クイーン問答――乱歩の「カー問答」風に

(※国名シリーズのネタばれを含むため、未読の方はご注意ください。)
 「フチガミさんのブログにはエラリー・クイーンがあまり出てきませんね。日本ではとても人気のある作家なのに」
 「だって、ほとんど翻訳が出ていて、ラジオ・ドラマまで紹介されているんだもの。君の言うように、いかに人気が高いかよく分かるよね。今さらこのブログで改まって取り上げる余地が少ないんだよ」
 「でも、自分なりのクイーン評は持ってるんじゃないんですか。日本では、クイーンに関するリファレンス・ブックだけじゃなくて、論集を出している人までいますよ」
 「確かに僕にとってもクイーンはお気に入りの作家の一人だけど、日本ではちょっと過大評価されている印象はあるよね。それと、本国アメリカをはじめ、海外ではどちらかというと、ライツヴィル物などの中期(厳密には第三期と言うべきかな)の作品の評価が高いけれど、日本では初期の国名シリーズのほうが人気がある。以下、思いっきり僕自身の独断と偏見で言わせてもらうけど、そう割り切って聞いてほしい。僕自身は、実を言えば、どちらかというと海外での評価傾向のほうに共感を抱いてるんだ」
 「そういえば、『Yの悲劇』への高い評価も、日本だけの特殊現象だと言ってましたね。フチガミさん自身もそんなに評価してないわけですか」
 「だって、ありゃドイルのパクリなんだもの。別に海外の評価に追随してるわけじゃない。ついでに言うと、『ニッポン樫鳥』はアーサー・モリスンのパクリだしね。クイーン(ダネイ)ほどミステリの書誌学的知識のあった人が、彼らの作品を知らなかったはずがないよ」
 「厳しいこと言いますね。ブログであまり取り上げないのも、本当はクイーンが嫌いなんじゃないですか。国名シリーズも実は嫌いとか」
 「とんでもない。心外だなあ。むしろ、中学高校時代に読んだ、楽しい思い出に属する作品群だよ。ただ、「読者への挑戦」を掲げた国名シリーズの過半は、意外と簡単に犯人当てに成功しちゃったという記憶が今も鮮明でね。個別に挙げると、『ローマ帽子』、『フランス白粉』、『オランダ靴』、『エジプト十字架』、『スペイン岬』、それに国名シリーズじゃないけど『中途の家』もだね。それも、ただの当てずっぽうじゃなく、だいたい手がかりの意味に気づいて犯人を当ててしまったわけ」
 「それって、ただの自慢ですよ。いやらしいなあ」
 「ははは・・・失礼しました(笑)。でも、別に僕だけの話じゃなくて、似たような話はけっこう多くの人から聞いたりするけどね。
 年少の頃の読書体験なのに、どうやって犯人を当てたか、そのプロセスも意外とよく憶えている。なぜかというと、それぞれの作品の謎を解く鍵は、ほとんど一つの主要な手がかりの解釈に依存しているからなんだ。そして、それはしばしばタイトルと関連がある。いったんそのポイントに気づけば、あとはそんなに難しくないというわけなんだ。
 敢えてポイントを絞って単純化するけど、具体的に言えば
 『ローマ帽子』→ 消えたトップハット→ きらびやかなトップハットを着用していても不自然でない人物は誰か?
 『フランス白粉』→ 指紋検出用の粉→ 指紋を消すのに捜査用の粉を使いそうな人物は誰か?
 『オランダ靴』→ 絆創膏で修理した靴ひも→ 切れた靴ひもを直すのに絆創膏を使いそうな人物は誰か?
 『エジプト十字架』→ ラベルの貼ってないヨードチンキの瓶→ ラベルなしの瓶を見てすぐ中身が分かる人物は誰か?
 『スペイン岬』→ ケープだけまとった全裸の死体→ 被害者の衣類を奪う必要のあった人物は誰か?
という手がかりの意味に気づけばいい。
 『オランダ靴』であれば、手近に絆創膏を入手できた看護婦が犯人だとか、『エジプト十字架』であれば、瓶の本来の所有者が犯人だとか、『スペイン岬』であれば、海から泳いできて衣類を着る必要のあった者が犯人だということは、中学生や高校生でも、ちょっと考えれば分かることじゃないかな。別にずば抜けた論理的思考力を要するほどの推理でもないと思うけどね。
 実を言うと、今説明したプロットの特徴は、改めて読み返したわけでなく、かつて読んだ記憶だけに頼って説明したんだ。国名シリーズの多くは、コアだけ捉えれば、それほど記憶に残りやすいくらいシンプルなプロットなんだよ。
 要するに、これらの国名シリーズの「論理」というのは極めて単純なもので、ある一つの手がかりの意味を作者の意図に即して理解できれば、ほぼ確実に犯人を推理出来るという程度の論理性でしかない。
 もちろん、エラリーの謎解きはそんな単純なものではなく、様々な可能性をいろんな角度から論じていると反論が返ってきそうだし、確かにいろんな問題点や細部を論じて、いかにもそれ以外に答えはないような緻密さや詳細さを醸し出してはいる(そのわりには、犯罪全体を解明する手がかりが十分与えられているわけではなくて、例えば、『ローマ帽子』であれば、犯人の血に黒人の血が混じっているという動機の手がかりはほとんどなく、謎解きで唐突に説明されるんだけどね)。
 ところが、いったん手がかりの意味に気づいてしまえば、そこから振り返ってみると、実は、プロットのコアとして最初に構想されていたのは、これらの単一の手がかりの意味であって、細部の議論や副次的な問題点はあとから肉付けしていったものだと容易に気づく。
 だから、巷間よく言われる「パズル・ピースを一つ一つ当て嵌めていくような精巧な論理性」だとか、「緻密な演繹的推理」だとかいう評価を目にすると、いつも(大げさだなあ)と思っちゃうんだよね。
 後期の短編で多用したダイイング・メッセージのプロットを単純で幼稚な謎解きとみなして、これを評価しない人もいるけれど、実は初期の国名シリーズの多くも論理の性格や程度は似たようなものじゃないかな。クイーンにそれほど思い入れのない読者の中には、国名シリーズを「子供向き」と評する人がいたりするけど、同様の見方をしているんだと思う。ダイイング・メッセージ物はほとんどコアだけで成り立っているから、余計その幼稚さが際立つに過ぎないんじゃないだろうか」
 「ずいぶんと否定的な評価ですね。プロット構築のプロセスとしては、確かにフチガミさんの言うように、コアとなる手がかりのアイデアから出発して、全体の肉付けをしていったのかもしれませんが、結果として出来上がったロジックの全体は実に隙のないものだと思いますよ。『オランダ靴』などは、まさにそうしたロジックの美が際立つ傑作だと思いますけど」
 「そこはかなり認識の違うところかな。むしろ『オランダ靴』はクイーンのロジックが付け焼刃でしかないことを示す典型例だともいえる。
 トーマ・ナルスジャックは、『読ませる機械=推理小説』の中で、フリーマンとクイーンを比較して鋭い指摘をしているよ。フリーマンの提示する手がかりの事実は、それ自体が明瞭な意味を持っているけれど、クイーンの提示する手がかりの事実は、「不分明な事実であり、意味のない事実であり、活動中の思考に苦痛に感じられる事実」(荒川浩充訳:以下同)だと論じている。その例として挙げられているのが、『オランダ靴』の「切れた後に絆創膏で修理された靴ひも」なんだ。「この事実は、説明するときにならなければ、重要性をもたないだろうし、意味も明瞭にはならない」とね。
 分かりやすく言えば、フリーマンの場合は、『オシリスの眼』がいい例だけど、手がかりとなる個々の事実は、それ自体ほぼ自明な意味をもって提示されているのだけれど、バラバラに見ている限りではその指し示す方向がよく見えない。ところが、これらの個々の事実を帰納的に集積していくと、一つの方向を指し示しているのが見えてくるという推理のプロセスを持っている。まさに帰納法的なロジックなんだよ。
 ところが、クイーンの場合はこれとは大きく異なる。『オランダ靴』の靴ひもの手がかりは、その事実の意味や重要性は、謎解きの段階で初めて分かるようにずっと隠されている。つまり、その一見不分明な手がかりの意味を解き明かしてみせるところに、推理の面白さや醍醐味があるんだね。ナルスジャックが、「それらの手掛りは、茫然とするような最後の解決に結びつけられているため、まったく謎のようなものとなる」と述べているようにね。
 その解明のプロセスをフリーマンの帰納法とは対照的に演繹法的なロジックだと言えば、実際そのとおりかもしれない。ところが、ほぼ一つの手がかりに依存しているために、その解き明かされた意味自体が説得力を失うと、いっぺんに全体が崩れてしまう。帰納法が蓋然性(公算)の推理にとどまる弱点を持つのに対し、演繹法の弱さは、そのプロセスの仮定が一つでも破綻すれば、その先の結論が成り立たなくなる点にあるのだけど、それはエラリーの論理にも当てはまりそうだ。
 ナルスジャックは、「たぶん、犯人は靴ひもを修理するために、手近にあるものを使ったのである。そして、病院のなかにいるのだから、誰でも絆創膏を使うことができたはずである」と指摘しているけれど、まさにそのとおりで、まるで違う人物が名乗りを上げて、「いや、たまたまポケットに入れていたもので・・・」と頭をかきながら発言したら、エラリーはどうしたんだろうね。
 エラリーは、「専門的知識のない人間が、はたして、絆創膏を持ち歩くでありましょうか。そういうことはありえません。専門的知識のない人間には、このような専門職業的な品物を持ち歩くことを考えつくことすらあやしいものです」(井上勇訳:以下同)とあっけらかんと言い切ってるけど、絆創膏が「専門職業的な品物」とは思えないし、指かどこかにケガをしていたら、貼り替え用に持ち歩いていてもおかしくないと思うけどね(笑)。
 つまり、本来コアとして構想されていたのは、絆創膏から看護婦を導くロジックの部分で、その病院では備品は厳格に管理されていたとかの設定や今引用したようなロジックは、コアのロジックが正しく、その結論が唯一のものとなるように、あとから肉付けしたものだろう。
 “A Catalogue of Crime”のバーザンとテイラーも、靴ひもを修理するのにもっと手っ取り早い切り抜け方があったろうにと評しているけれど、本来の着想が「絆創膏→看護婦」というロジックだから、犯人にはどうしても絆創膏を使ってもらう必要があったんだね。なおかつ、絆創膏がある場所を知らないと入手できないという条件が存在しないと、このロジックは成立しない。だから、「ほかの人間が絆創膏を使ったはずがない」と言うために、牽強付会のロジックまで持ち出さないといけなくなる。
 謎解きの段階で、くだんの絆創膏が備品の絆創膏のロールと切り口が一致していたという「証拠」が示されるけれど、もっと早い段階で読者に教えていたら、こんな突っ込みもなかったかもしれない。(もっとも、エラリー自身は、これまた、「私が、こんどの犯罪を解決したのは、ロールを捜そうと思い立つ前だった」と言い切ってるんだけどね。)
 ところが、その条件をあまり早い段階で読者に提示すると、手がかりの意味が見え見えになって、犯人は病院関係者だとその時点で絞り込まれてしまう。ナルスジャックが、「手掛りは、捜査する人間に対して当然現れるはずの順序に従ってではなく、作家の選んだ順序に従って提示されることになる」と述べているとおりさ。このあたりがロジック構築に付随するジレンマだったと分かるよね。まして、犯人がうまく当たりをつけて絆創膏を見つけた可能性もあるなんて、おくびにも出せない。蓋然性の推理にすぎない帰納的ロジックなら、ただ一つの解釈しかあり得ない事実はないことを認めつつも、他の事実を集積しながら論を進めていけるんだろうけどね」
 「なんだか、エラリーの推理が論理的に弱いとか恣意的だと難じているように聞こえますけど、言わんとするのは、そんなことじゃないでしょう。むしろ、そんなところにエラリーの推理の面白さがあるわけじゃないと言いたいんじゃないですか」
 「そうなんだ。よく言ってくれた。ある日本の論者が、クイーンが目指していたものは「意外な真相」ではなく「意外な推理」だったと論じているけれど、その点だけ捉えれば慧眼だと思うね。まさにそのとおりで、思いもよらぬ手がかりの意味を謎解きで解き明かし、その意外性を楽しませるところに、国名シリーズにおけるクイーンの主眼があったんだと思うよ。解明そのものにサプライズの爽快さがあるんだ。「絆創膏で修理した靴ひもにはそんな意味があったのか!」とね。でも、それは「論理の緻密性」とはあまり関係がない。むしろ、「緻密性」を問われると元も子もなくなる性質の「論理」だと思うね。ナルスジャックがクリスティやカーなどと同じく、クイーンも「ゲームとしての推理小説」の一例としてカウントしているのも、「意外性」狙いのゲームという点では、ほかのポピュラーな推理小説と同一次元の作品と見ていたからだと思う。でも、「推理」の「意外性」という分野を開拓したという意味では、クイーンは独創的な面を持っていたと思うんだよ」
 「ほめてるのか、けなしてるのかよく分からないけど、いずれにしても、熱烈なクイーン・ファンが聞いたら怒り出しそうな主張ですね。だって、たいていのクイーン・ファンは、エラリーの「数学的な論理性」を愛してるんですから。フチガミさんはやっぱり国名シリーズは嫌いだと言ってるように聞こえるんですけどね」
 「それは誤解だなあ。国名シリーズの魅力をどこに見るかの違いだと思うよ。ただ、こう言うと、また「けなしてる」と言われるかもしれないけど、自分の経験から言っても、国名シリーズは、言わば、中高生ぐらいの青少年が読む分には、恰好の娯楽作品なんじゃないかと思うんだ。ファンの中には、その頃にクイーンを読んで魅了され、その思い出のゆえに、後々までファンである人も多いんじゃないかな。僕にとっても、国名シリーズはそういう思い出の作品なんだよ。
 実はここに、彼我のクイーン作品への評価の違いが表れる原因の一つがあるんじゃないかとも思ってる」
 「最初の話に戻ってきましたね」
 「そう。日本では、国名シリーズは文庫で容易に読めるし、ジュヴナイル向けにリライトされたものも出ている。知名度が高いから、ホームズ物を経て推理小説に興味を持った若年層が、クリスティと並んで真っ先に手を出す作家だ。だから、意外と若年の頃に読書体験を持つ人が多い。
 『エジプト十字架』などは、血液や指紋は勿論、DNAの鑑定まで可能な今日の視点からすれば、ほとんど成り立たないプロットだけど、そんな作品は幾らでもあるし、そうした点を批判される作家も少なくない。フリーマンだってそうだよね。ところが、なぜクイーンのような作家がそうした批判を受けることが少ないのか、という点もこれと関係している。つまり、若年の頃は、そんな難しい点にこだわらずに、もっと単純にトリックの面白さや意外性を楽しめるものだ。たとえ実行可能性という点では荒唐無稽であってもね。
 畔上道雄氏が『推理小説を科学する』で指摘しているように、『黄色い部屋の謎』のトリックも荒唐無稽なんだけど、若年期に読む人が多いから意外と目くじらを立てられることがない。しかし、年長じると知識や分別も増して、作品に対する見方も厳しくなっていくもんだよ。
 国名シリーズは、さっき僕自身の体験でも述べたように、中高生でも楽しめるし、理解もできる次元の作品だ。手がかりの意外な意味に気づかされると、素直にエラリーの「論理」に夢中になってしまうし、それを「演繹的推理」などと高尚な説明をされると、そうなんだろうとナイーヴに受け入れてしまう。ところが、年長じてから振り返るとアラが見えてくるし、年長者が読んで感心できるかはちょっと心もとない。
 むしろ、年長者が読んで感心しそうなのは、人物描写やリアリティの点で熟度の高いライツヴィル物などの中期の作品のほうだろうね。プロットもまずまずの作品が多いしさ。仮に国名シリーズに目を向けても、単純な手がかりアイデアに依存している作品より、どんでん返しを味わえる『ギリシア棺』や、場合によっては、奇抜なあべこべアイデアの『チャイナ橙』のほうが、大人の目で見ても新奇性があって面白いと感じる。
 クイーンが特別若年層にアクセスしやすい作家とはいえない英米で、『災厄の町』のようなライツヴィル物の評価のほうが高いのは、文化や価値観の違いというより、読書環境の違いによるところが大きいんじゃないだろうか。今ではスタウトと対照的に、現地の本屋でもクイーンを見かけることは少ないしね」
 「フチガミさんの説明って、いかにも分かりやすいんだけど、国名シリーズのプロットの評価にしても、なんだか底が浅くないですか。もっと深遠で詳細な分析を展開している人たちに比べるとどうなんたろう。国名シリーズに話題が集中してるけど、「後期クイーン的問題」なんて論点もありますよ。ほかにも、例えば、『プリンキピア・マテマティカ』においてホワイトヘッドとともに記号論理学を大成したバートランド・ラッセルの・・・」
 「おいおい、よしてくれよ。深遠と言えば聞こえはいいけど、個人的には、いささか思弁的すぎる議論が多いと感じてるんだ。世の中、議論好きな人がけっこういて、君の言うように、ラッセルやゲーデルまで引き合いに出してクイーンを論じ合ったりしている人たちもいるよね。ラッセルの著作なら僕だって学生時代からたくさん読んできたし、ゲーデルの不完全性定理や神の存在証明の問題もそれなりに知ってるけど、クイーンを理解するために、こんな思想家たちを持ち出さないといけないとは、少なくとも僕は思わないなあ(笑)。
 もちろん、「後期クイーン的問題」のような議論の意義を否定するつもりはないし、そんな議論を通じた作品の楽しみ方もあっていいとは思うけれど、僕自身は立ち入るつもりはないし、敬遠させてもらうよ。
 ただ、こうも思うね。日付の矛盾をもとに事件の発生順を再構成したり、いろんな専門的テーマを掘り下げていくシャーロキアンたちの議論は、大真面目に論じているようで、本当は遊び心満載だ。そうした議論を楽しむ人たちは、一見衒学的な議論をしているようでも、本当は、若き日にホームズ物を読んで感動した原体験が根っこにある。クイーンを論じる人たちも同じじゃないかな。作品から受けた素直な感動が原動力になって、いろんな角度から作品を味わい尽くしたいと思う。これはファンであればみんなに共通する心情だろうし、今まで語ってきたことからも分かってもらえると思うけど、僕にとっても根っこにあるものは同じなんだよ」
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テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

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No title

長文お疲れ様でした。今回の問答も読みごたえあって面白かったです。

細部まで論じだすともっと長文になってしまうので、ずいぶん単純化したつもりなんですけどね(笑)。
また機会があれば、続きをやってみたいと思います。
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