ジョン・ロード『クラヴァートン事件』第十章-2

 自分で認めていたように、クラヴァートンの身辺に近づくことができたのは彼女だけだ。危機的な症状が土曜の時点ではじまっていたのであれば、彼女なら、邸内のほかの者からその事実を隠し通すことも容易だったろう。信の置ける使用人のフォークナーすら、カプセルの一件以来、閉め出されていたのだから。いずれにせよ、その点については、彼女の話は真実だ。クラヴァートンに最後に会ったとき、まさにそのことで彼が文句を言っていたのを博士は思い返した。
 もう一つある。娘が伯父に抱いていた心情という点では、オールドランドの意見は正しかった。彼女の説明はもちろん、あの態度から見ても、そのことは明らかだ。二人は彼の死の前日にまさに言い争いをしていたのだ。事態の推移が示しているように、彼女は実に非人道的にも、まぎれもなく伯父が目の前で死んでいくまま放置したのだ。そんなことをしても彼女にはほとんど得るものがなかったことに、博士はおおいに溜飲を下げた。
 しかし、それで事足れりとするつもりはなかった。彼女に罪の報いをもたらすために手を打つことが必要だ。彼女に仕掛けるわなを考えられないか知恵を絞ってみたが、無駄だった。それから、いつもの習慣のように、努めてその問題を頭から閉め出し、放置したままの本来の仕事を再開した。必ず目的を果たすという希望を捨てたわけではない。しかし、その問題をしばらく寝かせておけば、新たな展望がおのずと開けてくるかもしれない。
 ところが、まったく思いがけず、リトルコート親子のほうに関心を呼び戻されてしまった。月曜の午後、オールドランドが電話をかけてきたからだ。「煩わせて申し訳ない、プリーストリー」と彼は言った。「だが、リトルコート夫人から手紙が来たんだ。今夜、どうしても君と私に会いたいと言うんだよ。希望は九時半ということだ。どうするね?」
 「会いたい理由は書いてあったかね?」と博士は尋ねた。
 「それはなかった。だが、緊急のことに違いない。夫人が誰かに会いたいと言うなんて、私の知る限り初めてのことだよ。なにか説明したいことがあるんだと思う。ともあれ、私としては、彼女の話を聞いてやりたいところだね」
 なにやら乗り気になれなかったが、博士も承諾した。正直に言えば、博士もオールドランドと同じく好奇心をくすぐられたからだ。リトルコート夫人を覆い隠している得体の知れないヴェールの向こうを覗くチャンスかもしれない。
 かくして、その晩の九時半ちょうど、博士とオールドランドは十三番地の家を再び訪れた。フォークナーが二人を上階の客間に案内すると、ヘレン・リトルコートが迎えた。母親のほうは姿が見えなかった。黒い屍衣のような編み物もソファから消えていた。
 ヘレン・リトルコートはいつになく活き活きとして見えた。「母はすぐまいります」と彼女は言った。「まず私のほうから事情をご説明するようにと母から言われました。よくご存知ない方が母と話をしようとされても、母は必ずしも理解できないものですから」
 彼女はひと息ついたが、二人のほうはなにも言わなかったので、話を続けた。
 「私たちは明日、元のフラットに戻ることにしましたの。ですので、これが母にとっては最後の機会になります。そう、ここで行うしかないんです。母も、ジョン伯父さんがほかの場所に移るとは思っていませんので」
 オールドランドは、娘がいきなり正気を失ったかのように見つめた。しかし、プリーストリー博士は、一瞬驚きはしたものの、理解した。リトルコート夫人のスピリチュアリストとしての才能が力を貸しに来たのだ。夫人はトランス状態のなかで亡き兄と交信するのだ。だが、それをごく当たり前のように語るこの娘はなんなのだ。彼女も母親の才能を受け継いでいるのか? それとも、なにもかも自分たちのいいようにうまくお膳立てしてあるということか?
 「ジョン伯父さんだって、ミス・リトルコート?」オールドランドは当惑した表情で言った。「申し訳ないが、どうもよく分からんのだがね」
 「それはそうでしょう。たぶん、母が霊媒だということをご存知ないんでしょうね? でも、昨日、母がトランス状態にあると申し上げましたわね。そう、昨晩、ジョン伯父さんが母と交信して、お二人に今夜ここに来てもらうようにと母に言われたんです」
 オールドランドは首を横に振り、「だが、そりゃ途方もない話だね、ミス・リトルコート」と言った。「どうも理解しかねるが・・・」
 彼女は怒ったように目をしばたたき、「あなたが理解しようとしまいと、どうでもいいことですわ」と相手の言葉をさえぎった。「大事なことは、母の招待をお受けになるか、ということです。それとも、いやだとでも?」
 オールドランドが博士のほうをちらりと見ると、博士はかすかにうなずいた。明確な証拠を示せない物事には、常に中立的な立場をとるプリーストリー博士ではあったが、スピリチュアリズムに対してはきわめて懐疑的だった。なにが起ころうとしているのか、あえて推測を試みることもできる。だが、本物かどうかは別にして、示される啓示がどんな内容かは興味津々だ。とはいうものの、博士は、娘の質問への答えはオールドランドにまかせた。 「リトルコート夫人が話したいことがあるとおっしゃるなら、喜んでお聞きしますよ」オールドランドは如才なく答えた。
 「それならけっこうですわ、どうぞこちらへ」ヘレン・リトルコートは部屋から出ていき、二人はそのあとに続いた。彼女は踊り場を横切り、博士も驚いたことに、図書室のドアを開けた。明かりはこうこうと照っていて、彼女は二人に入るよう手招きした。
 部屋の中は、博士がクラヴァートンを訪ねたときからなにも変わっていなかった。暖炉には火がくべられ、クラヴァートンの椅子とテーブルも、最後に見たときとまったく同じ位置にあった。幻想は完ぺきだった。まるでクラヴァートンはちょっと出て行っただけで、またすぐ戻ってきて、博士もよく知っている態度で話しかけてくるように思えた。
 それから、リトルコート夫人のほうを見ると、その姿にぎょっとした。夫人は、暖炉と反対の壁側にある小さな肘掛椅子に背をまっすぐ伸ばして座っていた。しかし、彼女の体で見える部分は、鉄灰色の髪がほつれた前かがみの頭だけだった。首から足までの残りの部分は、妙に見覚えのある、なにか黒いもので覆われていた。そう、それは見間違えようもなかった。彼女がせっせと手作業をしていた編み物だ。へりには、紫色のシルクで編まれた、奇妙なデザインの縁飾りがあった。この風変わりな衣服は経帷子のようにぴったりと彼女の体を包んでいた。
 しかし、彼女の姿が見えたのはほんの一瞬のことだった。彼らが入ってくるとすぐ、ヘレン・リトルコートが明かりを消したため、部屋は真っ暗闇になったからだ。残った明かりは暖炉の火だけで、ゆらめく炎が部屋のなかに奇妙に踊るような影を投げかけるばかりだった。リトルコート夫人の姿はといえば、目に入るのは、輪郭のはっきりしない神秘的な黒い塊の上にある、グレーの髪のかすかな反射だけだった。
 こんな遅い時間では、部屋の静寂を破る外からの音もなかった。ヘレン・リトルコートが口を開くと、その声はひどくぶっきらぼうで耳ざわりだった。「この部屋でなきゃいけなかったんです」と彼女は言った。「ジョン伯父さんが一番よく使っていたのはこの部屋でしたから。お座りください、プリーストリー博士。伯父さんの椅子はご遠慮ください。伯父が気に入らぬかもしれませんので。オールドランド先生はこちらへいらしてください」
 暗がりに目が慣れてきたせいか、娘がオールドランドをリトルコート夫人の真向かいの椅子に案内するときも、家具にぶつからないよう避けられるくらいの明るさはあった。椅子に座ると、ひざが夫人のひざに触れそうなほど近い場所だと気づいた。すると、黒く厚い衣服が静かに動き、夫人の手が現れた。腕がゆっくりと伸び、オールドランドのほうにまっすぐ差し出された。
 「母の手をとってください」娘は、今度はささやき声で指示した。オールドランドは、ちょっとためらったが、指示に従った。その手は、死体の手のように冷たく、生気もなく硬直していた。部屋は暖かかったが、オールドランドはかすかに身震いした。この不気味な女の手の感触には、激しい反発を感じてぞっとした。
 静寂は抑圧のように感じられた。ヘレン・リトルコートは部屋のすみに引っ込み、博士に見えるのは、黒い本棚を背景に浮かび上がる、彼女の青白い顔の輪郭だけになった。博士は思わず強い印象を受けた。この奇妙な喜劇の舞台設定は見事なものだ、と思った。劇そのものも同じくらい見事なものだろうか?
 時はゆっくりと刻まれ、火がパチパチとはじけるときを別にすれば、部屋の静寂を破る音も動きもまったくなかった。ひらめく炎が一瞬燃え上がり、まるで暗闇を血の色で染めるように赤く鈍い輝きだけを残しながら消えた。
 すると、乾いたシューシューという音を立てながら、リトルコート夫人の唇が動きはじめた。はじめのうちはほとんど聞き取れなかった。まるで家畜かなにかが人間の言葉を話そうとむなしくもがいているような不気味さだった。博士と霊媒の間に影が立ちはだかったように見えた。夫人が部屋の暗闇に溶け込んでしまったようだった。
 奇妙で耳障りな音が、ほとんどささやき声のようにかすかなまま続いた。しかし、徐々に音は強く、はっきりとしてきた。ところどころ不明瞭で発音を誤ってはいたが、聞き取れるようになった。まるで語り手が自分の考えを表すのを妨げている障害物を突き破ろうとしているかのようだった。
 不意にその障害物は突き破られ、言葉ははっきりと分かるようになった。不気味なぞっとする感覚を伴って、プリーストリー博士はジョン・クラヴァートン卿の声を聞きとった。最後に聞いたときの抑えた気難しげな声ではなく、ミッドチェスターにいた昔の頃を思い出させる若々しい声だった。「オールドランド!」とその声は言った。「オールドランド! そこにいるのか?」
 オールドランドは答えなかった。どれほど驚いたにしても、答えようとはしなかった。手を引っ込めたくともできなかった。霊媒の手は、声と同じように、最初は弱々しかったが、次第に強く、ついに万力のように彼の手を固く握りしめるようになったからだ。
 ひと息つくと、声は再び話しはじめた。「おい、なぜ答えないんだ、オールドランド? そこにいるんだろ。はっきり見えるぞ。私が分からんのかね? 旧友のクラヴァートンだよ。オールドランド夫人はどこだい? 奥さんになにをしたんだ?」
 その問いはプリーストリー博士にはまったく思いがけないものだったため、博士は思わず驚きの声を漏らさずにいられなかった。オールドランドの椅子から、座ったまま不意に身を動かしたように、突然きしる音が聞こえた。
「話さないつもりかい?」声は続いた。「まあいいさ。私には関係ないことだ。君はずるい男だな、オールドランド。だが、ずる賢すぎることもあるようだ。数週前に気づいたことをなぜ警察に言わなかったんだね?」
 プリーストリー博士は笑みを浮かべた。降霊術会は予想していたよりずっと面白くなってきた。博士は、驚くべき啓示をまさに受けようとしているのだと感じた。
 「言ってる意味はよく分かっているはずだ」声はいらだたしげに語り続けた。「白い粉だよ。だが、私の食事にその粉を振りかけた手までは見なかったんだな。君もそこまで気が回らなかったわけだ。白い粉の紙包みを持った手が、塩をかけるようにその粉を振りまいたんだ。もうどうでもいいがな。だが、その手のことは忘れないでくれ、オールドランド」
 声が途切れると、ヘレン・リトルコートが立っているすみのほうからカサカサいう音が聞こえた。博士は一瞬息をひそめ、娘が降霊術会をすぐさま終わらせるものと思った。しかし、なにも動きはなかったし、声は前よりも弱々しく話し続けた。
 「プリーストリーもそこにいるんだろうね? 分かっているよ。だが、彼と話すことはできない。プリーストリーに、例の手と白い粉のことを忘れないでくれと伝えてほしい。私が死んだ今は彼が調査をしているからね。思うように状況が進展しなかったら、もう一度彼に私の遺志を伝えてもらうことになるよ。以上だ。連中には私を止めることはできん。連中は・・・」
 声は再びかすれていき、聞こえなくなった。最後の言葉が消え入ると、ヘレン・リトルコートが部屋を横切り、明かりをつけた。リトルコート夫人はまだ頭をかがめたまま動かなかったが、オールドランドは夫人の手を離した。その手は、再び彼女を包む黒い衣服のなかに引っ込められた。
 しかし、博士が見ていると、夫人は激しく身震いし、座っている椅子を揺すっていた。それからゆっくりと、ぎこちない木像の動きのように立ち上がり、まっすぐ背を伸ばした。そうするあいだに、厚く黒い衣服は彼女の肩から滑り落ち、椅子の座部から床に何層にも折り重なって落ちた。夫人は滑るような足取りで部屋を横切っていったが、それは博士が前日の朝に見たのと同じ歩き方だった。
 博士は先に進み、夫人のためにドアを開けてやり、そうやっておじぎをしながら夫人の顔に探りを入れた。だが、これ以上無表情な仮面もなかったろう。夫人の目は、開いてはいたがうつろなままで、血の気の失せた青白い顔のなかにあった。夫人は言葉も発さず、謎めいた様子のまま、まるであらゆる意思が消え失せた女の抜け殻のように出ていった。しかし、娘のほうは、母親のゆったりした動きとは面白いほど対照的に、意表を突くほど素早くしなやかな動きでドアのほうに走り寄って閉めた。それから、黒い羽目板に背をもたれると、挑むように横柄な態度で二人の男のほうを向いた。
 「ジョン伯父さんの言葉の意味は?」彼女は、ほとんどささやき声のように、小さなぞっとする声で尋ねた。
 しかし、どちらも答えようとはしなかった。オールドランドは、リトルコート夫人が握っていた手をひたすら見つめていた。まるで、なにか超自然的な痕跡でも残っているのではと期待しているようだった。プリーストリー博士はといえば、科学者らしい分析的な目で娘のほうを見つめていた。博士はそうしながら、いったいどちらが役者で、どちらが観客だろうか、と思っていた。
 娘は、苛立たしげに怒りをあらわにして床を踏みつけた。娘は今度は、オールドランドに向かって直接話しかけた。「答えてちょうだい、オールドランド先生」と言った。「心配することないわ。奥さんのことなんて私はどうでもいいの。なにしたのか知らないけど。今の今まで奥さんがいるなんて知りもしなかったわ。数週間前になにに気づいたっていうの? それで誰にも言わなかったわけ? ジョン伯父さんの食事に振りかけた白い粉ってなんなの?」
 オールドランドはようやく彼女のほうを見た。医師の顔に明かりが映えると、ひどくげっそりしているのに博士は気づいた。しかし、問いに答えるその声はしっかりしていた。「今は答えるわけにいかんね、ミス・リトルコート」
 彼は、回答拒否の同意を得ようとするかのように博士のほうを見た。しかし、博士は苦笑いを浮かべただけだった。こんな状況のなかにひそかな楽しみを見つけようとしているように見えた。
 娘はこぶしを握りしめ、目には怒りの炎が宿っていた。彼女は演技がうまいだけなのか、それとも、心底激しい感情に突き動かされているのか、どっちなのだろうと博士は思った。「教えてくださらないわけね? それなら、自分で探り当てますわ。その結果まずいことになっても、あなたの責任ですからね、オールドランド先生」
 彼女は、若い雌豹のように俊敏な動作でいきなりドアを開け、踊り場の暗がりへと姿を消した。
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