ダシール・ハメット“Return of the Thin Man”

 ニックとノラのチャールズ夫妻が登場する長編『影なき男』は、ハリウッドで映画化されて大当たりをとり、1935年にハメット自身の手で第二作目‘After the Thin Man’の脚本が書かれた(36年に公開。邦題は「夕陽特急」)。「ミステリマガジン」1987年4、5月号に連載された『続・影なき男』がそれである。
 翻訳者の木村二郎氏が執筆している解説によれば、1938年に書かれた第3作目‘Another Thin Man’の脚本もハメット自身の手になるものであり(39年公開。邦題は「第三の影」)、さらに、ボツになった四作目の短い原案もあったとされている。実際に映画化された四作目以降の作品には、ハメット自身はタッチしていないようだ。
 2012年に米ミステリアス・プレスから出たリチャード・レイマン、ジュリー・M・リヴェット編“Return of the Thin Man”は、上記二本の映画脚本と幻に終わった四作目の原案“Sequel to the Thin Man”を収録した単行本である(編者の一人リヴェットはハメットの孫娘)。
 レイマンによる序文では、ハメットが長編『影なき男』の成功と映画化を経て、シリーズ化に伴ってハリウッドで脚本活動に携わった経緯を解説しており、リヴェットが‘After the Thin Man’と‘Another Thin Man’にそれぞれ頭書きとあとがき、“Sequel to the Thin Man”には頭書きを寄せて、各作品を解題している。
 ‘After the Thin Man’のあとがきによれば、ハメットの脚本にはないが、実際の映画では、ラスト・シーンでノラが赤ちゃん用のソックスを編んでいて、おめでたを暗示して終わる。これは最終的に脚本に手を入れたハケットとグッドリッチのアイデアで、この脚本家夫妻は、ハメットとの関係にも作中のチャールズ夫妻にもうんざりしていて、こうしてシリーズそのものを終結させるつもりだったらしい。
 この二作目の成功によって彼らの思惑は外れることになるが、ノラ妊娠の着想は生かされ、‘Another Thin Man’にはニック・ジュニアが登場することになる。子煩悩ぶりを垣間見せるチャールズ夫妻は、あとがきにも書かれているとおり、いやおうなしに性格が丸くなってしまった感があるが、はじけるような会話は依然として健在だ。
 プロットは、コンチネンタル・オプ物の「フェアウェルの殺人」を下敷きにしているが、骨子部分を借用しているだけで、全編にわたって、いかにもチャールズ夫妻らしい軽快で活き活きした会話や、登場人物同士の丁々発止のやりとりが満ち溢れているし、雰囲気はもちろん、犯人の設定や大団円もオリジナルの短編とは大きく異なっている。一歳のニック・ジュニアも、さほど目立つわけではないが、それなりに出番があるし、なにより愛犬のアスタにちょっとした大事な役割が振られているのも一つの見どころだ。
 最後の“Sequel to the Thin Man”は、木村二郎氏の上記解説にも触れられているとおり、『影なき男』の続編というべき内容を持つもので、ドロシー、ギルバート、ミミ、クリス、マコーレイ、モレリ、ギルドといったおなじみの登場人物たちが再登場する。『影なき男』で捕まった犯人が脱獄し、有罪の決め手となる証言をしたミミが、犯人に殺されると、ニックに助けを求める電話をかけてくるという発端から、クリスが、泊まっていたホテルの近くで射殺され、クリスをつけていた脱獄犯が逮捕されるという展開になる。
 わずか八枚分の梗概にすぎず、ストーリーの輪郭を知る程度のものだが、これを最後にハメットはチャールズ夫妻のシリーズから手を引き、大ヒットして一人歩きを始めた映画のほうは、‘Shadow of the Thin Man’(1941)、‘The Thin Man Goes Home’(1944)、‘Song of the Thin Man’(1947)と、ハメットが関与しないまま続いていく。
 経緯からすると、これらの脚本は、金のために手を染めた妥協の産物のようでもあり、ハメット自身にとっては不本意なものだったのかもしれないが、『影なき男』を最後に著作から手を引いたかのように見えるハメットが、その後も脚本という形で創作活動を続けていたことを窺い知るだけでなく、『影なき男』以降のニックとノラの健在ぶりを楽しむこともできる貴重な資料ではないかと思う。
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テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

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