ドロシー・L・セイヤーズ “Wimsey Papers”

 “Wimsey Papers”は、イギリスの週刊誌「スペクテイター」に、1939年11月17日号から1940年1月26日号にかけて、11回にわたって連載された一連の記事であり、ピーター卿のシリーズに登場するウィムジイ家のメンバーや友人たちとがやりとりした手紙、ピーター卿が記した日記からの抜粋などで構成されている。ハリエットは子どもたちとともにトールボーイズの田舎に留まっているが、ピーター卿は外国にいるという設定になっている。
 一見、ピーター卿のシリーズに連なるフィクションのような体裁を取ってはいるが、実際は、第二次大戦初期を背景に、当時の人々の生活環境を描写する中で、セイヤーズ自身の大戦に対する見解や政治論などをピーター卿やハリエットに仮託して表明したものとなっている。当時のイギリスの宰相は、対独宥和政策で悪評の高いネヴィル・チェンバレンであり、セイヤーズは、手紙の著者たちに仮託して、チェンバレンの政策に疑問を呈するとともに、共産主義やファシズムに対する批判を展開している。
 ピーター卿のシリーズを書き継いだジル・ペイトン・ウォルシュは、自身が書いた続編“A Presumption of Death”(2002)に、“Wimsey Papers”に出てくる情報を利用しているのだが、記事のこうした特殊な性格を踏まえ、同書の著者註の中で、“Wimsey Papers”はフィクションではなく、続編として読まれることを意図したものではないし、今では戦時中の記録として詳細な注釈が必要だと述べ、暗に、今日そのまま世に出すにはふさわしくないかのように示唆している。だが、自分は続編の素材としてその情報を利用しておきながら、読者にはそんなしたり顔の警告を発してオリジナルの紹介をお預けにしようとする姿勢には疑問を感じなくもない。実際、ハリエットの手紙に、子どもたちとともに消防訓練に参加した状況の描写が出てくるなど、大戦中の一家の動静を窺い知る貴重な情報も含まれていて、ファンにとっては決して無視できない記録だろう。
 ピーター卿の母親、デンヴァー先代公妃からハリエットに宛てた手紙では、図書館の女性職員から、ハリエット・ヴェインの新作がいつ出るのかと問われて、独裁者たちが公然と大量殺人を行っている状況の中で、ハリエットが殺人を扱う小説の執筆意欲を失っていることを先代公妃が示唆したというエピソードが出てくる。ハリエットがセイヤーズ自身を投影したキャラクターであることを考えると、これは著者自身の当時の心境を投影したものである公算が高い。実際、セイヤーズは、1937年に『忙しい蜜月旅行』を出したあと、同時期に書かれ、未完に終わった“Thrones, Dominations”(1998年にジル・ペイトン・ウォルシュによる補筆完成版が刊行)を最後に、(1942年に書かれた、犯罪や大戦と無関係の牧歌的な短編「桃泥棒(Talboys)」を除いて、)第二次大戦以降はシリーズの筆を絶ってしまう。
 セイヤーズが推理小説の筆を絶ったのは、ダンテなどの中世文学の研究者として自立するための資金を稼ぐ目的を果たした以上、それ以上書く必要を感じなくなったからだとか、ピーター卿にうんざりし始めていたからだといった理由がしばしば挙げられるが、実は案外、上記のような全く別の理由があったというのが真相かもしれない。その一方で、彼女が推理小説に民主主義の理想を託してフランス国民に訴えようとしていたことが、以前紹介した「探偵小説の起源」というラジオ放送用原稿から明らかになっていることも付言しておくべきだろう。
 最後に、ピーター卿は手紙の中で、ハリエットに向かって、筆を折らずに勇気を奮って国民に語り続けるよう励ましているのだが、これはセイヤーズが自らを鼓舞した言葉と理解してまず間違いはあるまい。
 「君は作家だ。君には国民に向かって語らなければならないことがあるんだよ。・・・政府に向かって、やるべきことをあれこれと急き立てるだけじゃだめだ。国民の目を覚まさせなくては。・・・重要なことは、一人ひとりの『個人としての責任』なんだ。国に導いてもらうことを当てにするようじゃいけない。自分たちが国を導くことを学ばなくては。君は国民にそのことをうまく伝えなくちゃいけないんだ。それこそが重要なことなんだよ」
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