ボワロー=ナルスジャック『悪魔のような女』

 作家名の表記が出版社によってまちまちなのがやっかいだが、統一を図る便宜上、敢えて以前書いた『めまい』の記事と合わせておく。
 『悪魔のような女』(1952)は、私が初めて読んだボワロー&ナルスジャックの長編だった。もともとはシムノンの『メグレの回想録』を読みたくて、古書で買ったハードカバーに一緒に収録されていたもの。さほど期待せずに読んだはずが、すっかり引き込まれ、このコンビ作家に興味を持つきっかけになった長編だ。
 愛人と共謀して妻を殺害したラヴィネルという男が、死んだはずの妻ミレイユの幻影に怯え、追い詰められていくサスペンスだが、最後にどんでん返しが待っている。このコンビ作家は『探偵小説』(1975:邦訳は白水社)で、自分たちの作品について、「サスペンスの中に真の推理小説にふさわしい筋を盛り込み、被害者がたんに自分自身の事件の捜査をおこなうばかりでなく正しく推理しようとするだけにいっそう錯乱状態の深みにはまっていく、そういう効果を狙っている」(篠田勝英訳)と語り、その例としてこの『悪魔のような女』を挙げて解説している。本作が彼らにとっていかに自信作であったかがうかがえるというものだろう。
 この作品は、「恐怖の報酬」で知られるフランスのアンリ・ジュルジュ・クルーゾー監督によって1955年に映画化され、今日なおサスペンス映画の古典として評価が高い。ヒッチコックがこの作品の映画化権を欲していたが、クルーゾーに先を越され、これを知ったボワローとナルスジャックが、ヒッチコックのために『めまい』を執筆したというエピソードも知られている。
 原題は、“Celle qui n'était plus…”(もはや存在しない女)であり、『悪魔のような女』という邦題は、クルーゾーの映画‘Les Diaboliques’の邦題をそのまま引っ張ってきたものだが、映画では原作の設定が大胆に変更され、相手の女と共謀して妻のほうが夫を殺害する(1996年のリメイク版でもこの設定を踏襲しているようだ)。だから、一見すると、「悪魔のような女」という邦題は小説のストーリーとは矛盾するように思えるのだが、読み終えてみると、この題はむしろ小説のほうにこそ見事に合致していることに気づく。訳者もしくは編集者がそこまで読み切って意図的に映画の題を踏襲したのかどうかまでは分からないが、あまりにどんぴしゃりで、最後の一行がもたらす衝撃がその題のおかげで相乗効果を上げているのだ。
 彼らの傑作には、心理的なサスペンスと合理的な謎の解明が見事に融合した作品が多く、幻想的とも思える状況の中で苦悩する主人公の不安が、合理的な謎の解明とともに大団円を迎えるというプロットで共通していて、まさに「恐怖と理性の弁証法」という彼らの「ロマン・ポリシェ」観を実践したものであることが分かる。ただ、『めまい』の解説でも述べたように、こうした特徴は、映画化作品では必ずしも活かされているとは言えず、映画には映画の持ち味や面白さはあるものの、原作のオリジナリティを楽しむ意味でも、映画より先に原作を読むほうが望ましいように思える。
 シモンズやキーティングのように、創作と評論の二足の草鞋を履いた人はほかにもいるが、自らの哲学を創作の場でも実践し、見事な成功事例を幾つももたらしたのはこのコンビ作家ぐらいではないだろうか。
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