ジョン・ロード『クラヴァ-トン事件』第二章-1

第二章

 プリーストリー博士は、娘のぶしつけさを気に留めていないように見えた。博士は客間を出て、音をたてないようにそっとドアを後ろ手に閉めた。しかし、踊り場まで来て、一瞬立ち止まると、あんなおかしな応対をされたことで、この家を立ち去りたい気持ちになっていた。
 しかし、クラヴァートンが図書室で待っていることを考えて思いとどまった。とまれ、あんな扱いを受けたからといって、クラヴァートンのせいではない。それに、クラヴァートンと話せば、あの変な連中とその態度についても何か分かるかもしれないと思ったことも、博士の判断を後押しした。
 博士は図書室のドアを開け、中に入っていった。そこは、十三番地の薄暗い屋内にどうにか入りこんでいた日差しのなごりも完全に遮断されていた。天井から床まで重苦しく垂れた、厚手の黒いカーテンが引かれていたからだ。しかし、人工照明の光では、窓から入る日差しの代わりにはならなかった。読書用ランプがひとつだけ、部屋の隅のテーブルに置かれ、そばの椅子に座っている男を照らしていた。部屋のほかの部分は真っ暗だった。
 博士が入ってくると、ジョン・クラヴァートン卿は物憂げに目を上げた。背が高く、ほっそりしていたが、意志の強そうな顔はひげをきれいにあたってあり、濃い眉の下には深くくぼんだ目があった。だが、博士は、相手に歩み寄りながら、いやな疑問が頭に浮かんだ。自分もこんなに老けてみえるのだろうか?
 というのも、二人とも同い年の五十七歳だったからだ。プリーストリー博士はずっと健康だったし、多くの年下の連中より肉体的にも精神的にも活発だった。持久力でも同じ世代の人々をしばしば驚かせるほどだった。クラヴァートンはといえば、読書用ランプの情け容赦ない光に映し出されたその顔は、まさに老人の顔だった。頬には深いしわが走り、旧友と握手しようと差し出した手の動きには、だるそうな疲労感がにじんでいた。博士がその手を握ると、震えが感じられた。
 しかし、口を開くと、その声には昔の力がまだ失われてはいなかった。「よく来てくれたね、プリーストリー」と彼は言った。「こんなに早く時間を割いてもらえるとは思ってなかったよ。座ってくれたまえ。二人で話せる時間も数分ぐらいしかないからね」
 博士は、最後の言葉でなにを言わんとしたのか訝りながら、請われるままに椅子に座った。「具合がよくないと聞いて心配していたよ」と博士は言った。「様子が知りたくて、なるだけ早い機会に伺ったわけさ。ここのところご無沙汰していて申し訳なかったね、クラヴァートン」
 「ああ、久しぶりだな。ずいぶん様変わりしたと思うだろ?」
 様変わり! 確かに。だが、クラヴァートンは、どういう様変わりのことを言っているのだろうか? 自分の容貌の様変わりのことか? 以前会ったときより十年は老けたように見えるからな。得体の知れない連中が家の中に侵入している様変わりのことか? それとも、ボーマリス・プレイスに生じた外観の様変わりのことを言っているだけなのか? 最後の推測が正しいのだろう、と博士は判断した。
 「この先の住宅区画もみな取り壊されてしまったね」と博士は静かに言った。
 「そう、新たにアパートを建てるつもりのようだね。ここは昔の住宅の最後の生き残りだよ。まあ、かまわんさ。私の目の黒いうちは持ちこたえるし、この家がどうなろうと誰も気にかけまい。我々は移ろいゆく世界に生きているんだよ、プリーストリー。分かっちゃいることだがね。気に入らんかもしれんが、そんな世界に我慢するしかないんだ」
 本当にクラヴァートンはそんなに我慢しているのかな、と博士は思った。しかし、その家の主人は、まるで早く話題を変えたいみたいに、自分のことを話しはじめた。
 「ここ数週間ほど、調子がよくないんだ。腹に痛みを感じたりしてね。ちょっと辛いよ。今までが病気知らずだったからな。この歳になると気をつけなきゃならん。それで、オールドランドに往診を頼んだんだ。もちろん憶えてるだろう?」
 「オールドランドだって! 昔付き合いのあった、あのオールドランド医師のことかね? ああ、もちろん憶えているとも。だが、もう何年も消息を聞いていない。おそらく・・・」
 クラヴァートンは慌てて博士の言葉をさえぎった。「ああ、元気にやってるみたいだよ。数年前に、ケンジントンに診療所を開いてね。私の居どころを突き止めたらしく、訪ねてきてくれたんだ。それ以来、音信を通じるようになってね。私も、診てもらう医師が必要だから、おのずと往診を彼に頼むようになったわけさ。もうじきここに来るよ。四時半頃に立ち寄ると言ってたからね。君も会ったってかまわんだろ?」
 「もちろん、かまわないさ。ずっと親しい友人だったからね。むしろ、あの話を聞いて、とても気の毒に思ったほどだ」
 「おっと、その話は言いっこなしだよ。みんな遠い昔のことさ。オールドランドによると、私には特に悪いところはないそうだ。自信がなきゃ、そんなことは言わん男だよ。その点は誰も疑わなかったことだ。健康に留意するよう言われて、食事制限の指示をもらい、薬もくれた。いい治療をしてくれてるよ。それは間違いない。一、二週間前に比べれば、ずいぶんよくなったよ」
 「それを聞いて安心したよ」と博士は心をこめて言い、ひと息つくと、こう言い添えた。「世話をしてくれる者もなしに、ここで一人暮らしというのはお勧めしないがね」
 クラヴァートンは思わせぶりに笑みを浮かべた。「なに、世話ならしてもらってるさ。ご心配は無用だよ。その手のことはオールドランドにまかせれば大丈夫さ。ちゃんと指示に従っていれば、そのうち回復するそうだし、そしたら、君を夕食にお招きするよ。当分は煮魚ぐらいしか食べられないし、そんなのを一緒に食べてくれとは言えんからな」
 プリーストリー博士は無言だった。この家に入ってからというもの、ずっと当惑した気持ちでいっぱいだったが、ますますその気持ちが強まった。しっかり地に足のついた建物の中にいるはずなのに、そこでの経験は現実離れしているように感じられた。クラヴァートンの態度も不可解だった。明らかに姪のことを話すのを避けている。さっき会ったぶしつけな娘が本当に彼の姪ならばの話だが。客間にいたほかの謎めいた連中のこともそうだ。自分から来てくれと頼んだはずなのだが、友人が来たことを喜んでいるのかどうかもよく分からなかった。
 そう、プリーストリー博士の鋭い観察力によれば、彼にはなにか心にかかることがあるのは確かだ。自分の健康のことを話したり、あれこれ些細なことに言及したりしたが、どうも心底から語っているように感じられない。自分の病気の話をするだけのために、博士に来訪を求めたわけではあるまい。しかし、クラヴァートンは掛け時計に目を向け、自分の腕時計と見比べると、まるで客が好ましくない質問でもしてくるのを恐れるかのように、急いで話の穂を接いだ。
 「具合がよくなったのは、食事制限よりも、オールドランドがくれる薬のおかげなんだ。どういう薬かは知らんが、それを飲むようになってから、ずいぶん調子が良くなってね。薬瓶から出してくる普通の調合薬じゃない。特注しなきゃいかん薬でね。実を言うとな、プリーストリー、ひどく高価な薬なんだよ」
 博士は苦笑を禁じ得なかった。なるほど、この奇妙な家にも一点だけ変わらないところがある。クラヴァートンのへそ曲がりな性格は少しも直っていない。通常の意味でけちというのではない。必要な出費ということなら、気前よくお金を使う。だが、時おり急に、はした金を惜しむことがある。この薬の対価にしても、明らかに彼には不満の種なのだ。
 彼はそばのテーブルに向き直り、高名な薬剤師のラベルが貼ってある箱を取り上げた。「これだよ」そう言いながら、箱を博士に手渡した。「一日四回、食後に一服ずつ飲むことになっている。ひと箱七ポンド六ペンスで、二十四包入っている。それだけで週当たり八ポンド九ペンスさ。この薬が確実に効くと思わなかったら、買ったりはせんよ」
 「そうやってすぐ金勘定してしまうのは、保険数理士という君の職業病だよ」と博士は言った。「治療代ということなら、さほど高い値段とは思わんがね。オールドランドが温泉にでも行けと勧めたら、どうするんだね? たとえば、カールスバート(訳注:温泉で有名なチェコ・ボヘミアの西部の都市)とかね」
 「オールドランドなら、もっとましな療法を知ってるよ」クラヴァートンは顔をしかめながら言った。「だが、なにしろそれだけじゃないんだ。その薬は、瓶入りの水薬と一緒に飲み下さなくちゃならん。これまた金がかかるんだ。そこにオールドランドの診療代が加わるんだぞ」
 博士はうなずいたが、内心、その愚痴が収まるのを待っていた。博士は、さりげなくその箱を開け、中身を見た。ゼラチンのカプセルがたくさん入っていて、カプセルには白っぽい中身が詰まっていた。箱を閉じると、クラヴァートンに返した。
 「ゼラチンのカプセルとは名案だね」と博士は言った。「そのまま嚥下すれば、中身を味わわなくてすむ。我々が若いころ飲まされたような粉の胃薬よりはずっとましだ。ううっ! あの味を思い出してしまったよ。ずいぶん昔のことなのに」
 「そうだな。確かにましだ」クラヴァートンはしぶしぶ認めた。「これほど高価でなけりゃ文句は言わんのだが。ともあれ、粉薬にしたら、もっと安い薬にならんのか、オールドランドに聞いてみなくちゃなるまい。たぶん、味には我慢できるさ。昔のよりひどい薬だって我慢してきたんだぞ。それに、えらく不注意な連中もいるからな」
 彼は箱を開け、中のカプセルを注意深く数えると、「うん、じゃあ見つかったんだな!」と満足げに声を上げた。「よく探せば見つかると言ったんだ。信じられるかい、プリーストリー。カプセルが一つ、二日前になくなってしまったんだよ。どっかの馬鹿が箱をひっくり返して、カプセルを床に散らかしてしまったようでね。自分で金を払ってるんなら、もっと気をつけただろうに」
 「なぜそうなったのかね?」と博士はおざなりに尋ねた。友人とはまともな話はできそうにないと諦めていた。もはやオールドランド医師が来てくれるのを待つばかりだ。そうなれば、この場から逃れて、懸案の仕事に戻れる。
 「なぜそうなったかだって!」とクラヴァートンは声を上げた。「私にもわけが分からんのだ。分かっているのは、月曜のお茶の時間に、この新しい箱を開封したということだけさ。その時に一粒飲んで、その日の夕食時にもう一粒飲んだ。火曜はいつもどおり四粒飲んだよ。水曜の朝食後に一粒飲んで、そのときになにげなく残りの粒を数えたんだ。当然、十七粒あるはずだったんだが、実は十六粒しかなかったというわけさ。
 朝この部屋を掃除するのはフォークナーだから、あいつを呼んで、箱をひっくり返さなかったか聞いてみた。もちろん、きっぱり否定したよ。あいつがやったとは証明できんし、その場はそれですませた。だが、カプセルが一粒なくなっているし、床のどこかに落ちてるはずだと言ってやったんだ。翌朝までに、踏みつけんよう気をつけて、家具の下を探せと指示したのさ。一粒あたり四ペンスもするんだぞ。落としたぐらいで無駄遣いするわけにはいかんさ」
 クラヴァートンはひと息つき、箱の中のカプセルを数え直すと、「見つけたわけだな」と話を続けた。「あいつに聞くのを忘れていたよ。ともかく、今は数がそろっている。今日は金曜だ。月曜にこの箱から二粒飲んで、火、水、木曜に四粒ずつ、今日は二粒飲んだわけだから、全部で十六粒飲んだことになるな。残りは八粒だ。数えてもらえば、あるのが分かるよ」
 「君の言葉を信じるよ」プリーストリー博士は、その話にうんざりしながら答えた。少し間をおくと、なんとか話題を変えようとして、「最近、書物のコレクションになにか面白いものでも加わったかね?」と尋ねた。
 クラヴァートンは残念そうに首を振ると、「実を言うと、新しい分野を開拓する気になれんのだよ」と答えた。「昔からの愛読書を再読するばかりさ。出歩けるようになったら、前からほしかった本を何冊か買おうと思う。リズリントンが火曜にここに来てね。カタログを何冊か持ってきてくれたよ。リズリントンは知ってるだろ?」
スポンサーサイト

テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

S・フチガミ

Author:S・フチガミ
お問い合わせ等は
fuhchin6491
(アットマーク)
hotmail.co.jp
へどうぞ

カテゴリ
フリーエリア
天気予報
リンク
検索フォーム
アクセスカウンター
RSSリンクの表示