ミステリ作家の博識に感心

 ヘレン・マクロイの“The Goblin Market”の邦訳が『小鬼の市』という題で創元文庫から出たようですが、それでふと思い出した脱線話をひとつ。
 マクロイのベイジル・ウィリング博士物には、心理学の知識が至るところに盛り込まれていますが、ミステリ作家の博識ぶりには、感心させられることがしばしばあるものです。
 たとえば、ギゼラ初登場の“The Man in the Moonlight”(1940)では、夢遊病と狼男伝説の関連が触れられています。それによると、夢遊病は光に触発されて起きやすくなるもので、催眠術の原理も同様であり、いわゆる光物を振り子などにして触発を与えることが催眠状態を引き起こすというわけです。
 満月そのものと夢遊病とは直接には無関係ですが、月の光が明るければ明るいほど、それが窓から差し込んでいたりすると、夢遊病を引き起こしやすくなるため、満月の時ほど夢遊病者の行動が顕著になり、時にはそれが世間を騒がす異常行動になるなどして、狼男は満月の夜に変身するという伝説が生まれたというわけです。ちなみに、狂人のことを英語で‘lunatic’と言いますが、精神異常の発症が月(lune)と関連づけられるのも同起源と考えられますね。もちろん、満月と夢遊病の因果関係を否定する学説も根強いようなので、マクロイの解説が正しいとは言い切れないのですが、実に合理的で分かりやすい説明ですよね。
 多重人格についても、作品間で説明に矛盾があるのが気になるところですが、“Who's Calling?”(1942)や『殺す者と殺される者』で出てくる解説は興味深いものがあります。前者はウィリング博士物の中でも傑作の部類に入る作品で、短編集“The Pleasant Assassin and Other Cases of Dr. Basil Willing”(2003)の序文で、B・A・パイクがヘレン・ユースティスの“The Horizontal Man”の先駆としているものです。これもいずれは邦訳で紹介してほしいところですね。
 (ちなみに、『小鬼の市』には、電話などの最中に無目的に書く「ドゥードゥル」の話題が出てくるのですが、これは“Who's Calling?”を踏まえたもの。(「いたずら書き」と訳されているが、普通の落書きとの違いが分からないのが難。) やはりシリーズは発表順に読んでいくことが肝要で、『ひとりで歩く女』を先に紹介してしまったのもさることながら、紹介順が前後するのはちょっと残念。)
 オースティン・フリーマンも、彼自身、医師だったわけですが、法医学だけでなく、自然学、生物学など理科系の知識はもとより、人類学、考古学、歴史学などの分野からもいろんな知識を取り入れています。以前の記事で触れた、‘The Magic Casket’に出てくる日本の「魔鏡」などもその一例で、日本人でも知っている人は少ないのではないでしょうか。
 “Dr. Thorndyke Intervenes”(1933)と『ペンローズ失踪事件』には、ディーン・ホール(dene-hole)という、英国に存在する、地面に深く掘られた不思議な穴が出てきます。エセックス州やケント州によく見られるもので、フリーマンが在住していたグレイヴズエンドにもあるようです。私もケントに行ったことがありますが、恥ずかしながら、そんなものがあるとはまるで知りませんでした。
 このディーン・ホールは、ノルマン征服以前の住民が掘った穴だそうですが、その目的については、ドルイド教徒の祭儀場、デーン人侵入の際の避難所、穀物の保管所など、諸説あり、20世紀半ばまでは考古学者の間でも意見が分かれていたようです。今日では、白亜の採掘坑だったという見解が支配的になっているようですね。
 興味深いことに、ジョン・ロードの“Dr. Priestley's Quest”(1926)でも、同じくディーン・ホールがプロットの重要なファクターをなしています。発表年としてはロードのほうが早いので、案外、フリーマンはロードの作品に触発されたのかもしれません。なお、プリーストリー博士は、作中で、ディーン・ホールはドルイド教徒の祭儀場だったという見解に傾いているようですね。
 同じくロードの“Peril at Cranbury Hall”(1930)は、以前の記事でも触れましたが、炭疽菌をプロットに用いた作品で、当時の読者にはピンとこなかったでしょうが、今読むとぞっとするほど現実の事件を先取りしていたように思えます。まだ実験段階にあった生物兵器をいち早くプロットに取り入れた作者の進取の気性にも感心させられますね。ハウダニットとしての用い方がなかなか面白くて、いかにもロードらしいんですよ。
 同じくフリーマンの“Mr. Polton Explains”(1940)には、斑状歯(mottled teeth)という現象が出てきます。フッ素を含んだ水を飲んでいる住民の歯が、丈夫でありながら穴が出来たりする現象なのですが、調べてみると、この現象が報告されたのは1916年のことで、それがフッ素と関係があることがわかったのが1931年。その後、斑状歯が多い地域の人に虫歯が少ないという事実が注目され、適度なフッ素が虫歯予防に効果的であることが確認された結果、虫歯予防にフッ素塗布が行われるようになったのが1940年、WHOがフッ素による虫歯予防を提言したのは1969年のことだといいます。今日ではフッ素入り歯磨き剤はごく身近なものになっていますが、1940年の時点で斑状歯の知識をプロットに取り入れていたとは驚きで、フリーマンが最先端の知識をよくフォローしていたのが窺えますね。
 “Helen Vardon's Confession”(1922)には、振り子のダウジングが出てきて、ヒロインのヘレン・ヴァードンが、勧められるままに振り子を使って念じると、自分が陶器に関心のあることが、振り子の指し示す文字から予期せずして明らかになるという現象が描かれています。『ペンローズ失踪事件』(1936)にもダウジング・ロッドが出てきますが、第一級の科学的センスを持った探偵小説作家が、こんな呪術的分野の知識を自作に持ち込んでいるのも驚きです。
 もっとも、ヴァン・ダインのようにでたらめなぺダントリーを作中に散りばめる作家もいるので、なんでも鵜呑みにするわけにはいかないし、時代の推移に伴って時代遅れになったり、間違っていることが分かる情報もあるので、要注意ではあります。ロードの“Dr. Priestley's Quest”も、今日の学説が正しいとすると、肝心の謎解きが台なしになってしまうので、実は笑えない話なんですよ。
 そうは言っても、テイの『時の娘』をきっかけに歴史に関心を持つようになる人もいるといいますから、ミステリとは、謎解きという本質部分だけではなくて、いろんな形で私たちの知的好奇心を刺激してくれるものと言えるかもしれませんね。
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テーマ : ミステリ
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