ジョン・ロード『クラヴァートン事件』第六章-2

 「では、私になにも言うなということかね?」
 「率直に言えば、そういうことだ。つまりはだな、君というか、直接かかわった証人ということなら、オールドランド医師ということだが、彼には、クラヴァートンを毒殺しようとして失敗に終わった試みがあったと示唆することしかできない。それも、数週間後に、まったく違う死因で亡くなった人物に関してね。どんな証拠を提示できるというのかね? 有力な証拠はなにもない。オールドランドは、サンプルの検査結果について宣誓証言することはできる。だが、それらの検査は、法的な手順も踏まずに行われたものだ。
 それに、ヒ素を盛った者が誰にせよ、実に巧妙にやってのけたと、君も思ってるんじゃないか。明白な犯行の手がかりも残していないから、何週間も経った今では、誰がやったかも分からない。警察には誰かを逮捕できるほどの根拠もないし、仮に逮捕したところで、そいつは確実に無罪放免だ。告発の根拠としてこんな貧弱な証拠しか出せないのではね。いやいや、プリーストリー博士、頭冷やして考えてみれば、君だってなにもできないことは分かるはずだ。もちろん、強力な動機という証拠でも示せるのなら、また別だがね。それなら、この件も違った様子を帯びてくるさ」
 「動機か!」と博士は声を上げた。「動機こそ、今晩ずっと悩み続けていた問題なんだ。クラヴァートンの殺害をもくろむ者の動機とくれば、彼の死により財産を相続することしか考えられない。たまたま今日の午後、彼の遺言書の内容を教えてもらったんだよ。かなりの財産を遺したんだが、遺言により一番利益を受けるのは、ヒ素を盛る機会のあった人たちではないんだ」
 「なら、これでこの問題は決着だよ。プリーストリー、私なら、オールドランド医師の話などきれいに忘れてしまうよ。どんな男かは知らないし、名誉を傷つけるようなことも言いたくはない。事実じゃないとしたら、そんな仰天させる話をして、なんの目的があるのかも分からん。だが、どのみち、ちょっと信じがたい話だとは思わんかね?」
 「確かに尋常ならざる話だし、正直言えば、私もその時は、オールドランド自身が思っているほど重大な話とは思わなかった。だが、クラヴァートンの急逝とくれば、重要性を帯びてくるのも当然だよ」
 「それで、二度目の同じ試みが死をもたらしたという結論に飛びついたわけかね。君の立場は分かるよ、プリーストリー。クラヴァートンは君の旧友だったが、私にとっては赤の他人でしかない。君とすれば、当然ながら、彼の死が犯罪によるものだという可能性を徹底的に追及してみたいわけだ。明日、君の立ち会いのもとで、すでに実施した検査をもう一度やって、最終的な検査も実施するよ。
 それで君が得心すれば、それ以上言うことはないし、オールドランドの話だって忘れてしまうこともできるさ。その時であれ、いつであれ、クラヴァートンを毒殺しようとする試みがあったとは、私には信じられない。彼は自分の家に起居していたし、一族の者に看護してもらっていたわけだ。まさか、彼に恨みのある料理人が、自分の一存でヒ素を盛ったと言うつもりはないだろ?」
 「それはあるまい。だが、家にいた一族の者たちというのは、実に変わった連中なんだ」
 フェイヴァーシャムは、グラスを明かりにかざし、答えを返す前に、ゆっくりと中身をすすった。「ほう、そうなのかね? なあ、プリーストリー、我々も歳をとって頭が固くなってくると、人生を自分とは違う見方で見る人たちのことを、みな変わった連中と決めつけがちになるものだ。君の判断を疑っているとは思わんでくれ。十分に尊重しているつもりだよ。その連中が変わっていると君が思うのなら、そのとおりなんだろう。きっと私にも同じように見えることだろうな。だが、だからというので、その連中が意図的に殺人を試みたとみなす根拠になるのかね?」
 プリーストリー博士は苦笑した。自分が意図した以上に、フェイヴァーシャムに自分の考えを深読みさせてしまったと気づいた。「もちろん、そんなことにはならないさ」博士はすぐさま答えた。「クラヴァートンの死は私には大きなショックだったし、そのせいで、なんでもないことを大げさに勘繰ってしまったのかもな。どうやら、もっと楽しい話題に切り替えたほうがよさそうだね」
 二人はしばらくよもやま話を続けた。どちらもクラヴァートンにまつわる話はそれ以上しなかったが、博士にはその問題を頭から追い払うことはできなかった。フェイヴァーシャムは十二時を回るとすぐ帰り、プリーストリー博士は一人、むなしい推測をめぐらして眠れぬ夜を過ごした。
 翌朝、朝食をとってすぐ、フェイヴァーシャムの実験室に赴くと、準備は万端整っていた。「すぐに取り掛かろう」フェイヴァーシャムはきびきびと言った。「君が見ている前でヒ素の検査をもう一度やるよ。まずラインシュ検査からだ。一番信頼のおける検査だからね。この瓶には、検査対象の試料が入っている。さあ、はじめるぞ」彼は、ありきたりな科学実験用のフラスコを取り上げ、瓶の中身を少しばかり注ぐと、濃塩酸をごく少量加えた。次に、一巻きの輝銅箔から二片切り取り、フラスコの中に入れると、ブンゼン式バーナーをまたいで置いた台の上に載せた。
 「しばらくこのままにしておく」と彼は言った。「沸騰させるあいだに、ほかの毒物の最終検査にとりかかろう」
 プリーストリー博士は、彼が試験管や実験室のいろんな複雑な器具をいじる様子を見ていた。フェイヴァーシャムは、科学に人生を捧げてきた専門家らしく立ち働いた。彼はずっと無言のままだった。あらゆる注意を現在の作業に集中させていたからだ。自らも科学者であるプリーストリー博士は、羨望も混じった賞賛の念を抱きながら、彼の作業を見守っていた。理論は進歩の前提ではあるが、それが人類にとって有用なものとなるためには、フェイヴァーシャムのような人物の手で、実行に移される必要があると実感した。
 妙なことに、科学を実行面で応用することは、博士には興味のないことだった。博士は基本的に理論家であり、他人が観察によって出した結果を推理の前提として用いるのが常だった。博士の能力は、一見バラバラの事実を集約し、隠れた相互のつながりを見つけ出して、それを一本のロープにまで紡ぎ上げ、これを使って、未踏の高みにまで上れるようにする能力だった。
 博士は、フェイヴァーシャムの素早く手際のいい作業を観察しながら、そう実感するところがあった。この偉大なる病理学者は、事実の確認以外になにをやるというのか? これは彼の仕事であり、全身全霊を傾けていた。しかし、確認が終わったとき、どんな事実が明らかになるというのか? それだけで決定的な事実となるのか? プリーストリー博士が思考のなかで組み立てた複雑な構想全体を一撃のもとに打ち壊すような事実なのか?
 確かに、その事実は、全体像が明らかになるまで、しかるべき場所に当てはめ、他の事実と関係づけるべき一つの手がかりではあった。実験室は、そこにある立派な器具とともに、博士の目の前から姿を消し、一瞬だけ、十三番地の客間の光景が目に浮かんだ。またもや、不可解な作業でたゆみなく動く指と、その指が紡ぎだす厚い編み物のひだが思い浮んだ。その図柄はまだ不明確だが、いずれ明らかになることだろう。
 博士は、あてどなくさまよう想念を振り払い、フェィヴァーシャムの実験に目を向けた。この病理学者は、いつものように、一連の複雑な作業が終わると、期待する様子で試験管を手にとる。その中には、捜査を決定づけるものが入っているのだ。フェイヴァーシャムは試験管を明かりにかざし、細心の注意を払って、事前に用意してあった試薬をほんの一滴垂らす。少しおいてから、試験管をわきに置くと、デスクに歩み寄って、置いてあるリストにチェックを入れる。
 リストは、該当項目が減るごとに余白が少なくなっていき、とうとう最後の項目だけになった。フェイヴァーシャムは、博士のほうを向くと、「ヒ素以外の毒物は存在しない」と言った。「ラインシュ検査の頃会いを確かめてみよう。一時間は沸騰させたからね」
 プリーストリー博士は、フラスコから銅箔片を取り出す様子をじっと観察した。銅箔片は輝きを失い、かすかに色が鈍くなっていた。フェイヴァーシャムは無言のまま、その銅箔片を博士に差し出して見せた。その試験の手順は、博士もよく知っていた。色が鈍くなったからといって、ヒ素の存在を示すとは限らない。検査はまだ最終段階に至っていなかった。
 フェイヴァーシャムは、それまでと同じ素早い手際の良さで、銅箔片を蒸留水、アルコール、エーテルの順で洗浄していった。化学的に洗浄が完了したことに納得すると、二、三枚の濾紙の上に置いて丁寧に乾燥させた。次に、棚から平底試験管を一つ取ってくると、そのなかに箔片を入れた。「さあ、見てみよう」彼は手短にそう言った。
 彼は試験管の末端をバーナーの炎の先端にかざした。プリーストリー博士は、身を乗り出してじっと観察した。最終局面に至ったのだ。黒い輪が試験管の冷たい部分に現れれば、銅の曇りはヒ素によって生じたものだ。試験管を持つフェイヴァーシャムの手にはなんの揺るぎもなかった。満足の笑みが顔全体にゆっくりと広がった。銅箔の色は不変であり、試験管の内側にも、ヒ素を示す輪はまったく現れなかった。
 フェイヴァーシャムは、試験管の末端をもうしばらく炎にかざし続けると、元に戻した。「結果はシロだよ。ほかの検査と同じくね」と彼は言った。「これで納得したかね? それとも、マーシュ検査もやってみるかね?」
 プリーストリー博士は首を横に振った。クラヴァートンの死にヒ素が関与していないことははっきりした。
 「どの検査の結果も同じだよ」とフェイヴァーシャムは言った。「考えられる毒物や複数の毒物の組み合わせも、すべて検査してみた。だが、いずれも結果はシロだ。君がなにを疑っていたか知らんが、クラヴァートンが毒殺されたのでないのは確実だよ」
 「この結果は検死官に報告するんだろうね?」と博士は尋ねた。
 「もちろんだ」フェイヴァーシャムはきっぱりと答えた。「検査の概要をまとめて報告する。クラヴァートンの死因は自然に生じた胃壁の穿孔によるものと確認したとね。昨夜も言ったように、症例としてはちょっと珍しいが、結果はご覧のとおりで、受け入れるしかない。君自身見たとおりだよ」
 プリーストリー博士はうなずいた。厳格な判断をする博士にとっても、事実ははっきりしたのだった。
スポンサーサイト

テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

S・フチガミ

Author:S・フチガミ
お問い合わせ等は
fuhchin6491
(アットマーク)
hotmail.co.jp
へどうぞ

カテゴリ
フリーエリア
天気予報
リンク
検索フォーム
アクセスカウンター
RSSリンクの表示