ジャック・フットレル「正体不明の男」(四)



 続く数時間のあいだに、事態は次から次へと目まぐるしく展開した。まず、デンヴァー州警察本部長から電報が届いた。確認したかぎりでは、資本家や金融業者の大物でデンヴァーを離れている者はいない。さらに調査すればなにか分かるかもしれない。ジョン・ドーンという人物は知らない。住所氏名録に載っているジョン・ドーンは、トラック運転手。
 次に、ブランク国立銀行から新たな電報が届いた。「支配人 プレストン・ベル」という署名があり、百ドル紙幣の焼失状況の詳しい説明があった。ブランク国立銀行は新築の建物に移転したが、その一週間後に火事で焼失した。紙幣のパッケージもいくつか焼失したが、その中には《思考機械》が確認した紙幣の入った百ドル紙幣のパッケージも含まれていた。同銀行のハリスン頭取は、これらの紙幣が自分の事務室にあったという宣誓供述書を政府に速やかに提出していた。
 《思考機械》はこの電報を念入りに読み、ハッチの報告に耳を傾けているあいだも、時おり電報に目をやった。ハッチは、ジョン・ドーンを探索していた記者たちの成果を報告した。彼らは同じ名前の人物を何人も見つけたし、各人の概要を報告してきた。《思考機械》は一つ一つ報告を聞き、それが終わると、首を横に振った。
 次に、もう一度電報に目を向けると、熟慮してから、もう一本電報を打った。今度はビュートの警察本部長宛てだった。そこには次のような質問が書いてあった。

 「ブランク国立銀行は財政難にあったのか? 横領か資金不足を起こしたことは? ハリスン頭取の評判は? ベル支配人の評判は? ジョン・ドーンを知っているか?」

 やがて回答が届いた。簡にして要を得た回答で、次のように書いてあった。

 「ハリスンは最近になって十七万五千ドルを横領し、行方をくらました。ベルの評判は大変よい。今は市内にいない。ジョン・ドーンについては知らない。ハリスンの足取りを得たら、すぐに回電ありたし」

 この回答が届くちょっと前に、ドーンが目を覚ました。見たところ十分回復していたが、彼自身は元のままだった。つまり、依然として自分の正体は分からなかったのだ。《思考機械》は一時間にわたって彼を質問攻めにした。真面目な質問から、宗教上のことや、時には一見ばかげたことも含めて、ありとあらゆる質問をした。それでもやはりなんの記憶も呼び覚まさなかった。ただ、プレストン・ベルの名前を持ち出したときだけは別だった。そのとき、ドーンの顔に妙に当惑した表情が浮かんだ。
 「ハリスンのことを知ってるかね?」と科学者は聞いた。「ビュートのプランク国立銀行の頭取だ」
 彼はどう答えていいか分からない様子で見つめ返しただけだった。そんなことをずいぶんやってから、《思考機械》はハッチとドーンに外を出歩くよう指示した。誰かがドーンに気づいて話しかけてくるかもしれないという、かすかな期待をまだ持っていたのだ。彼らがあてどなく歩いていると、話しかけてきた者が二人いた。一人は男で、会釈して通り過ぎた。
 「今のは誰だい?」とハッチはあわてて聞いた。「今の男と前に会ったのを憶えてるのかい?」
 「そうです」と答えが返ってきた。「私がいたホテルに泊まってた人ですよ。私のことをドーンだと知っているはずです」
 ゆっくり歩きながら、大きなオフィス・ビルを通り過ぎたのは六時を少し過ぎた頃だった。三十五歳くらいの身なりのいい、きびきびとした男が向こうからやってきた。近づいてくると、口から葉巻を離した。
 「やあ、ハリー!」と彼は声を上げ、ドーンのほうに握手の手を差し出した。
 「やあ」とドーンは言ったが、その声には、相手が誰か分かった気配はなかった。
 「ピッツバーグはどうだったね?」と見知らぬ相手は聞いた。
 「ああ、楽しかったよ」とドーンは言ったが、当惑したように眉に新たなしわを刻んだ。「ええっと、その・・・すまないが、お名前を度忘れしたようで・・・」
 「マニングだよ」と相手は笑った。
 「ハッチという者です、マニングさん」
 記者は、親しみをこめてマニングと握手した。新たな可能性の糸口が突然見えてきたのだ。ドーンをハリーとして知っている男が現れた。それに、ピッツバーグのこともだ。
 「前に会ったのはピッツバーグだったよね」とマニングはベラベラとしゃべりながら、近くのカフェに誘った。「いやはや、あの晩のゲームは大変だったよ! 私が持っていた揃いのジャックを憶えてるかい? あれで千九百ドルも取られたからね」と彼は悔しそうに言った。
 「ああ、憶えてるよ」とドーンは言ったが、ハッチはそれが嘘だと知っていた。そのあいだにも、無数の疑問が記者の頭に浮かんだ。
 「そんなに金をむしられたポーカーの手はなかなか忘れられんでしょう」とハッチはさりげなく言った。「そりゃいつのことですか?」
 「三年前だよな、ハリー?」とマニングは聞いた。
 「まあ、そうだね」とドーンは答えた。
 「テーブルに二十四時間張り付きっぱなしだったよ」とマニングは言い、また威勢よく笑った。「終わった時にゃ、ふらふらだったよ」
 カフェに入ると、すみのテーブルを選んだ。近くに誰もいなかったからだ。ウェイターが行ってしまうと、ハッチは身を乗り出し、ドーンの目をまっすぐ見据えた。
 「ちょっと質問してもいいかい?」と彼は聞いた。
 「ああ、もちろん」と相手は熱を込めて言った。
 「ん? なんだい?」とマニングは聞いた。
 「実に奇妙なめぐり合わせなんですよ」とハッチは説明しながら言った。「あなたがハリーと呼んでいる人は、私たちにはジョン・ドーンという男なんです。本名はなんと言うんでしょう? ハリー・なにですか?」
 マニングは一瞬、驚き顔で記者を見つめたが、次第に口辺に笑みを浮かべた。
 「なにをたくらんでいるんだい?」と彼は聞いた。「冗談のつもりかね?」
 「いや、とんでもない。お分かりいただけませんか?」とドーンは激しく言った。「私はなにかの病気なんです。記憶を失ってるんですよ。過去のすべての記憶をね。自分のことをまるで憶えていないんです。私の名前はなんと言うんですか?」
 「ほう、なんと!」とマニングは叫んだ。「なんてことだ! 君のフル・ネームまでは知らんな。ハリー・・・ハリー・・・なんだっけな?」
 彼はポケットから手紙や紙片をいくつか取り出し、ざっと目を走らせた。それから、よれた手帳に注意深く目を通した。
 「分からないな」と告白した。「古い手帳には君の名前と住所が書いてあったんだが、焼き捨ててしまったと思う。だが、確か、三年前にピッツバーグの「リンカーン・クラブ」で君に会ったんだ。君をハリーと呼んだのは、そこにいた者はみなファースト・ネームで呼び合っていたからさ。君の姓は全然印象に残らなかったんだよ。なんてことだ!」改めて感嘆語を発して口をつぐんだ。
 「正確に言うと、どんな状況だったんですか?」とハッチは聞いた。
 「私は旅行好きでね」とマニングは説明した。「どこにでも出向くんだ。友人がピッツバーグの「リンカーン・クラブ」の招待状をくれたんで、行ってみたのさ。五、六人でポーカーをしていたんだが、その中にここにいる・・・その・・・ドーン氏がいたわけさ。同じテーブルに二十時間ほど一緒に座ってたが、彼の姓を憶える必要もなかったんでね。ドーンではなかったな。間違いないよ。人の顔を憶えるのは得意だし、君のことも憶えてるよ。私を憶えていないのかい?」
 「過去にお会いしたことがあるなんて、まるっきり憶えがありません」とドーンはゆっくりと答えた。「ピッツバーグにいたことも記憶がありません・・・なにも憶えていないんです」
 「ドーン氏がピッツバーグの住人かどうかはご存知ですか?」とハッチは聞いた。「それとも、あなたと同じく旅行客だったんでしょうか?」
 「さっぱり分からんね」とマニングは答えた。「いやはや、驚くべきことだ。私を憶えてないんだね? 私のことはずっとビルと呼んでくれてたんだが」
 相手の男はかぶりを振った。
 「ふむ、ところで、私でなにかお役に立てるかね?」
 「いえ、けっこうです」とドーンは言った。「私がなんという名で何者なのかが分からないのでしたらね」
 「うーむ、分からんね」
 「リンカーンとはどんなクラブですか?」とハッチは聞いた。
 「金持ちが集まるクラブさ」とマニングは説明した。「鉄鋼業関係者が大勢いたね。彼らとけっこう取引があったものだから、私もピッツバーグに来ていたんだ」
 「この人とそこで会ったのは間違いないんですね?」
 「もちろんさ。私は人の顔は忘れんよ。顔を憶えるのが仕事なんでね」
 「彼は家族のことを口にしたりはしませんでしたか?」
 「憶えていないね。ポーカーのテーブルで家族の話なんか普通しないだろ」
 「月日は正確に憶えていますか?」
 「たぶん一月か二月じゃないかな」と答えが返ってきた。「ひどく寒くて、雪が積もっていたからね。そう、確か一月だったよ。三年前のね」
 しばらくして、彼らは別れた。マニングはホテル・テュートニックに泊まっていて、名前と家の住所を快くハッチに教えてくれたし、しばらくはこの街に滞在する予定で、なにかあれば喜んでお手伝いすると言ってくれた。《思考機械》の住所も彼に教えた。
 ハッチとドーンは、カフェから《思考機械》の家に戻った。彼は目の前のテーブルに電報を二通広げていた。ハッチはマニングと出会ったいきさつについて簡単に話し、そのあいだ、ドーンは頭を抱えて座っていた。《思考機械》は黙って耳を傾けた。
 「見たまえ」説明が終わるとそう言って、ハッチに電報の一通を差し出した。「ドーン氏の靴から靴屋の名前を割り出し、デンヴァーのその靴屋に、販売記録を残してないか、照会の電報を打ったんだ。これがその回答だよ。音読してくれたまえ」
 ハッチは言われたとおりにした。

 「照会のあった靴は、九週間前、ビュートのブランク国立銀行の支配人、プレストン・ベルからの注文で作られた。ジョン・ドーンのことは知らず」

 「その・・・つまり・・・」ドーンは戸惑いながら言った。
 「つまり、君はプレストン・ベルということだ」とハッチは語気強く言った。
 「いや」と《思考機械》はすぐさま言った。「その可能性が高いとしか言えない」

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 玄関のベルが鳴り、しばらくしてマーサが顔を出した。
 「ご婦人がお会いになりたいそうです」と彼女は言った。
 「お名前は?」
 「ジョン・ドーン夫人とのことです」
 「君たちは隣の部屋に行ってくれるかね」と《思考機械》は促した。
 ハッチとドーンはドアから出て行った。出て行くドーンの顔には、わけが分からないという表情が浮かんでいた。
 「ここにご案内してくれ、マーサ」と科学者は指示した。
 玄関ホールに衣ずれの音がし、ドアのカーテンがすばやく開かれ、ぜいたくなガウンを着た婦人が部屋の中に駆け込んできた。
 「夫は? ここにいるのですか?」彼女は息を切らせながら問いただした。「ホテルに行きましたら、治療でここにいると聞きましたので。お願いです。ここにいるんですね?」
 「お待ちなさい、奥さん」と《思考機械》は言うと、ハッチとドーンが出ていったドアに行き、なにか言づけた。ドアに一人、姿を現した。ハッチンスン・ハッチだ。
 「ジョン、ジョン、あなた」と婦人は腕を広げてハッチの首に抱きついた。「私が分からないの?」
 ハッチは顔を赤らめ、女の肩越しに《思考機械》の顔を見ると、彼はせかせかと手をこすり合わせていた。知り合ってずいぶんになるが、ハッチは、彼がこうもにやにやしているのを見るのは初めてだった。
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