ジャック・フットレル「正体不明の男」(一)

正体不明の男



 この事件は、科学者にして論理学者であるオーガスタス・S・F・X・ヴァン・ドゥーゼン教授に持ち込まれたところから物語が始まる。教授は、この事件の首謀者から直接説明を聞いたあと、これは今までに関わった事件のなかでも最も魅力のある事件の一つだと太鼓判を押した。そして・・・
 いやいや、ちゃんと初めからお話ししよう。

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 午後二時、《思考機械》はつつましやかな自宅にある小さな実験室にいた。マーサは、この科学者に仕えるただ一人の使用人だったが、しわだらけの顔に戸惑いを浮かべながらドア口に姿を見せた。
 「男の方がお見えです」と彼女は言った。
 「名前は?」《思考機械》は振り返りもせずに問い返した。
 「その・・・お名乗りになりませんでした」彼女は口ごもった。
 「来客があったら必ず名前を聞くようにと、いつも言っとるじゃないか、マーサ」
 「お聞きしたんですけど・・・知らないとおっしゃるんです」
 《思考機械》は驚きというものを知らぬ人だったが、このときばかりは、まごついてマーサのほうを振り向き、度の強いめがねの奥から彼女をにらみつけた。
 「自分の名前を知らないだと?」と彼は繰り返した。「なんと! 間が抜けすぎている! その方をすぐに応接室にご案内してくれ」
 というわけで、これ以上の予備知識もないままに、《思考機械》は別室に入って行った。謎の男が立ち上がって進み出た。背が高く、見たところ三十五歳くらい。ひげもきれいにあたってあり、実業家らしく、鋭く油断のなさそうな顔をしていた。目の下のくま、ひどく青ざめた顔色さえなければ、きっとハンサムだったろう。身なりは全身非の打ちどころがなく、概して人目を引きそうな男だった。
 彼はしばらく、科学者のほうを不思議そうに見つめた。その様子には、驚きを慎ましやかに表す育ちの良さが垣間見えたかもしれない。巨大な頭をまじまじと見つめながら、黄色い髪にまごつき、細いなで肩にも目を見張っていた。こうして二人はしばし相対していたが、背の高いその男と比べると、《思考機械》はまるで小びとのようだった。
 「それで?」と科学者は聞いた。
 謎の男は部屋の中をふらふら歩き回ると、答える代りに、科学者が勧めた椅子にドスンと腰を下ろした。
 「ご高名をお聞きしましてね、教授」男はよく自制した声で話しはじめた。「それで、思い切って、ご助言をいただきにお訪ねしようと思ったんです。とても妙な境遇にあるんですよ。頭がおかしいわけじゃありません。どうかそんなふうに思わないでください。でも、このひどい苦境から脱しないと、本当に頭が変になります。実際、もう神経がまいってしまいました。とてもまともじゃいられません」
 「君自身のことかね? どういうことだ? 私にどうしてほしいのかね?」
 「自分が分からない。どうにも分からないんです」謎の男は言った。「家も仕事も、自分の名前さえも分からない。自分自身のことも、今までの人生も、なにもかもです。四週間前より以前のことになると、さっぱり分からないんです。自分の身元の手がかりを探しています。料金が必要でしたら・・・」
 「そんなものは要らんよ」と科学者は言い、来客の目をじっと見つめた。「そもそも分かっているのはどんなことかね? 記憶している時点からすべて話してくれたまえ」
 教授は椅子に深々と座り、上のほうをじっと見つめた。謎の男は立ち上がり、部屋の中を何度も行ったり来たりすると、再び椅子にドシンと座った。
 「まったくわけが分からない」と彼は言った。「大の大人だというのに、まるで言葉以外なにも分からない世界に生まれ落ちたも同然なんです。椅子とかテーブルみたいなごく普通の物は分かるんですが、自分が誰で、どこの出身で、なぜこの土地に来たのかはまるで分からない。四週間前の朝、目を覚ましたときの体験からご説明しましょう。
 あれは八時か九時頃でした。私は部屋にいました。すぐにホテルだと気づきましたが、どうやってそこに来たかも分からないし、部屋も見たことがありません。着替えはじめたときも、自分の服にすら見覚えがありません。窓の外を見ても、まったく見慣れない風景なんです。
 身支度をしたり、これはどういうことかと考えたりしながら、部屋で三十分ほど過ごしました。そしたらいきなり、なんとも困ったことに、自分の名前も、家の住所も、自分のことはなに一つ分からないと気づいたんです。泊まっているホテルもどこのホテルか分からない。おそるおそる鏡をのぞきました。そこに映る顔も知らない顔です。得体の知れない顔というわけじゃありません。ただ、知っている顔ではなかったんです。
 信じられないことでした。そこで、身元の手がかりがないか、とっかかりに服を調べました。ピンとくるものはなにもありません。紙切れのたぐいもないし、私用公用を問わず名刺もありません」
 「懐中時計は?」と《思考機械》は聞いた。
 「ありません」
 「お金は?」
 「ええ、金はありました」と男は言った。「ポケットに、百ドル紙幣で一万ドルの札束があったんです。誰のお金か、出所がどこかは分かりません。それからというもの、そのお金で食ってますし、今後もそうせざるを得んでしょう。でも、それが自分の金かどうかも分からないんです。見れば金とは分かりますが、以前見たことは思い出せないんです」
 「装身具は?」
 「このカフスボタンです」男はポケットから一対のボタンを出して見せた。
 「続けたまえ」
 「身支度を終え、下に降りて事務室に行きました。ホテル名と自分の名前を確かめるためです。宿帳から情報を得られると思いましたので。それも、人目を引いたり、頭が変だと思われることなしにね。部屋番号は確かめておきました。二十七番です。
 さりげなく宿帳に目を走らすと、ボストンのホテル・ヤーマスと分かりました。注意深くページを繰って、自分の部屋番号のところを見ました。その番号の横には、ジョン・ドーンという名前がありました。でも、住所を書く欄には、横線が引っ張ってあっただけです」
 「ジョン・ドーンが自分の名前かもしれないと思うんだね?」と《思考機械》は聞いた。
 「もちろんです」と相手は答えた。「でも、そんな名は聞いた憶えがありません。その宿帳によれば、私がホテルに着いたのは・・・というか、ジョン・ドーンが着いたのは前日の夜で、二十七番の部屋に泊まっていたのも彼なので、おそらく私がそのジョン・ドーンだと思ったんです。それ以来、ホテルの職員は、私のことをジョン・ドーンだと思っているし、目覚めてから四週間のあいだに会った連中もみなそうです」
 「筆跡に見覚えはないのかね?」
 「ありません」
 「今の君が書いてみても、同様の筆跡になるかね?」
 「見たかぎりでは同じ筆跡です」
 「手荷物とか、荷物の預かり証はなかったのかね?」
 「ありません。持っていたのは、お金と現に着ている服だけです。もちろん、そのあと、必要品は買ったりしていますが」
 二人はしばらく黙り込んだが、ドーンという謎の男はついに立ち上がり、またそわそわと歩き回りはじめた。
 「それはオーダーメードのスーツかね?」と科学者は聞いた。
 「ええ」とドーンはすぐさま答えた。「なにがおっしゃりたいのか分かりますよ。オーダーメードの服なら、ポケットの内側に布タグが縫い付けてあって、製造者名や服の注文者の名前が日付と一緒に記されてるんですよね。私も探してみましたが、切り取られて、なくなっていました」
 「ほう!」《思考機械》はいきなり声を上げた。「クリーニング屋のマークもなかったんだね?」
 「ええ。みな新品でしたから」
 「メーカーの名前も?」
 「それも切り取られていました」
 ドーンは応接室を行ったり来たりし、科学者のほうは椅子の背にもたれた。
 「ホテルに着いた時の状況は知っているかね?」教授はようやく聞いた。
 「ええ。もちろん用心しながらですが、フロントの係員に尋ねてみましたよ。頭が変だと思われぬよう、その時酔っぱらってたみたいなので、とほのめかしながらね。係員の話だと、夜の十一時頃にホテルに来たそうで、手荷物はなかったし、私が百ドル札で部屋代を払ったので、お釣りを渡したそうです。私は宿帳を書き、上階に行ったそうです。部屋をとりたいということ以外はなにも言わなかったようですね」
 「ドーンという名前に聞き覚えはないんだね?」
 「ありません」
 「妻子のことも思い出せない?」
 「憶えてません」
 「外国語は話せるかね?」
 「できません」
 「今は思考もはっきりしてるんだね? 記憶力は大丈夫かね?」
 「ホテルで目を覚ましたあとの出来事は完全に憶えていますよ」とドーンは言った。「とてもはっきりと憶えていますし、なぜか、まったくどうでもいいことを強く意識するんです」
 《思考機械》は立ち上がり、ドーンに座るよう促した。男は疲れたように椅子に腰をおろした。すると、科学者は、彼のふさふさした黒髪を、長く細長い指で軽く器用にかき上げると、髪から引き締まったあごまで指を走らせた。それから腕に触れ、隆々とした筋肉を指で押した。さらに、形のいい色白の手をきめ細かく調べ、検査の補助に虫眼鏡も使った。最後に、《思考機械》は謎の男の神経質に動く目をのぞき込んだ。
 「体にあざとかはあるかね?」彼はようやく尋ねた。
 「ありません」とドーンは答えた。「それは私も考えたし、一時間ほどかけてあざなどがないか調べてみました。なにもありませんでしたよ――なにもです」目がかすかにうるみ、ついに痺れを切らして、激しく立ち上がった。「なんてことだ!」と叫んだ。「なにか手立てはないのですか? そもそも、これはどういうことなんです?」
 「典型的な記憶喪失症のようだな」と《思考機械》は答えた。「精神や神経の負担が過重になった人々には珍しい症状ではない。君はただ、自分のことを忘れた。つまり、自分の身元を忘れたのだ。記憶喪失症なら、いずれ回復するよ。いつになるかは分からんがね」
 「では、そのあいだどうすれば?」
 「君が身に着けていた金を見せてくれるかね」
 ドーンは震える手で札束を出して見せたが、それは主に百ドル紙幣で、多くは新札だった。《思考機械》は、紙幣をきめ細かく調べ、最後に、紙片にメモを書きつけた。金はドーンに返された。
 「さて、どうしたらいいんでしょう?」とドーンは聞いた。
 「心配しなくていい」と科学者は言った。「できるだけのことはするよ」
 「じゃあ・・・私が何者なのか教えてくれますか?」
 「ああ、きっと明らかにしてみせるよ」と《思考機械》は言った。「だが、私が君のことを明らかにしても、君自身は思い出せない可能性もあるね」
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テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

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