ジョルジュ・シムノン 『オランダの犯罪』

 『オランダの犯罪』(1931)は、ジル・アンリの書誌によれば、メグレ警視物の8作目に当たる。『怪盗レトン』や『死んだギャレ氏』などの初期作品と同じく、当時、シムノンが乗っていたオストロゴート号という船の上で執筆された作品である。(私が読んだのは英訳“Maigret in Holland”)
 作品の舞台はオランダ、フローニンゲン州のデルフジールという町。実は、この町こそはメグレ警視が誕生した町であり、これを記念して建てられたメグレの像が今日でも運河のそばにあるとのことだ。1929年、オストロゴート号はデルフジールの港に入ったあと、船底が水漏れを起こし、この町で修理に回された。シムノンはその間にメグレ物の第1作『怪盗レトン』の執筆に着手したとされる。本作はその時の記憶がまだ生々しく残る時期に執筆された作品といえるだろう。

 ナンシー大学で犯罪心理学を講じるジャン・デュクロ教授は、北欧諸国を回って講演を行っていたが、オランダのデルフジールという町に滞在中、殺人事件に巻き込まれる。逮捕は免れたものの、地元の警察から禁足を求められたデュクロは、ナンシー大学に連絡し、大学はパリ警察庁に捜査官を現地に派遣してくれるよう要請する。こうして、メグレ警視は半ば公式の立場でオランダの町に出張することになる。
 デルフジールにやってきたメグレは、事件の日に被害者宅に招かれていたベーチェ・リーウェンスという18歳の農家の娘から事情を聴く。
 被害者はコンラート・ポピンガという42歳になる実習船の教師で、運河で船員の卵たちを指導していた。デュクロは、コンラートの妻リースベトの招きで、アムステルディエップという運河のそばにあるポピンガ家に滞在していたのだった。
 リースベトはデュクロを友人たちに紹介するためにちょっとしたパーティーを自宅で催し、その場には、ポピンガ夫妻、デュクロ教授、ベーチェのほか、リースベトの妹で弁護士のアニー・ファン・エルスト、隣家のウィーナント夫妻とその子供たち、コンラートのもとで学んでいる実習生の少年コルネリウスが同席していた。
 パーティーが終わると、自転車で帰るベーチェをコンラートも同じく自転車で家まで送っていくが、そのあと、コンラートが家に戻り、自転車を家の裏の小屋に片付けに行ったところを、何者かがリボルバーでコンラートを射殺したのだった。
 リボルバーはデュクロが滞在していた部屋の浴室から発射されたものであり、その直後、デュクロは浴室でリボルバーを拾い上げ、そのまま階段を降りてきたところを目撃されていた。しかし、その後の調べで、浴室のバスタブに水夫がかぶる帽子が落ちているのが発見され、さらにダイニングで誰も吸わないはずのたばこの吸い殻が落ちているのが発見される・・・。

 メグレ警視の登場する作品は多数あるが、執筆順に読んでいくと、明らかに作品の雰囲気が大きく変わる時期があることに気づく。それは、いったんメグレ物の執筆をやめた19作目の『メグレ再出馬』(1933)までの作品と、再びメグレ物の筆を執った『メグレ夫人の恋人』所収の短編群(1938)以降の『メグレ氏、ニューヨークへ行く』(1946)などの作品との間に感じられる雰囲気のギャップである。
 メグレ物に自らの作家としての成熟を賭けていた時期に書かれた初期作品には、舞台背景の描写にも独特の濃厚な雰囲気が漂い、登場人物の造形にも鬼気迫るような迫真性がある。これに対し、読者からの懇望に押されて再び筆を執ったのちの作品群には、『メグレと首無し死体』や『重罪裁判所のメグレ』のような素晴らしい作品ももちろん多々あるのだが、全体としてリラックスした明るさや軽さがある半面、初期作品にみられるような独特の雰囲気や緊張感はやや希薄になっている印象がある。
 『オランダの犯罪』は、そうした初期作品の特徴がよく表れた秀作であり、事件現場に溶け込み、一人一人の関係者と接する中で彼らに同化しながら犯罪発生に至る必然性を再構築しようとする「運命の修理人」の姿が見事に描かれている。作中でメグレがデュクロに向かって彼の講義内容を皮肉っぽく解説してみせる場面があるが、個々人の人間性に深く根差すところから事件の成り立ちを解き明かそうとするメグレの視点に立てば、学問が論じる犯罪がいかに皮相的なものにすぎないかという思いがそこににじみ出ている。そんなところにもメグレ警視の個性がうまく表現されていると言えるだろう。
 クライマックスで、メグレは犯罪の起きた状況を再現するために、関係者をもう一度現場に集め、各人にその時と同じ行動を再現させ、真相を明らかにする。しかし、それは、通常の推理小説で名探偵が謎解きで大見得を切るために容疑者たちを一堂に集めるパターンとは似て非なるものだ。むしろそれは、メグレ自身が一人一人の当事者とその関係を理解する中から犯罪を再構成する過程をそうした形で具体に表現しようとした場面といえる。トリックの巧妙さや謎解きとしての緻密さとは違った、メグレ物ならではの面白さを実感できる初期の代表作の一つである。
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