リチャード三世の遺骨発見?(追記)

 ネットを見ていると、リチャード三世の遺骨(あくまで推定だが)発見の話題は、はや日本語のホームページやブログ等にも広まっているようだ。
 今回の遺骨発見に、リチャードをめぐる歴史上の争点の解明に寄与する事実があるとすれば、その一つは、遺骨に強度の脊柱側湾症が認められたという事実だろう(もちろん、これも医学的に最終的に確認されたものかどうかは不明だが)。
 チューダー朝時代における、トマス・モアをはじめとする、リチャードに関する記録の多くは、リチャードを残虐な国王として描写する傾向があるが、その描写の中には、リチャードの体の奇形に関する記述が含まれている。
 リチャードを擁護する研究者たちは、リチャードを悪王として糾弾する記録の多くには、リチャードの奇形を強調することで、彼をモンスターの如きイメージで描こうとする意図があり、それは、時代の推移につれて奇形の描写が誇張・歪曲されていく傾向を明らかにすることで裏付けることができると論じている。
 つまり、今回の発見に基づく事実が、リチャードの奇形に関する記述を裏づけるものとなるか、それとも反証するものとなるかは、それらの記録の信頼性を測る、一つの試金石になり得るというわけだ(もちろん、その一事をもって、記録全体の信頼性を断定できるわけではないが)。
 これに関連することだが、ネット記事の中には、テイの『時の娘』を引き合いに出し、テイがリチャードの奇形を反リチャード派のねつ造と考えていたとして、今回の発見を根拠に、テイの議論が彼女の考えすぎだったのではないかとほのめかしている記事もある。
 以前も触れたが、テイの『時の娘』は、もとより研究書ではないし、その議論の中身も、クレメンツ・マーカムの“Richard the Third: His Life and Character”(1906年)をほぼ引き写したものにすぎない。相変わらず、その基になった議論を参照せずに、小説にすぎない『時の娘』を研究書の如きオリジナルの議論とみなして論評する傾向があるのは困ったものだが、こうした混乱を整理する意味でも、この機会に、リチャードの‘hunchback’をめぐる議論を簡単におさらいしてみたいと思う。

 リチャードの体の奇形に関する最も古い言及は、ウォリックシャーの聖職者だったジョン・ラウスの『英国史(History of England)』(1490年以前に書かれたと推定)であり、これによれば、リチャードは、「母の胎内に二年とどまり、歯が生え、髪が肩まで伸びて生まれてきた。・・・背丈は小柄、顔は短く、右肩が左肩より高い不均衡な肩をしていた」とされている。
 これが、トマス・モアの『リチャード三世の歴史(The History of Richard the Third)』(1557年)になると、「背丈は低く、手足は形悪く、背中は曲がり、左肩は右肩よりはるかに高かった」とあり、背中が曲がっていたという描写が加わる。しかも、肩の不均衡については、高かったほうの肩がラウスの描写とは逆に左肩になっている。
 さらに降って、巷間よく知られているシェークスピアの『リチャード三世』(1597年)になると、「せむしの叔父」(第三幕第一場。小田島雄志訳)とはっきり描写され、今日に至るまでのリチャードのイメージが確立されることになるわけである。

 リチャード擁護派の議論に目を向けると、ジョージ・バックの『国王リチャード三世の歴史(The History of King Richard the Third)』(1619年)では、リチャードをしばしば目撃した人物から、彼には奇形などなく、背丈は非常に低かったが、体型は美しかったという話を聞いたという、エリザベス朝時代の好古家ジョン・ストウの証言が引用されている。このストウの証言については、キャロライン・ハルステッドの『リチャード三世(Richard the Third)』(1844年)やマーカムの前掲書も引用している。
 マーカムは、ラウスとモア(マーカムはモートンを真の著者と見なしている)の相互に矛盾した証言は、それらが典拠として無価値であることを示していると断じ、クロイランド年代記等にリチャードの外観についての証言がないことや、1490年に遡る‘York Records’という記録を引き合いに出しながら、リチャードの体に奇形があったとしても、それはわずかなものであり、リチャードを記憶していた者の間でも議論の的になっていたと考えている。マーカムは、結論として、リチャードが、か細くて華奢であり、若い頃に受けた厳しい武芸の訓練のために、右肩が左肩よりわずかに高くなっていたという、ハルステッドの見解を受け入れている。

 以上をまとめると、今回発見された遺骨がリチャードのものであり、脊柱側湾症による右肩上がりの顕著な肩の不均衡が事実だったとすれば、リチャードの「右肩が左肩より高い」という肩の不均衡に言及したラウスの描写は、その点に関する限り、ほぼ正確だったということになる。それは、偶然事実と合致していたと考えるより、事実に基づくなんらかの情報に依拠していた公算が高いと考えるべきではないだろうか。
 これに対し、それ以降のモアやシェークスピアの描写は、明らかに伝承の過程で生じる潤色・誇張の傾向を示しており、リチャード擁護派が論じているように、信頼性の低い伝承と言わざるを得ないだろう。
 ラウスの証言も、二年も母胎にあったとか、歯や髪が生え揃って生まれてきたという、医学的検証を俟つまでもなく、到底事実とは考えられない描写を含んでいる以上、上記の一点をもって、証言の全体が正確だという証明にならないのは言うまでもない。
 他方、ハルステッドやマーカムが、リチャードの肩の不均衡は武芸の訓練の結果として生じた些細なものだったと判断している点についても、今回の発見は、リチャード擁護派の議論には、チューダー朝時代の見解と反対の極に偏り、リチャードを美化しすぎる傾向があるという批判に一つの論拠を与えるものになるはずだ。
 リチャードをめぐる最も大きな争点である、二王子殺害の真相を明らかにするには、今回の遺骨発見は、到底決定的な証拠となり得るものではないが、(あくまで最終的な確認を俟った上でのことではあるものの)同時代の資料やその後の研究を検証する一つの手がかりとして一定の意義を持つものと考えられるのではないだろうか。
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