『クラヴァートン事件』--蛇足めいた訳者あとがき

 いかがでしたでしょうか。『クラヴァートン事件』。
 (新着記事から読むと、順序が逆になってしまいますが、右側のカテゴリーの「クラヴァートン事件訳載」から入っていただければ、第一章から順に読んでいただけます。)
 以前の記事でも書いたとおり、ロードの作品は1940年代以降の作品になると、一種の定型パターンに陥る傾向が強くなります。単純化すると、事件発生→警察による捜査・尋問→例会出席者による議論→博士による謎解き、というパターンで、特に、中間部に延々と尋問や議論の場面が続くため、ストーリー展開が滞って退屈さを感じさせる作品が増えてくるのです。その意味では、ジュリアン・シモンズの批判も、必ずしも的外れとは言えないでしょう。極端なことを言えば、この中間部をごっそりと省いて、コンパクトに短編か中編にまとめていれば、ずっと面白い作品になったのに、とすら思わせる作品が少なくありません。代表作として名高い『ハーレー街の死』も、プロット自体は大変面白いのですが、中期に属する作品のせいか、延々と議論の続く退屈な中間部がストーリー展開を損なっているようです。
 年に4、5作も発表していた多作家のロードは、ストーリー展開や人物描写を十分練り上げることをせず(というか、そんな余裕もなく)、基本的なプロット・アイデアを思いつくと、あとはこの定型パターンに沿って紙数を埋めていき、長編にまで引き延ばしたのではないかと思われる節があります。そんなことからすると、ロードは本質的にはエドワード・ホックのように中心的なプロット・アイデアで勝負する短編向きの作家ではなかったかと思われます。
 しかし、1930年代までの脂も乗っていた初期作品には、プロットに覇気があるだけでなく、ストーリー展開や人物描写にも丁寧に取り組んだ作品が多く、傑作はこの頃に集中しているようです。中・後期の作品から受ける印象だけでロードを「退屈」と決めつけるのは、その意味で早計であり、キーティングの言うように、『クラヴァートン事件』のような「例外」が幾つもあることを認識すべきでしょう。
 この『クラヴァートン事件』は、プリーストリー博士やオールドランド医師の過去も明らかにされる、シリーズ中でも重要な位置づけにある作品であり、この二人がこれほどヒューマンに性格描写されている例もほかにはなかなか見当たりません。
 降霊術会を舞台にした大団円も劇的で、遺言書にまつわるエピソードや、ビル・オールドランドの狙撃事件など、ロードの作品でこれほど起伏に富んだストーリーテリングを楽しめるものは多くありません。メイン・トリックだけでなく、こうした要素も本作の評価が高い理由と言えるでしょう。
 さて、そのメイン・トリックについて、念のため、ここでもう一度おさらいしておきましょう。理科系の人にとっては常識に近いものですが、そんな初歩的な知識を「釈迦に説法」よろしく、文系出身の私が改めて解説するのもなんですが、それというのも、ネットの書評などを見ていると、本作のトリックを「専門知識」だとして難色を示している読者もおられるからです。
 もちろん、そう思えたとしても別に不思議ではありません。「理科(化学)は苦手だった」という人も多いでしょうし、テレビ番組でもよく取り上げられるように、中学や高校の試験問題に大人になってから改めて接すると、子供の「常識」が大人には「専門知識」に見えるという笑えない体験だって珍しくないのですから。それに、解決部分での説明は、ちょっと不親切な感もあり、理解しにくいと思われる読者もいるかもしれません。
 ですので、「そんなの知ってるよ」とおっしゃる方も多いとは思いますが、そこはご容赦ください。(ここから先はネタバレを含むため、表示反転にいたします。)
 金属ナトリウムは、パテのように柔らかく、包丁でもサクサク切れるし、切った断片を水に入れると、激しく反応して水素ガスを発生し、点火して燃えますが、その実験の様子は、Youtubeや子供向けの科学の本などでも見ることができます。学校で実際に実験した経験のある人もいるでしょう。
 その化学反応は、2Na+2H2O→2NaOH+H2という化学式で表されます。発生したH2(水素ガス)は、反応で生じた熱で発火するわけです。そして、水のほうは、NaOH(水酸化ナトリウム)の水溶液となります。胃液の胃酸はHCl(塩酸)ですので、水酸化ナトリウムと反応すると、HCl+NaOH→H2O+NaClという化学式のとおり、水と塩化ナトリウム(塩)に変化するわけです。
 「もんじゅ」の事故でも知られるとおり、ナトリウムは水や空気に触れるだけでも激しい反応を起こすため、金属ナトリウムは通常、石油の中に入れて保存しておきます。したがって、そのまま口に入れたりなどすれば、唾液に反応して口腔内やのどを火傷し、大騒ぎするはめになるはずですが、ゼラチンのカプセルに入れれば、本作のトリックも可能と思われるわけです。
 犯人のダーンフォードは実験化学者という設定なので、カプセルの中に仕込むにも、空気が入らないように密閉するだけの技術があったのかもしれませんが、素人が試みてもなかなか難しいかもしれませんね。また、本作の設定では、ほんの数日、箱の中に保存しておくだけなので、まだうまく行ったのかもしれませんが、長期保存となると、カプセル内に空気が入ったりなどして元も子もなくなる可能性はあるでしょう。金属ナトリウム自体も、素人が容易に入手できるものではないし、仮に手に入れても足がつきそうですね。いずれにしても極めて大きな危険を伴いそうです。
 そこから作品のプロットを顧みると、フェアプレイという点では、トリックに気づきさえすれば、おのずとそんなことがやれる犯人も絞り込めると言えるでしょう。また、前提となる知識の平明さと「痕跡を残さない毒殺」という独創性を考慮すれば、毒殺のハウダニットをテーマにした傑作の一つと言えるのではないでしょうか。

 ロードの作品の中でも、『クラヴァートン事件』は、ハウダニットを得意とした作者の本領が見事に発揮され、典型的なロードらしさを最もよく堪能することのできる代表作の一つと言えます(これに比べると、邦訳のある『プレード街の殺人』や『電話の声』は、ロードとしてはややユニークな作品か)。「退屈」という欠点が目立たず、読み応えのあるストーリー展開を楽しめるという点でも、これからロードを読んでみようという読者には入門書的な作品として最適といえるでしょう。この訳載を通じて、今まで日の当らなかったロードの作品に関心を持っていただけるなら、これにすぐる喜びはありません。
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ジャンル : 小説・文学

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祝『クラヴァートン事件』

フチガミ様

翻訳のアップ、ご苦労様でした。
The Claverton Mystery は既読ですが(好きな作品です)、連載の完結を機に、御訳文でもう一度読み返してみます。

トリックの解説は、恥ずかしながらそれを「専門知識」と見ていた小生には、たいへん勉強になりました。

刊行予定が無いのは残念ですが、この翻訳はブログでしか読めません、というコンテンツがあるのも、確かに魅力ではありますね。
「ROM叢書」から刊行されるという、『代診医の死』(こちらの原作は“積ん読”でした)も、楽しみにしております。

おっさん拝

あるショックな出来事から、以前の返信は削除・・
はっきりは言えませんが、ロードを我が国に
紹介するために開拓的な紹介をしてこられた
ある方に、この翻訳を捧げたいと思います。
その業績は不滅だと思うし、後進の立場として
その火を消さないようにしていきたいと思う・・。

K氏のこと

フチガミ様

訃報に接し、小生も打ちのめされた思いです。
じつは、氏の体調が大変悪いらしいことは、同人誌の仲間から漏れ聞いていました。
なので、前回のご返信に対し、ひとことコメントすべきかと悩んだのですが・・・

ロードの紹介にあたって、K氏が果たした役割は、ディクスン・カーにおける江戸川乱歩にも相当すると思います。
しかし、先達の業績のうえにあぐらをかかない、じっさいに自分で読んだうえでの、新たな視点によるロード再評価を、いちばん喜んだのも、K氏だったでしょう。

同人誌と叢書の今後が(有志が動く可能性はあると思いますので)気になるところです。
そしてどういうカタチであれ、『代診医の死』のご訳業が公開されますことを、心から願っています。

おっさん拝

ありがとうございます。

漏れ聞くところでは、ご賢察のとおり
有志の方々が一生懸命動いておられるようです。

氏のロードへの熱い思いは、生前にいただいた
メール等でも伝わってまいりました。
氏の遺志を尊重する意味でも、微力ながらも
自分にできる役割を果たしていければ、と思っております。

今はただ、心からご冥福をお祈り申し上げるとともに
生前に十分お報いできなかったことを悔やむばかりです。
プロフィール

S・フチガミ

Author:S・フチガミ
お問い合わせ等は
fuhchin6491
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