ジョン・ロード『クラヴァートン事件』第十二章-2

 さいわいなことに、シートン医師はすぐに到着した。ぶっきらぼうで、元気に満ちた中年男性だったが、明らかに家族の旧友だった。「なにがあったのかね?」メアリ・アーチャーの案内で部屋に入ってくるとそう言った。「ビル・オールドランドは従軍中だったとでもいうのかね? あのオートバイは彼の物なんだろ。危険きわまりないといつも言っておいたのに。いや、その話は今は聞きたくない。まず手当てをしないと。ほう、応急措置をしてあるのか。悪くないな。だが、傷は縫合しなくちゃならん。ここに残って手伝ってくれないか、ミス・メアリ。血を見たからといって気を失ったりしないだろ」
 博士は、もはや自分はお呼びでないと気づき、部屋を出ていった。玄関ホールにはアーチャー夫人が突っ立っていた。夫人は博士をダイニングに案内し、ドアを閉めた。もう涙は収まっていて、博士のほうを挑むように見た。 「それで?」と彼女は尋ねた。博士は、夫人の声に挑戦するような響きを感じた。
 挑戦か。秘密を暴かれた以上、自分に歯向かってくると恐れているかのようだ! 博士は返答せず、限りない同情の色を浮かべて彼女を見た。挑むような様子が彼女の目からゆっくりと消えていき、はっきりと安堵の色が浮かんだ。「もうなにもかもお分かりですわよね?」夫人はためらいがちにささやいた。
 「ええ」博士は重々しく言った。「申し上げておきますが、その事実を知ったことで、お二人への共感はこれまで以上に強くなるばかりですよ」
 「お言葉痛み入りますわ」夫人は簡潔にそう言った。「この時をどれほど恐れたことか。私も臆病だったのでしょう。でも、ずっと秘密にしてきたものですから、知られたらどうしようという恐れがつきまとっていたんです」
 「秘密をほかの人にまで知らせる必要はありませんよ。少なくともさしあたりはね」博士はやさしくそう言った。
 しかし、夫人は払いのけるようにその言葉を拒むしぐさを見せた。「いえ、あなたのおかげで、直視する勇気を持つことができましたわ」と言った。「嘘をついてごめんなさい、プリーストリー博士。だから、以前いらしたときに娘を会わせなかったんです。今日も会わせるつもりはありませんでした。今夜、映画鑑賞に行くように仕向けたのは私ですの。でも、娘が客間に入ってきたときのあなたの表情を見て、気づかれたと思いましたわ」
 「ジョン・クラヴァートンを知っている者なら、お嬢さんが彼の娘だとすぐ気づくでしょうね」博士はきっぱりと言った。
 夫人は素早く顔をそむけた。おそらく、上気して赤らんだ顔を隠すためだろう。「いえ、恥じてなどいませんわ!」さっきまでの挑むような態度を幾分取り戻したように声を上げた。「ジョンのことはほんとに愛してましたし、自分の行為を恥じるつもりはありません。秘密を守ってきたのは、メアリのためなんです」
 「よく分かっていますよ、アーチャーさん、信じてください」と博士は答えた。
 しかし、夫人は博士の言葉をほとんど聞いていないようだった。封印されてきた真実は、沈黙のダムが決壊した今、とめどなく彼女の口からほとばしり出てきた。「初めてお目にかかったときにお話ししたことは嘘です」と必死で穏やかさを保ちながら言った。「これはずっと昔にジョンとのあいだで取り決めたことなんです。もちろん、説明は自分でこしらえなくてはいけませんでしたけど。夫が海軍将校で、一九一四年に召集されたというのは本当です。私がジョンの秘書だったというのも本当ですわ。でも、私がジョンの愛人になってしまったことは、私たち以外には知る者はいませんでした。
 ああ、私一人が責めを負うだけならたやすいことですわ。メアリのことがなければ、私だって気にしたりはしません。誰が何と言おうと、二人で過ごした日々を誇りに思っております。たとえ永遠の地獄の業火で焼かれようと、その思い出の一瞬たりとも捨てたりはしませんわ。あなたにとっては、ジョンはあくまで友人の一人でしょう。私にとっては、これまでに出会った一番いとしい人なんです!」
 夫人は、この誇りに満ちた告白で気を静めたようだ。ひと息つくと、さらに落ち着いて話を続けた。「大戦の初めの頃に会ったのを最後に、夫とは再会できませんでした。そのときから、私たち夫婦の人生は離ればなれになってしまったんです。夫は遠隔地の駐屯地に派遣され、きっとそこで自分の慰めを見つけたことでしょう。私も関心事を見つけましたけど、それはのちに、初めて体験するような愛に変わったんです。
 夫は船の沈没前に休暇帰国することはありませんでした。事故が起きたときも、溺死したわけではないんです。もしそうだったら、状況はまるで違っていたでしょう。夫は海から救助されて、捕虜としてドイツに送還されたんです。
 ジョンと私は、メアリができたことを知って、ジョンの了解を得て夫に手紙を書きました。ジョンはなんとかして、私を自由の身にしたいと思っていたんです。そしたら、ジョンは私と結婚して、相続したロンドンの家で一緒に暮らしたはずですわ。でも、夫はその手紙はもちろん、私が送った手紙には一切返事をくれませんでした。休戦協定後に解放されると、夫は行方不明になってしまい、ジョンもあらゆる手を尽くしましたけど、消息はつかめませんでした。
 ともあれ、ジョンは私に一緒にロンドンに来てくれるよう求めました。でも、私にはできませんでした。夫がいつ思いがけなく姿を現すか心配でしたし、そうなればスキャンダルになるはずです。なにが起きようと私は気にしません。でも、ジョンがその手の事態を嫌うことは分かってましたし、そんなことを恐れながらでは、私たちの幸せだって台無しです。
 それでも私たちは定期的に会いました。年に二度、静かな海辺の宿にメアリを連れていき、彼も土地のホテルに滞在するようにしていました。メアリには、年長じてから、私たちは戦時中に知り合った昔なじみだと話しました。娘には『ジョンおじさん』だったんです。娘も私のように、ジョンに会える時期の来るのが楽しみになったようですわ。
 そしたら、去年の初め、まったくの偶然ですが、夫が南米で亡くなり、自分が自由の身になったと知ったんです。もちろん、まずはジョンに知らせたいという衝動に駆られました。でも、けっきょく知らせませんでしたわ。これほどの歳月を経たあとでは、彼に申し訳ないとも思えましたので」
 博士はじっと聞いていたが、夫人が冷静な言葉の裏で激情を抑えているのを見抜いていた。しかし、最後の言葉は意味を測りかねた。「申し訳ない? アーチャーさん、意味がよく分かりませんが」
 「でも、お分かりのはずですわ。ジョンという人をご存知でしょ。夫が死んだと話せば、私と結婚すると言い張ったはずです。でも、私に彼を幸せにできたでしょうか? ずっと前から結婚生活を送れていたのなら、もちろんです。でも、彼はボーマリス・プレイスでの一人身の生活にすっかりなじんでいましたし、そこにいまさら妻と娘を迎え入れれば神経にさわったはずですわ。プリーストリー博士、私は彼のことをとても愛してましたし、彼の重荷になることはできなかったんです」
 博士は同意の意味でうなずいた。彼女の言うとおりだ。毎年数週間だけ続いた秘密の逢引きが、十三番地の家の名状しがたい束縛から解放される息抜きにもなったことだろう。アーチャー夫人と有能で活発な娘が、忘れられた時代の遺物のようなあの陰鬱な環境に置かれた様子を想像してみた。いや、それはとても無理だ。「十三番地の家は取り壊し作業中ですよ」博士は的外れなことを口にした。
 「そうなんですか?」と彼女は言った。「それを聞いてうれしいですわ。あの家はずっと嫌いでしたから。もちろん、行ったことはありませんけど、ジョンに悪い影響を及ぼしていると思ってました。彼のような人が、住んでいる家に影響されるなんて、ばかげたことのようですけど、それが事実だったと思うんです。年を経るごとにその家に縛り付けられて、引きこもるようになっていきましたわ。意味はお分かりと思いますけど。私に対する態度は少しも変わりませんでした。でも、ロンドンから離れるのがつらくなっていったのも私は気づいてました。女って、そういうことは言われなくとも分かるものですわ」
 夫人はひと息つくと、突然話題を変えた。「お時間をつぶしてしまいましたわね、プリーストリー博士。でも、やっと、ありのままのジョンのことを話せて、どれほど気持ちが晴れたことか。なにもかも話せてよかったですわ。要は、メアリのことですけど。気づかれたらどうしようと恐れてたなんて、思えばばかなことですわ。でも、あの手紙のことは、今もすごく心配なんです。今からそのことをお話ししますわ」
 アーチャー夫人はバッグを取り上げ、そこから手紙を取り出すと、博士に手渡した。「ご自身で読んでいただいて、ご意見をお聞かせいただければと思います」と手短に言った。
 宛先はタイプ打ちされ、封筒にはロンドンの消印があった。封筒の中には紙が一枚あるだけで、それもタイプ打ちされていたが、差出人の住所や日付は書かれていなかった。手紙の内容は確かに驚くべきものだった。

「奥様
 昔からのご主人の船員仲間として、ご主人が一九一四年以降、英本国にいなかったことはよく存じております。したがいまして、メアリ・ジョーン・アーチャーなる、あなたのお嬢様の親御さんが誰なのかは、まことに疑問の余地があるわけです。お嬢様は莫大な財産の相続人となられたわけですから、これは重要な問題ですよ。とはいえ、あなたとこの問題についてご相談させていただくまでは、私もこれ以上踏み込むつもりはありません。ご相談の機会を拒まれるようでしたら、故ジョン・クラヴァートン卿の存命中の親族に対し、然るべき対応をする所存であります。
                               敬具 チャールズ・スペイダー」

 アーチャー夫人は、博士が手紙を読んでいる様子をじっと見つめていた。「どう思われます?」博士が読み終えると、夫人は大声で尋ねた。
 「脅迫を意図したもののように思えますね」と博士は答えた。「署名ではなく、タイプ打ちで『チャールズ・スペイダー』とありますが、この手紙を受け取る前にその名前を聞いたことは?」
 夫人はかぶりを振り、「ありません」と答えた。「でも、夫の船員仲間というのは本当かもしれません。書いてあるとおり、夫が本国に戻らなかったのは事実ですから」
 「お嬢さんの出生は、おそらくメアリ・ジョーン・アーチャーという名で登録されているんでしょうね?」と博士は尋ねた。
 「そうです。父親の名はウォルター・アーチャーと記載しました。どうしたらよかったんですか、プリーストリー博士? ジョンが父親だなんて、登記官には言えませんでしたわ。誰にとってもひどいスキャンダルになったでしょうから」
 「それなら、そう心配することはないと思いますね。確かに虚偽の登録をしたことになりますが、そんなことの罰はさほど重くもないと思いますよ。このチャールズ・スペイダーに、好きなようにしろと言っても、なんの問題もないでしょう」
 「でも、この男がリトルコートさんたちやダーンフォードさんのところに行ったら? あの方たちが事実を知ったら、どうなさるでしょうか?」
 きっと精いっぱいの嫌がらせをすることだろう、と博士は思った。しかし、そうは言わなかった。「虚偽登録がお嬢さんの相続に影響するとは、どのみち考えられませんね」と答えた。「お嬢さんがクラヴァートンの遺言書に言及されている人物であることに疑いの余地はありません。あなたの娘、メアリ・ジョーン・アーチャーとはっきりと言及されていますからね。その女性が誰であるかは、それで決定的だと思います」
 「まあ、そうお聞きして助かりましたわ!」とアーチャー夫人は声を上げた。「とても心配だったんです。だって、もし・・・」しかし、ドアが開いたせいで夫人の言葉は途切れた。シートン医師とメアリ本人が入ってきたからだ。
 「あの青年は、とりあえずできるだけの手当てはしたよ」医師はドシンと椅子に座りながら言った。「だが、ここを出たらすぐ、病院に運べるように救急車の手配をしておくよ。明日あらためて診察するつもりだ」
 「大丈夫なんでしょうね、シートン先生?」メアリ・アーチャーは懇願するように声を上げた。
 「ああ、特段のことがなければ大丈夫だよ」シートン医師はいかにもぶっきらぼうにそう答えた。「だが、あなたは命の恩人ですな、お嬢さん。そう申し上げて慰めになるならいいがね! あなたが応急措置をしなければ、この家に来るまでに失血死していただろうな。だが、どうも妙な事故のようだね。どういうわけでこんなことに?」
「突然のことだったものですから、私もよく分からないんです」とメアリは答えた。「ビルは私を迎えにこの家に来たんです。いつものように、バラビーに初めてできた映画館に一緒に行って、ここに戻ってから夕食をとるつもりでした。そうでしょ、お母さん?」
 「あなたの立てた予定ではね」とアーチャー夫人は言った。
 「お母さんと立てた予定よ! 私もそれでいいと思ったのよ! 予定を考えたのはお母さんじゃないの。だから昨日の夜、ビルには、仕事を早じまいして迎えに来てって言ったのよ。
 ともあれ、一緒に出発して、アシュトン森を抜ける道を走って行ったの。いつもその道を通るんだけど、幹線道路よりずっといい道だからよ。ちょうど暗くなってきて、森のなかに入ってから、ビルがいきなり叫び声を上げて、ハンドルから手を離したんです。私は身を乗り出してハンドルをつかまえたんですけど、さもないと、あやうく溝に落ちてしまうところでしたわ。以前、ビルから扱い方を教えてもらったので、停め方は知ってました。さいわい停められましたけど、ビルがその前に転がり落ちてしまっていたからですわ」
 「そのときに、なにか聞こえたり、見たものがあったかね?」
 メアリは首を横に振った。「なにも見なかったし、あんな古いバイクの走行中じゃ、よく聞こえませんわ。マフラーは壊れてたし、あのバイク、大変な騒音を出すのよ。いまに捕まるわよ、ってビルにはいつも言ってたのに。ビルになにがあったのかと駆け寄ったら、右ひざのすぐ上をけがしていて、ドクドクと血が流れてました。それで、スパナをとってきて、彼のハンカチで精いっぱいきつく縛ったんです。立てそうになかったけど、どうにかサイドカーに乗せて、ここまで戻ってきたというわけ。なにかがバイクにぶつかってきて、彼の足に当たったんじゃないかと思うの」
 「なら、それは勘違いですな、お嬢さん」シートン医師はそっけなく言った。「ご友人になにが起きたか教えてさしあげるかね? 銃で撃たれたんだ。銃創を見て私が分からないとでも? 四年も続いた戦争を経験すれば、すぐ分かるさ。そう、弾丸だよ。そいつが動脈を傷つけて骨も折り、まだ中に残っている。明日、摘出しなきゃならん」
 アーチャー夫人の顔から血の気が引いていった。「弾丸ですって!」と叫んだ。「つまり、誰かに狙撃されたと?」
 「ふつう、弾丸が人体に突入するのは、そうやってだろうね」シートン医師はぶっきらぼうに答えた。
 「でも、なんて恐ろしい! メアリを殺そうとしたのかも!」
 「ともあれ、ビル・オールドランドはあやうく仕留められるところだったのさ。本件については警察に話さなくちゃならん。近頃、物騒な連中がうろついてるとは聞いてはいたがね。だが、まずは救急車の手配をしないと」
 シートン医師はのしのしと出て行き、メアリがそのあとを追いかけた。「ビルに付き添ってやりたいわ」と言った。
 しかし、博士は制止し、「お待ちなさい、ミス・アーチャー」と言った。「一、二、質問があります。オールドランド氏とは、よくアシュトン森を抜けて行くのですか?」
 「バラビーに行くときはいつもです。バラビーにはよく行くんです。こっちには映画館がないし、そこが最寄りの映画館なんです」
 「確かオールドランド氏はバラビーで仕事しているんだったね。通勤にはオートバイを使っているのかね?」
 「時おりで、そういつもでもないわ。列車で行くほうが便利だと思ってるようですから。ひと駅で行けますし」
 「今晩、映画に行くと決めたのはいつですか?」
 「昨夜です。ビルが夕食後にうちに寄って、そこで決めたんです。母がそうしたらと言うもので」
 「最近になって知り合いになった人がいたか、ご存知ですか?」
 「分かりませんわ。仮にいたとしても、そんなことは言ってませんでしたから。まあ、もう彼のところに行かなくちゃ。シートン先生が、救急車が来るまで付き添ってやってくれと言ってましたから」
 プリーストリー博士は、アーチャー夫人の不安を極力なだめると、しばらくして家を出た。内心では、どうも妙な事故だというシートン医師の意見と同じだった。それどころか、その奇妙さゆえに、博士が解決すべき問題に新たな一面が加わることとなった。
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