ジョン・ロード『クラヴァートン事件』第四章-1

第四章

 オールドランドが帰っても、プリーストリー博士はずっと書斎に座ったままだった。ほんの数時間前には、旧友のところに、ごく普通に気遣いからの訪問をしようと出かけたつもりだった。それからというもの、あまりにいろんな驚きを味わったため、その混乱を整理しないことには、眠れそうにもなかった。
 もちろん、クラヴァートンは、この奇妙な劇の主役だ。劇か。まさにそのとおりだ。まるで現実味を感じさせない、劇場での芝居を観ている気がする。十三番地の家では本当に異常なことが起きているのか? それとも、こんな仰天すべき可能性が思い浮かぶのも、ただ想像をたくましくした結果にすぎないのか?
 クラヴァートンの振舞いは、少なくとも彼の性格とぴたりと一致している。それは博士にも分かる。彼が些細な出費を節約するために、相当な不便を忍ぶようなことをするのは、なにもこれがはじめてではない。ナースに賃金を払うより、妹や姪と同居することを受忍するのも、いかにも彼らしい。しかし、彼らがお情けで居候しているのは確かだ。リトルコート夫人は何一つ意義のあることをしていないわけだから、目立たないようにしているのも当然だ。
 物事を常識的な視点で見ようとするのは、プリーストリー博士のいつものやり方だった。同じ屋根の下に住む妹と顔をあわせるのを拒む兄の冷酷な態度も、博士にはなんら驚くべきことではなかった。顔をあわせてなんの意味があるのか? 二人で話したところで、非難の応酬に終わるだけだろうし、袋小路に行き当たるだけだろう。確かにオールドランドの推測は正しい。ヘレン・リトルコートは、十三番地の家に来るにあたって、母親の同伴を条件に付けたのだ。
 つまるところ、クラヴァートンと妹は肉親といいながら、なにか共通点はあるのか? 彼らはまるで異なる人生を歩んできたわけだし、赤の他人より縁遠くなっているはずだ。顔をあわせず、いさかいを起こすリスクなどないほうがずっとましだ。間違いなく、それがクラヴァートンの考えだろう。
 今のところは、そんな状況も理解できる。クラヴァートンが状況を決めているのだ。病人とはいえ、家の主人なのだから。しかし、オールドランドが話してくれた事件は信じがたい。クラヴァートンを毒殺しようとする試みが本当にあったのか、それとも、オールドランドが、十三番地の異常な雰囲気に想像力を膨らませすぎて事実誤認しているのか?
 オールドランドは、昔のことはどうあれ――クラヴァートンと同じく、博士も過去のことを問うつもりはなかった――、有能で賢い男だ。根拠もなしにヒ素が検出されたなどと言うはずがない。ヒ素が検出されたことは事実として受け入れねばならない。それをどう説明するかは、これから探ることだ。
 博士は、記憶を確かめるため、本棚から毒物学の専門書を引っ張り出し、ページを繰ってヒ素の項目を開いた。慢性ヒ素中毒の症状は、ある種の胃の疾患に伴う症状とよく似ている。ヒ素は実にさまざまな物質の中に含まれているし、いろんな経路を通じて組織に吸収される。そう書いてあった。本を閉じると、その問題をみずから考えはじめた。
 オールドランドは、クラヴァートンの病状が進行したあとに毒が盛られたとにらんでいる。しかし、間違いなくそうといえるか? そうでもなさそうだ。彼が説明した症状は、別の仮説とも完全に合致する。クラヴァートンは、相当期間、ヒ素を摂取し続けていたのかもしれない。彼の病気はそこから生じたものかも。衰弱した状態も、その結果かもしれない。
 それが事実なら、中毒症状は、リトルコート夫人と娘が家に来るより前にはじまったものということになる。ヒ素を摂取したのは事故ということもあり得る。意図的に毒が盛られたという証拠はなにもない。オールドランドの疑惑は、おそらく正しいのだろうが、彼自身言ったように、証明する手立てはない。
 その問題を考えれば考えるほど、プリーストリー博士には、それがオールドランドの空想ではないかという気がしてきた。博士は確かにいろんな名士たちと接してきた。相手がクラヴァートンなら、実際見当をつけたたように、どんな男か理解できる。だが、リトルコート夫人はどうだ! 夫人が兄の家で、現世を超越してなにかを待ちつつ、いったいどんなことを考えているか、誰に分かるというのだろう? 過去に経てきた体験のせいで、夫人は皆目見当もつかない存在になってしまっている。
 博士は、そんな体験が夫人にどんな影響を与えたか思い描こうと試みたが、無駄だった。無一文の伝道者とともにさすらった極貧の歳月。スピリチュアリズムに転向した驚くべき心境の変化と、その後は、プロの霊媒という精神主義的な生き方。最後は、兄と同居するよそ者として、指と頭脳以外は活動を止めた状態で十三番地の家に腰を落ち着ける日々。
 オールドランドは、夫人の態度を一語で見事に言い当てたものだ。待っている。激動の日々のあと、夫人はあらゆる活動を他人にゆだね、ひたすら待っている。では、娘のほうは? 彼女はただ待つことに我慢できるような人ではない。彼女はあの奇妙な家でどんな役割を演じているのか? 伯父のナースを唯々諾々と務めているわけではないはずだ、と博士はにらんでいた。
 クラヴァートンの財産の問題、さらには、オールドランドの判断が正しいとすればだが、遺言書が最近変更されたことが、事態をひどく複雑にしている。クラヴァートンは、内意を他人に漏らすような男ではない。財産がどのように配分されるかは、間違いなく、彼自身と弁護士しか知らないことだ。だが、妹の処遇はともかくも、一族の権利をないがしろにするような男でもない。彼が死ねば、最も利益を受けそうなのは、リトルコート親子とアイヴァー・ダーンフォードだ。
 ダーンフォードがオールドランドに告げ口という予想外のことをしたのも、そう考えれば理解できる。伯父が遺言書の変更を検討していると嗅ぎつけたから、いとこの信用を失墜させようとしたわけだ。ヘレン・リトルコートが病院を首になったことはクラヴァートンにも話したに違いない。彼女が同居していることを危惧したのかも。自分を相続人にするよう、伯父を籠絡するかもしれないからな。
 確かに奇妙な状況だ。プリーストリー博士の興味をかき立てるには十分なほどに。しかし、博士にできることは、控え目な観察者でいることだけだった。クラヴァートンの問題に口をはさむのは、いさぎよしとするところではない。オールドランドの心配を真に受けるつもりもない。友人を毒殺しようとする試みが本当にあったとは、どうも信じがたい。遺言書の内容が明らかにならないかぎり、そんなことをしようと考える者もいないだろうという、オールドランドの意見にも一理ある。しかし、約束してしまったことだし、次の月曜の朝には、十三番地の家をもう一度訪ねるか。
 土日のあいだは、博士も手がふさがっていて、クラヴァートンのことを考えるひまはなかった。秘書のハロルド・メリフィールドが外出していたため、自分でやらなくてはいけないことがいつもより多かったからだ。つれづれに十三番地の家のことが思い浮かびはした。クラヴァートンが書物に囲まれて座っている姿。リトルコート夫人の謎めいた姿。薄明かりを背景に浮かび上がる、ばかにした顔つきの背の高い娘の姿。そんな人々の姿が博士の心におのずと浮かんだ。オールドランドも同じだったろう。しかし、彼らのことを思案しているひまもなかった。
 月曜の朝になると、十一時少し前に博士は出発した。今回はタクシーを拾った。できるだけ早く家に戻りたかったからだ。道中、訪ねる約束をしたことをちょっと後悔していた。リトルコート親子と顔をあわせる気にならなかったからだ。フォークナーには、自分の来訪をクラヴァートンに告げるまで玄関ホールで待たせてもらうことにしよう。あとは、滞在は極力短く切り上げることだ。
 クラヴァートンの話が終わったら、すぐ帰ろう。オールドランドの話を聞いてから、先週金曜のクラヴァートンの態度もまだ理解できるようになった。なにか重要なことを伝えたいようだな。それが手紙を送ってきた理由だ。オールドランドが来る数分前に、自分が来るとは思っていなかったのだ。だから、あんなどうでもいい話をしたんだな。水入らずで言いたいことを言う時間がなかったわけだ。今朝なら確かに話せるチャンスがあるだろう。
 車はボーマリス・プレイスに入っていき、十三番地の家の前で停まった。博士は、運転手に料金を払い、家の呼び鈴を鳴らした。ちっとも反応がないため、もう一度もどかしげに鳴らした。ようやくドアが開き、フォークナーが姿を見せた。プリーストリー博士だと分かると、ぎくりとし、妙に困ったような表情を浮かべた。いつもの無表情さとは打って変わった表情だった。
 執事が中に入れようとしないため、博士は眉をひそめた。「ジョン卿に会いたい。約束したんだよ」博士は断固とした口調で言った。
 「申し訳ございません」フォークナーはそう答えながら、そわそわした様子で顔をひきつらせた。「ジョン卿は、昨日の朝、亡くなられました」
 博士は驚愕し、いっぺんにいつもの落ち着きを失った。「亡くなった! なんてことだ、フォークナー。なにがあったのかね?」
 執事は、返答する前に、うしろの玄関ホールのほうをちらりと振り返ると、「突然のことだったのでございます。朝食の直後でした」とささやくように言った。「ジョン卿は、数週間前と同じ発作を起こされたのです。ミス・リトルコートの指示でミルヴァーリー先生を呼びにまいりましたが、先生が来られる前にジョン卿は亡くなっておいででした」執事はひと息つき、今度はやや大きめの声で話を続けた。「申し訳ございませんが、お約束のない方はどなたもお入れしてはならぬとの指示をいただいております。いらっしゃったことをミス・リトルコートにお伝えしてくれということでしたら・・・」
 「いや、いい!」プリーストリー博士は激しい口調で言った。博士は不意にドアに背を向けてうしろを振り返り、ボーマリス・プレイスをすばやく見まわした。博士を乗せてきたタクシーは、通りの突き当たりまで行って方向転換し、こっちに戻ってくるところだった。博士が手を振ると、そばに来て停まった。「最寄りの公衆電話までやってくれ」博士は運転手にぶすっと告げた。
 博士は、タクシーが電話ボックスに行くまでの数ヤードのあいだに心を決めていた。「ここで待っていてくれ」と言った。ボックスに入ると、スコットランド・ヤードに電話をかけ、ハンスリット警視がいるか尋ねた。運よく在室で、電話を警視につないでもらった。
 「君かね、警視?」博士は、ハンスリットの声が聞こえるとすぐそう言った。「ああ、私はすこぶる元気だよ。ありがとう。実は、至急、君の助言がほしいんだ。一時ちょうどに、ウェストボーン・テラスで昼食を一緒にどうかね?」
 「もちろんですよ、教授」とハンスリットは答えた。「いったいなにごとですかね? 私の所管にかかわることですか?」
 しかし、博士はすでに電話を切っていた。電話帳でオールドランドの番号を調べ、もう一度電話をかけた。メイドが電話に出た。いえ、オールドランド先生はまだ戻っておりません、ミルヴァーリー先生もお戻りを待ってらっしゃいますわ。ミルヴァーリー先生本人も往診に出かけてますが、一時半に戻ってらっしゃいます。その頃におかけ直しいただけませんか?
 タクシーでウェストボーン・テラスに戻る途中、博士は思考をめまぐるしく働かせた。オールドランドの心配は正しかったし、彼が不在のあいだにクラヴァートンは毒殺されたのだ。博士は、気まずい罪の意識を味わっていた。疑りすぎて、オールドランドの心配を軽くみるべきじゃなかった。せめて、こうなる前に、クラヴァートンの家に足を運んで話をするべきだった。彼はもはや死んでしまったじゃないか!
 突然、前回と同じ発作があって、とフォークナーは説明した。それが事実なら、死因を突き止めるのは難しくあるまい、と博士は険しい表情で考えていた。体内のヒ素を検出するのは、なにより簡単なことだ。ヒ素がなにを媒介して盛られたのかを突き止めるのも、さほど難しくはないはずだ。
 家に着くと、椅子に身を落ち着け、辛抱強くハンスリット警視が来るのを待った。プリーストリー博士のことを科学分野での名声を通じてしか知らない者なら、博士が犯罪捜査課の捜査官と親しいと知ったら当惑することだろう。しかし、彼らは古くからの友人だった。ずいぶん前のことだが、二人は一緒に、ある殺人事件の解決に関わった。こうして、ハンスリットはプリーストリー博士のひそかな趣味に気づいたのだった。教授は、科学上の問題を論理的に解決する精神的訓練を積んできたため、犯罪の解明に自分の能力を応用することに余暇を費やすのを好んだのだ。
 それ以来、ハンスリットは、捜査でぶつかった難問の多くを博士に相談し、おおむね自分にとっても満足のいく結果を得てきた。しかし、ほぼどんな事件でも、博士の関心は、自分が納得のいくように問題を解決できれば、それで終わりだった。犯罪者がそのあとどうなろうと、博士にはまったく関心の埒外だった。博士は謎解きをチェスのゲームと同じように楽しんでいた。ゲームで動く個々の駒には、つかの間の関心しかなかった。多くの人が興味をそそられることなら、博士だってまったく気にならないわけではなかった。しかし、ハンスリットが持ち込んでくる問題には、ことさら醒めた、感情を交えない態度をとっていた。博士自身、何度か言っていたことだが、そういう態度でいるからこそ、客観的な判断ができるのだった。
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