ジョン・ロード『クラヴァートン事件』第五章-1

第五章

 プリーストリー博士は、ウェストボーン・テラスに戻ったが、ハンスリットはほかに予定があったため、一緒には来なかった。弁護士と会う約束の時間まで、博士にはまだ一時間あった。
 すべての事実を手に入れるまでは、事件の考察はしないのが、博士の厳格なルールだった。探偵が犯す最大の過ちは、仮説を性急に組み立ててしまうことだというのが持論だった。仮説というものは、いったん組み立てると、思考を支配し、新たな事実が出てきても、それを仮説に合わせようとして事実のほうをゆがめてしまう傾向をどうしても生じることになる。唯一安全なプランは、個々の事実を可能なかぎり総合しようとする、とらわれない精神を常に保ち続けることだ。全体の結びつけがほぼ完成するまでは、どんな相手にも嫌疑をかけないのが賢明というものだ。
 ミルヴァーリーの説明からすると、オールドランドがヒ素の一件を彼に話さなかったのは明らかだ。しかし、クラヴァートンの死の状況はいかにも尋常ではなく、だから彼も死亡診断書の発行をためらったのだ。そんなことはおくびにも出さなかったが――彼の立場にしてみれば無理もない――、毒殺を疑っているのは間違いない。状況を知る者なら、誰しも犯罪が行われたことを疑わざるを得まい。
 しかし、プリーストリー博士は、さしあたりそれ以上踏み込もうとはしなかった。いずれ、犯人を突き止める作業に取りかからねばなるまい。だが、まだだ。検死解剖が終わり、警察が正式に事件を取り上げるまではだめだ。とはいえ、留意すべき重要な事実が一つある。クラヴァートンは、まずほかの者に味見させてからでないと、食べ物を口にしなかった。ヘレン・リトルコートがミルヴァーリーに言ったように、それはただの小うるささにすぎなかったのか? それとも、以前起きた発作の件でなにか感づいていたのだろうか? オールドランドの考えでも、感づいていたかもしれないという。
 そこまで来ると、プリーストリー博士はこの問題を努めて頭から追い払った。自分が取り組んでいた高邁な課題について、入念にメモを書きとめていくことに時間を費やしたからだ。四時十五分前になると、ベットフォード・ロウに向けて出発した。その道すがら、リズリントン氏が十三番地の家を訪ねてきた件について、オールドランドが話してくれたことを思い返していた。
 博士の来訪は弁護士の予定にすでに入っていて、すぐにオフィスに案内された。リズリントン氏は六十代で、髪は真っ白、ひげもきれいにそり上げ、鋭敏そうな顔つきをした男だった。しかし、目じりのしわには、ユーモアのセンスもあることが表れていたし、手紙の形式ばった言葉づかいとは妙にそぐわない、親しみのこもった話し方をする人だった。
 「こんなに早くお越しいただけるとはありがたいことです、プリーストリー博士」と彼は言った。「どうぞお座りになって、楽になさってください。クラヴァートンのことは残念でしたね。つい火曜に会ったばかりだし、その時はとても順調そうだったのに。あまりに突然でしたよ」
 「私も金曜の午後に訪ねたんだ」と博士は言った。「そのあと、オールドランド医師と話す機会があってね。彼の主治医だよ。私も、あんなに突然亡くなるとは予期していなかった」
 「おや、金曜に会われたんですか?」と弁護士は尋ねた。「クラヴァートンがあなたと話をしたがっていたのは知ってますよ。あなたに頼みたかった仕事のことは、きっともうお聞きになったんでしょうね?」
 プリーストリー博士はかぶりを振り、「会って話したときは、クラヴァートンの話はどうでもいいことばかりだったんだ」と答えた。「私の感触では、なにか言いたいことがあったようだが、ほかの客がじきに来る予定だったんで、タイミングがまずいと思ったようだ」
 「お見込みのとおりです。話したいことがあったんですよ。実を言いますと、あなたのような旧友に対してなら、私に対してよりも率直に話してくれるんじゃないかと期待してたんですがね。ところで、遺言書についてはなにも話しませんでしたか?」
 「その話はしなかったな。ただ、オールドランド医師の話だと、あなたの立ち会いのもとで、遺言書らしき文書に証人として署名させられたそうだが」
 「そのとおりです。さて、プリーストリー博士、この件についてはなにもご存じないとすると、まず私のほうからお話しさせていただくのがよさそうですね。あなたはクラヴァートンの昔からの友人とお聞きしておりますが?」
 「確かに、以前、非常に親しくしていたよ。だが、ここ数年は、あまり会う機会がなかった。ここ二十年ほどのことは、ほとんど知らんのだよ」
 「私も大差ありませんよ。初めてお会いしたのは、いとこのリヴァーズ夫人が亡くなったときのことでして。あれは一九一五年のことでした。彼が、ボーマリス・プレイスの家財も含めて、夫人から遺産相続したのは、もちろんご存じですよね?」
 「知っているよ。戦後になって最初に会ったときに、その話をしていたからね」
 「私はリヴァーズ夫人の顧問弁護士だったんです。それ以前は夫のほうの弁護士をしてました。言うまでもなく、夫人はクラヴァートン家の人間でした。私の知るかぎりじゃ、奇妙な一族ですよ。クラヴァートン家の連中はね。手に負えないほどではありませんけど。あるときはひどく頑固だったかと思うと、今度は、わけの分からない発想でぐらついたりしますからね。クラヴァートン本人もそうでしたよ。まあ、あなたのほうがよくご存じでしょうがね。あなただって、彼がばかげた迷信のとりこになるとは思ってもみなかったでしょう」
 「彼が迷信めいたことを信じていたとは知らなかったが」博士は穏やかに言った。
 「ボーマリス・プレイスから動こうとしなかったのは、まさに迷信のせいですよ。リヴァーズ夫人が彼にあの家に住んでほしいと望んでいたのは事実ですが、そのことを相続の条件にしたりはしなかったのに。私も知ってますが、夫人がそんな希望を伝えたことはありませんでした。ところが、あなたもご覧になったと思いますが、隣近所が消滅してしまっても、彼は動じませんでした。何度も申し上げたんですよ。開発が進んでいる今なら、古い地所もお高く売れますよ、ってね。でも、聞く耳を持ちませんでした。ここが性に合ってるんだ、といつも言ってましたよ。
 それから、半年ほど前のことですが、懸案が浮上してきたんです。向かいの家屋がすべて取り壊されたのはご覧になりましたね? あのあたりに建築を予定している業者が、区画全体をほしがっていたんですよ。クラヴァートンの地所も含めてね。実際、彼らはクラヴァートンに、あの家の資産価値のほぼ四倍の額を提示したんです。私からも提示を受けいれるよう極力説得したんですがね。まるで耳を貸しませんでした。引っ越してしまったら、二度と落ち着いた生活はできない気がすると言うんですよ。
 いかにもクラヴァートン家らしいこだわりでしてね。それと、取引を有利に進めようという思惑もあったんでしょうな。クラヴァートンも金の価値はよく分かってますよ。たぶん、あなたもご存知とは思いますがね。彼には言わずに、相手の当事者と話して、提示額を引き上げてもらうよう働きかけたんです。それから、新たな提示額を携えてクラヴァートンに会いに行きました。鼻もひっかけませんでしたよ。『むだだよ、リズリントン』と言いました。『死ぬまでここに住むつもりだ』ってね。私がなにを言っても馬耳東風でした。私としてもすっかりあきらめた気になっていたら、びっくりするようなことを口にしたんです」
 弁護士はひと息つき、デスクに置いてある物をちょっといじると、「きっと信じていただけないでしょうね」とまた話しはじめた。「この家は幸運をもたらすし、ここから出ていったら、その幸運から永久に見放されてしまうと言うんです。学識ある人がそんなばかげたことを言うのを聞いたことがありますか? でも、そんなのは序の口です。彼はいたってまじめにこう言ったんですよ。家の番地が十三でなかったらまた別だったんだが、ってね。冗談抜きにお尋ねしますが、こんな人をどう扱えばいいというんですか?」
 プリーストリー博士は苦笑すると、「私自身は迷信など信じない」と答えた。「だが、クラヴァートンの心情も分かるとは思うよ」
 「なら、あなたは私より洞察力があるわけだ」弁護士はぶすっと言った。「しかし、これはついでの話です。今の話からもお分かりと思いますが、クラヴァートンとは、彼がロンドンに住むようになってから、頻繁に会うようになりました。彼には顧問弁護士がいなかったようで、リヴァーズ夫人が亡くなったとき、私にその仕事を依頼してきたんです。さて、今回の遺言書の件なんですが、これこそご相談申し上げたかったことなんですよ。
 まずご説明申し上げますと、数年前のことですが、クラヴァートンから、諸々の書類の入った公文書箱を手渡されましてね。なかでも重要な文書が遺言書でしたが、二十年ほど前に作成したものでした。いずれにせよ、いとこの財産を相続する前で、そんなことを予想すらしていなかったときに作ったものです。実にシンプルな遺言書でした。要するに、全財産を妹のダーンフォード夫人に遺し、夫人が彼より先に亡くなった場合は、彼女の子孫に遺すというものでした。
 彼の資産状況が大きく変わったものですから、遺言書を変更する気があるか、その時にお聞きしたんです。そんなことを聞かれるのが煙たげな様子で、はっきりした返答は得られませんでした。妙な話ですがね、プリーストリー博士、明らかにやらなきゃいけない措置なのに、それを尻込みする人たちが多いんですよ。たぶん、死は確実に訪れるということを考えたくないんでしょうな。クラヴァートンもそんな心の準備はできてなかったんですな。そんな話はお迎えが近づいてきてからでいい、と言ってましたから。まだまだ長き春秋を送ると思っていたんですよ。
 三週間ほど前になるまで、それ以上の話はありませんでした。そしたら、その頃、彼に呼び出されましてね。病気だとは知ってましたが、たいしたことはないと聞いていたんです。ところが、お伺いすると、二、三日前にひどい発作に襲われたとのことで、いつまた襲ってくるか分からないと言うんです。新しい遺言書を作成する時期がきたとおっしゃいました。そしたら、その場ですぐ、指示を出しはじめたんです。
 その指示に基づいて遺言書の案を起草し、先日の火曜に正式に作成しました。そのときに、以前の遺言書を彼の立ち会いのもとで破棄しました。ただ、最初の遺言書がシンプルなものだったとすれば、新たに作成したものは、かなり奇妙な遺言書でした。彼の財産は、家を除いてすべて信託財産となります。プリーストリー博士、あなたと私がその受託者に指名されているのですよ」
 弁護士が相手を驚かせようとしたのだとすれば、確かに成功だった。「だが、リズリントンさん、それはあまりに常軌を逸しているよ!」博士は強い口調で言った。「クラヴァートンはそんな話は一切しなかった」
 「きっと金曜に話そうと思っていたのでしょう。その際に私から、あなたの了解は得たのかと聞いたら、そんな話をする機会がなかったと言ってましたから。ただ、あなたならきっと、その役割を引き受けてくれるはずだとはっきり言ってました。今頃になってなんですが、彼の遺志を受け入れていただけますか?」
 プリーストリー博士は眉をひそめた。法律上の問題に巻き込まれるのは、なんであれ、好ましくないことだったからだ。しかし、感傷的かもしれないが、相手への気遣いのほうが気持ちの上でまさった。友人の人生最後の日々を素知らぬ顔で過ごしてしまったという思いがあった。オールドランドの不安を真剣に考えてやらなかったという、うしろめたい気持ちもあった。今の自分にできるせめてものことは、クラヴァートンがゆだねてきた役割を引き受けることだ。
 「受託者の役目はお引き受けするよ」博士はしばらく考えたあと、重々しくそう言った。
 「そうおっしゃっていただき、安堵いたしました」と弁護士は言った。「私以上にクラヴァートンのことをご存じの方に共同で役目を担っていただけるのなら、とても心強いですよ。申し添えますと、彼も、なんの報酬もなしにご労苦を求めるつもりはありませんでした。遺言書では、蔵書を私たち二人に分与するとしています。私たちがいずれも書物に関心があることを知っていたんですよ、プリーストリー博士」
 「温かい心遣いだ。だが、私は受託者の仕事をよく知らない。クラヴァートンの財産に関して、私たちはなにをするのかね?」
 「一定期間、財産を信託のもとに管理するだけですよ。そのあいだ、利子から一定の支払いをすることです。主たる受益者はメアリ・ジョーン・アーチャーという人です。まだ未成年だと思いましたが?」
 弁護士は、プリーストリー博士ならその娘の名もよく知ってるだろうとばかりに、当たり前のごとく質問してきた。しかし、博士はかぶりを振り、「そのことはなにも知らんね」と答えた。「いくら思い返しても、そんな娘の名に心当たりはないよ」
 リズリントン氏は不思議そうに博士のほうを見ると、「クラヴァートンは彼女のことをお話ししなかったんですか? 母親のアーチャー夫人のことも?」と尋ねた。
 「彼の口からそんな名を聞いた憶えはないね」
 「ということは、私たちはどっちも同じ状況ということですな、プリーストリー博士。あなたなら、彼らのこともご存じだと思ってたんですがね。最初の遺言書では、この親子にはなにも触れてなかったんですよ。彼らのことは、先日、クラヴァートンが遺言書の指示をしたときにはじめて聞いたんです。アーチャー夫人の住所は、マートンベリーのウィロウズ荘です。たまたま知ってるんですが、マートンベリーは、ヨークシャーのノース・ライディングにある小さな町ですよ。なにか思い当たる節はありますか?」
 博士はまたもや首を振り、「まったくなにも」と答えた。「クラヴァートンがヨークシャーに関わりがあったなんて知らないね。もちろん、戦時中にイングランド北部で役職を得ていたのは知っているがね。もっと詳しい情報はないのかね?」
 「ありません。メアリ・アーチャーは親戚の方か、と思い切って尋ねてもみたんですよ。そしたら、アーチャー夫人は旧友だと答えると、とたんに話題を変えてしまったんです。この予想外の遺贈の背景には、若い頃のロマンスでもあるんじゃないかとも思ってるんですがね。もちろん、クラヴァートンらしからざることですよ。もっとも、十三番地の家に対するばかげたこだわりにしたってそうですがね。もしかすると、アーチャー夫人はかつての愛人で、けっきょく誰か別の人と結婚したとかじゃないですかね?」
 「かもしれんね。私にはなんとも言えないよ。言えるのはせいぜい、彼と戦前に親しくしていた頃は、彼は明らかに女性とつきあうのを避けていたというぐらいのことさ」
 「失望からくる反動かもしれませんな。珍しいことじゃありませんよ。まあ、いずれ分かります。アーチャー夫人には手紙を書いて、クラヴァートンの逝去を知らせましたが、返事が来るにはまだ間があるはずです。それより、クラヴァートンの遺言書の内容をご説明しましょう。
 受託者が管理をゆだねられる財産は、額面価格が十万ポンドを超える有価証券からなり、現在も年約四千ポンドの収入をもたらしています。この収入の処分については、こうです。まず、年二千ポンドが、アーチャー夫人に、娘が成人するまでのあいだ支払われます。そのあと、年千ポンドがアーチャー夫人に支払われるほか、千ポンドが娘に、二十五歳になるまでのあいだ支払われます。年五百ポンドがアイヴァー・ダーンフォードに支払われ、二百ポンドがミス・ヘレン・リトルコートに支払われます。残余財産は、一定の割合で各慈善団体に贈られます。そのリストは私が持っています」
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