F・W・クロフツ 『樽』への著者序文

 クロフツの『樽』は、1920年に英コリンズ社から初版が出た。その後、ヴァン・ダインによる長編ベスト7(1928)、エラリー・クイーンによる「黄金の20」(1943)、ジェームズ・サンドーの名作表(1944)、レックス・スタウトによるベストテン(1956)に挙げられるなど、『樽』は推理小説の古典としての地位を不動のものにしてきた。
 第二次大戦後に、コリンズ社は、『樽』をLibrary of Classics叢書の一冊に入れており、その機会に、クロフツはコリンズ社の依頼に応じて序文を寄せている。同叢書は、ミステリの古典ではなく、文学作品全般の古典を入れた叢書であり、ディケンズやウォルター・スコットなどの文豪の代表作も並んでいる。そこに『樽』が加えられたことについて、クロフツが「これは推理小説に与えられる大きな栄誉」と書いているのもそのためだ。
 クロフツは、この序文において、『樽』が完成するまでの経緯を紹介している。鉄道技師だったクロフツは、病気療養中の退屈をまぎらすために、思いついた途方もないアイデアを書きとめていった。二日目の朝に一章を書き上げ、妻に読んで聞かせたところ、好評だったので書き続けたが、仕事に復帰したあと、書いた原稿を片付けて、ほとんど忘れてしまったという。
 ところが、しばらくして読み直してみると、これはいけるかもしれないと思い、手を加えて書き直し、一章を書き終えるごとに隣人に読んで聞かせ、おかしいと思ったところを指摘してもらったという。その隣人というのが、献辞に名の挙がっているアダム・マザーズ医師だ。書き上げたあと、著作権代理業者に送り、固唾をのんで待っていると、コリンズ社の原稿読みを担当しているベレズフォード氏から、第一部、第二部はいいと思うが、第三部は書き直してほしいという趣旨の手紙が届いたとのことである。
 このあたりの経緯は、これまでも紹介されてきたところだが、この序文では、元の第三部がどんな内容だったのかも説明されている。オリジナル原稿では、第三部は、殺人事件の裁判の場面が描かれていて、証人席で真の殺人者が追い詰められて真相が明らかになり、犯人が告白して自殺するという設定になっていたようだ。
 序文では、元の第三部を最近読み直してみたが、今では、自分が描いていたような裁判は現実にはあり得ないと分かるし、ベレズフォード氏の判断は正しかったとしている。ともあれ、クロフツは、新たな第三部を書き上げ、コリンズ社はこれを受け入れて、出版の運びとなったようである。タイトルについても、当初はディケンズの『二都物語』にちなんで“A Mystery of Two Cities”にしようと考えていたが、出版社の助言に従って『樽』に落ちついたようだ。このあたりの経緯も既に知られているところだろう。
 クロフツは、自分の創作過程についても解説していて、それによると、新しい作品を書く時は、(a)殺人の方法、(b)犯人が嫌疑をかわすためにとる手段、(c)探偵が犯人を最終的に明らかにする過程の三点に留意しながら、細部に至るまでプロットを練り上げる。最後の(c)が一番難しいとのことである。さらに、登場人物の詳細や経歴の一覧表、出来事の順序を示す時系列表を準備し、こうして詳しい摘要が出来上がると、作品を書きはじめるそうだ。
 ところが、『樽』は思いつくままに書いていったため、しばしば前後に矛盾が生じたりして、脱稿するまでに少なくとも五回は書き直すはめになったとしている。『樽』は12万語ほどの分量の作品だが、8万語でも同じだけの印税がもらえることがあとで分かったとして、4万語も無駄にしたと悔やんでいる。今『樽』を書いていたら、随分と違った作品になっただろうし、樽がロンドンを移動していく過程は無用な埋め草で、省くべきだったとし、もっと登場人物の性格に興味を持たせるようにすべきだったとしている。

 この序文によると、オリジナルの第三部の原稿は、当時もまだ残っていたようだが、実際にどんな内容だったのか、なかなか興味深い。それにしても、印税収入を理由に、もっと短くすればよかったと悔やんでいるのは、正直、呆気にとられるし、樽の移動過程を一部省いたり、人物描写にもっと力を入れたりしたほうがよかったとしている点については、意見を異にする読者のほうが多いのではないだろうか。案外、こんなところに、クロフツがその後、『樽』を越える作品を書くことができなかった秘密があるような気もしてしまう。
 なお、このLibrary of Classics版には、マッケイという画家による挿絵が7枚挿入されている。以下は、その中の口絵。

Library of Classics


この機会に、“The S.S. Van Dine Detective Library”の『樽』の口絵も以下に掲載しておく。

Van Dine Library


さらに、以下は『樽』のコリンズ社初版の扉である。

British first edition
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