ジョン・ロード『クラヴァートン事件』第十章-1

第十章

 車は時間どおりプリーストリー博士の家に着いた。オールドランドはケンジントンの自宅から博士と合流し、二人はボーマリス・プレイスに向かって車を走らせた。
 「ミルヴァーリーに、ヘレン・リトルコートから聞いた話をきちんとメモにまとめさせたんだ」とオールドランドは言った。「そこから彼女のぼろを見つけられないかと思ってね。妙なことに、ミルヴァーリーは、彼女の話に偽りはないと考えているようだ。まだ多感な青年だし、娘に少々籠絡されたんじゃないかな。もちろん、私からは例の疑惑の件は口にしたりしてないよ」
 博士はうなずくと、「この問題には、一切先入観を持たずに臨むべきだと思う」と言った。「昨夜君に話した仮説も、実はまったく間違っているかもしれない」
 「かもな。だが、あれは事実を説明できる唯一の仮説だよ。くそっ、クラヴァートンがあんなふうに急死するはずがないんだ。その他の条件を考え合わせても信じられない。むろん、その仮説を口にするつもりはないよ。いざというときに出せる切り札だからね。ところで、リトルコート夫人にごあいさつしたほうがよくはないかね?」
 車は十三番地の家の前に停まった。日曜朝のこの時間では、ボーマリス・プレイスはまったくひと気がなかった。あたりに漂う不気味な静けさも、近くの教会の鐘が一本調子に鳴る音で破られただけだった。十三番地の家は、歩道にわずかにせり出していたが、かつては威厳に満ちていた家並みの最後の生き残りであり、頑固なまでのクラヴァートンの精神を具現したものでもあった。
 フォークナーがドアを開け、リトルコート夫人は在宅だと告げた。彼は玄関ホールで帽子とコートを受け取るのに無用な混乱をきたし、なにか気にかかることがある様子だった。しかし、どうやら口に出しては言えないらしく、そのまま二人を二階の客間に案内した。
 博士が客間に入ると、部屋はからっぽで、ソファにも誰もいないのを見て驚きを禁じ得なかった。その部屋は、リトルコート夫人の不気味な姿なしでは、妙に不完全に見えたからだ。しかし、夫人の存在は痕跡が残っていた。編んでいた厚く黒い編み物が小脇におかれ、葬礼の幕のように床に垂れていたからだ。
 二人だけ部屋に残されると、オールドランドは身震いし、「この部屋はまるで地下墓所だよ!」と声を上げた。「全身に寒気が走らないかい? クラヴァートンが住むようになってから、暖炉に火がくべられたことがあるなんて信じられないよ。立て続けに火をくべたところで、ましになるとも思えんがね。呪いがかかった場所に入ったような気分だぞ!」
 博士が答えを返す前に、ヘレン・リトルコートが入ってきた。いかにも彼女らしい唐突さだった。体の美しいラインが分かる、黒い薄手の服に身を包んでいた。しかし、髪は完全にばらけ、顔は半透明の黒いヴェールで覆われていた。来客に軽く会釈すると、むっつりと無愛想な表情がうかがえた。「母には今は会えませんわ」と言った。「トランス状態に入っていますから」
 彼女はこの驚くべき情報をいかにも無頓着に伝えた。「母は寝てますから」とか、「着替えてますから」と言ったとしても、これほど気軽には言わなかっただろう。しかし、オールドランドは、驚きながら前に進み出て、「トランス状態だって!」と声を上げた。「なんてことだ! 私でよければ・・・」
 しかし、彼女は嘲るような短い笑い声を上げて制止し、「医者の出る幕じゃありませんわ」と言った。「母はスピリチュアリストなんですから、トランスは母の状態の一つなんです。昼食前には脱すると思いますわ。それまでお待ちいただけますかしら?」
 オールドランドはややまごついた様子だった。しかし、そのトランス状態のおかげで、ヘレン・リトルコート一人と話をする機会を得られたと気づいたようだ。「もちろん、リトルコート夫人にお目にかかりたいところだがね」と答えた。「ただ、こうして訪問したのは、ご推察とは思うが、伯父さんが亡くなったことでお聞きしたいことがあるからなんだ。まことに遺憾ながら、昨日になってようやく知ったんだよ。当然だが、主治医として詳細を知りたいわけでね」
 「当然ですわね」彼女は皮肉を込めて言った。「ご自分の患者がこんなふうに亡くなってしまうなんて、さぞ居心地の悪いことでしょうから。私もナースとしてまったく同じ思いですわ。ご希望でしたら、経緯は私からお話ししますけど」
 彼女は椅子に深々と腰をおろし、オールドランドとプリーストリー博士にも身振りで椅子を勧めた。それから、まったく感情を表さずに、以前、ミルヴァーリーに語ったのと同じ話を語りはじめた。「そういう次第でしたのよ」と話を結んだ。「ジョン伯父さんは、ミルヴァーリー先生がいらっしゃる十分ほど前に亡くなったんです」
 「それで、伯父さんの部屋から例の金切り声を聞くまでは、おかしな徴候にはなにも気づかなかったというんだね?」オールドランドは疑わしげな様子で尋ねた。
 「もちろんですわ。気づいてたら、すぐミルヴァーリー先生をお呼びしましたもの」と彼女は答えた。「まさか、私が好き好んで全責任を担っていたとでも?」
 「いやいや、とんでもない。ミルヴァーリー医師の話でば、土曜朝に伯父さんの診察をしたときは、私が前日に診察したときと同じ状態だったとのことだ」
 「むしろ調子がよかったほどですわ。なにしろ、土曜の午後はとても気難しかったんですもの。よく知ってますけど、気分がよくなると気難しくなるんです。私はもうこの家には要らないと、伯父はきっぱり言いましたわ。二、三日中に、ナースがいなくても生活できるようになるってね」
 「ふーむ、そうかね」オールドランドは気まずそうに言った。「病人というものは、言動が軽率になりがちなんだ。伯父さんはいつそんなことを言ったんだね?」
 「土曜の夕食後のことです。ご存知でしょうけど、伯父は、朝食は別にして、いつも図書室で食事をとっていたんです。亡くなる直前の頃も、私が食事をお運びしましたわ。その前はフォークナーが運んでたんですけど、ジョン伯父さんから、部屋に入るなといきなり申し渡されてしまって。フォークナーが物を散らかすと言うんです。でも、そんな理由は馬鹿げてますわ。それも結局は伯父らしい、他人への好き嫌いの表れにすぎなかったんです」
 「そもそもフォークナーは物を散らかしたのかね?」
 「そうは思いません。彼は毎朝、伯父が起きてくる前に図書室を掃除してましたし、整理整頓もしていたと思うんです。でも、ジョン伯父さんはいつも些細なことで騒ぎたてるのよ。亡くなる前の週に、フォークナーが薬のカプセルをひっくり返して、一粒なくしてしまったと決めつけたりして。それがきっかけで、部屋に入るのを許さなくなったの。私も家政婦の仕事までするつもりはなかったから、部屋はほうりっぱなしになりましたわ。ほこりを払うこともありませんでした。土曜の晩に、部屋が汚れていると文句を言うものだから、使用人を部屋に入れなきゃ、きれいになるはずないわと言ってやりました。ほんとに理不尽な人でしたわ」
 彼女は話しながら目に涙をためた。伯父と口論になったのは明らかだ。しかし、オールドランドはその点を追及しようとはしなかった。「伯父さんがフォークナーを部屋に入れようとしなくなったから、彼の世話をするのはみんな君の仕事になったというわけだね、ミス・リトルコート?」と彼は言った。
 「なにもかもやらなきゃならなかったのよ」と彼女は答えた。「それどころか、伯父を気遣っていたのは私だけでしたわ。あれだけ尽くして、私がいただいた報酬といったら、私がいるのはもうたくさんだと教えられることだけだったなんて!」
 「病人にありがちなイライラの表れに過ぎないよ。間違いなくね」オールドランドは急いでそう言った。「死につながった危険な徴候が始まっていたのかもしれん。その晩もいつものように体温を測ったんだね?」
 「ジョン伯父さんが私のことをいくら役立たずだと思ったにしても、ナースとしての義務を怠ったりはしませんわ」彼女は言い返した。「伯父は九時過ぎには就寝しましたし、寝支度をさせてから体温を測って、記録表に記入しました。表はミルヴァーリー先生にお渡ししましたわ。先生がお見せしたんじゃないかと思いますけど」
 「うん、見たよ。伯父さんはぐっすり眠れたのかな?」
 「そのはずです。でなきゃ、呼び鈴で私を呼んだはずですから。そばに呼び鈴のボタンがあって、押すと私の部屋の呼び鈴がなるようになってました。十一時過ぎに自分の寝室に引き取る前に、様子を見に行きましたけど、そのときは眠ってましたわ。そのあと、日曜朝の八時にお茶を持っていくまで様子は見ませんでした。そのときにもう一度体温を測りましたけど、正常でしたわ。前の日の晩と同じく元気そうでしたし。そのあと、朝食をとって、水薬とカプセルを飲みました。なぜ知ってるのかというと、私が持っていったからです。あとで気づきましたけど、お亡くなりになったとき、水薬のグラスが空っぽになっていて、カプセルもなくなってましたわ」
 「叫び声を聞いて部屋に入ったとき、伯父さんの状態はどうだったかね?」
 「重篤だとすぐ気づきました。ベッドに身を起して、朝食の載ったベッド・テーブルを前に置いて食べていたはずです。テーブルと朝食は床に落ちてましたわ。伯父は横になって身をよじらせていて、見るからにひどい苦痛のようでした。どうしたのか聞いたんですけど、私の声も聞こえていない様子でしたわ。話すこともできませんでした。口から泡を吹いていて、うなり声を上げるばかりでした。激しく水をほしがっているようでしたから、水の入ったタンブラーを唇まで持っていったら、なんとか少しだけ飲みました。それから階段の上まで駆け上がって、フォークナーを大声で呼んで、タクシーをつかまえてミルヴァーリー先生を連れてくるように言ったんです」
 これ以上のことを彼女から引き出せないのは明らかだったし、ほかにいくつか質問してから、オールドランドと博士はいとまごいした。彼女の見送りなしに階段を下りると、玄関ホールでフォークナーが出迎え、帽子とコートを手渡した。しかし、彼は正面のドアを開けようとせず、ためらったかと思うと、小声で話しかけてきた。「おそれいりますが、一つお願いを申しあげてもよろしゅうございますでしょうか」と言った。
 「なにかね、フォークナー」とオールドランドが答えた。
 「そのう、リトルコート夫人は使用人全員にひと月以内の解雇通知を出されました。新たな就職先を探さなくてはなりませんが、ジョン卿はお亡くなりになりましたので、先生かプリーストリー博士が推薦状を書いていただければありがたいのでございますが。ほかにお願いできる方がいないのです」
 「ジョン卿が五百ポンドの遺産を遺してくれたという事実だけでも十分な推薦になると思うがね」とオールドランドは答えた。「だが、就職希望先を教えてくれたら、喜んで君のために推薦状を書かせてもらうよ。どうかね、プリーストリー?」
 プリーストリー博士はぼんやりした様子でうなずいた。博士は、目の前のダイニングのドアをじっと見つめていた。ドアは、まるでかすかな隙間風に押されたかのように、音もなく少しずつ開いていった。
 中の部屋はほとんどまっ暗闇のようだった。博士は、こんな日中にカーテンが閉じたままになっているのをなんとなく不思議に思った。すると、ドアがさらに開き、中にぼんやりと人の姿が見えた。玄関ホールからの明かりがリトルコート夫人の垂れたグレーの頭を照らした。
 夫人は、歩くというよりは滑るようにゆっくりと出てきたが、全身黒ずくめだった。フォークナーは畏怖の表情を浮かべて慌てて脇に寄った。しかし、夫人は彼らの存在にまるで気づいていないようだった。頭を上げようともしなかったため、顔も見えなかった。やはり滑るような足取りで玄関ホールを横切ると、階段を上がっていった。その姿が見えなくなるまで、誰もあえて動こうとはしなかった。やっとフォークナーが静かにドアを開け、オールドランドと博士は家の外に出た。
 二人ともその出来事に強い印象を受けた。最初に口を開いたのはオールドランドだった。「下に降りてきたとき、あのダイニングのドアは完全に閉まってたっけ? それとも、半開きだったかな?」車が家路に向けて走り出すと、すぐにそう尋ねた。
 「残念ながら、気づかなかったね」と博士は答えた。「だが、しっかり閉じていたのなら、取っ手を回す音が聞こえたはずだ」
 「だろうな」オールドランドはむっつりとうなずいた。「あの連中には、会うたびごとにまごつかされる。トランス状態だって! あの女、腕を磨いていたとでもいうのか? それに、あの娘の言いぐさはなんだ! 『母には会えませんわ。トランス状態に入ってますから』だと! まるでごく当たり前の話みたいじゃないか。リトルコート夫人は日常習慣みたいにトランス状態に入ってるのかね?」
 博士は首を横に振り、「そんな話はほとんど聞いたこともないね」と答えた。
 「とんでもない話だよ!」とオールドランドは声を上げた。「そんなおふざけをするのにダイニングを場所に選ぶなんて、誰が考えたりする? 夫人は人のいない上階にいるとばかり思っていたよ。さっき出てきたときは、まだトランス状態だったのか? それとも、フォークナーが我々に話していたことに聞き耳を立てていたのかな?」
 「リトルコート夫人が本当に見かけほど耳が遠いのか、あやしいと思っているんだがね」と博士は疑わしげな様子で言った。
 「ほほう、すると、君もそういう結論に達したわけか? まあ、彼女が我々の話を立ち聞きしたところで、たいしたことは話してなかったがね。フォークナーが我々に推薦状を書いてほしいと頼んでも別におかしくはないさ。夫人があんなふうに出てきたのには驚いたよ。だが、あの連中からはなにも聞き出せん。あの娘のばかげた話も覆せなかったしな。娘とあの気色悪い母親には、話を練り上げておく時間はたっぷりあったわけだ。いくら反問してみたところで、本当の話をあの娘から引き出すことはできんだろうよ」
 そのあと、プリーストリー博士は、娘とオールドランドのやりとりを思い返してみたが、やはりほぼ同意見だった。娘の見かけだけの誠意も、自分が組み立てた仮説を揺るがすにはいたらなかった。論理的に考えれば、その仮説がクラヴァートンの死を説明できる唯一の考え方だった。穿孔が死因だとすれば、ヘレン・リトルコートの説明のように、ほとんど徴候もないままに死に至るはずがない。死因が穿孔であることははっきりと立証されている。したがって、ヘレン・リトルコートの説明はうそだ。そう、だが、どうやって反証を挙げるのか?
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