という性格上の描き分けだけでなく、科学と法という異なる立場を両者に代弁させることで、そのコントラストをさらに際立たせるという、人物描写上の肉付けの一つにすぎないか、と上っ面だけ読んでいるとそう思える。
 ところが、大団円に至り、その両者の見解の相違は、思わぬ形で決着を見ることになる。ソーンダイクは当時最先端の技術を用いて真相を裏づける証拠を得、その経緯を知らされた人物は、驚愕して自らの敗北を認め、最後に「現代の科学の力は本当に素晴らしい」と詠嘆して自ら命を絶つ。
 この人物は、作中、スフィンクスにもなぞらえられているのだが、ご存じのとおり、伝説上のスフィンクスは、通りかかった旅人に謎をかけ、答えられない相手を殺していたが、オイディプスに謎を解かれ、敗北を認めて自殺したとされる。この人物もまた、ソーンダイクに謎を解かれ、自殺して果てるのだが、単に無表情で謎めいた人物という意味だけでなく、そこには伝説も踏まえた特別な意味が込められていたのかもしれない。
 フリーマンは、ソーンダイクとその人物との描き分けを通じて、科学と法の対決という構図を二人に体現させ、ソーンダイクに勝利を収めさせ、その敵に科学の力の素晴らしさを最後に認めさせることで、科学の優位性を高らかに宣言してみせたかった――そう思えて仕方ないのだが、さて、これはあまりに穿ちすぎた見方だろうか・・・。
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