ジョルジュ・シムノン『判事への手紙』

 『判事への手紙』(1947)はシムノンの非シリーズ物の長編だが、実はメグレ警視物の番外編的なところもある作品だ。というのも、この作品は、殺人罪で監獄にいる男から予審判事に宛てた手紙という体裁を取っているのだが、その予審判事の名は、エルネスト・コメリオとなっているからだ。コメリオ予審判事はメグレ警視物の準シリーズ・キャラクターであり、しばしば警視と対立したり、捜査に注文を付けたりする、いわばメグレの敵のような存在である。なお、コメリオ判事のファースト・ネームが出てくるのは本作だけだ。
 本作は『メグレ氏ニューヨークへ行く』に続く長編であり、シムノンがメグレ警視物の執筆を再開して間もない頃の作品であることから、非シリーズ物を執筆しつつも、心理的にシリーズの余韻を残しながら書いた面があったのかもしれない。但し、コメリオ判事自身はあくまで手紙の宛先であって、姿も見せなければ発言もなく、人となりは全く描かれていない。

 コメリオ判事に手紙を送ってきた男は、シャルル・アラボワーヌという医師。法廷での尋問シーンを交えながら、自殺した飲んだくれの父親と息子を溺愛する母親との少年時代の生活、出産直後に死んだ最初の妻ジャンヌ、二人目の妻アルマンドとの結婚生活などを、女中との情事のような脇筋のエピソードも交えながら描き、自分の半生を事細かに綴っていく。
 医師の運命は、駅で出会ったマルティーヌという娘と関係を持ったところから狂い始める。アラボワーヌは、マルティーヌを母と妻が同居する自宅に誘い、何日か滞在させたあげくに、妻アルマンドの了承も得て自分の助手にしてしまう。情婦となったマルティーヌとの愛に溺れつつも、彼女の存在を自分のものにし切れず、その関係に苦悩を深めていく医師。やがて、彼女との隠れた情事も妻に露見する日が来る・・・。

 主人公のアラボワーヌ医師をはじめ、妻のアルマンド、情婦のマルティーヌという登場人物たちを綿密に造形し、内なる心理をきめ細かに描くことで、ややもすると異常としか思えない男女関係をあたかも必然的な成り行きであるかのように思わせてしまうところは、いかにもシムノンらしい達人技だ。普通小説のように見せながら、ミステリらしいプロットを兼ね備えた作品だが、そのプロット構成も、シムノンのこうした卓越した人物描写によって裏打ちされなければ、とても説得力のあるものには仕上がらなかっただろう。
 殺人犯からの手紙であることは冒頭から明らかであるが、被害者が誰で、動機が何であるかも、最初のうちは判然としない。法廷では狂気による犯行とも示唆されたことに触れながら、犯罪の実相に対する興味をかき立てる。次第に被害者が誰かも分かり、犯罪の背景もおぼろげながら浮かび上がってくるが、医師が殺人という行為にまで踏み切った動機や必然性は終盤まで見えてこない。ミラーやアームストロングのようなサスペンス作家ならば、もっとシンプルに割り切れそうな人間心理や動機を描写して、すっきりと堪能できる犯罪小説に仕上げそうなものだが、シムノンの描く犯罪者の心理はとても一筋縄ではいかない深さを持っている。シムノンが読者を選ぶ作家であることを実感させられる異色作といえるだろう。
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テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

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