ジョン・ロード『クラヴァートン事件』第七章-2

 プリーストリー博士はうなずいた。自分もこの謎に満ちた二人に会ってみたかった。しかし、博士が一番残念だったのは、クラヴァートンの親族たちがいるところで二人に会えなかったことだ。それができれば、いろいろと分かったこともあったろうに。
 車はボーマリス・プレイスに入り、十三番地の家の前で停まった。プリーストリー博士には、その場所はいっそう陰鬱に見えた。霧雨が降り続き、日中だというのに、ロンドンには、薄暗さが重苦しく垂れこめていたからだ。オーク材の羽目板張りと重々しい調度を備えた玄関ホールは、地下洞窟のように寒々とした暗さに包まれていた。
 リズリントンは、そんな気配に触れて身震いした。「こんまがまがしい雰囲気の家なんてありますかね?」フォークナーのあとについて階段を上がりながらささやいた。「こんなところには絶対に住みたくありませんな。なんというか・・・」
 その言葉が終らぬうちに、フォークナーが客間のドアを大きく開けた。プリーストリー博士が中に入ると、部屋がにわかに身近なものに感じられた。まるで以前からずっと知っていたかのように。六日前にほんのわずかそこにいただけだが、それ以来なにも変わっていなかった。そのときと同じように、火の気のない暖炉が博士を見つめ返していた。堅苦しくしつらえられた、無愛想な調度も同様だった。驚いたことに、リトルコート夫人も隅のソファの同じ場所に座っていた。
 驚いたというのは、墓のそばで黙とうする夫人の姿を博士は見ていたからだ。夫人は博士よりほんの数分前に家に入ったはずだ。ところが、夫人はいつのまにかコートと帽子を脱ぎ、再びいつもの場所に座っていた。まるで兄の死という些細な出来事のせいでほんのいっとき妨げられただけのように。黒っぽい屍衣のような編み物が、夫人のひざから厚いひだになって垂れていた。鉄灰色の髪をした頭が、前後にせわしなく動く編み針のほうにかがみこんでいた。
 娘のほうは、プリーストリー博士と弁護士が部屋に入ってくると、近づいてきてあいさつした。博士に対する彼女の態度には、なんとなく変化が見られた。無愛想でつっけんどんな態度は消え、にっこりしながら、伯父の葬儀に参列してくれたことに謝意を述べさえした。そんな彼女ははじめて見た。長身で肌は浅黒く、世の中を憎んでいるかのようでいながら、えもいわれぬ美しさをたたえた顔。その顔を半ば隠している、ひそやかなヴェールのような髪。博士は内心、実に目を引く娘だと思った。
 アイヴァー・ダーンフォードは彼らに背を向けて、ガラス戸付きのキャビネットに陳列してある陶磁器のコレクションをむっつりと眺めていた。博士がちらりと見た横顔からすると、ひどく退屈している様子だった。ポケットに手を突っ込み、懐中時計を引っ張り出すと、眉をひそめながら時間を確かめた。すると、ほとんど振り返ろうともせず、うんざりしたように横柄な口調でこう言った。「僕がキングス・クロス駅から二時十分発の列車に乗らなきゃいけないのは知ってるだろ、ヘレン?」
 一瞬、場が気まずくなった。ただの錯覚かもしれないが、博士には、リトルコート夫人の指の動きがかすかに乱れたように思えた。娘のほうは、リズリントン氏をちらりと見ると、今度はプリーストリー博士のほうを問いただすように見つめた。
 博士はすぐに、部屋に漂う緊張感を感じとった。蝋人形の集団の中にいるような気がした。一言発すれば、命を吹き込まれて動きだしそうな人形たちだ。自己抑制が強すぎて、人間らしさをことごとく失ってしまった人たち。無表情な顔に隠れて、これから何が起こるのか、先を読もうとする焦燥感にとらわれている。博士はそのとき、彼らの誰も遺言書の内容をまったく知らないのだと悟った。
 リズリントンは、ヘレン・リトルコートが博士をじっと見ている様子に気づいたに違いない。自分が来た理由を慌てて説明しはじめたからだ。弁護士は携えてきたアタッシェ・ケースを取り上げ、咳払いをした。「ダーンフォード氏には乗る列車があるそうですので、さっそく、ジョン・クラヴァートン卿の遺言書を公表させていただきたいと思います」と彼は言った。「追ってご説明しますが、遺産は遺言書に従って信託財産とされ、プリーストリー博士が受託者の一人として指名されています。博士にはその役割を快くお引き受けいただきましたので、皆さんも博士に立ち会っていただくことにご異存はないものと思います」
 少し声を大きくすると、話しながらリトルコート夫人のほうを見据えた。しかし、夫人は編み物に頭をかがめたまま、なにも聞こえていないようだった。娘が母親に代わって返答した。「母は耳が遠いんですよ、リズリントンさん。私が母のそばに座って、あなたのおっしゃることを伝えますわ。ほかの方が話されるより、そのほうが母も分かるはずです」彼女は部屋を横切り、ソファに腰かけて、母親の肩に手を置いた。「リズリントンさんがジョン伯父さんの遺言書を発表なさるそうよ」彼女は、低く絞り出すような声で話した。
 リトルコート夫人は娘の言葉を理解したようだった。うなずいて、編み物を横に置いたからだ。夫人ははじめて顔を上げたが、博士は彼女が色付きのめがねをかけているのに気づいた。夫人の目はめがねに隠れて見えなかった。葬儀の際にはかけていなかったものだ。おそらく、屋内にいるときだけかけるのだろう。しかし、その効果たるや、仮面をつけているようなもので、彼女の無表情な顔をさらに真意の読めないものにしていた。
 リズリントン氏は肘掛椅子に座り、アタッシェ・ケースをひざの上で開いた。アイヴァー・ダーンフォードは図々しく、部屋をのしのしと横切って暖炉のそばに陣取り、マントルピースの上に肘をついた。プリーストリー博士は、傍観者の立場だったことから、一番隅っこの椅子に座り、部屋の中を見渡せるようにした。
 弁護士はもう一度咳払いをすると、「これから公表する遺言書は、ごく最近に作成されたものです」と話しはじめた。「過去に作成された遺言書やその補足書があっても、それらはすべて無効となります。ここにある遺言書は、ジョン・クラヴァートン卿がほぼ一週間前の十月九日火曜日に署名したものであり、シドニー・オールドランドとジェームズ・フィッシュが証人として署名しております」
 リトルコート夫人の頭が再び前に垂れ、博士には、すでに見慣れた鉄灰色の髪しか見えなくなった。ただ、娘の目が一瞬きらりと光り、いとこと目配せをした。それは了解のしるしというより、挑みかかり、勝ち誇るかのような眼差しだった。伯父の好意を得るべく競いあった結果、新しい遺言書が作成されたことに、自分の勝利の証しを見出したようだった。
 弁護士はひと息ついてから話を続けた。「それでは、遺言書の項目を読み上げます。まず、当然の遺贈について申し上げます。最初に、フォークナーですが・・・」
 弁護士が抑揚のない声で話しだすと、ソファに座る娘は緊張した様子を見せはじめた。フォークナーに五百ポンド、「私の死亡時になお奉仕してくれていた場合には」料理人に百ポンドなどという、つまらぬ話には興味がなかったからだ。いつまで経っても弁護士が肝心の点に触れようとしないと思っていたに違いない。そのあいだ、彼女はソファの革張りをそわそわといじり、ほとんど暴力的な強さでひねったり、つねったりした。
 しかし、彼女の集中力は一瞬たりとも揺るがなかった。息をひそめて弁護士の言葉に聞き入っていたが、まるで大事な文章の出だしを聞き逃すまいと気を張っているようだった。その文章で、終生貧困となるか、待ち望んできた富を得るかが決まるからだ。母親のほうは編み物の手を休め、ひざの上にゆったりと載せていた。夫人は身を固くして身じろぎもせず座っていた。指が動きを止めると、まるで体全体から生命も活力も消えてしまったかのようだった。話の内容を彼女が聞き取れているかどうかは分からなかった。博士は、娘が通訳しようとはしていないのに気づいた。
 リズリントンは、ようやく少額贈与の最後まで読み上げた。「次に、プリーストリー博士と私自身についての項目があります」と続けた。「ジョン卿は、図書室の蔵書を私たち二人の共有として贈与し、どう分け合うかは私たちで決めてよいとしています。私としては、これらの蔵書の中に、ご一族の方々にとって思い入れのある本があれば、喜んでお譲りしたいと思いますし、プリーストリー博士も賛同してくださるでしょう。蔵書を別にすれば、この家と家財一式は、すべてリトルコート夫人に贈与されます」
 アイヴァー・ダーンフォードは皮肉たっぷりに笑みを浮かべたが、いとこの目を引こうとはしなかった。明らかに、十三番地の家が叔母の所有になろうとどうでもいいと思っていたのだ。ヘレン・リトルコートの目が一瞬きらめき、母親のほうに身を乗り出した。「この家と家具類はお母様のものよ」彼女はゆっくりと明瞭に話した。
 リトルコート夫人は頭を上げたが、目はやはり仮面のようなめがねに隠れて見えなかった。夫人の唇が動き、なにかしゃべろうとしたが、娘は肘で強くつつき、「リズリントンさんの話はまだ終わってないわ」と注意を促した。
 弁護士は話を中断した。「リトルコート夫人がなにかおっしゃりたいのでしたら・・・」と言いかけたが、ヘレン・リトルコートが押しとどめた。「けっこうです。あなたの話が終わるまで、母は待ちますわ」ちょっと考えてから、意地悪く付け加えた。「アイヴァーには列車の時間があることも忘れてはいけませんし」
 リズリントン氏は眉をひそめた。むろん急かされるつもりはなかったからだ。「この時点では、まだ説明すべきことがかなり残っています」と言った。「今申し上げたように、ジョン卿の遺言書では財産を信託とするとしています。これまで述べた遺贈を別にすれば、残りの財産はすべてその対象となります。財産信託に伴う条件を簡潔に申し上げることとしましょう」
 弁護士は、財産信託、受託者の義務、法に基づく信託の制約について、退屈でダラダラした説明をしはじめた。ヘレン・リトルコートは苛立ちを隠しきれなかった。彼女の指は、いじっていたクッションのカバーに穴をあけてしまっていたし、半ば無意識にその穴を広げはじめていた。リトルコート夫人は細い腕を伸ばし、静かにそのクッションを娘から取り上げた。夫人は紛れもなく、それが今は彼女の財産であり、傷つけるのは惜しいと考えていたのだ。
 ダーンフォード青年も神経をとがらせはじめていた。細長い指でマントルピースの冷たい大理石を叩きながら、不気味な音を奏ではじめた。いとこと同じく、じっと辛抱しながら自制していたのだ。プリーストリー博士は、彼らが真実を知ったら、どうなるだろうかと本当に心配になりはじめた。確かに、これほど感情を長く押さえつけられては、これまでの確執をさらけ出すような修羅場と化してしまうのではないだろうか。
 すると、そのまま間も置かず、リズリントンは遺言書の核心に入っていった。「財産信託の意味についてご説明しましたので、その適用対象について申し上げます。ジョン卿の残余財産は、現時点で年間約四千ポンドの収入を生み出していると見積もられています。『この収入については、年二千ポンドをミュリエル・アーチャー夫人に、年五百ポンドを甥のアイヴァー・ダーンフォードに、年二百ポンドを姪のヘレン・リトルコートに、残余を指定する慈善団体に支払うよう、受託者に求める』」
 弁護士が言葉を切ると、奇妙な息をのむ音がソファのほうから聞こえた。一瞬、しんと静まった。まるで、聴き入っていた者たちが突如耳が聞こえなくなったかのようだった。ヘレン・リトルコートが口を開こうとしたが、母親の手が鳥の爪のように娘の手をつかんだ。アイヴァー・ダーンフォードは、リズリントン氏のほうにゆっくりと顔を向けた。博士が見ると、信じられないとばかりにポカンと目をみはっていた。しかし、なんとか自制し、声だけかすかに震わせながら話しはじめた。「伯父の財産の半分を相続する、その女性は誰ですか?」と彼は尋ねた。
 これは明らかに弁護士が予想していた質問ではなかったが、「ミス・リトルコートか夫人ならご存じかもしれませんよ、ダーンフォードさん」と巧みに応答した。
 水を向けられたヘレン・リトルコートは、激しく部屋の中を見回したが、まるで、その見知らぬ女性が部屋の薄暗い片隅からいきなり姿を現すとでも思っているようだった。「ミュリエル・アーチャーですって?」彼女はゆっくりと心もとなげに言った。「知りませんわ。母も私も、そんな人の名は聞いたことがありません」
 リトルコート夫人は娘の言葉をどうにか理解したようだった。激しくうなずいたかと思うと、再び元の不動の状態に戻ったからだ。
 リズリントン氏は、プリーストリー博士のほうをちらりと見ると、てきぱきと話を再開した。「アーチャー夫人は、遺言書の中で、『マートンベリーのウィロウズ荘』に在住とされています。間違いなく、ジョン卿の親しい旧友と思われます。娘さんのメアリ・ジョーン・アーチャーも遺言書で触れられています。といいますか、財産信託は、ミス・アーチャーが二十五歳に達した時点で終了します。その時点で、信託財産は十等分されて、分配されます。アーチャー親子がその五割を受け取ります。残余については、ダーンフォード氏が一割を、ミス・リトルコートが一割を受け取り、あとの三割は、指定された慈善団体に配分されます」
 弁護士は重々しく言葉を切ると、説明を続けた。「しかし、一定の条件のもとで、配分の仕方が変更になるという項目があります。読み上げますよ。『上記の日までに、甥のアイヴァー・ダーンフォードが上記メアリ・ジョーン・アーチャーと結婚し、離別していない場合には、受託者は、財産の残り三割を、上記慈善団体にではなく、アイヴァー・ダーンフォードに移譲するものとする』」
 アイヴァー・ダーンフォードは、短く不快げな笑い声を上げると、「こんなばかな話は聞いたことがない!」と強い口調で言った。「ジョン伯父さんの病は、体だけじゃなく、心にもあったようだな。これですべてなんだろ、リズリントン?」
 「いくつか付加的な項目が・・・」と弁護士が言いかけたが、ダーンフォードはくるりと背を向けた。
 「そんなものを聞いてる暇はないよ」と言うと、ソファのほうにつかつかと歩み寄り、リトルコート夫人の目の前に立った。
 「この家を維持してかなきゃならんようだね、クララ叔母さん」と激しい声で言うと、周囲に目もくれずに、陽気そうに気取って部屋から出て行った。
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