脱線の余談――What’s your name?

 『代診医の死』刊行によせて、ちょっとした余談を。
 そのあとがきでも触れたが、ジョン・ロードが創造した数学者、ランスロット・プリーストリー博士の名前は妙に曖昧で、「ランスロット」は、‘Lancelot’なのか‘Launcelot’なのかはっきりしないし、たぶん誤植だろうが「J・P」というイニシャルが出てくる作品もある。出てくる頻度からすると、‘Launcelot’が最有力に思えるが、初登場の“The Paddington Mystery”の記述はそう軽いものではないような気も。オールドランド医師も、「シドニー」なのか「モーティマー」なのか、よく分からない。
 とはいえ、こんな例は珍しいものではない。海外ミステリのシリーズ・キャラクターには、しばしば名前の混乱がある。一番有名なのは、ホームズの親友、ワトスン医師だろう。『緋色の研究』で表記される「ジョン・H・ワトスン」か、「唇のねじれた男」で妻が呼びかける名の「ジェイムズ・ワトスン」かをめぐっていろんな議論があるのだが、名前がこれほど様々に取り沙汰されるキャラクターもほかにはあるまい。
 ワトスン医師はそれだけでなく、作品間の記述の矛盾を指摘するシャーロキアンたちから「再婚説」も取り沙汰されているのだが、それを言うなら、エルキュール・ポワロの親友、ヘイスティングズ大尉だって怪しいものだ。というのも、『邪悪の家』において、ヘイスティングズはポワロとの会話の中で、妻のことを「ベラ」と呼んでいるからだ。『ゴルフ場殺人事件』を読んだ読者なら、(えっ、まさか・・・?)と思うのではなかろうか。それとも、思い出を大事にして、敢えて(紛らわしくも)そう呼び続けているとでも?
 イニシャルの誤植といえば、ピーター・ウィムジイ卿の妻となるハリエット・ヴェインもそうだ。初登場作『毒を食らわば』で殺人の容疑者として裁判に立つことになる彼女は、第一章で出てくるフィリップ宛ての手紙に、「M」というイニシャルで署名している。MはいかにもHと取り違えそうな気がするし、訳者の故浅羽莢子さんも訳注で誤植の可能性を示唆しているのだが、ファンにとっては、そう簡単には片付けられないものらしい。Mは「殺人(Murder)」の頭文字だ、いやいや、「情婦(Mistress)」の頭文字だ、というセイヤーズ協会会員による議論まである(「ミステリマガジン」1983年5月号より)。いやはや・・・(笑)。
 ソーンダイク博士の助手、ナサニエル・ポルトンは、『オシリスの眼』でも大活躍だが、“Helen Vardon’s Confession”第28章において、なにゆえかソーンダイクは、自分の助手の名を「フランシス・ポルトン」と証言している。同書は、ノーマン・ドナルドスンも指摘しているが、あの緻密なフリーマンにしてはミスが散見される作品で、なにかの事情でよほど注意が散漫になっていたのだろうか。
 以前の記事でも触れたが、ヘレン・マクロイが創造したベイジル・ウィリング博士の娘ギゼラは、“The Long Body”で初登場した時は「エリザベス」という名だった。まさか別人だとでも?
 ジョルジュ・シムノンが創造したジュール・メグレ警視も、名前の混乱という点では人後に落ちない。『メグレの初捜査』によれば、フルネームは「ジュール・アメデ・フランソワ・メグレ」で、リファレンス・ブックやネット情報をはじめ、この名前がいろんなところで採用されているし、ジル・アンリの『シムノンとメグレ警視』でもこの名で紹介されている。ところが、『メグレの拳銃』によると、「ジュール・ジョゼフ・アンテルム・メグレ」という名前らしいのだ。さて、いったいどっちが正しいのだろう?
 ある意味、チェスタトンのように、「J・ブラウン」とシンプルに決めて、それ以上は余計なことを一切言わないのが一番無難なのかも(笑)。
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