倒叙推理小説の多様性

 ヴィカーズの「迷宮課」シリーズを取り上げた機会に、倒叙推理小説の多様性について触れてみたい。
 倒叙推理小説の生みの親は、オースティン・フリーマンであり、その最初の成果は短編集『歌う白骨』(1912)とされている。その序文で、「読者の関心は、『誰がやったのか?』という問いよりも、『どうやって解明がなされたのか?』という問いにある」と述べているように、フリーマンが倒叙という形式を取り入れた狙いは、事前に犯人・犯行を明らかにしておくことで、読者の関心をフーダニットやハウダニットではなく、捜査や推理のプロセスに向けさせることにあった。これは、緻密な論理性に基づく説得力のある解決の提示を重視したフリーマンの推理小説観が行き着いた一つの結論であったともいえる。
 しかし、その後の倒叙推理小説の成果を見ると、必ずしもフリーマンが構想したような理想形を実現したものばかりとは言えないようだ。むしろ、推理のプロセスの緻密さより、サプライズ効果を狙う推理小説が主流となる中で、倒叙物は傍流にとどまり続けたし、フリーマン自身も、長編は“The Shadow of the Wolf”と『ポッターマック氏の失策』の二作(仮に“When Rogues Fall Out”を含めても三作)、中短編は‘The Dead Hand’を含めても七作しか成果を残さなかった。それだけ、ストレートな推理小説に比べると、倒叙はプロット構築も難しいし、読者受けもよくなかったのかもしれない。さらには、その後の倒叙物の作例を見ても、フリーマンの当初の構想とは裏腹に、推理の緻密さとは別のポイントを打ち出して成功を収めた作品が多いように思える。しかし、後者の点については、倒叙推理小説の限界を露呈したものというより、フリーマンが想定していた以上に、倒叙という形式が、多様な表現形態を受け容れてみせることを証明したものとみることもできるだろう。
 そこで、あくまで私案だが、敢えて単純化した上で、これまで世に出た倒叙物のバリエーションを以下のように分類してみたい。

・捜査過程中心型(捜査や推理のプロセスを詳細に描く)
  探偵が見出した手がかりとこれに基づく捜査のプロセスを綿密に描くことで、真相解明に至る必然性をより説得力のあるものとし、そこに読者の興味を向けさせようとするもの。これは、フリーマンが本来思い描いた倒叙の手法といえる。代表的なものは、『歌う白骨』、“The Shadow of the Wolf”など。
  ただし、そのプロセスは、フリーマンのように、論理的な推理や科学的な実証過程を描くことに限られるものではなく、努力型の捜査官の足を使った粘り強い捜査のプロセスを描くことにも応用される。『クロイドン発12時30分』など、クロフツの倒叙物がその好例といえるだろう。

・手がかり中心型(手がかりの意外性を演出する)
  一見隙のない犯人の計画や捜査陣の目をうまく逃れたはずの犯行が、犯罪者側の思いがけない見落としや意外な手がかりをきっかけに暴かれるところにストーリーの頂点を築くもの。ヴィカーズの「迷宮課」シリーズがその好例で、ゴムのラッパや赤いカーネーションなど、一見なんでもないガラクタや日用品などが実は真相解明をもたらす重要な手がかりであることが最後に分かる。
  こうした作例では、手がかりの意外性を演出するところに主眼があるため、フリーマンの作品とは対照的に、推理や捜査のプロセスは必ずしも緻密ではなく、「ゴムのラッパ」でも語られているように、むしろ「当て推量」や「偶然」に依存している場合が少なくない。

・人物描写中心型(犯罪者側の性格描写に力を入れる)
  犯人を予め明らかにして主人公的な存在に設定することで、犯罪者の人となりや、犯行前後の心理をきめ細かに描くことを可能にし、そこに読者の関心を引き寄せるもの。アイルズの『殺意』やバークリーの『試行錯誤』、ハルの『伯母殺人事件』などがその好例だが、犯罪小説に限りなく近づくため、これらの作品は倒叙物とみなされないこともある。

・対決構図中心型(犯人と探偵の対決に焦点を当てる)
  事前に犯人の存在を明確にしておくことで、犯人と探偵の対決構図を鮮明にし、両者が互いに相手を出し抜こうとするプロセスに興味を向けさせるもの。時には、地位や知性の高い犯人を設定し、これに対峙する探偵を一見冴えないキャラクターに描くことで、探偵が犯人を追い詰める醍醐味を一層効果的なものとする。言うまでもなく、「刑事コロンボ」シリーズがその好例である。

 分かりやすさを優先して便宜上カテゴリーを分けたが、実際には、多くの作品はこれらのカテゴリーのどれかにはっきり区分できるわけではない。むしろ、一つの作品にこれらの特徴が複合的に含まれながらも、強調ポイントがそれぞれ異なるというのが正確だろう。
 例えば、フリーマンの『ポッターマック氏の失策』は、ソーンダイクの緻密な検証と推理に焦点を当てつつも、犯人のジェフリー・ブランドン(マーカス・ポッターマック)をちょうど『モンテ・クリスト伯』のエドモン・ダンテスのように悲劇の主人公として同情的に詳しく描写する。このため、読者はいつの間にかポッターマック氏に共感を抱き、助けてやりたい気持ちになっていくし、最後はこれにふさわしい大団円が用意されている。『ポッターマック』はその意味で犯罪小説に限りなく接近していて、こうした例からも、倒叙物と犯罪小説をはっきり境界づけるのが実は難しいことが分かる。倒叙と犯罪小説のボーダーレスな親和性を考えれば、アイルズやハルの作品について議論が分かれるのも、それなりに理解できるというものだろう。
 フリーマンが当初構想した倒叙という手法は、犯人とその犯行状況をあらかじめ全て読者に示しておき、事前に何も知らされていない探偵が、一見無関係で些細とも思える手がかりに論理的な一貫性を与え、如何にして真相を突き止めるかを興味の対象として提示するものだった。これは緻密な論理性に貫かれた推理を特質とするフリーマンだからこそ、一級品として構成できた叙述手法といえるが、それ以降、この本来の手法があまり発展しなかったのは、多くの作家が彼ほど推理の緻密さや論理性を追求してこなかったこととも無関係ではあるまい。
 その一方で、アイルズ(バークリー)のように、推理の過程を興味の中心に据えるより、追い詰められていく犯人の心理描写やサスペンスに重心を置いたり、クロフツのように、論理的な鮮やかさよりも、捜査官の地道な調査ぶりに焦点を当てるために、この形式を活用した作例が現れるようになったのは、フリーマンが課した課題のハードルの高さもあったかもしれないが、作家がそれぞれの持ち味をうまく活かすのに、この形式が理想的なものだったからでもあるだろう。
 ヴィカーズの「迷宮課」シリーズも、捜査プロセスを重視するという路線を維持しつつも、「手がかりの意外性」に焦点を当てたという意味で、フリーマン以来の倒叙に新機軸を打ち出したシリーズといえるが、(大まかな捉え方ではあろうが)やはり「手がかりの意外性」に推理の興味を据えたエラリー・クイーンの国名シリーズと性格的によく似ている。クイーンが「迷宮課」シリーズに注目し、発掘して世に知らしめる努力をしたのも、そうした共通点に、心の琴線に触れるものがあったからではないだろうか。
 「刑事コロンボ」にしても、多くの視聴者は、犯罪が解明されるプロセスよりも、むしろ、風采の上がらない警部補が自信に満ちたエリートの犯罪者を追い詰めていくという設定にカタルシスを感じるわけで、もはやフリーマンが目指した倒叙とは全く異なる魅力を打ち出したシリーズといえるだろう。その一方で、「二枚のドガの絵」のように大団円をもたらす意外な手がかりや、「祝砲の挽歌」のように筋道立った推理に見どころがある作品も中にはある。新シリーズの「幻の娼婦」やフェイ・ダナウェイが出演した「恋におちたコロンボ」などは、犯罪者側の人物描写に秀でた例だ。倒叙はそれだけ柔軟な受容力を持つ表現形式だということになるのだろう。(余談だが、新シリーズの「復讐を抱いて眠れ」のプロットは、フリーマンの“A Silent Witness”に驚くほど似ているし、最終作の「殺意のナイトクラブ」も、死体発見の場面は『オシリスの眼』を連想させる。監督ないし脚本家が元祖フリーマンにこっそりオマージュを捧げたのではないかと思ったほどだ。)
 まとめると、倒叙は、フリーマンが意図した本来の趣旨から逸脱しつつも、その形式のほうは、ミステリの多様な諸相を表現するために柔軟に活用され、さまざまなバリエーションを発展させてきたといえる。クロフツの『フレンチ警部と毒蛇の謎』のように、倒叙と謎解きを融合させた作例もあれば、ウェイドの『推定相続人』のように、通常の倒叙と思わせて、さらにツイストを加えた作例もあるわけで、犯罪小説はもちろん、ストレートな謎解きともボーダーレスになり得るほど、倒叙という形式はいろんな表現の可能性を秘めているようだ。フリーマンが高らかに唱えた倒叙の本流も忘却されてほしくはないが、本来の趣旨にとらわれることなく、今後も新たなバリエーションが発展していくことを期待したいところである。
スポンサーサイト

テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

S・フチガミ

Author:S・フチガミ
お問い合わせ等は
fuhchin6491
(アットマーク)
hotmail.co.jp
へどうぞ

カテゴリ
フリーエリア
天気予報
リンク
検索フォーム
アクセスカウンター
RSSリンクの表示