ジョン・ロード『クラヴァートン事件』第八章-2

 翌朝、博士は行動を起こすことにした。リトルコート親子の問題は後回しにできるし、その気になれば、リズリントンを通じていつでも連絡をとれる。オールドランドは、まだ二、三日は戻ってきそうにない。成果を見込んでちょっとした行動を起こす時間ぐらいはある。
 こうして、博士は早朝の列車に乗り、午後にはマートンベリーにいた。市の立つ小さな町で、ヨークシャーの工業地帯からも遠く、丘陵に囲まれたところだった。まず、ブラック・ブルというホテルに部屋をとった。そこが町にある一番いいホテルのようだった。ウィロウズ荘への道をホテルのポーターに尋ねてみた。
 ポーターは頭をかいた。「ウィロウズ荘ですって? アーチャー夫人のお宅ですかね? リッチモンド・ロードに住んでいる後家さんですね?」
 では、アーチャー夫人は後家さんだったのか。いい情報を得たものだ。「そう、その家だよ」と博士は答えた。
 「それなら、すぐ見つけられますよ。市場広場をまっすぐ横切って、ハイ・ストリートを行けば、郵便局があります。そこで右に曲がれば、リッチモンド・ロードに出ます。そのまままっすぐ行けば、救貧院がありますから、アーチャー夫人の家はその隣ですよ」
 博士は礼を言うと、さっそく出かけた。ポーターの説明どおりに行くと、十分ほどで救貧院に来た。その隣には見栄えのする小さな家があり、よく手入れされた庭をはさんで建っていたため、すぐに目にとまった。ここがウィロウズ荘に違いない。博士はのしのしと私道に入っていき、呼び鈴を鳴らした。
 小柄なメイドがドアを開けた。見知らぬ紳士を前にして、おそるおそる尋ねるような目つきで博士を見つめた。ともあれ、メイドは博士の問いに、リトルコート夫人は在宅だと答えると、調度はきちんと整っているが、まわりは散らかった感じがする質素な客間に案内した。それから、来客の名前も確かめずに、女主人を探しに出て行った。
 博士は、そのあいだに周囲をざっと見まわした。部屋には写真があり、なかでも、海軍将校の制服を着た、まだ若そうな男の写真が二、三枚、目を引いた。しかし、それ以上探るひまはなかった。そこに一人残されたのは一分足らずであり、ドアが開いて、女性が部屋に入ってきたからだ。
 ほんの二、三秒、二人は黙って向き合ったままだった。アーチャー夫人は四十代、中背で、まだ若々しい体つきをした女性だった。はっきり美しいというわけではないが、よく整った目鼻立ちで、優れて魅力的な女性だ。若い頃には、とても魅力的な娘だったはずだ、と博士は思った。しかし、博士の注意を引いたのは彼女の表情だった。そのグレーの目には、恐れつつも挑むような奇妙な雰囲気があり、博士はまごつかされた。
 「私にご用ですか?」夫人は、丁重ながらも突き放すような口調で言った。
 「少しお話ししたいことがあってお伺いしたのです、アーチャーさん。私はプリーストリーと申します。友人の・・・」
 しかし、夫人は、博士の言葉をさえぎるように、「プリーストリー博士ではありませんか!」と声を上げた。「まあ、お目にかかれてうれしいですわ! ここまでお越し下さるなんて。どうぞお座りください。ちょっとお待ちくださいね。話の邪魔に入らないよう、ベアトリスに申しつけてきますから」
 博士がドアを開けて差し上げるいとまもなく、彼女は文字どおり部屋から飛び出していった。どうやら、葬儀出席の支障となった病気は完全に治ったようだと博士は思った。夫人はすぐに、息を切らし、顔を上気させながら戻ってきた。
 「お噂はジョン卿からよく聞きましたわ、プリーストリー博士。昔なじみだそうですわね」と言った。「あなたが受託者の一人だとお聞きして、ほっとしましたの。見ず知らずの方に物事をゆだねるわけじゃないと思いましてね。もちろん、あなたがジョン卿の一番古い友人の一人だということは存じてますわ。臨終を看取られたんでしょ?」
 「それは無理でした。亡くなる二日前に会いましたがね。ご存知のとおり、亡くなったのは突然でしたから」
 夫人は悲しげに首を横に振り、「なにも知りませんの」と言った。「リズリントンさんからのお手紙で、あの方が亡くなったと知らされたときは、さすがにショックでしたわ。もちろん、ご病気なのは存じておりました。数週間前、ご自分でも手紙でそう知らせてこられましたから。でも、お医者さまからは、たいしたことはないと言われたという話だったんです。どうしてそんなことになったのか、教えていただけますか?」
 プリーストリー博士は思った。それこそまさに、答えることができたらと思う質問だ。「病状は突然悪化して急死したのです」と彼は答えた。「発作が起きてから一時間足らずで亡くなったのですよ。知らせを受けたときは、あなたと同様、ひどく驚いたものです」
 「本当に亡くなられたなんて信じられません」夫人は、ほとんどささやき声のように言った。「もともと、死ぬなんて想像もつかないような人でしたわ。一緒におりました頃は、まるで病気知らずの人でしたのに」
 博士は、この言葉をとらえるのが好機だと思い、「彼のことをよくご存じのようですね、アーチャーさん?」と尋ねた。
 彼女は一瞬、博士を見つめると、またもや、挑むような表情が彼女の目に表れた。「あら、もちろんですわ!」と彼女は答えた。「ご存知ありませんでしたの? あの方が話しておられたものと思ってましたわ。あの方の秘書をしておりましたの。リーズで職務に就いておられたあいだずっとです。四年間、毎日一緒に仕事をしていたと言っていいですわ」
 そうか、これで説明がついた。まさに拍子抜けするほど単純だ。クラヴァートンは、甥にも姪にもそれほど好意を持たず、昔の秘書に遺産の大半を遺すことに決めたわけだ。だが、夫人の娘に関するあの奇妙な規定はどういうわけだろうか?
 アーチャー夫人は息つく間もなく話を続けた。「じゃあ、私のことはなにもご存知ないんですのね、プリーストリー博士? きっとなにもかもが常軌を逸したことのように思えますでしょ! でも、ジョン卿はそういう変なところのある人でしたわ。自分の友人のこともめったに話しませんでしたし、博士以外の方については聞いたこともありません。ですから、私のことも博士にはおっしゃらなかったんでしょうね?」
 博士はかぶりを振った。「戦時中の仕事についてはなにも話してくれませんでしたよ。その頃リーズにいたことも、今になるまで知りませんでした。私がミッドチェスターを離れてから、彼がロンドンに住むようになるまで、まったく音信不通だったんですよ」
 「彼があんな大金を相続したのは不幸だったとよく思いましたわ」夫人はちょっと恨めしそうに言った。「戦争が終われば、元の仕事に戻ったはずでしたのに、そのほうがきっと幸せだったんじゃないかと思いますの。あら、私が彼と出会ったいきさつをお話ししなくてはいけませんわね。夫は海上貿易に携わっておりました。夫とは戦争のはじまる数か月前に結婚して、リヴァプールに住んでいたんです。夫はイギリス海軍予備員に属していて、戦争がはじまるとすぐ招集されました。その後、夫と会えたのは、休暇で戻ってきた三、四回だけですわ」
 プリーストリー博士が同情を込めてうなずくと、夫人は話を続けた。「当然ですけど、とてもさみしかったんです。両親はともに亡くなってましたし、まだ子どももいませんでしたから。それで、数週間ほどあとに、家を手放して、戦時活動に志願したんです。速記とか簿記とかを学んだことがあったものですから、ほどなくして仕事をあてがわれました。リーズに派遣されて、クラヴァートン氏――当時はまだ叙爵されていませんでした――の直属で仕事をするように、との指示でした。その頃、彼には六人ほど女性の部下がいましたけど、私は秘書に選ばれました。休戦協定が結ばれる直前まで一緒に仕事をしましたわ。そのあいだ、彼がどれほどよくしてくれたか、とても言葉で言い表せないほどです。夫が戦死して、つらい日々を過ごしていた時は特にそうでした。
 あれは一九一八年二月のことでした。その一、二週間前に彼が休暇をもらって戻ってきたんです。数日でしたけど、リーズで一緒に過ごすことができました。とても多忙な時期でしたけど、ジョン卿は私に休暇をくださったんです。夫は、自分の任務をとても誇りに思ってましたわ。地中海での掃海艇の指揮を任されたばかりだったんです。そのほんの数週間後、夫の乗った船が乗組員全員とともに沈んだという、恐ろしい電報を受け取ったんです」
 一瞬、夫の死を回想して胸が込み上げたようだった。しかし、健気なことに、すぐ立ち直り、話を続けた。「ジョン卿がおられなかったら、私はきっと心を病んでしまったと思います。彼は頼ることのできたただ一人の人でしたし、彼も私のためになんでもしてくれました。もちろん、私は仕事に専念しましたわ。それだけが私の心を正気に保つ手立てだったんです。でも、八月に職場を離れなくてはならなくなりました。娘が十一月に生まれたからです。休戦協定の直前でしたわ。
 それからどうしていいか分かりませんでした。海軍省からのわずかな年金しかありませんでしたし、もちろん、働きに出ることもできませんでした。でも、ジョン卿はなにからなにまで考えてくださったんです。自分にとてもよく尽くしてくれたし、見捨てるわけにはいかないとおっしゃいましてね。思いもよらず、使いきれないほどのお金を手に入れたわけだし、自分以上にお金を必要としている人と分かち合ったっていいとおっしゃるんです。最初はご遠慮申し上げたんですけど、幼い娘のことも考えて、結局ありがたくお受けいたしました。
 そのときも、彼がどれほどのことをしてくださるのか、分かってはいませんでした。病院で赤ん坊を産んだんですが、退院するまでお会いすることはありませんでした。そしたら、再会したときにこうおっしゃるんです。私のためにこの家を買った、また働かなくてもいいように十分な手当も支給する、と」
 「それは実に気前のいいことですね」博士はやや言葉を濁しながら言った。博士は、クラヴァートンが腹心の秘書のために設けた規定のことより、これから起こることの可能性を考えていた。アーチャー夫人の娘が一九一八年十一月生まれだとすれば、まだ十五歳になったばかりだ。つまり、信託が終了するまで十年はあるわけだ。どうもそれまで、なにやかやとありそうだ。
 「お嬢さんのことは、クラヴァートンの遺言書でも特に言及されているんですよ」博士は考えをまとめながら言った。
 「存じてますわ」と夫人は答えた。「リズリントンさんが写しを送ってくださったので、読ませていただきました。特におかしな内容はなかったと思いますけど。触れられていた慈善団体と同じように、メアリにお金を遺してくれたのはごく自然だと思いますから」
 その口調には、博士が思わずぎょっとしたほど、挑むような響きがあった。「クラヴァートンの遺贈におかしな点があると言うつもりはありませんよ」博士は穏やかに言った。
 夫人は問いかけるように博士をちらりと見ると、にこりとほほ笑み、「ごめんなさい」と言った。「遺言書を拝見してしまったものですから、つい身構えてしまって。博士ご自身はおかしな点はないと思われても、ほかの方々までそうは思ってらっしゃらないでしょ。つまり、ご親戚の方々ということですけど。ジョン卿が甥御さんと姪御さんのいることを口にしたことはありますけど、その方たちについて話してくれことはありません。それどころか、私、遺言書でお名前を見るまで、その方たちが実際に存在することすらほとんど忘れてましたわ。最近、彼らと会っておられたのかしら?」
 「甥とはよく会っていたと思いますよ。姪のミス・リトルコートは、彼が亡くなる前の数週間、看護をしていました」
 アーチャー夫人はそう聞くと目を丸くし、「手紙の中では、そんなことなにも言ってませんでしたわ」と言った。「プリーストリー博士、その娘さんはどんな方ですの?」
 「とても目を引く娘さんですよ。背が高くて色黒で、二十歳くらい。あえて言えば、激しい気性の持ち主ですね」
 アーチャー夫人は、しばらく黙ってその言葉を反芻していた。「もう一人の甥御さんのほうは?」と尋ねた。
夫人は努めてさりげない口調でそう言ったが、目が心中を物語っていた。博士は、その目に炎のような激しさが宿っているのを見て取った。不意に、十三番地の家で感じた現実離れした奇妙な感覚が戻ってきた。その瞬間まで、アーチャー夫人は、ありきたりな住環境に住むごく普通の人のように思えた。ところが、彼女がその質問を口にしたとたん、博士をまごつかせるような個性を帯びるようになった。
 「アイヴァー・ダーンフォードですか?」と博士はしっかりした口調で答えた。「彼のことはほとんど知らないんです。おそらく、いとこより少しだけ年上ですが、かなり有能な青年ですよ」
 夫人は目に見えてがっかりした。「博士でしたら、その人のことをもっとご存知かと思いましたのに」と言った。
 むろんそう期待していただろう。アイヴァー・ダーンフォードに関することは、どんな細かいことであれ、夫人には関心の的だったはずだ。夫人は、クラヴァートンの遺言書の奇妙な項目のことも知っていた。しかし、そんな項目を書かせるに至った隠れた動機まで知っているだろうか? クラヴァートンは死ぬ前に、娘のために配慮したことを夫人に伝えていたのか?
 だが、アーチャー夫人はだしぬけに話題を変え、ざっくばらんに「なにはともあれ、娘に遺産をお分けいただけるなんて、嬉しいことですわ」と言った。「私たちは世界で一番幸運な親子だと思います。リーズに派遣されたのも、ジョン卿の秘書になったのも、まったくの偶然だったことを考えますとね。そうでなかったら、メアリと私は、生きていくのに年金だけが頼りでしたもの!」
 「クラヴァートンにとっても、それ以上の遺産の遺し方はなかったでしょうな」博士はあえてそう言った。「アーチャーさん、こうしてお知り合いになれたわけですし、お嬢さんにもご紹介いただけますでしょうかね?」
 それはきわめて自然な希望だったが、博士の言葉を聞くと、夫人は青ざめ、恐れをあらわにして博士を見つめた。そんな表情が表れたのはほんの一瞬のことで、夫人はなんとか冷静さを取り繕った。それでも、手を胸に当て、しばらく息遣いが乱れた。「ごめんなさい!」と夫人は言った。「心臓がよくありませんの。時おりこういうおかしな発作に見舞われますのよ。でも、もう大丈夫ですわ。なんておっしゃいましたっけ? ああ、そうでしたわ。メアリのことでしたわね。ぜひお会いいただきたいところですけど、まだ寝室にいますし、寝てると思いますわ。あなたがいらっしゃったときにそうでしたから。この二日ほど具合がよくありませんの。ちょっとひどい風邪をひいてしまいまして。お医者様も安静にしていたほうがいいと。いつも思うんですけど、この季節って、一番油断ができませんわよね」
 夫人は、饒舌にしゃべり続けたが、クラヴァートンの話題には戻ろうとしなかった。プリーストリー博士は頃合いを見計らうと、いとま乞いした。夫人は、博士が来てくれたことにくどいほど礼を述べたが、あえて引き留めようとはしなかった。それどころか、いかにもほっとした様子で博士を見送ったように思えた。
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