タイトルも意味深

 最近、アントニイ・バークリーの『試行錯誤』が重版になったようです。それでふと思い出したことをちょっと息抜き風に述べてみたいと思います。
 私が所持している翻訳は、同じ創元文庫版でも昔の版で、タイトルは『トライアル&エラー』となっています。おそらく、原題をそのままカタカナ表記しても、意味を理解できない人もいることを配慮して改題したのではないかと思われるのですが、個人的には元のタイトルのほうが気に入っています。
 ご存知の方も多いと思いますが、原題の“Trial and Error”は、ダブル・ミーニングで、「試行錯誤」という意味と「裁判と誤審」という意味を併せ持っているからです。知らないうちに、無実の人間が裁判で有罪判決を受けてしまい、自分が真犯人であることを証明しようと試行錯誤を重ねる人物のストーリーを、この簡潔なタイトルで表現したバークリーの機知に感心させられるわけですが、とはいうものの、これを翻訳で表現しようとしてもうまくいきません。できれば、訳注を付けるなり、あるいは解説で説明でも加えてほしいところですね。
 タイトルには、こうした隠し味が込められている場合が時々あります。たとえば、ジョン・ディクスン・カーの“The House at Satan's Elbow”は、邦題では「悪魔のひじの家」。「悪魔のひじ」と呼ばれる場所に建っている家だからですが、中身を読まない限り、なんのことやらさっぱり分かりません。‘at one’s elbow’は、「・・・のすぐ手の届くところに」という意味の慣用句で、先入観抜きに読めば、この原題は「悪魔がとり憑く家」とか「悪魔が忍び寄る家」といったニュアンス。作者は、タイトルを見た第一印象で、そう受け止められることを期待していたはずですが、これも、せめて訳注でも付けてくれると、もっと親切だったかもしれません。(実は邦訳が出るずっと以前に、「『悪魔のひじにある家』なんて直訳で出たりするかもな」と仲間内で冗談を言っていたことがあるのですが、冗談が本当になってしまって苦笑を禁じ得なかったものでした。)
 ダブル・ミーニングといえば、これもかつて指摘されたことがありますが、コナン・ドイルのホームズ物の短編‘The Adventure of the Speckled Band’も有名な例ですね。‘band’には、「ひも」という意味だけでなく、人の群れや一団という意味もあります。楽団のことを「バンド」というように、日本語でもある程度通用しているといえるでしょう。この作品のストーリーは、そもそも「バンド」が「ひも」を指すのか、「人の団」を指すのか不明なままに展開していくところに面白さがあります。初めから「ひも」と訳してしまっては、実はネタバレに近いのですが、ほぼ全ての翻訳で「まだらの紐(ひも)」と訳されていて、最近の新訳でもこの傾向は改まっていません。
 アガサ・クリスティがダブル・ミーニングを得意とした作家であることはよく知られていますが、イギリス英語とアメリカ英語の違いをプロットに取り入れた例もあるし、タイトルでも、“The Murder of Roger Ackroyd”はなかなか意味深です。これを創元文庫版のように、「アクロイド殺害事件」と、第三者が名付けた事件名のように訳しては、せっかくのニュアンスが台なし。早川文庫版の「アクロイド殺し」はまだましですが、できれば、「ロジャー・アクロイドの殺害」と、そのまま訳してほしいところです。
 英語と日本語を隔てる言語の壁は、時としてなかなか越え難い面もあるのですが、訳注や解説を活用できるのも翻訳のメリットであり、うまく活用して読者サービスを向上していただければありがたいですね。
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テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

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No title

試行錯誤の原題にそんな意味があるなんて知りませんでした。
勉強になります。

面白いですよね

有名なものばかり挙げましたが、すぐに思いつくものだけでも、まだいろいろありますよ。
ニコラス・ブレイクの『ビール工場殺人事件』の原題“There's Trouble Brewing”も、「いざこざが起ころうとしている」の意味にも、「ビール醸造に支障あり」の意味にも読める仕掛けになっています。エドマンド・クリスピンの短編集“Fen Country”も、「沼沢地」という意味と、ジャーヴァス・フェン教授の名前を引っ掛けたものですね。作者の機知に感心させられます。
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