ジョルジュ・シムノン 『自由酒場』

 『自由酒場』(1932:原題“Liberty Bar”)は、ジル・アンリの書誌によれば、メグレ警視物の17作目に当たる(私が読んだのは英訳“Maigret on the Riviera”)。原題は珍しく英語だが、イギリス人が開いた酒場の名前に由来するためだ。

 舞台はフランス南部の地中海に面した保養地アンティーブ。ウィリアム・ブラウンという男が、同地のキャプ・ダンティーブ岬にある別荘の庭に死体となって埋められているのを発見され、逃走を図ったジーナ・マルティーニという同居の女とその母親が逮捕される。
 メグレ警視は、親子を釈放させ、別荘に連れ戻して事情を聴く。ブラウンは、その別荘で愛人のジーナと母親の二人と一緒に十年にわたって暮らしていたが、ある晩、車で戻ってきたところを玄関の上がり段でくず折れ、こと切れたという。肩甲骨の間をナイフで刺されていたが、刺されたのは別の場所らしかった。
 ブラウンはもともとオーストラリア人であり、現地に残してきた正式な妻子がいた。彼の死が家族に知られれば、正妻に家財を差し押さえられてしまうのではと恐れたジーナ親子は、死体を庭に埋めて隠し、荷物をまとめて逃走を図ったというのだ。
 ブラウンは特に仕事もなかったが、月に一度、三、四日ほど家を空け、汚れた身なりで酔っ払って戻ってくる習慣があった。その都度、どこからか生活費を得てくるため、二人の女はその習慣を黙認していたのだが、突き止めようと試みたことはあったものの、どこに行っているのかは不明なままだった。
 ブラウンは過去にフランス情報部第二局で仕事をしていたことがあり、新聞はその事実から、国際的なスパイ事件のようにセンセーショナルに書き立てていた。
 メグレは別荘から間違ってブラウンのレインコートを持ってきてしまい、ポケットの中に小さな酒場に置いてあるスロットマシーンなどでよく使われる模造コインが入っているのに気づく。
 メグレは、そのコインを手がかりに、ブラウンが不在中に通い詰めていたカンヌの「自由酒場」を突き止め、そこで女主人のジャジャと二十一になる出入りの娼婦シルヴィーに出会う。ジャジャの夫はイギリス人の曲芸師だったが、九年前に事故で亡くなり、彼女は夫の店を受け継いで切り盛りしていたのだった。
 ブラウンは、その小さな酒場で出される料理を楽しみ、気さくな女主人と親しくなり、シルヴィーの悩み事にも親身に相談に乗ったりしていたという。メグレはブラウンの過去や習慣から彼の人間性に迫っていく・・・。

 事件に関わる一人一人の人物の人間性と互いの関係に迫り、これを理解するところから事件の必然性を突き止めようとするメグレ警視の捜査法は本作においても如実に表れている。とりわけ、被害者のウィリアム・ブラウン、「自由酒場」の女主人ジャジャの人物造形は、メグレ警視シリーズの中でも出色のものといえる。
 ウィリアムの息子で、父の死を知ってやってきた、オーストラリアで大規模な羊毛業を営むハリー・ブラウンのビジネスライクで紳士然とした人間性を絡ませ、汲々と庶民的に暮らしてきたジーナ親子や場末の酒場の女主人ジャジャを葬儀の場で交差させるなどして、そのギャップやコントラストを鮮やかに描いてみせる演出も巧みだ。
 事件そのものは、何の意外性も奇抜さもない、どこにもある埋もれそうな事件だというのに、深い余韻を残す読後感はメグレ警視物の傑作にいつも共通した特徴であり、本作にもそうした特徴を強く感じることができる。戦前に邦訳が出ただけで放置されているのは惜しい限りだ。
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ジャンル : 小説・文学

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