ボワロー=ナルスジャック『めまい』

 ピエール・ボワローとトーマ・ナルスジャックのコンビの作品については、それぞれの単独作品や、『推理小説論』、クセジュの『探偵小説』のような評論も含めて、かなり読んできたつもりだけれど、ヒッチコックの名画の原作となったこの作品はなぜかこれまで読む機会に恵まれなかった。かつて日影丈吉氏による『死者の中から』(早川文庫)という翻訳があったが、ずっと品切れだったからだ。
 邦訳で読むことができたのは、ガボリオの『ルルージュ事件』の翻訳者でもある太田浩一氏による新訳『めまい』(パロル舎)のおかげだ。原書や旧訳と比較したわけではないし、もとより仏語は苦手なのではっきりは言えないが、通常、翻訳者は新訳を手掛ける時に旧訳も参照するから、新訳ほど訳が改善されていくのが普通だし、なにより『ルルージュ事件』でも感じた、こなれた訳文でこの傑作を読めたのは幸いだった。
 ジェームズ・スチュアート、キム・ノヴァク主演の映画「めまい」は、言うまでもなくヒッチコックの代表作の一つで、教会の鐘楼でのラスト・シーンも印象に残る名場面の一つだが、原作を読むと、これに相当する場面はなく、まったく別の幕切れが用意されていて、ヒッチコックの演出だったと分かる。
 フランシス・アイルズの『レディに捧げる殺人物語』を映画化した「断崖」のほうは、同じヒッチコックの演出でも、ラストは原作の改悪だという意見のほうが多いようで、すこぶる評判が悪い。ところが、「めまい」は、明らかに映画のほうがサスペンスフルな見せ場とショッキングな結末で成功を収めていて、サスペンスの巨匠ヒッチコックらしい手腕を堪能できる名シーンに仕上がっている。
 原作は戦時下のパリと戦後のマルセイユが主な舞台で、主役は元刑事で弁護士のフラヴィエール、女のほうはマドレーヌ(ルネ)という設定だが、映画では、50年代のサンフランシスコを舞台に、主役はスコティとマデリン(ジュディ)というわけで、ハリウッドでの映画化に際して設定が変更されている。映画ではマデリンが金門橋(ゴールデン・ゲート・ブリッジ)のたもとからサンフランシスコ湾に飛び込むシーンが印象的だったが、原作では場所はセーヌ川だ。007の「美しき獲物たち」もそうだったが、さすが金門橋は絵になりやすいのだろう。
 とはいうものの、原作には映画にない独特の面白さがあることにも気づく。映画では、ジュディの登場とほぼ同時に事件の種明かしがなされ、焦点はもっぱら二人の精神的葛藤とラスト・シーンに至るまでのサスペンスの盛り上げに移っているが、原作では、ルネの正体は最後まで謎のままに展開していく。
 ルネは本当にマドレーヌなのか、フラヴィエールに会ってもわざと知らないふりをしているのか、それとも、マドレーヌの時にそうだったように、生まれ変わる前の自分を忘れているだけなのか、フラヴィエールにも読者にも真相はずっと隠されたままだ。映画でも、ジュディが自分の身分証明証をスコティに見せて、正体を偽っていないことを説明するシーンがあるが、原作を読むと、実は身分証明証の存在が謎を深めるための重要な役割を果たしていることが分かる。
 ルネの正体の謎とマドレーヌの自殺事件の謎が混然一体となって突き付けられながら、死んだ女と生きた女を重ね合わせて愛し苦悩するフラヴィエールの心理的葛藤が描写されていく展開は、原作独自のものであり、いずれももともと不可能犯罪物でデビューした作家だけあって、謎解きの要素を単なる添え物にせず、プロットのかなめに据えてサスペンスを高めていく手法が独特の効果を上げている。(これは、コンビのデビュー作『悪魔のような女』でもそうだった。) できれば、映画を観る前に原作を読んでおきたいと思うところだ。
 なお、余談になるかもしれないが、この新訳『めまい』は既に入手困難となっている。版元のパロル舎が倒産してしまったからだ。かつて絵本や児童書等を手掛けていた老舗の出版社までが消えていく現実に、昨今の出版不況の深刻さを痛感させられる。それ自体は致し方のない結果なのかもしれないが、それに伴って優れた作品や訳業までが消えていくのはいかにも無念と言わざるを得まい。できれば、エリス・ピーターズのカドフェル・シリーズのように、どこか別の版元が救済してくれるといいのだが・・・。
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