ジャック・フットレル「正体不明の男」(二)



 「正体不明のジョン・ドーン」は、ほぼどんな点でも正体不明だったが、彼は《思考機械》の家を出るときにいろんな指示を受けた。まず、合衆国の大きな地図を手に入れて目をこらし、出てくる全市町村の名前をひと通り声に出して読み上げる。これを一時間やったら、市の住所氏名録を手に取り、名前に目を通しながら声に出して読み上げる。次に、もろもろの職種、主だった事業所のリストを作り、これを読み上げる。これらの作業は、明らかに眠れる脳を呼び覚ますことを意図していた。ドーンが出て行ったあと、《思考機械》は記者のハッチンスン・ハッチに電話をかけた。
 「すぐ来てくれないか」と彼は頼んだ。「君の興味を引きそうなことがあるんだ」
 「謎ですか?」ハッチは熱をこめて尋ねた。
 「私が注目した問題の中でも最も魅力的な問題の一つだよ」と科学者は答えた。
 ハッチの来訪が告げられるまでにかかった時間は、ものの数分だった。疑問符の権化といっていい記者で、矢継ぎ早に質問したいのを抑えきれない様子だった。《思考機械》はようやく経緯を話しはじめた。
 「まあ、見たところは」と《思考機械》は切り出しながら、「見たところ」という言葉を強調した。「見たところは記憶喪失症のようだ。むろん、どんな症状かは知っているだろうね。その男は、自分のことがまるで分からないんだ。綿密に検査したが、頭を調べても、打撲や異常の痕跡はなかった。筋肉も調べたが、隆々とした二頭筋で、明らかに現役のスポーツマンだ。手は白く、よく手入れされていたが、あざなどはない。肉体労働者の手ではないね。ポケットの金からしても、そんな職業ではないとみていい。
 では、何者なのか? 弁護士か? 銀行家? 投資家? それとも? なんであってもおかしくない。だが、専門職ではなく、ビジネス業の男のように思えた。立派な角張った顎で、格闘家の顎のようだったし、身のこなしからすると、なにをやっていたにせよ、一流の地位の男だという印象を受ける。一流の地位なら、当然だが、都市、それも大都市に拠点を置くはずだ。典型的な都会人なのだ。
 そこで、君に手伝ってほしいのは、大都市にいる仲間の記者たちに連絡して、ジョン・ドーンという名前が住所氏名録に出てこないか確認してもらってほしいのだ。その男は在宅か、家族持ちか等々、その男に関するすべてをね」
 「ジョン・ドーンが本名だと思ってるんですか?」と記者は聞いた。
 「違うという理由もない」と《思考機械》は言った。「だが、違う可能性もあるね」
 「この街では調査しないんですか?」
 「土地の人間ではまずないね」と彼は答えた。「四週間も街中をうろうろしていたのだし、土地の住人なら知人に出くわしそうなものだよ」
 「でも、持っていたお金は?」
 「金を手がかりに身元を突き止めることも可能だろうね」と《思考機械》は言った。「事情はまだはっきりしないが、ひとかどの人物のようだし、彼をしばらくのあいだ排除したいと思った者がいたのかもしれん」
 「でも、おっしゃるように、ただの記憶喪失症だとすると」と記者は口をはさんだ。「その男を排除したいときに都合よく発作が起きるなんてちょっと考えにくいんじゃ」
 「「見たところ」記憶喪失だと言ったのさ」と科学者はぶっきらぼうに言った。「うまく使えば、同じ効果をもたらす薬物もある」
 「へえ」とハッチは言った。状況が分かりはじめたのだ。
 「思い当たる薬が一つある。インド産で、大麻に似た薬だ。こんなケースでは、どんなことでも考えられる。明日、試しにドーン氏を金融街に連れまわしてやってほしいのだ。行ったら、『株式相場表示機』の音に触れさせてやってほしい。興味深い実験だよ」
 記者は出て行き、《思考機械》はモンタナ州ビュートのブランク国立銀行に電報を打った。
 「Bの連番で846380番から846395番までの百ドル紙幣を払い出した相手は? 返答求む」
 翌日十時に、ハッチは《思考機械》を訪ね、ジョン・ドーンを紹介された。正体不明の男だ。ハッチが入ってくると、《思考機械》はドーン氏に質問をしているところだった。
 「地図からはなにも思い出さなかったんだね?」
 「なにも」
 「モンタナ、モンタナ、モンタナ」と科学者は単調に繰り返した。「よく考えたまえ。モンタナ州のビュートだ」
 ドーンは途方に暮れて、悲しげに首を振った。
 「カウボーイ、カウボーイ。君はカウボーイを見たことは?」
 またもや首を振った。
 「コヨーテ。オオカミに似た動物。コヨーテだ。見たことはないかね?」
 「どうやら見込みなしですね」と男は言った。
 《思考機械》はハッチのほうを向いたが、その声には激しいいら立ちが感じられた。
 「ハッチ君、ドーン氏を金融街に連れて行ってくれるかね」と頼んだ。「前に言った場所に連れて行ってくれたまえ」
 こうして、記者とドーンは連れだって出かけ、人ごみにあふれ、せわしく騒がしい金融街を歩いていった。最初に訪ねた場所は、市場相場価格表が記された黒板のある個室だった。ドーン氏は興味を示したが、そんな光景にもピンとこないようだった。いかにもよそ者らしくじろじろと見回していた。しばらくして二人は退出した。すると、いきなり一人の男が彼らのいる方向に駆け寄ってきた。明らかにブローカーだった。
 「どうしたんですか?」とドーンは尋ねた。
 「モンタナ州の銅会社が破産したんだ」と答えが返ってきた。
 「銅! 銅だって!」ドーンは急にあえぎながら言った。
 ハッチはあわてて彼のほうを見た。ドーンの表情は見ものだった。なにかを思い出しかかっているように、戸惑いながらしわを深く刻み、興奮の色すら示していた。
 「銅!」と繰り返した。
 「その言葉に思い当たる節があるのかい?」ハッチはすぐさま尋ねた。「銅。ほら、金属の銅だよ」
 「銅、銅、銅」と相手は繰り返した。ハッチが見ていると、奇妙な表情は次第に消えていき、またもや途方に暮れた表情に戻ってしまった。
 金融街で取引を行っている有力者はたくさんいるし、その中には銅の取引に関わる者もいる。ハッチはドーンをそうした有力者のオフィスの一つに連れて行き、関係者の一人に引き合わせた。
 「銅のことでちょっとお話があるのですが」ハッチは連れから目を離さずに言った。
 「売りと買いのどちらですか?」とブローカーは聞いた。
 「売りだ」とドーンはいきなり言った。「売りだ。売りだよ。銅を売るんだ。そう、銅だよ」
 彼はハッチのほうを振り返り、一瞬ぼんやりと相手を見つめると、顔が真っ青に青ざめ、両手を上げながら気を失って倒れた。
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ジャンル : 小説・文学

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