ジョン・ロード『クラヴァートン事件』第一章-1

第一章

 プリーストリー博士が旧友のジョン・クラヴァートン卿を訪ねるのは、ほぼ一年ぶりのことだった。アールズ・コート駅で下車し、ボーマリス・プレイスに向かって歩き出すと、ご無沙汰していたことで気がとがめた。
 だが、その間顔をあわせなかったのは、なにも博士だけの罪ではなかったろう。プリーストリー博士は多忙な人物だ。科学の探究に追われて、社交的な息抜きをする暇はほとんどなかった。それに、博士にはほかにも時間を割くことがあった。博士には趣味があり、そのことはごく限られた者しか知るまいと勝手に思い込んでいたが、いつの間にか手を広げてしまっていた。つまり、いつなんどきでも事件の捜査に関与して、時には幾週にもわたって精魂を傾けてしまうのだ。
 ジョン卿はといえば、いくらでも余暇のある人物だった。世捨て人のように暮らしていたし、唯一の趣味は書物に囲まれて過ごすことだ。だとすれば、ウェストボーン・テラスに邸宅を構えるプリーストリー博士を訪ねる機会もいくらでもあったろう。だが、そこまでする必要もないと思っていたのかもしれない。
 実際、ここ数年、二人はすっかり疎遠になっていた。かつて、プリーストリー博士はイングランド中部地方の大学で教授職にあったが、その頃、二人は親しい友人同士だった。クラヴァートンは同じ町で保険数理士をしていて、この二人の優れた知識人は、互いに共通点が多いのに気づいたのだ。
 しかし、大戦の一、二年前に、プリーストリー博士は教職を辞し、多くのまじめな学生たちを嘆かせた。大学当局が同じく嘆いたかどうかはよく分からない。博士と接した人であれば、その能力を疑う者はいなかった。しかし、博士は、教師としてより批評家としての気概を持っていた。科学的事実を極限まで追究しようとする、博士の限りなき忍耐強さは無比のものだったが、これに匹敵するぐらい、人間本性に対する博士の忍耐のなさも類がなかった。博士の講義は、不完全なデータに基づく理論を発表した著名人への痛罵へとそれていくことが幾度もあった。
 自分が指導者の任にふさわしくないと、博士自身も分かっていたのかもしれない。もちろん、ふさわしくないと博士にほのめかしたりする者などいたはずもない。それはともかく、博士は職を投げうち、父親から相続したウェストボーン・テラスの邸宅に隠遁してしまった。博士の収入は、悠々自適の生活を送ってもあり余るほどだった。長年にわたり、博士は科学分野の批評にその才能を費やしてきた。比較的限られた科学畑の人々の間ではあったが、博士は指導的な権威とみられていた。
 大戦が勃発して間もなく、クラヴァートンは思いもかけずまとまった財産を相続した。ほとんど幼い頃にしか会ったことのない従姉が、一九一四年九月の初めに一粒種の息子を亡くしたのだ。彼女は新たに遺言書を作成し、全財産をクラヴァートンに遺すことにした。ほどなくして、彼女はボーマリス・プレイスの自宅で亡くなった。
 その頃、クラヴァートンはイングランド北部で政府の仕事に就いていて、組織力を存分に発揮していた。相続した家には住まず、戦争中は寄宿寮として使用させていた。休戦協定が結ばれると、戦勲を認められて、いまや大英帝国二等勲爵士となったジョン・クラヴァートン卿は、ロンドンに根を生やすことに決めた。ボーマリス・プレイス十三番地の家は彼の好みに合わせて改装され、しばらくすると、そこに引っ越してきた。
 彼はずっと独身だった。家族持ちに会うたびに自分は家族を持たなくてよかったと実感するんだ、とよく口にしていた。人付き合いもさほどせず、ロンドンに住んでからというもの、殊更にごく少数の旧友としか会おうとしなかった。プリーストリー博士もそんな友人の一人だった。彼らは不規則に会うだけだったし、ついつい疎遠になりがちだった。実際、博士は、その日の朝、友人から手紙を受け取らなかったら、秋の午後の研究を中断したりはしなかったろう。
 実にそっけない手紙で、短信程度のものだった。少々体調がすぐれず、家に引きこもっているので、プリーストリー博士にお越しいただければ、という趣旨の実に簡潔な連絡だった。ただそれだけで、日時すらも触れていなかった。博士は、ご無沙汰していたことを埋め合わせたい気持ちもあり、その日のうちにクラヴァートンを訪ねることにした。
 ボーマリス・プレイスは、ヴィクトリア朝時代から幾度も変化を経てきた場所だった。かつては流行の最前線にあった場所だ。つまり、家屋周旋業者がよく言う、快適な居住空間だったのだ。大きくて、いかめしい感じの家々には、裕福な都会人が住み、活きのいい二頭立て馬車で日々職場に通勤していたものだ。しかし、近代的な交通手段が発達したおかげで距離感覚が縮まると、ボーマリス・プレイスの住人たちは、「田園」と自慢げに呼ぶ郊外へと移転していったし、家並みの窓には次々と「貸家」という末期症状的表示が出はじめた。
 十三番地の家だけが旧態を維持していた。クラヴァートンのいとこが嫁いだ先の家族が頑固一徹だったせいで、彼らは自分たちが住み慣れた家を捨てることができなかったのだ。界隈がさびれていくのをものともせず、このいとこは、夫の死後も古い家で一人暮らしを続けた。彼女は、その家で死にたいとよく漏らしていた――その願いは予想よりずっと早く実現してしまったのではあるが。息子が相続後に家を売却するのなら、好きにすればいいと言ってはいたが、内心では売却してほしくないと思っていた。
 息子が亡くなって将来展望が音を立てて崩れたとき、心にかけるのは家のことだけになった。その家は彼女の人生の一部になっていた。嫁いできてからというもの、その家が彼女の喜びと悲しみを温かい目で静かに見守ってきてくれたように思えた。生きがいを失ってしまうと、死に神が容赦なく、それも優しげに手招きしているような気がしてきた。お迎えを受け入れる覚悟はできていたが、無神経な下宿人が入れ替わり立ち替わり入ってきて、愛着のある部屋を占領するのは想像するのも耐えがたかった。
 クラヴァートン家の一員である彼女が、ジョン・クラヴァートンのことを思い出したのはまさにその時だ。全然知らない相手ではあった。たまに会う家族の友人たちを通じて、時おり伝え聞くことがあるだけだった。しかし、クラヴァートン家の一族が、夫の家族と同じ保守的な気質があることは知っていた。クラヴァートン家の者にゆだねれば、十三番地の家は安泰だ、と彼女は考えたのかもしれない。ともあれ、彼女は新たな遺言書を作成し、家を他の財産とともに、いとこのジョンに遺したのだ。
 彼女はジョンになんの希望も伝えなかった。それどころか、相続人に定めたことを知らせることすら必要と思わなかった。彼女の葬儀の日まで、ジョン・クラヴァートンは十三番地の家を見たこともなかった。しかし、彼女の直感は間違っていなかった。彼はその日以来、すべてが片付いたら、その家に住もうと決意したのだ。
 おかしな判断をしたものだと思う者も多かっただろう。すでに変化は急速に進んでいたからだ。偶数番号の番地が振られた通りの東側は、陰気で威圧的な建物の並びもほとんど姿を消していた。一軒、また一軒と、快適な居宅が家屋解体業者にゆだねられた結果、なじみのない建造物がその跡地に建っていた。ある場所には、さほど快適でもないアパートが建ち、別の場所には映画館があったが、その入口はもう一つ隣の通り側にあったため、こちら側は工場然とした外壁がむき出しになっていた。
 ジョン・クラヴァートンはそんなありさまを見ても、肩をすくめただけだった。通りの外観が損なわれようと、彼にはどうでもよかった。仮に外観のことを考えたとしても、彼なら、どのみち人は家の中に住むのであって、外に住むわけではないと考えたことだろう。
 十三番地の家に住んでからも、急速に変化が進もうと気にも留めなかった。残っていた偶数番地の家も、戦後一、二年のうちにすべて姿を消した。さらに、奇数番地の家も、投機的な建築業者の猛攻の前に次々と陥落していった。一番地から七番地の家は、ほとんど一夜にして消えてしまったし、跡地には大きなガレージができた。九番地から十一番地の家は倉庫に改築され、外には大きなバンが毎日何台も停まるようになった。あとは、十三番地から二十七番地の家――ボーマリス・プレイスの末端に位置する角地の家――が残っているだけだった。
 以上が、プリーストリー博士が以前に友人を訪ねたときのありさまだった。しかし、この日、博士がガレージのある角を曲がり、通りに入っていくと、以前にもまして開発の進んだ様子が目に入ってきた。十三番地の先には、建築中を示す板囲いが見えるだけで、その中からは慌ただしい建築活動の音が聞こえてきた。十五番地から二十七番地の家はすでに跡形もなかった。
 博士は、その光景に軽いショックを覚えた。そこにあった家に住んでいた人たちも、なんの消息も残さずに消えてしまったというのか? 砂漠のなかのオアシスと化した十三番地の家も、いつまで残り続けるだろう? その家もついに壊されてしまったら、ジョン・クラヴァートンの個性はなにが残るというのか? もちろん、自分も迂闊だった。ほかのことにまぎれて、友人と疎遠になっていたのだ。これからは、こまめに訪ねることにしよう。帰ったら、カレンダーにしるしをつけるさ。せめて月に一度だ。たとえば、毎月第四水曜とかな。博士は、十三番地の家が目の前から消えてしまうのではないかと恐れるように歩を早めた。
 執事がドアを開けてくれた。いかめしい顔つきの初老の男で、来客が誰か分かると、おじぎをした。黙ってプリーストリー博士の帽子とコートを受け取り、まるで祭壇に犠牲を献げるみたいに、玄関ホールのテーブルにうやうやしく置いた。四時になったばかりだったが、玄関ホールはすでに黄昏が訪れたように薄暗く、周囲もぼんやりと見分けられるだけだった。それでも、博士は、テーブルにあるのが自分の帽子だけではないと気づいた。
 客は自分だけではなさそうだと思うと、そわそわしはじめた。クラヴァートンに会って三十分ほど話をするだけのことだから、急ぎの仕事も中断してきたのだ。自分以外に客がいるとは予想だにしなかったことだ。この家でほかの客に出くわしたことなどなかったのに。予定していた水入らずの会話が、とりとめもない散漫なおしゃべりに矮小化してしまうのでは我慢ならないぞ。「ジョン卿にはお客が来ているのかね、フォークナー?」と博士は強い口調で尋ねた。
 「ジョン卿は図書室に一人でおられます」と執事は答えた。それから、厚い絨毯が敷かれた階段を上がっていった。
 博士もあとに続いた。屋内の配置はよく知っていた。一階にはダイニングと居間があり、二階には客間と図書室がある。クラヴァートンが博士を迎えるのは、いつも図書室だった。ところが、驚いたことに、フォークナーは、踊り場まで来ると、客間のドアに向かった。ノブに手を触れる前に、ちょっとためらう様子を見せた。ドアを開けると、客人を中に入れるためにわきに寄った。「プリーストリー博士でございます」と彼は告げた。
 部屋の窓には厚いカーテンが引かれ、玄関ホールの薄暗さと大差なかった。博士が中に入っても、しんと静まっていて、しばらくは、そこにいるのが自分だけだと思っていた。フォークナーは主人に来客を告げに行くあいだ、とりあえず自分をここに案内しただけなんだな。しかし、なぜまたあんなふうにかしこまって来訪を告げたのか?
 部屋の片隅のソファのほうから、かすかな衣擦れの音がして、博士ははっとした。素早く振り返ると、目が暗さに慣れてきたこともあり、年配の婦人らしき姿に気づいた。彼女は頭を垂れ、なにか手の込んだ編み物にいそしんでいた。精巧な機械のように規則正しいリズムで指を動かしていたが、博士がいることにまるで気づいていない様子だった。
スポンサーサイト

テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

S・フチガミ

Author:S・フチガミ
お問い合わせ等は
fuhchin6491
(アットマーク)
hotmail.co.jp
へどうぞ

カテゴリ
フリーエリア
天気予報
リンク
検索フォーム
アクセスカウンター
RSSリンクの表示