ジョン・ロード『クラヴァートン事件』第三章-1

第三章

 ウェストボーン・テラスにあるプリーストリー博士の家は、大きさといい、いかめしい外観といい、落ち着きと上品さが漂う雰囲気といい、ボーマリス・プレイス十三番地の家とかなり似ていた。だが、博士の家には、あの家に垂れこめる独特の薄暗さはなかった。博士は、電灯をつけるのを惜しんだりはしなかった。書斎が博士のほぼ常時すごす部屋だったが、調度品の簡素さとは裏腹に、明るい雰囲気に満ちていた。
 その日の晩、オールドランド医師が初めてその家に入った時の印象も、おそらくそうだったろう。彼は、ガラス戸の本棚、居心地よさそうな椅子、そのゆったりした部屋のなかでも大きすぎる感のある巨大なデスクを興味深げに眺めまわした。その目がめがねの背後できらりと輝いた。「快適そうだね、プリーストリー」と彼は言った。「君のくつろぎ方のほうが、クラヴァートンよりもましだよ」
 博士はうなずいたが、オールドランドの姿を観察するのに気を取られて、その言葉をほとんど聞いていなかった。この男は二十年ほどのあいだにずいぶん変わったな。外観も、マナーも、そして声すらも。今日の午後、クラヴァートンはなんと言ってたっけ? 移ろいゆく世界に住んでいるとか、好き嫌いに関係なく、そんな世界に我慢しなくては、とか。オールドランドから見れば、自分もどれほど変わったことだろう、と博士は思った。
 「そう、クラヴァートンのことだ」と博士は唐突に言った。「今日の午後会って、クラヴァートンはずいぶん変わったと思ったよ。最初見たときは、なにか重い病気にかかっているのかと思ったほどだ。だが、君は彼に、そんなことはないと言ってるようだね」
 「私は本当のことを言ってるんだよ」とオールドランドは簡潔に答えた。「彼には重い病気などない。軽度の胃潰瘍だけさ。難なく完治するたぐいのものだよ。もちろん、症状はつらいし、患者にも暗い予感を与えがちなものだ。彼が実際の病状以上に深刻に受け止めているのも、そのせいだろう」
 「だが、さっき別れた時に君が口にした言葉からすると、君も彼のことを心配していると思ったんだがね?」
「心配してるさ、プリーストリー。君と話したいのもそのことなんだ。のっぴきならないことでなきゃ、彼が完治するまでロンドンを離れたりはしないよ。君はしょっちゅう彼に会いに行くのかね?」
 「思うほど会えないんだよ。音信もないまま一年近くも疎遠になってしまってね。病気だと知っていたら、もっと前に訪ねていたさ」
 「一年近くか」とオールドランドは思い返すように言った。「きっと、いろいろな点で変わったと気づいたろうな。君が午後来ることは、クラヴァートンは知っていたのかね?」
 「いや。今朝、彼から短い手紙をもらって、具合がよくないので、訪ねてきてほしいと書いてあったんだ。日時の指定は特になかった。だが、その訪問が君の心配となにか関係があるのかね?」
 「いや別に。いきさつを知ろうと思っただけさ。すまないな、プリーストリー。だが、なにもかもがあまりに奇妙で、どうすればうまく説明できるのか分からないんだよ。気づいたと思うが、クラヴァートンはもう一人暮らしじゃないんだ」
 プリーストリー博士は、返事を返す前にひと息ついた。グレーのドレスを着て、そこから黒く分厚い編み物を垂らし、細い指をせわしなく動かしていた女の姿を思い浮かべた。「最初に客間に案内されたよ」彼はようやく言った。
 「ああ!」オールドランドの声は妙に震えていた。「では、君も彼らに会ったんだね?」
 「三人いたよ。だが、彼らが何者かは知らない。正直言うと、あんな連中がクラヴァートンの家にいたのには驚かされたよ」
 「三人だって? ああそうだ、確かにね。私が家に行ったとき、ダーンフォード青年が中から出てきたな。君が来たときには中にいたはずだ。あとの二人は、リトルコート夫人とその娘だね」
 グレー服の女が、人間らしい名前を持っていたこと自体驚きだ。あのご婦人が結婚をして、娘を儲けたというのも、ほとんど信じられない。ということは、いかに短期間としても、あのせわしない指が作業を止めたことがあったわけだ。
 「今の今まで、彼らの名前は知らなかったよ」と博士は言った。「クラヴァートンは、彼らのことはなにも話してくれなかったからね」
 オールドランドはうなずいた。クラヴァートンが黙っていたのも当然と言わんばかりだった。「彼らのことは話したがらないんだよ。彼とは最近会う機会が増えたが、私もこのあいだまで彼らのことは知らなかったんだ。リトルコート夫人はクラヴァートンの妹だ。彼女と娘は、パットニーのとある小さなフラットに住んでいる・・・というか、住んでいたようだね」
 「言ってる意味が分からんな、オールドランド。つまり、クラヴァートンとずっと一緒に暮らすために、フラットから出たということかね?」
 「分からんね。彼らの目的がなんなのか、さっぱり分からないのさ。彼らがいま十三番地に住んでいるのは、私のせいなんだ。あとで説明するがね。彼らはそれなりにありがたいと思ってるかもしれん。だが、仮にそうだとしても、口に出して感謝したことはないよ。リトルコート夫人は耳が聞こえないんだ」
 「耳が聞こえないだって!」と博士は声を上げた。なるほどそういうことか。リトルコート夫人は、頭を垂れて作業に集中していたから、博士が客間にいるのにまるで気づかなかったのかもしれない。
 「かなり難聴が進行しているんだ。どの程度の障害かは、私にもまだ分からない。時おり、本当はもっと聴こえるんじゃないかと思うこともあるんだがね。多難な人生を送ってきた人だよ。誰に聞いてもね。気の毒に」
 医師は口を閉ざし、めがねをはずして拭きはじめた。彼の目は、こうしてあらわになると、不自然なくらい輝いているように見えた。まるで、隠れた情熱の炎が心のうちに燃えているかのようだった。
 「最近になって、クラヴァートンが彼女のことを教えてくれたんだ」彼はいきなりまた話しはじめた。「聞いたことがあるかしらんが、彼らは三人兄妹だったんだ。クラヴァートンが長男で、その下に妹が二人だ。クララ、つまり、リトルコート夫人のことだが、彼女が一番下だよ。もめ事を起こすまでは、かわいい子ヒツジだったと思うがね。
 経緯は知らんが、彼女は巡回伝道者とねんごろになったんだ。どんな手合いか分かるだろ。自分の信じる教義に人類を改宗させる使命を帯びた御仁というわけさ。世に知られた教派とも無関係でね。いわば、独立独歩の宗教というわけだ。警察に目をつけられないかぎりは、国じゅういたるところを説教して回っていたのさ。良家の出らしいが、一文なしだったようだね。
 クララ・クラヴァートンは、たまたまその御仁の噂を聞くと、たちまちに恋に落ちてしまったらしい。その男自身にか、それともその教えにかは知らんがね。その後、彼女はその男と進む道を共にしたというわけだ。むろん、文字通りの意味じゃない。クラヴァートンは長兄の立場として――その頃には両親も亡くなっていた――、その男のことでは、妹に対して監視の目を怠らなかった。ところが、その男が近くまで来ると、彼女は、友人を訪ねるとか口実を設けては抜け出し、時の許すかぎり男の説教を聴いていたというわけさ。
 手短に言うと、彼女はある日出て行って、それきり戻らなかった。クラヴァートンは、もちろん、ひどく気をもんだよ。妹の消息はつかめなかったし、事故にあったと思ったんだ。病院、警察、その他思い当たるところはみな足を運んでね。だが、彼女の消息を知る者はいなかった。そしたら、翌日、手紙が一通届いた。クララはその伝道者と結婚して、リトルコート夫人になったと知らせてきたのさ」
 「クラヴァートンのことだから、さぞや大きな衝撃を受けただろうな」とプリーストリー博士は言った。「私にはそんな話は一言も話してくれたことはないよ。知ってのとおり、いくら以前親しかったといってもね。リトルコート夫人はいつ結婚したんだい?」
 「君がクラヴァートンと知りあうほんの少し前だと思う。クラヴァートンはひどく怒ったよ。妹とは縁を切ったと言ってね。口をきわめて、地獄へ落ちるがいいと妹に伝えたのさ。それとも、天国行きかな。彼女にしてみればね。それきり、妹の名は努めて口にしなくなったんだ。
 時おりは彼女の消息を耳にしてはいたようだ。いやおうなしにだがね。リトルコートは、伝道活動のことで時おり問題を起こして、名前が新聞に出たりしたんだ。リトルコート夫妻は国じゅうを行脚していた。生垣の下で寝ることも稀ではなかったろう。間もなく、三人目の道連れができた。赤ん坊を連れて歩くことになったのさ」
 「赤ん坊だって!」プリーストリー博士は声を上げた。「今日の午後会った娘かね?」
 「いや、その子は死んだ。両親の暮らし方に耐えられなかったんだろうね。ヘレン、つまり、君が午後会った娘だが、彼女はそのあとに生まれたんだ。彼女が生まれてほんの数週間後に父親は死んだ。リトルコート夫人を孤立無援のまま残してね。彼女では伝道活動をうまく続けていけるはずもなかっただろう。夫人はクラヴァートンに泣きついた。彼にしてみれば、妹を飢え死にさせるわけにもいかなかったし、不憫に思って、わずかな生活費は送ってやることにした。ただし、自分の前には現れるなという条件付きでね。たぶん、いとこの遺産を相続してからは、生活費の額も上げてやったんじゃないかな。
 リトルコート夫人がどうやって暮らしを立てていたかは分からない。だが、ヘレンには、それなりの教育をなんとか受けさせてやった。それと、娘が成長するあいだに、夫人はかなり儲かる商売を自分で見つけたんだよ。夫が説教していた教義がどんなものかは知らん。だが、夫の死後、彼女はスピリチュアリズムに転向したんだ」
 とたんに、プリーストリー博士は、その言葉を口にしたとき、クラヴァートンが顔をひきつらせたのを思い出した。「クラヴァートンはそのことを知ってるのかね?」と博士は尋ねた。
 「ついこのあいだ、はじめて知ったのさ。リトルコート夫人のほうからは、絶対に話さなかった。そんなことは認めてくれないだろうし、生活費も切られると思ったんだろうね。ともかく、彼女は心霊術体験で金を儲ける方法を見つけた。七、八年前に霊媒としての能力を開花させたんだ。もちろん、自分の本名は使っていない。マダム・ディアーネと称している。その名は、私も何度か聞いたことがあるよ。彼女が行う降霊術会はいつも好評らしい。聞くところでは、かなりの実入りらしいよ。
 ヘレンにその稼業を継がせるつもりかどうかは分からん。娘を見ているかぎり、どう考えてもそんなことはできそうにないがね。こうなると分かっていたら、私もあんなことを勧めたりは・・・。とまれ、その話をするよ。けっきょく、ヘレンはナースの仕事に就くことになって、セント・エセルバーガ病院に研修を受けに行った。そこで出会った最初の相手が、いとこのアイヴァー・ダーンフォードだったんだ」
 「ダーンフォード?」とプリーストリー博士は言った。「それは、午後会った青年の名じゃなかったかね?」
 「その男だよ。彼のことはさっぱり分からん。つまり、ヘレンに対して、なにをたくらんでいるのかということだがね。彼はクラヴァートンのもう一人の妹の子なんだ。彼女の場合は、ロマンチックな話はなにもない。公務員と結婚して、その後も幸せに暮らした。アイヴァー自身は研究化学者だ。北部の大企業で仕事をしている。セント・エセルバーガ病院では短期就労していて、かくしてヘレンと出会ったというわけさ。
 では、奇妙ないきさつについて話すとしよう。ケンジントンで診療所を開業して以来、クラヴァートンと連絡を取るようになってね。ふた月ほど前に、彼に往診を求められた。吐き気と腹痛を訴えて、医学的な助言を求めてきたんだ。胃潰瘍と診断して、パパイン(訳注:熟していない青パパイアの果実や葉から汁を抽出して、乾燥、生成させた消化酵素の一種。消化機能の向上、鎮痛作用、腸内環境の改善等の効能がある)を調合したアルカリ性の薬を処方した。この手の疾患にはパパインが効くと確信しているよ。テイラー・アンド・ハント社のカプセルで買うように指示した。そこの薬はいつも純度が高いんでね。
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