ジョン・ロード『クラヴァートン事件』第十三章-1

第十三章

 ブラック・ブル・ホテルに戻って、プリーストリー博士が最初に頼んだことは、ベッドルームの暖炉に火をくべてもらうことだった。広々とした部屋には、ゆったりしたベッドとどっしりしたマホガニー製の家具があり、博士は夕食を取り終えるとすぐに部屋に引き取った。ここ数時間に体験したことについて考えをまとめるには、一人になる必要があると感じたからだ。
 これで、クラヴァートンの遺言書の謎はついに解き明かされたわけだ! アーチャー夫人の告白を前提に考えれば、生前より今のほうが旧友のことが分かるようになったと感じていた。彼も身を焦がすような情熱のとりこだったのであり、その思い出にすべてを捧げていたのだ。十三番地の自分の図書室に引きこもり、孤独な過ごし方をしていたのも納得できた。愛する女性、その人が儲けてくれた娘と一緒に暮らせなかったものだから、世間から遠ざかり、失った幸福のことをくよくよ考えながら過ごすことを選んだわけだ。
 静かな海辺の町を訪れ、三人が一緒になるしばしの時を別にすれば、彼らは周囲にいる人々と同じ他人同士でしかなかった。歳月を経るにつれ、情熱の炎は深い愛情の温かいゆらめきに落ち着いていったに違いない。アーチャー夫人としか分かち合えない喜びを抱きながら、親子の名乗りもできない娘がすくすく成長していく様子を見守っていたのだ。ただ一つの気がかりは、自分が死んだあと、どうすれば娘を、出生のうしろ暗さを打ち消せるだけの境遇にしてやれるかということだった。
 もはや状況は明らかだ。なにがあろうと、娘の大切な将来を守ってやれるように取り計らったのだ。しかし、親子はごまかしようもなく酷似していた。メアリは、容貌の端々に至るまで、クラヴァートンの娘だと宣言しているようなものだった。仮にそのことに彼女が気づいたことがあったとしても、娘らしい邪気のなさのおかげで、気に留めることもなかったのだろう。しかし、遅かれ早かれ、真実は明らかになる。博士がまさにその晩気づいたように。そうなれば、彼女は不倫の子という恥辱の烙印を押されることになるのだ。
 博士には、そのことがクラヴァートンの心にいかに重くのしかかっていたか想像できた。妹が不名誉な結婚のせいで社会から見捨てられたように、夫人と娘も見捨てられてしまうのは耐えがたいことだったろう。娘が社会ののけ者となり、所持金を狙う悪い虫の餌食となるさまが目に浮かんだに違いない。
 クラヴァートンは「世間体」にぬかずく男だったし、それは父が子に対して犯した罪を容赦なく裁く厳格な神のごときものだった。いかめしい陰鬱さの漂う十三番地の家は、彼には祈りを捧げる神殿だったのだ。娘が世間に顔向けできるようにするにはどうしたらいいか思いあぐねて、何時間も眠れぬ時を過ごしたに違いない。
 こうして、いかにも彼らしい考えに思い至ったわけだ。アイヴァー・ダーンフォードは、クラヴァートン家の血筋であり、したがって、一族の厳格な基準に照らしても、世間体を保てる男だ。この卓越した属性は、結婚によって付与することができる。もちろん、それは一定の要件のもとでだ。二人は必要な生活水準を維持しなければならない。クララ・クラヴァートンは、結婚しても、いかがわしい巡回伝道者に世間体という聖衣をまとわせることはできなかった。むしろ、彼らは、あやしげな信仰のために、真の神への礼拝を放棄したのだ。しかし、自分の娘であるメアリには、そんな愚行は絶対に犯させてはならない。
 この論理は完全に筋が通っている。娘がアイヴァー・ダーンフォードと結婚すれば、すべてうまくいく。クラヴァートンは、どうすれば望むべき結果を得られるか考えたわけだ。甥の野心的な性格を考えれば、相応の金を目の前にぶら下げてやることが抗いがたい誘因になる。かくして、誘い水の金が提示されたというわけだ。
 見たところ、ダーンフォードはこれを受け入れた。用心深くヘレン・リトルコートを避けるようになったのも、伯父の遺言書の内容を知ってからだ。博士は、リズリントンの話のなかに推理の手がかりがあることに気づいた。いうまでもなく、リトルコート夫人が裏で画策している。婚約不履行のことは脅しで使っただけだ。ダーンフォードは手遅れにならぬうちに、自分たち親子の側につなぎとめておかなくてはならぬというわけだ。どうやら今のところ、彼はアーチャー親子とよしみを通じてはいないようだ。
 次に、アーチャー夫人に届いた例の驚くべき手紙がある。博士は、ただの脅迫の試みとみて軽く考えてしまっていた。確かにある意味ではそうだろう。しかし、もっと重大な意味があるのではないかと不安になってきた。自称チャールズ・スペイダーなる、アーチャー夫人の夫の旧船員仲間が本当に実在するか、かなりあやしい。そんな人物が、公になって間もないクラヴァートンの遺言書の内容をどうやって知ったというのか?
 この件も、博士は、リトルコート夫人が黒幕ではないかと疑っていた。兄がアーチャー夫人とただならぬ関係にあったことは、彼女も疑っていただろうし、戦時中のアーチャー夫人の夫の動向についても調べたのかもしれない。そうした情報は辛抱強く調べれば分かるだろうし、博士も、リトルコート夫人には底知れぬ辛抱強さがあると見抜いていた。日々、あの薄暗い客間に座りながら、オールドランドが言うように、事が起こるのをじっと待っていたではないか。
 オールドランド! 父親のことがふと心をかすめると、博士は息子のほうに思いをめぐらせた。クラヴァートンの認知せざる娘とオールドランドの絶縁した息子。彼らが両親同士の交友をなにも知らずに出会ったというのも奇遇だ。どうやら息子のほうは彼女に深く思いを寄せているらしいのも実に妙だった。メアリはまだ子どもにすぎない。ただの年若の男女の友情を過大視するのもばかげたことだろう。だが、とまれ、メアリなら、クラヴァートン家らしい頑固さで、自分の愛のほうを優先して父親の遺志を拒むこともあるかもしれない。
 いや、リトルコート夫人の問題に戻ろう。あの手紙を仕組んだのが夫人なら、目的はなんなのか? 間違いなく、スキャンダルを公然化するという脅しでアーチャー夫人を震え上がらせようとしたのだ。中傷を浴びせることでダーンフォードを怖気づかせ、メアリに近づかせまいと考えているのかも。さらには、アーチャー夫人から手当をせしめるために、自分の持つ情報を脅しの手段として使おうと保持しているのかもしれない。一点確かなことがある。彼女には情け容赦がないということだ。アーチャー親子を恰好の標的とみていることだろう。本来なら自分と娘のものになったはずの財産を彼らが相続したのだから。
 とはいえ、手紙よりもずっと重大な問題がある。今日の午後、ビル・オールドランドをみまった「事故」だ。メアリの説明が正しいとすれば、彼はアシュトン森に隠れていた何者かに撃たれたのだ。傷は右足の外側、ひざのすぐ上にあった。
 銃撃はただの事故だったのか? それはまずありそうにない。もしそうなら、撃った人間は間違いなく、起きたことを見て、すぐに姿を現しただろうからだ。同じ理屈は、シートン医師の言う怪しげな連中にもあてはまる。確かに最近、交通のまばらな道路で車両がホールドアップに遭遇する事件が起きている。だが、オートバイが銃撃されたり、まして強盗に狙われたという事件はない。
 となると、これはオールドランド青年を殺そうとした意図的な試みと思われる。弾の向きがもう少し上のほうだったら、胴体を貫通していただろう。だが、彼を殺したい動機はなんだというのか? 博士は、この謎の解決はもっと違った方向に求められるべきだと感じた。
 傷の位置のことを考えているうちに、真相の可能性が思い浮かんだ。オートバイ走者を殺そうと思うなら、もっと上のほうを狙ったはずだ。狙撃者はおそらく道路近くの森のはじに潜んでいたのだろう。オートバイ走者は、薄暗がりでは、近距離からでも間違いなく難しい標的だ。しかし、動く標的を狙って的を外したのだとすれば、縦の方向からではなく、横から狙った可能性のほうが高い。弾丸は狙った場所の前か後ろに当たりそうなもので、その上や下に当たるとは思えない。
 プリーストリー博士は、オートバイ走者とサイドカーの同乗者の相対位置を思い描いてみた。同乗者の頭と胴体は走者のひざとほぼ同じ高さの位置にある、と博士は結論づけた。銃撃はメアリを狙ったものではないのか?
 博士の思考は再びリトルコート夫人のほうに戻っていった。夫人以外に彼女の死を望む者がいるだろうか? それなら、夫人の意図は明らかだ。メアリさえ排除できれば、ダーンフォードはもはや自分の娘をないがしろにはしないだろう。然るべき駆け引きを駆使すれば、二人の結婚は滞りなく実現する。リトルコート夫人は確かに並はずれた女性だ。しかし、夫人がひと気のない道路のわきで、銃器を手にして待ち構えていたとはとても考えられない。夫人が事件の黒幕だとしたら、ほぼ確実に実行犯を雇ったのだ。それなら、その実行犯を見つけさえすれば、クラヴァートンの死にまで遡って、事件の全貌を明らかにする有望なチャンスが生まれる。博士は、友人の復讐を果たすべく一歩も引かぬ決意を固めていった。
 しかし、博士の精神はいつもの冷静な論理性が支配していた。地元警察が狙撃犯を見つけるとはほとんど期待できない。警察は界隈の怪しげな連中を捕まえて尋問することだろう。だが、リトルコート夫人が雇った実行犯は、まず間違いなく、警察が考えるような怪しげな輩ではあるまい。その男は見かけは品行方正な社会の一員だろう、と博士は考えた。
 男という言い方を無意識にしたところで、博士の推論ははたと止まった。狙撃者が女だという可能性は考えていなかったな。だが、そうであってもおかしくない。身近なところに使い勝手のよい手先がいるなら、リトルコート夫人が外部の人間を雇う理由などあるまい。夫人の娘は、目の前で伯父が死んでいくまま放置したほどの信じがたい大胆さをすでに見せている。自分の財産相続と愛情の邪魔になる娘を殺すのに、良心の呵責など抱くだろうか?
 そんな考えは空想的すぎて、博士には素直に受け入れがたかった。念頭に置くべき一つの可能性というにすぎない。だが、狙撃者が誰であれ、その正体はマートンベリーでは明らかにできないとにらんでいた。博士は朝一番の列車でロンドンに戻ることに決めた。着いたら、自らの足で調査に着手しよう。望んでいる成果は、辛抱強い調査によってのみ達成できると確信していた。
 博士はアーチャー夫人を再訪せずにマートンベリーを発った。夫人と親しくなることをさほど重視してはいなかったからだ。ロンドンに戻ると、オールドランド医師に電話し、晩に家まで来てほしいと頼んだ。
 オールドランドは快く承諾し、博士が夕食をすませた直後にウェストボーン・テラスにやってきた。「電話してくれてありがとう」と彼は言った。「クリスマス以来だね。なにか大事なことでも?」
 「マートンベリーから戻ってきたところなんだ」博士はオールドランドのほうを見ながらそう言った。
 「マートンベリーだって? そりゃいったいどこだい? どこかでその地名を見たような気がするが、どこなのかまるで思い出せないね」
 「アーチャー夫人の家があるところだ」博士はゆっくりと言った。「バラビーからほんの数マイルのところだよ」
 オールドランドは博士のほうを素早く見た。博士の声に穏やかならぬ響きがあったからだ。「バラビーでなにがあったのかね?」彼はだしぬけに尋ねた。「ビルがなにかトラブルでも起こしたんじゃないだろうね?」
 差し迫った口調から、なにが知りたいのか、博士にも分かった。わけがあって、おそらくは一人暮らしの寂しさのせいで、オールドランド夫人の死以来、息子のことが気がかりだったのだろう。たぶん、どちらも気位の高さから、自分から動こうとはしなかったのだろうな。だが、少なくともオールドランドにとっては、親子の和解は、失った幸福をいくばくか取り戻すことを意味したはずだ。
 「息子さんのトラブルは、自分で起こしたものじゃない」と博士は答えた。「いま入院している。足に弾丸が残っていてね。はっきり言えるのは、アーチャー夫人の娘が彼の命を救ったということだ」
 「謎みたいなことを言うじゃないか、プリーストリー!」とオールドランドは声を上げた。「息子がどうしたというんだね? それにまた、アーチャー夫人の娘とどんな関係があるというんだい? その娘は、クラヴァートンの財産を相続した娘だろう?」
 これに答えて、プリーストリー博士は、ウィロウズ荘で体験したことを説明した。「明らかに、何者かが二人を待ち伏せし、狙撃したんだ」と博士は結論づけた。「今ごろは、地元警察が狙撃者を捜索しているだろう。見たところ、あの青年はアーチャー親子から家族の一員のように大切に扱われているね」
 しかし、オールドランドは聞いていなかった。「骨折して、動脈が傷ついただって?」と心配そうに言った。「君の言うシートンという男がしっかりした医師ならいいがね。あてにならん医者なら、息子は終生足が不自由になるかもしれん。なあ、プリーストリー、すぐにでも駆けつけて、確かめたいんだ。ミルヴァーリー君に一、二日ほど診療を代行してもらうことにするよ。確か今はロンドンにいるはずだ」
 「すぐにマートンベリーに行ったほうがいいだろう」と博士は言った。
 「そう思うかい? じゃあ、取り急ぎ出発することにするよ。これで失礼させてもらっていいかね? すぐにミルヴァーリーに電話して、今夜打ち合わせに来てもらうよ」
 博士も、オールドランドが出向くことに異議はなかった。それどころか、彼が行ってしまうと、博士は悦に入りながら静かに笑い声を立てた。なにごとも思惑どおりに進んでいたからだ。
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