アール・デア・ビガーズ『黒い駱駝』

 いずれ記事を書こうと思っているうちに邦訳が出てしまった(笑)。
 邦訳があるので、詳しいあらすじの紹介は省くが、「オセアニック号」でハワイに立ち寄った女優のシェラー・フェインが、ワイキキビーチに借りた邸でのパーティーの最中に、離れで刺殺されているのが発見される、というストーリー。シェラーはアラン・ジェインズという英国人に求婚されるが、迷いを感じたシェラーは、信頼していた占い師のターネヴェロを呼び寄せて相談していた。ターネヴェロの証言から、事件の背後には、数年前に起きた俳優のデニー・マヨの殺害事件が関わっていることが明らかになってくる。
 シェラーの元夫のロバート・ファイフが、鉄壁のアリバイがあるというのに、自ら殺人の告白をする謎、盗まれた手紙や引き裂かれた写真の謎など、副次的な謎もうまく散りばめられているし、一見自明に思えた解決を覆していく大団円を含め、謎解きとしてもまずまず楽しめる作品といえる。
 ところで、解説を参照するつもりで邦訳を借りたのだが、目を通すうちにいろんな疑問が浮かんできた。原書で読んだものを改めて邦訳で買うことは少ないし、「論創海外ミステリ」のシリーズも全て目を通して原書と照合したわけではないので、断定的なことは言えないのだが、同好の士から、同シリーズの翻訳には問題が多いという話は聞いていた。今回はたまたまそれほど間をおかずに邦訳に接したので、原書と比較しながら斜め読みしてみたのだが、ざっと見ただけでも、確かにこの翻訳に関しては疑問を感じる箇所が多かった。人間のやることに間違いがあるのは仕方ないし、不可避でもあるが、それも程度の問題で、私見では欠陥訳と言わぬまでもそれに近い。
 まず、会話の多くがまるで機械がしゃべっているみたいに単調で、ぎこちなく読みにくい。推敲不足なのか、主語がダブっていたり、文のつながりがおかしかったりと、妙な文章もけっこう出てくる。たどたどしい英語を話すのがチャーリー・チャンの特徴の一つでもあるが、まるで登場人物がみな「チャーリー・チャン」と化してしまったかのようだ。
 日本語で読んでいるだけでも、明らかに意味が通じず、おかしいと感じる箇所も次々と出てくる。一つ一つ取り上げるときりがないので、分かりやすい例を幾つか挙げるが、例えば、邦訳197頁、チャンの娘、ローズが「父親の背中に回った」あと、頬にキスをする。分からないように背中に回って、背後から抱きついてチューしたとでもいうのだろうか? いくら父親でもさぞびっくりしただろう。原文は、She got up and came round to him. どうやら、come round を「背後に回る」の意と思ったようだ。210頁で、チャン警部は挨拶をした相手に向かって「上着の前を広げて見せた」という。胸をはだけると、そこになにかあるのだろうか? 豊満な美人女優ならいざ知らず・・・。原文は、Chan pushed back his coat. 321頁では、ローズが父親に「ぜひとも話を聞きたい」とせがむと、チャンは「もう少し生きていなさい」と答える。なんだそれ? ローズは自殺願望でもあるのかい? 瞬時に想像はついたが、We are dying to hear the news. と言われたから、Remain alive a small time longer.と揶揄したのだ。訳者のあとがきによれば、‘lanai’という言葉の訳に留意したとのことだが、それ以前に留意すべき基本的な問題があるように思える。「厳しく詳細な読み込み・指摘」をしたという方々は何を読み込んで指摘したのだろうか。
 なお、本作は、ビル・プロンジーニ&マーシャ・マラー編“1001 Midnights”において取り上げられているビガーズの3作品(ほかは“The House Without a Key”、『チャーリー・チャン最後の事件』)の一つであり、「盛りだくさんの容疑者にサプライズ・エンディングを伴った楽しい長編」として、唯一アスタリスクを付されてシリーズの代表作と見なされている。邦訳の解説では、本作が各種の「採点簿から漏れている」としているが、これまた、人の解説を孫引きするだけでそう結論づけるのも如何なものかと思う。
 真偽のほどはよく知らないが、知人からの情報では、論創社では今後さらにペースを上げて古典ミステリを刊行していくという話も聞こえてくる。翻訳に頼らなければ読めない読者にとっては、たとえ訳に多少問題があっても、better than nothing ということなのかもしれないが、くれぐれも粗製濫造に陥らぬようお願いしたいところだ。
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テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

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