ジョン・ロード『クラヴァートン事件』第十二章-1

第十二章

 リズリントン氏との会話でクラヴァートン事件への関心を改めてかき立てられなければ、プリーストリー博士はきっとマートンベリーまで出向いたりはしなかっただろう。確認してみると、自分の日程もすでに詰まっていたし、さほどなじみもない人の悩み事を聞いてやる時間などなかったからだ。アーチャー夫人と娘はなにがあろうと安全だ。リトルコート夫人ならオカルト的な力に訴えるかもしれないが、その力をもってしても、適正に検認され、サマセット・ハウス(訳注:戸籍本署、遺言検認登記本所等が入っているストランド街の官庁舎。その名はサマセット伯爵の邸宅であったことに由来)に登録された遺言書の項目を覆すことはできまい。
 しかし、その手紙はあまりに見事なタイミングで届いた。リトルコート親子への嫌悪も、リズリントンの話を聞いて改めてかき立てられた。親子はダーンフォードに圧力をかけようと躍起になっている。きっとアーチャー夫人にも働きかけたはずだ。ダーンフォードが逃れられないように手元に捕まえておこうと決めたのだ。
 個人的な偏見はともかくも、博士は対抗措置をとるのが自分の義務だと感じた。ダーンフォードは、マナーもろくになっていないぶしつけな青年だし、なんの好感も持ってはいない。しかし、旧友のクラヴァートンは、自分なりに明確な理由があって、ダーンフォードをメアリ・アーチャーと結婚させたいと望んでいたのだ。クラヴァートンの財産の受託者として、彼の遺志を実現すべく最善を尽くすのが自分の義務だ。
 博士は、こうして内心あれこれ考えながら、自分の判断の正しさを信じようと努めていた。しかし、それがアーチャー夫人の依頼に応じる本当の理由でないことは、心のどこかで分かっていた。自分の飽くなき好奇心、問題を未解決のまま放置するのを嫌う気持ちが根っこにあるのだ。リトルコート親子の動きを逐一追跡すれば、博士が先手を取る突破口もいずれ見えてくるに違いない。
 クラヴァートンが赤の他人だったら、彼の死因の問題は、すでに組み立てた推論で十分説明がついたものとみなしていただろう。つまり、ヘレン・リトルコートが、ミルヴァーリー医師を間にあうように呼ばなかったことで、間接的に彼を殺したのだ。その事実に他の解釈が入り込む余地はない。犯罪は疑問の余地なく証明された。いつもであれば、プリーストリー博士はそこで満足していたはずだ。
 しかし、今度の場合は、クラヴァートンが友人でもあり、疎遠になっていたというすまない気持ちもあって、この問題にきちんとけりをつけたくなったのだ。裁判所は、今提示できる証拠だけでは、ヘレン・リトルコートを有罪にはすまい。危険な徴候などなにもなかったと主張を貫きさえすれば、見事無罪を勝ち取れるだろう。リトルコート親子がどん欲さに駆られて馬脚を現すかもれしないというのが、博士のただ一つの希望だった。
 博士は、翌日伺うと知らせる電報をアーチャー夫人に送った。しかし、その往訪の目的は誰にも話さなかった。秘書にも、「明日朝出かけて、あさっての晩に戻るよ」と言うのが関の山だった。
 前と同じ列車でマートンベリーに着くと、ブラック・ブルに部屋を押さえた。それから、すがすがしくひんやりした一月の空気の中をきびきびと歩いてウィロウズ荘に赴いた。アーチャー夫人は待ちわびていて、本当に嬉しそうに出迎えた。しかし、顔はやつれて物憂げな様子で、なにかを恐れる妙な表情を浮かべていた。以前訪ねたときにも時おり表れた表情だったが、今は彼女の目の中にはっきりと表れていた。
 「ご足労いただきまして感謝申し上げますわ、プリーストリー博士」と彼女は言った。「ロンドンまでお伺いすべきところですけど、メアリを一人残してはいけなかったんです。博士のほかに頼れる方はいませんし、リズリントンさんにはお会いしたこともありませんので、手紙を書く気にもなれなくて」
 「クラヴァートンの財産受託者の一人として、いつでも力になりますよ、アーチャーさん」博士は、昔かたぎな礼儀正しさで答えた。
 「そうおっしゃっていただけると嬉しいですわ」と夫人は言った。「お話ししたかったのは遺言書のことなんです。今となっては覆せないはずですわね? つまり、なにか特別なことでも起きない限りは、ということですけど」
 夫人は口ごもり、黙り込んだ。博士はなにやらまごついたが、すぐに助け船を出した。「私は弁護士ではありません、アーチャーさん」と答えた。「しかし、いったん検認済みとなれば、遺言書は覆せないと思いますね。今度の場合ですと、遺言書は検認済みですし、受託者もすでに支払いをしてもらっています。あなたご自身にしてもそうですよ。あなたへの支払いが、信託が終了するまで定期的に支払われることについてはなんの心配もいりません」
 「ええ、私もそう信じております」彼女は心もとなげに言った。「私自身のことは心配していませんわ。でも、心配なのはメアリのことなんです。つまり、娘と権利を争おうとする者がいるんじゃないかということですけど。そんなことはできないと思いますが、どうでしょうか?」
 夫人の声は訴えるような響きを帯びた。まるでなにか特別な懇願でもしているかのようだった。博士は、なんとなく居心地悪くなりはじめた。娘のことについては、なにか妙な謎がありそうだ。そういえば、以前の訪問の際、娘さんにお目にかかりたいと頼んだら、アーチャー夫人は目に恐怖の色を浮かべたな。「十月にお邪魔した際には、お嬢さんはお風邪とのことでしたが、もう元気になられたんでしょうね?」博士はだしぬけに尋ねた。
 「風邪ですって!」アーチャー夫人は大声を出した。「なんのことか・・・」すると、慌てて言い繕った。「ああ、そうでしたわね! 一、二日ほど具合が悪かったかしら。でも、すぐ元気になりましてよ。あんなに元気いっぱいの子はおりませんわ。今日の午後は、友だちと映画を観に行きましたの。戻りは遅いと思いますわ」
 どうやら謎はますます深まっていくようだ。アーチャー夫人は明らかに、なにか理由があって娘を博士に会わせたくないのだ。とはいえ、受託者として、博士には面談を求めるだけの権利があるとも言えた。どっちを向いても、クラヴァートンに関わる人々はなにか隠し事を持っているようだ。
 「でも、まだ質問にお答えいただいてませんよ、プリーストリー博士」アーチャー夫人は気遣わしげに話を続けた。「ジョン卿の遺産に対するメアリの権利は誰も争えませんわよね? 仮にその人たちがなにか重大なことを見つけたとしても、ということですけど」
 「さて、アーチャー夫人、おっしゃる意味がよく分かりませんね」博士はぴしりと答えた。「お嬢さんの権利請求に異議を唱える根拠があるとすれば、お嬢さんがクラヴァートンの遺言書で触れられている人物とは実は別人だということしか考えられませんよ」
 「まあ、もちろん本人ですわ!」アーチャー夫人は激しくそう言った。「そのことには一点の疑いもありません。でも、ひどいことばかり書き連ねた脅迫の手紙を受け取ったんです。どういうことなのか・・・」
 彼女はいきなり話の途中で口をつぐみ、立ち上がった。しばらくじっと聞き耳を立てていたかと思うと、慌てて弁解しながら部屋を走り出ていった。
 博士は肩をすくめた。この事件のなかで会う女たちは、みな同じわけのわからない態度を見せる、と思いはじめていた。アーチャー夫人はどうやら突然パニックに襲われて家から駆け出ていったようだ。表戸口のドアが開き、夫人の足音が外の道路に響くのが聞こえたからだ。すると、エンジンの振動音が遠くから聞こえてきた。音は次第に大きくなり、オートバイが近づいてくる音だと分かった。音は明瞭な轟音にまで強まったかと思うと、バイクがウィロウズ荘の正面に停まって音はいきなり消えた。
 ちょうどそのとき、アーチャー夫人の声が博士に聞こえたが、なにやら心配そうに尋ねている。すると、落ち着きを失ってはいるが、よく通る娘らしい声が夫人に答えた。博士には、「事故」とか「ベアリトスを呼んで」といった、ほんの一言か二言聞こえただけだった。
 しかし、それだけ聞こえれば十分だ。事故というその一語があれば大義名分が立つ。博士は急いで部屋から出ると、表戸口の開いたドアから道路に出た。暗かったせいもあり、はじめはヘッドライトの光に目がくらんだ。しかし、近づいていくと、ライトは消え、誰かが懐中電灯をつけた。
 すると、視界がはっきりしてきた。オートバイとサイドカーが門の前に停まり、人が二人、サイドカーに身を乗り出していた。一人はアーチャー夫人で、もう一人は若い娘だ。娘は厚手のコートとスカーフに身をくるんでいた。サイドカーには身動きしない人物が乗っていたが、見たところ青年のようだ。
 博士が近づいても誰も気づかなかった。「急いで、お母さん!」と娘は言った。「ベアリトスを呼んでくれば、この人を客間のソファに運んで行けるわ・・・」
 娘は、プリーストリー博士がそばに立っているのに気づくと、急に口をつぐんだ。しかし、彼女は博士がいることになんの違和感も抱かなかったようだ。「あら、ベアトリスよりあなたのほうがいいわ!」と彼女は声を上げた。「事故があったのよ。友だちが大けがをしたの。うちの中に入れてやりたいのよ。頭のほうを持っていただけるかしら」
 博士には彼女の顔は見えなかったが、現場の采配を揮おうとする勇ましさが心の琴線に触れた。言われたとおりけが人の肩を持ち、博士と娘とで青年を担ぎあげてサイドカーから降ろした。アーチャー夫人は一言も話さなかった。しかし、二人が青年を担いで歩き出すと、夫人はうめくように妙な泣き声を上げ、彼らより先に家の中に駆け込んだ。
 二人は黙ったままけが人を家の中に運び込んだ。ソファに青年を横たえると、博士はその顔を覗き込んだ。まだ若く、たかだか二十歳ぐらいだ。博士の見たところ、体格がよく、ハンサムというより賢そうな顔つきをしていた。それがざっと見た印象だった。だが、青年の容貌よりも至急目を向けなくてはならないことがほかにあった。ズボンの右足部分が、太ももから下に向けて切り裂かれていた。右足のひざのすぐ上にはハンカチが巻かれ、それをスパナで締めて止血帯にしていた。それでも足全体が血に染まり、気の毒な青年は失血のせいで完全に気を失っていた。
 博士が青年の観察から目を上げると、アーチャー夫人が、猫がネズミを見つめるように博士を見ていた。「メアリは電話をかけに行きました」妙にのどを詰まらせながら言った。「その・・・見ましたわね?」
 なにを見たというのか? と博士は思った。この女は、今度はいったいなにを考えているのか? 「申し訳ないが、この青年のほうが心配だから、お嬢さんにまでは気が回りませんでしたよ」と答えた。「とてもしっかりしたお嬢さんのようですね。医者を呼ぶのに電話しに行ったんですね? けが人は専門家にゆだねるのが早いに越したことはありませんよ。ところで、この人は誰ですか?」
 「あら、以前からの友人ですわ」彼女は急いで言った。「私たちはビルと呼んでます。姓はオールドランドですわ。近隣のバラビーでお母さんと一緒に暮らしてたんですけど、彼女は数か月前に亡くなりましてね。今はマートンベリーで部屋を借りて住んでいて、会うことも多いものですから・・・」
 娘の足音が玄関ホールから聞こえると、夫人は口をつぐみ、ドアに駆け寄った。まるで娘が入ってくるのを阻止しようとするみたいだった。博士に会わせてはならないという馬鹿げた衝動にまだとらわれているようだった。しかし、メアリ・アーチャーは母親をやさしく脇に押しやった。「ばかなこと言わないで、お母さん!」ささやき声の指示に答えてそう言った。「数分もすればシートン先生が来られるわ。それまでは私がビルを見てます」
 こうして、プリーストリー博士は、こうこうと明かりのついた部屋で初めて彼女を真正面から見た。背が高くて頑健そうで、少年のような体つきをし、身のこなしになにやら未熟なぎこちなさがある。まるで、四方を壁に囲まれた客間よりも、戸外にいるほうが落ち着くという感じだ。健全なイギリス人らしく、青い目ときちんと短く切りそろえたきれいな髪をし、愛らしくもあった。見た目では、同年齢の凡百の娘と大差はなかった。とはいうものの、博士には、ひと目見ただけで彼女の秘密を知るには十分だった。博士は慌てて目をそらし、ビル・オールドランドの足のけがの手当てに集中した。
 博士はとうとう知ってしまった。アーチャー夫人も博士の目を見て、一瞬にしてそのことを悟った。とたんに夫人はへなへなと身近な椅子のほうによろめいて座りこみ、秘密を知られた子どものように、なにも言わずにわっと泣き出した。すすり泣く声が博士の胸を締めつけた。
 慰めの言葉をかけようとも思ったが、娘の手前、差し控えた。なにはともあれ、この気まずい場面を終わらせることが必要だ。素早い機転で、一つだけ手立てを思いついた。
 「無理もありませんが、お母さんは動転しておられるんですよ」博士はそばに立っている娘に静かに語りかけた。「お母さんにはなにかほかのことをしてもらったほうがいいでしょう。シートン先生が来られるまでに、お二人で水とタオルの用意をしてくれますかね。そのあいだ、オールドランドさんには私が付き添ってますよ」
 メアリ・アーチャーはこの提案を渡りに船と思ったようだ。「そうね!」と力強く言うと、急にかすかなささやき声で言った。「彼、大丈夫かしら?」
 「と思いますよ」博士は極力明るく答えた。「その止血帯のおかげで救われたんですよ。付けてくれたのは誰ですか?」
 「私です。こんなつまんない応急措置でも結局は役に立ったわけね。さあ、お母さん、シートン先生が来られるまでに準備しておかなくちゃ」
 彼女がアーチャー夫人を部屋から連れ出すと、博士は思弁にふけりそうになるのを努めて自制しながら、オールドランド青年に注意を集中した。青年はじっとしていない気配があったため、固定した止血帯をだめにしてしまいそうだった。博士もしばらくは完全に手を取られ、目の前の異常な混乱の謎を解き明かしている余裕はなかった。
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